雑記
昨日は結構寒かったけど、今日はそんなに寒くない。
ので、今日は,ここ数日お世話になりっぱなしだったプレミアム着る毛布を洗濯機にかけた。
なお寝具類は、天気がかろうじて晴れ間を見せていた昨日のうちに干したり洗ったりしてある。
これですっきり年を越せるというものだ。
ところでよそ様が、chatGPTに推しを描かせているのを見て、そういえばはるか昔(二年くらい前)に流行ったときにちょっと遊んで以降、AIに推しを描いてもらったことはないんだけど今だとだいぶいい感じに描いてくれそうかもと思い立ち、ちょっとやってみた。

キタキタ、キタんじゃないこれ!
わりと思い描いてるアブトゥに近いけど、さすがに女性だと指示したからか、わりと柔和さもある顔つきに。
しかし唇の厚さと眉の濃さには大満足だ。良い。
ターバン以外の服飾は、ルネサンス風を指示したせいか15世紀イタリアっぽい。上着の色味はわりとイメージしたものに近く仕上がり嬉しい。
(中シャツは面倒なので色指定しなかったけど、緑色にできてたら、だいぶそれらしくなってたかもしれないね)
この勢いなら他のキャラもいけそうな気がしたけど、アブトゥほどに容姿の特徴や雰囲気が書き出しやすいキャラが他におらんので、今のとこアブトゥしか試してない。
ちなみにchatGPTに出した指示はこんな感じだった。
「絵を描いてください。描いてほしいのは以下のような特徴を持つ人物です。二十代前半。アラビア半島出身で肌の色は濃いめの褐色。女性だが男装をしている。顔立ちは整っており美しいが、女性的よりも男性的で、凜々しい顔立ち。頭には白いターバンを巻き、赤紫色のケープスタイルの上着を羽織っている。女性であることを隠すため、シャツは喉仏のある位置が隠れるようにハイネックの襟元になっている。以上の特徴を持つ人物を、ルネサンス絵画の油絵のタッチで描いてください。」
もしもネオアトラスが大航海時代とコラボしたとして、アレクサンドリアあたりで雇用できる航海士アブトゥ、って感じの絵な気がする。
もしコラボとかするなら、こういう感じの絵で出してきて欲しい。
あまりジャパニメーションイラスト寄せじゃないほうがしっくり来るかな……。
日本のアニメ絵風のデザインもいっぺんくらい見てみたい気はするけども。
(しかしこれは、なんとなく押井作品とかproductionIGとか風のリアル調のアニメ絵をイメージして言っているのだが、chatGPTに日本のアニメ風のイラストって指示すると十中八九萌え絵に寄せていく気はする。萌え絵アブトゥか……見てはみたいけど、いやこれはちゃうわ!ってなる予感しかしないな)
ていうかマジでネオアトラスと大航海時代コラボしないかなあ。
大航海時代origin、とっくに遊ばなくなってるけど、もしネオアトコラボでネオアトの提督たちが航海士で雇えるとか言われたら速攻再開するし、天井までガチャ回すよね。
追記:しかし後ろに垂れた布部分とかだいぶ1469の公式絵の再現度が高いな……と思ったし、なぜかchatGPTちゃんには、「人物の個性とミステリアスな雰囲気を表現しました。いかがでしょうか?」とかコメントもらうしで、私が出した指示からミステリアスな雰囲気とまで言えるだろうか(アラビア女性が男装、というのは確かになかなか特異な設定ではあるが……)とかなんとなくこう、考えてて、これうっかりしたらアブトゥの公式絵を参照してないかという気がちょっとだけ、ちょっぴりだけ、したのだった。
ので、今日は,ここ数日お世話になりっぱなしだったプレミアム着る毛布を洗濯機にかけた。
なお寝具類は、天気がかろうじて晴れ間を見せていた昨日のうちに干したり洗ったりしてある。
これですっきり年を越せるというものだ。
ところでよそ様が、chatGPTに推しを描かせているのを見て、そういえばはるか昔(二年くらい前)に流行ったときにちょっと遊んで以降、AIに推しを描いてもらったことはないんだけど今だとだいぶいい感じに描いてくれそうかもと思い立ち、ちょっとやってみた。

キタキタ、キタんじゃないこれ!
わりと思い描いてるアブトゥに近いけど、さすがに女性だと指示したからか、わりと柔和さもある顔つきに。
しかし唇の厚さと眉の濃さには大満足だ。良い。
ターバン以外の服飾は、ルネサンス風を指示したせいか15世紀イタリアっぽい。上着の色味はわりとイメージしたものに近く仕上がり嬉しい。
(中シャツは面倒なので色指定しなかったけど、緑色にできてたら、だいぶそれらしくなってたかもしれないね)
この勢いなら他のキャラもいけそうな気がしたけど、アブトゥほどに容姿の特徴や雰囲気が書き出しやすいキャラが他におらんので、今のとこアブトゥしか試してない。
ちなみにchatGPTに出した指示はこんな感じだった。
「絵を描いてください。描いてほしいのは以下のような特徴を持つ人物です。二十代前半。アラビア半島出身で肌の色は濃いめの褐色。女性だが男装をしている。顔立ちは整っており美しいが、女性的よりも男性的で、凜々しい顔立ち。頭には白いターバンを巻き、赤紫色のケープスタイルの上着を羽織っている。女性であることを隠すため、シャツは喉仏のある位置が隠れるようにハイネックの襟元になっている。以上の特徴を持つ人物を、ルネサンス絵画の油絵のタッチで描いてください。」
もしもネオアトラスが大航海時代とコラボしたとして、アレクサンドリアあたりで雇用できる航海士アブトゥ、って感じの絵な気がする。
もしコラボとかするなら、こういう感じの絵で出してきて欲しい。
あまりジャパニメーションイラスト寄せじゃないほうがしっくり来るかな……。
日本のアニメ絵風のデザインもいっぺんくらい見てみたい気はするけども。
(しかしこれは、なんとなく押井作品とかproductionIGとか風のリアル調のアニメ絵をイメージして言っているのだが、chatGPTに日本のアニメ風のイラストって指示すると十中八九萌え絵に寄せていく気はする。萌え絵アブトゥか……見てはみたいけど、いやこれはちゃうわ!ってなる予感しかしないな)
ていうかマジでネオアトラスと大航海時代コラボしないかなあ。
大航海時代origin、とっくに遊ばなくなってるけど、もしネオアトコラボでネオアトの提督たちが航海士で雇えるとか言われたら速攻再開するし、天井までガチャ回すよね。
追記:しかし後ろに垂れた布部分とかだいぶ1469の公式絵の再現度が高いな……と思ったし、なぜかchatGPTちゃんには、「人物の個性とミステリアスな雰囲気を表現しました。いかがでしょうか?」とかコメントもらうしで、私が出した指示からミステリアスな雰囲気とまで言えるだろうか(アラビア女性が男装、というのは確かになかなか特異な設定ではあるが……)とかなんとなくこう、考えてて、これうっかりしたらアブトゥの公式絵を参照してないかという気がちょっとだけ、ちょっぴりだけ、したのだった。
今まで、chatGPTに何回か自作の二次小説の構造分析とかあらすじ作成とか校正とか試してみたので、もしかしたらそろそろ、今まで分析してもらった小説を元に2000字程度の短編とか書いてもらえるんじゃ?と思った。
で、さすがにいきなりぽんと命令だけ投げても厳しいか、とりあえずあらすじと登場人物くらいは設定伝えとこ……って、あらすじ捏造しようとしたけど、ネタがちっとも出てこない。
そして登場人物設定も、出身地だの思想だのこだわりだのを書いたあげくに、双方、お互いに対し思いを寄せてる、とかそういう設定をね……含めようとして……もうなんもかんもえっらい気恥ずかしくなって、無理、無理だ……ってなって挫折した。
自分でちみちみ文章書くのはね、いいんだよ。書いてるあいだはどうせなんかが脳にがっつりキマってるから、とりあえずこう、幻想から幻想を紡ぎ上げちゃうのも勢いでいけるわけ。だけど、プロットとか設定を端的に整理してみてだよ、AIに、これ元になんかこう……いい感じに二人が仲良しに会話してる場面とかさ……書いてみて??って投げてみるのを想像したら、途端にえらい気恥ずかしいのよ。なんでだろ??!!!
自分でちみちみ、単語ひねり出したりしながら長い時間掛けて書く方が、AIにお任せしてみるよりもなんぼも恥ずかしい行為なはずなんだがね。
あらすじとか設定に私の欲望を含めなければ恥ずかしい気持ちにならないんじゃないの、っては思うけどさ。
でも、なにせ読みたいのは、両片思いの二人がわちゃってる話だからさ……
AIにお願いしてまで書いてもらうならやっぱこう、さ……
二人がケンカ仲良ししてるとこ書いてほしさが、さ……
(自分が書いてない、見たことない推しの萌え小説を読みたいの欲しかない)
追記:そら、ほんとは誰かが書いてくなさった二次小説読みたい。幸い、ネットで読める範囲でもpixivとかに二次小説置いてくださってる方いる。買った同人誌もある。それを読み返している。命が助かる。ありがたい。ただ、そうしてるとますます、まだ読んだことない文章にも触れたくなってくるからさ……
自分で書くって手はもちろんあるんだけど、今までの経験からするとどうしても半日とか丸一日とかたっぷりかかっちゃうからなあ。とりあえず手早く、「あ、推しと推しがイチャってる描写だ!!ウマウマ!!」ってしたい気持ちなんだ……chatGPT、独自の展開とかを作るのは多分苦手だけど、文章のすっきり感やこなれ感、概要まとめ力なんかはたいしたものだから、とりあえず自作二次を学習させて、これに似たやつ二千字くらいの文章で書いて、っやったら、それっぽい一文二文くらいは吐き出してくんねえかな、て。
で、さすがにいきなりぽんと命令だけ投げても厳しいか、とりあえずあらすじと登場人物くらいは設定伝えとこ……って、あらすじ捏造しようとしたけど、ネタがちっとも出てこない。
そして登場人物設定も、出身地だの思想だのこだわりだのを書いたあげくに、双方、お互いに対し思いを寄せてる、とかそういう設定をね……含めようとして……もうなんもかんもえっらい気恥ずかしくなって、無理、無理だ……ってなって挫折した。
自分でちみちみ文章書くのはね、いいんだよ。書いてるあいだはどうせなんかが脳にがっつりキマってるから、とりあえずこう、幻想から幻想を紡ぎ上げちゃうのも勢いでいけるわけ。だけど、プロットとか設定を端的に整理してみてだよ、AIに、これ元になんかこう……いい感じに二人が仲良しに会話してる場面とかさ……書いてみて??って投げてみるのを想像したら、途端にえらい気恥ずかしいのよ。なんでだろ??!!!
自分でちみちみ、単語ひねり出したりしながら長い時間掛けて書く方が、AIにお任せしてみるよりもなんぼも恥ずかしい行為なはずなんだがね。
あらすじとか設定に私の欲望を含めなければ恥ずかしい気持ちにならないんじゃないの、っては思うけどさ。
でも、なにせ読みたいのは、両片思いの二人がわちゃってる話だからさ……
AIにお願いしてまで書いてもらうならやっぱこう、さ……
二人がケンカ仲良ししてるとこ書いてほしさが、さ……
(自分が書いてない、見たことない推しの萌え小説を読みたいの欲しかない)
追記:そら、ほんとは誰かが書いてくなさった二次小説読みたい。幸い、ネットで読める範囲でもpixivとかに二次小説置いてくださってる方いる。買った同人誌もある。それを読み返している。命が助かる。ありがたい。ただ、そうしてるとますます、まだ読んだことない文章にも触れたくなってくるからさ……
自分で書くって手はもちろんあるんだけど、今までの経験からするとどうしても半日とか丸一日とかたっぷりかかっちゃうからなあ。とりあえず手早く、「あ、推しと推しがイチャってる描写だ!!ウマウマ!!」ってしたい気持ちなんだ……chatGPT、独自の展開とかを作るのは多分苦手だけど、文章のすっきり感やこなれ感、概要まとめ力なんかはたいしたものだから、とりあえず自作二次を学習させて、これに似たやつ二千字くらいの文章で書いて、っやったら、それっぽい一文二文くらいは吐き出してくんねえかな、て。
たまーに昼飯を、職場近くのおしゃ喫茶で食べるんだけど、そのおしゃ喫茶ではおしゃ焼き菓子なんかも売ってあって、クリスマスと年末の空気に浮かれてパウンドケーキ一切れも持ち帰りで買ってきた。
こういうの、家で食べるかってなったときに、ちゃんとしたのん買ったんだからちゃんとお茶淹れるかっつって、お湯沸かして、スーパーで売ってるリプトンのいつものティーバックのやつとかだけどいちおう紅茶淹れる真似はして、お皿に盛ってフォークで食べる。こういうのなんかすごく、こう、さ……文化って感じ? なんか好き。
そんで、こう、しゃれた洋菓子を紅茶や珈琲と頂きましょなんてやるときは、なんとなくこういう、昭和の団地みたいな空間を思い出すというか……
https://www.city.matsudo.chiba.jp/m_muse...
↑上の、松戸の博物館が再現してる昭和のリビングは1962年なんで私が生まれるずっと前なんだけど、私がごく小さい頃に住んでたアパートはなんとなくこれに近い感じだったような気がする。
玄関開けると四畳半ほどのキッチンいっぱいにちんまりしたテーブル置いて、そこが食卓だった。小さい食器棚、花柄のついたポットやホーローの鍋、グリーンピースみたいな緑色した炊飯器とかがあった。続いて六畳の畳間が二つ。そこには、母が結婚祝いに贈られた箪笥、父の趣味のレコードとオーディオのセットと本棚、14インチのテレビなんかをでんでんと置いて、そうするとあとは布団敷くスペースくらいしかなくて、きゅうきゅうで住んでいたと思う。私自身は三歳くらいで、なにせ自分の体が小さかったからあまり狭いと思ってなかったんだけど、間取りと覚えている限りの家具の量とを考えてみるとだいぶせせこましく住んでいたはずだ。
なお、うちの場合は狭かったし、上の昭和の団地のようなリビングのスペースはなかったので、ソファは置いてなかった。その頃の両親といえば結婚して数年しか経ってない安月給のペーペーの若手サラリーマンに過ぎず、ちゃんとした応接の部屋が必要な年齢でも立場でもなかったのだ。
部屋にはトイレはあった(和式の、一段高いとこに上がる作りのやつだ)が、風呂はなかったので、小さい私だけを風呂に入れようってときはプラスチックの赤ちゃんバスにやかんで沸かした湯を張った。あとは銭湯の世話になっていた。家族三人でチャリンコで、といっても私はまだチャリンコに乗れる歳じゃないので子供椅子に積んで運搬されて、銭湯に行った。銭湯のフルーツ牛乳は普段は買ってもらえなかったが、風呂場で滑ってコケてデコを打って大泣きしたときは、慰めとしてびん入りのフルーツ牛乳を買ってもらった記憶がある。
ほんと、フォークソングの神田川の世界まんまだったかもしんない。神田川はなんか最後には別れたくさい気配の歌だけど、そんなこともなく順調に同棲から結婚に辿りつき二三年過ぎて子供でもできたらこうなる、みたいな生活をまんま暮らしていたような気がする。
そういう、東京の近郊で安月給で狭い賃貸アパート借りて生活始めたばっかりのサラリーマン核家族としては、珍しくクリームの載ったケーキ(生クリームでもなくバタークリームだったかもしれない)や、モンブランなんかを買うとか戴くなんかするときもあって、そういうのがあると、じゃあ飲み物もちゃんとしましょ、ってんでコーヒーか紅茶を入れるもんだった。私自身は幼児だから、どっちかいうとジュース(当時のジュースといえばHi-Cと相場が決まっており、味はオレンジかりんごの二択だった、今のように飲料の種類は多くなかった)のほうが嬉しかったんだけど、しかしちゃんとした洋菓子には少しばかり手間をかけた温かい飲み物を添えるもんだ、というのは母親が頑として実践していたのだと思う。それが当時なりのおしゃれな若者文化というか、イケてる、文化的な感じだったんだと思う。(こないだ、母の姉である伯母が亡くなった話を書いたが、この伯母はもともと体を壊す前は、ずっと若い頃から田舎で純喫茶をやっていた。ケーキには茶か珈琲だ、ということには母なりの、姉に倣ってのこだわりがあったのかもしれない)
私が小学校に上がる前に父が分譲のマンションを買い、我々一家はその狭い安アパートを離れたけど、アパート時代も引っ越した後(今の実家)も、とにかく素敵な洋菓子がテーブルに並ぶときにはお湯を沸かして茶か珈琲を入れる暮らしを続けていた。今でも実家では、ちょっと良いお菓子があると母がおやつどきに、まずは紅茶か珈琲入れましょ、ってなる。大学以降に家を出て一人暮らし初めた私も、なんというかついついその倣いに従って、ケーキ買って食べようとなったらまずお湯を沸かし始めるムーブをしているのだった。
(確か西岸良平の初期短編集『ヒッパルコスの海』だったと思うけど、ここに載ってる「コーヒーの夢」って話に出てくる、工場勤務の独身の若者である主人公の生活空間が、めちゃくちゃ自分の記憶にある小さい頃の生活空間を思い出させる感じだった。タイトルのとおりコーヒーも出てくるんだけど、このコーヒーの立ち位置も1970年代後半の都会の若者暮らしの文化の感覚があって、これは1980年代も半ばになるとガラっと姿が変わって見られなくなってしまうものなので、なんていうかすごく懐かしいのだ)
追記:「コーヒーの夢」の一コマ貼っとく、これこれこんな感じ
(西岸良平『ヒッパルコスの海』(1977年初版)の182ページ)
こういうの、家で食べるかってなったときに、ちゃんとしたのん買ったんだからちゃんとお茶淹れるかっつって、お湯沸かして、スーパーで売ってるリプトンのいつものティーバックのやつとかだけどいちおう紅茶淹れる真似はして、お皿に盛ってフォークで食べる。こういうのなんかすごく、こう、さ……文化って感じ? なんか好き。
そんで、こう、しゃれた洋菓子を紅茶や珈琲と頂きましょなんてやるときは、なんとなくこういう、昭和の団地みたいな空間を思い出すというか……
https://www.city.matsudo.chiba.jp/m_muse...
↑上の、松戸の博物館が再現してる昭和のリビングは1962年なんで私が生まれるずっと前なんだけど、私がごく小さい頃に住んでたアパートはなんとなくこれに近い感じだったような気がする。
玄関開けると四畳半ほどのキッチンいっぱいにちんまりしたテーブル置いて、そこが食卓だった。小さい食器棚、花柄のついたポットやホーローの鍋、グリーンピースみたいな緑色した炊飯器とかがあった。続いて六畳の畳間が二つ。そこには、母が結婚祝いに贈られた箪笥、父の趣味のレコードとオーディオのセットと本棚、14インチのテレビなんかをでんでんと置いて、そうするとあとは布団敷くスペースくらいしかなくて、きゅうきゅうで住んでいたと思う。私自身は三歳くらいで、なにせ自分の体が小さかったからあまり狭いと思ってなかったんだけど、間取りと覚えている限りの家具の量とを考えてみるとだいぶせせこましく住んでいたはずだ。
なお、うちの場合は狭かったし、上の昭和の団地のようなリビングのスペースはなかったので、ソファは置いてなかった。その頃の両親といえば結婚して数年しか経ってない安月給のペーペーの若手サラリーマンに過ぎず、ちゃんとした応接の部屋が必要な年齢でも立場でもなかったのだ。
部屋にはトイレはあった(和式の、一段高いとこに上がる作りのやつだ)が、風呂はなかったので、小さい私だけを風呂に入れようってときはプラスチックの赤ちゃんバスにやかんで沸かした湯を張った。あとは銭湯の世話になっていた。家族三人でチャリンコで、といっても私はまだチャリンコに乗れる歳じゃないので子供椅子に積んで運搬されて、銭湯に行った。銭湯のフルーツ牛乳は普段は買ってもらえなかったが、風呂場で滑ってコケてデコを打って大泣きしたときは、慰めとしてびん入りのフルーツ牛乳を買ってもらった記憶がある。
ほんと、フォークソングの神田川の世界まんまだったかもしんない。神田川はなんか最後には別れたくさい気配の歌だけど、そんなこともなく順調に同棲から結婚に辿りつき二三年過ぎて子供でもできたらこうなる、みたいな生活をまんま暮らしていたような気がする。
そういう、東京の近郊で安月給で狭い賃貸アパート借りて生活始めたばっかりのサラリーマン核家族としては、珍しくクリームの載ったケーキ(生クリームでもなくバタークリームだったかもしれない)や、モンブランなんかを買うとか戴くなんかするときもあって、そういうのがあると、じゃあ飲み物もちゃんとしましょ、ってんでコーヒーか紅茶を入れるもんだった。私自身は幼児だから、どっちかいうとジュース(当時のジュースといえばHi-Cと相場が決まっており、味はオレンジかりんごの二択だった、今のように飲料の種類は多くなかった)のほうが嬉しかったんだけど、しかしちゃんとした洋菓子には少しばかり手間をかけた温かい飲み物を添えるもんだ、というのは母親が頑として実践していたのだと思う。それが当時なりのおしゃれな若者文化というか、イケてる、文化的な感じだったんだと思う。(こないだ、母の姉である伯母が亡くなった話を書いたが、この伯母はもともと体を壊す前は、ずっと若い頃から田舎で純喫茶をやっていた。ケーキには茶か珈琲だ、ということには母なりの、姉に倣ってのこだわりがあったのかもしれない)
私が小学校に上がる前に父が分譲のマンションを買い、我々一家はその狭い安アパートを離れたけど、アパート時代も引っ越した後(今の実家)も、とにかく素敵な洋菓子がテーブルに並ぶときにはお湯を沸かして茶か珈琲を入れる暮らしを続けていた。今でも実家では、ちょっと良いお菓子があると母がおやつどきに、まずは紅茶か珈琲入れましょ、ってなる。大学以降に家を出て一人暮らし初めた私も、なんというかついついその倣いに従って、ケーキ買って食べようとなったらまずお湯を沸かし始めるムーブをしているのだった。
(確か西岸良平の初期短編集『ヒッパルコスの海』だったと思うけど、ここに載ってる「コーヒーの夢」って話に出てくる、工場勤務の独身の若者である主人公の生活空間が、めちゃくちゃ自分の記憶にある小さい頃の生活空間を思い出させる感じだった。タイトルのとおりコーヒーも出てくるんだけど、このコーヒーの立ち位置も1970年代後半の都会の若者暮らしの文化の感覚があって、これは1980年代も半ばになるとガラっと姿が変わって見られなくなってしまうものなので、なんていうかすごく懐かしいのだ)
追記:「コーヒーの夢」の一コマ貼っとく、これこれこんな感じ
(西岸良平『ヒッパルコスの海』(1977年初版)の182ページ)

そういえば私は男女厨なのでペレスとアブトゥのことばかり狂ってますけど、ネオアトラスは女性キャラ率かなり低くて、中世ヨ末期舞台にいろんな性格の男子が入り乱れて熱い大航海繰り広げてるという作品なので、BLのネタには困らない作品という気もするんだよねえ
まあBL愛好界隈に広くウケを取るには、ちょっとヒゲ男子率が高すぎるのかなという気はするが(問題はそこだけではなかろうとも思うが)
私にはあまりBL勘がないので人気が出そうなカプとかわからないが、やっぱゴソロあたりなんだろうか
顔カプとかだとゴメスとバルディではないかと思うがわからん……なんにもわからん
多分アブトゥが男だったら、王道はペレトゥだったんだろうけど(ツイッターで感想検索してたときに、ちらほら、アブトゥが男じゃないことを残念そうにしている呟きを見かけた気がする)
まあBL愛好界隈に広くウケを取るには、ちょっとヒゲ男子率が高すぎるのかなという気はするが(問題はそこだけではなかろうとも思うが)
私にはあまりBL勘がないので人気が出そうなカプとかわからないが、やっぱゴソロあたりなんだろうか
顔カプとかだとゴメスとバルディではないかと思うがわからん……なんにもわからん
多分アブトゥが男だったら、王道はペレトゥだったんだろうけど(ツイッターで感想検索してたときに、ちらほら、アブトゥが男じゃないことを残念そうにしている呟きを見かけた気がする)
自作の、カプ推し二次小説のことを考えててなんとなく思ったけど、私は二次書くときに、アブトゥて以前になんかしら恋をした経験はあるんじゃないかなあ、という無意識の前提で書いている気がしてきた。
ペレスは、地図エンドでのあの本人コメントからするとガチ初恋だろうと捉えている。アブトゥのことを思うときに「なぜかとても気になる」「実に切ない」「この気持ちはいったい何か?」などと言ってる時点で、誰かに恋心を持つこと自体が未経験だったように見える(もっとも地図エンド考慮しないでゾネスイベ時点でのペレスのコメントだけ見るなら、恋愛経験の一つや二つ無くもなさそうにも思えたりするのだが)。
対してアブトゥのほうは、彼女自身の感情があまり表に立たないから彼女が恋愛についてどういう考えを持っているかはよくわからないのだが、ゾネスイベで「私のかけがえのない人、ペレスよ」がいきなり豪速球で叩き込まれてくるのを見たときの私の印象は、「なんだこの、もうすっかり腹が決まってる感じの、ド深い感情ォ……!!!!大好物!!!!」だった。それで、少なくともゾネスイベの段階では、アブトゥは自分がペレスに抱いている感情がなんなのかはっきり自覚していると思えたのである。
しかし仮にそうだとしても、彼女がペレスへの恋心を自覚したのがいつかということは原作ゲームからは読み取れない。出会った最初からだったのかもしれないし、ゾネスイベの直前でもおかしくはない。
ただ、アブトゥなら、恋をしたことに無自覚な時期があるにしても、自分の感情の乱れはいったいなんなのかなどと長く戸惑ったりはあまりしてなさそうだなあと、なんとなくそう思い込んでいる。
アブトゥが終始、冷静沈着キャラとして描かれてるからというのは大きい。ただ、それにしたってもし初恋だったら、もう少しは自分の不可解な感情に困惑しててもいいのではないか。もちろん原作でそういう場面が描かれてないだけということにして、二次では、自分の恋愛感情にいくらか狼狽えるアブトゥという話を書いてみてもいいのでは……と、そう頭で考えてみるものの、なんだかピンとこない。
アブトゥなら、ペレスへの気持ちが恋愛であることをあっさりすとんと了解し、すとんと受け入れそうな気がする。
私が、アブトゥは即断即決キャラぽいと捉えてるからというのもある。が、そんな当たり前に恋愛感情を理解し受け入れるとしたら、実は過去にも少なくとも一度は恋愛感情を持った経験があって、ペレスに対する自分の気持ちを内省したときに、あれ、あの堅物に自分恋しとるわ、とすぐに悟るほうが、なんか自分の思うアブトゥ像としてはしっくりくるなあ、と思っているのだと思う。
ただ、もし仮に過去に恋をしたことがあるということにしてみても、それがどういう相手なのか、いつ頃なのか、みたいなことはなにも妄想として形にはなっていないし、これからもはっきり固めてみようとは多分しないだろう。
私は、二次を書くときにできるだけありそうなアブトゥの言動を、ひねり出すというか湧き出させたいのであって、そのために彼女がふるさとでどういう立ち位置でどういう生活をしてきたかをざっくりぼんやりでいいので想像しておきたいだけだ。ゲームで描かれた部分からあまり離れた部分まで、彼女の物語をがちっとしておきたいわけじゃないのだ。
あえていうなら、遠縁のちょっと年上のお兄さんとかかなあ。どうなんだろう。遠いところから来て、一晩だけ村に居ていろいろ不思議な話をして去って行った飄々とした商人とかかもしれない。あるいはすげー年上の尊敬できる師匠的な渋イケオジかもしらんし、なんとなく気が合うと思っていた(が幼い時期で早逝した)同年生まれのムラの少年の一人、かもしれないし。
どういう物語がそこにあるかわからないが、そこを書こうという気はほとんどない。あったかもしれないし、なかったかもしれない、曖昧の霧の中にぼんやりとそういう小さな出来事の面影があるようなないような、そんな感じで良い。
ただ、過去の恋心があって、そのうえで今はペレスに過去にあったような(あるいはそれ以上の)思いが向かってることに気付いて、それを胸底に沈めたままペレスをサポートし続ける(なにがあっても死なせんくらいの覚悟でアマゾネスの本拠地に突撃かます)アブトゥってのが、たまらん好きィ…………って思ってるだけなんである。
なに書いてるかわかんなくなってきたけど、とりあえずアブトゥ、恋愛慣れしてるってことはないけど自分の恋愛心にあんまり狼狽えたりもしなさそうよね、精神強そうだから……って言いたかっただけかもしれない。あと過去に淡い恋をしたこともあるアブトゥ、って思っておくと、ちょっと萌えに味変あっていいかなあ、なんて……。ほんと、キャラ萌えでしかなくて恥ずかしいのだけど、キャラ萌えしたっていいじゃないかようアブトゥ魅力的すぎるんだよお、って心の底では思ってる。
追記:アブトゥはどういう場面でも落ち着いてて老成している感じだけど、内面には年齢相応に若々しい(二十代前半想定)部分もちゃんとある、あってほしい。表には全然出てこないから周囲の人にはあまり気付かれてないけど……みたいに思ってることも付け足しておく。もしかしたらペレスだけが、アマゾネスイベントを通じてアブトゥの内面の熱量を垣間見てるのかもしれないが、ペレスは自分自身の(初恋ゆえの)動揺に対処するのに必死でいまいちそのことに気付いてない。……と、ゾネスイベ以降の二人をそういう関係と状態にあると捉えておくの、ちょっと美味しいかなと思っている。
ペレスは、地図エンドでのあの本人コメントからするとガチ初恋だろうと捉えている。アブトゥのことを思うときに「なぜかとても気になる」「実に切ない」「この気持ちはいったい何か?」などと言ってる時点で、誰かに恋心を持つこと自体が未経験だったように見える(もっとも地図エンド考慮しないでゾネスイベ時点でのペレスのコメントだけ見るなら、恋愛経験の一つや二つ無くもなさそうにも思えたりするのだが)。
対してアブトゥのほうは、彼女自身の感情があまり表に立たないから彼女が恋愛についてどういう考えを持っているかはよくわからないのだが、ゾネスイベで「私のかけがえのない人、ペレスよ」がいきなり豪速球で叩き込まれてくるのを見たときの私の印象は、「なんだこの、もうすっかり腹が決まってる感じの、ド深い感情ォ……!!!!大好物!!!!」だった。それで、少なくともゾネスイベの段階では、アブトゥは自分がペレスに抱いている感情がなんなのかはっきり自覚していると思えたのである。
しかし仮にそうだとしても、彼女がペレスへの恋心を自覚したのがいつかということは原作ゲームからは読み取れない。出会った最初からだったのかもしれないし、ゾネスイベの直前でもおかしくはない。
ただ、アブトゥなら、恋をしたことに無自覚な時期があるにしても、自分の感情の乱れはいったいなんなのかなどと長く戸惑ったりはあまりしてなさそうだなあと、なんとなくそう思い込んでいる。
アブトゥが終始、冷静沈着キャラとして描かれてるからというのは大きい。ただ、それにしたってもし初恋だったら、もう少しは自分の不可解な感情に困惑しててもいいのではないか。もちろん原作でそういう場面が描かれてないだけということにして、二次では、自分の恋愛感情にいくらか狼狽えるアブトゥという話を書いてみてもいいのでは……と、そう頭で考えてみるものの、なんだかピンとこない。
アブトゥなら、ペレスへの気持ちが恋愛であることをあっさりすとんと了解し、すとんと受け入れそうな気がする。
私が、アブトゥは即断即決キャラぽいと捉えてるからというのもある。が、そんな当たり前に恋愛感情を理解し受け入れるとしたら、実は過去にも少なくとも一度は恋愛感情を持った経験があって、ペレスに対する自分の気持ちを内省したときに、あれ、あの堅物に自分恋しとるわ、とすぐに悟るほうが、なんか自分の思うアブトゥ像としてはしっくりくるなあ、と思っているのだと思う。
ただ、もし仮に過去に恋をしたことがあるということにしてみても、それがどういう相手なのか、いつ頃なのか、みたいなことはなにも妄想として形にはなっていないし、これからもはっきり固めてみようとは多分しないだろう。
私は、二次を書くときにできるだけありそうなアブトゥの言動を、ひねり出すというか湧き出させたいのであって、そのために彼女がふるさとでどういう立ち位置でどういう生活をしてきたかをざっくりぼんやりでいいので想像しておきたいだけだ。ゲームで描かれた部分からあまり離れた部分まで、彼女の物語をがちっとしておきたいわけじゃないのだ。
あえていうなら、遠縁のちょっと年上のお兄さんとかかなあ。どうなんだろう。遠いところから来て、一晩だけ村に居ていろいろ不思議な話をして去って行った飄々とした商人とかかもしれない。あるいはすげー年上の尊敬できる師匠的な渋イケオジかもしらんし、なんとなく気が合うと思っていた(が幼い時期で早逝した)同年生まれのムラの少年の一人、かもしれないし。
どういう物語がそこにあるかわからないが、そこを書こうという気はほとんどない。あったかもしれないし、なかったかもしれない、曖昧の霧の中にぼんやりとそういう小さな出来事の面影があるようなないような、そんな感じで良い。
ただ、過去の恋心があって、そのうえで今はペレスに過去にあったような(あるいはそれ以上の)思いが向かってることに気付いて、それを胸底に沈めたままペレスをサポートし続ける(なにがあっても死なせんくらいの覚悟でアマゾネスの本拠地に突撃かます)アブトゥってのが、たまらん好きィ…………って思ってるだけなんである。
なに書いてるかわかんなくなってきたけど、とりあえずアブトゥ、恋愛慣れしてるってことはないけど自分の恋愛心にあんまり狼狽えたりもしなさそうよね、精神強そうだから……って言いたかっただけかもしれない。あと過去に淡い恋をしたこともあるアブトゥ、って思っておくと、ちょっと萌えに味変あっていいかなあ、なんて……。ほんと、キャラ萌えでしかなくて恥ずかしいのだけど、キャラ萌えしたっていいじゃないかようアブトゥ魅力的すぎるんだよお、って心の底では思ってる。
追記:アブトゥはどういう場面でも落ち着いてて老成している感じだけど、内面には年齢相応に若々しい(二十代前半想定)部分もちゃんとある、あってほしい。表には全然出てこないから周囲の人にはあまり気付かれてないけど……みたいに思ってることも付け足しておく。もしかしたらペレスだけが、アマゾネスイベントを通じてアブトゥの内面の熱量を垣間見てるのかもしれないが、ペレスは自分自身の(初恋ゆえの)動揺に対処するのに必死でいまいちそのことに気付いてない。……と、ゾネスイベ以降の二人をそういう関係と状態にあると捉えておくの、ちょっと美味しいかなと思っている。
シリアについて、なにか書こうと思うがどうもうまく書けないできた。いまもどうも書けそうにもないまま、しかし一回は書いておこうか、という気持ちがずっとあって、なんとなく書きだしている。
と言っても、私はシリアについてほとんどなにも知らない。
ただ昔、もう四半世紀近くも前になるかもしれないが、確か大学生の頃に、なんとなく見ていた「世界ふしぎ発見」にアレッポの街が出てきた。テレビで見たその街は美しくて、なんだか良いところだと思ったので、いつか見に行きたいなと思ったのだ。
石鹸を作っていたシーンが印象にのこっている。
テレビで見たその街の石鹸は、石造りの作業場(れんがだったのかもしれないが、なんだかローマの遺跡のような、美しいアーチ型に積まれたブロックが印象に残っている)で作られていた。
地下室のような部屋は浅い浴場のようで、上のほうにある窓からほんのり光が入るが、全体は薄暗く、静かだった。その暗い、ひんやりしてそうな石の床の上に、おじさんたちが濁ったどろりとした緑色の液を流し込んでいく。部屋一杯に一定の厚さで広がるので、なんだか製氷のようだった。時間をおくと液が固まり、そうしたらレーキのようなものに人が乗って、もう一人がそのレーキを引く。静かでひんやりした部屋、古めかしい石の部屋で、機械を使わず人の手足だけで黙々と石鹸が作られ、手のひらに余る大きな四角い塊として切り出されて、丁寧に山積みにされていく。
その場面がなんとも心に残って、これをいつか見に行きたいなあ、などと思ったのだ。
世界ふしぎ発見の映像はいつも魅力的なので、もとよりオリエントの遺跡やらに憧れのある私は単純に、いや美しい国だなと思い、パルミラなどのたくさんの遺跡、アレッポの街並の現代的で華やかにネオンのきらめく賑やかな夕べ、そしてあの石鹸が作られる静かな地下室とに憧れ、見に行けたらな、などとのんきな気持ちでいたのだった。
番組で石鹸づくりを見たのは1990年代の終わりか2000年代の初め頃だと思うから、当時シリアはアサド(父)の独裁政権の下にあってもう30年ほどになっていたはずだ。テレビを見ている私は無知で、そんなことは知らなかったが、すでにその当時から密告は盛んにあり、無残な収容所も存在していたはずだ。たいした故もなく投獄され拷問され殺された人もたくさんいたはずで、まったく平和ではなかったのだが、そういうことに当時の私はまったく気付いていなかった。
ただ、番組を見て、いいなあアレッポいつか行きたいなあ、だけがなんとなく心に刻まれていた。
テレビで見てから数年後に、そのアレッポの石鹸というものが雑貨屋に売られているのを見て、ああああの石鹸だああ!と思って、何度か買ったことがある。
オリーブ油の匂いが思ったより強くて最初は驚いたが、慣れるとなんかこう、こういう石鹸使って顔とか洗うのなんかいい感じだなと思えた。憧れも含みだが、そうかあ地中海の石鹸てこういうのかあ、と思って、アレッポの石鹸を使うことでなんていうか心のどこかにある遠い国に気持ちが広がっていく、わりと小さいけども幸せな経験だった。それでしばらくはアレッポの石鹸を使っていたが、確かその雑貨屋が移転したんだか店を閉めたんだかで石鹸を買いに行ける場所が手近になくなって、もとより値の張る石鹸ではあったので通販までするのはどうしようかなあとためらって、それっきりになっていたはずだ。
それからだいぶ経った。2011年に東日本震災が起きた頃、その前後に中東の各地で独裁的な政権に対するデモが起こった。インターネットを介して人びとは連絡を取り合い、デモに繰り出していた。チュニジアで、エジプトで、リビアで、そしてシリアで、若者たちが街に繰り出し、集まり、携帯電話を掲げて、周りの様子を取ったり自撮りをしたりしながら陽気に練り歩いていた。民主的な政治を求めて。
「アラブの春」だとニュースで何度もその言葉を聞いた。
スマホやタブレットが広まる直前だったので、人びとが持っていたのは携帯電話や小型のノートPCばかりだったと思う。
明るい、未来のある光景のように見えた。
シリアも。アレッポ、あの石鹸の街があるところも。
民主化したら観光がもっと促進されるだろうか。そうしたら古い都市であるアレッポももっと開発が進んで、もしかしたら石鹸づくりなんてあんまり流行らなくなっちゃったりするのかな、などと思った。
でも旅行はしやすくなるだろう。情勢がもう少し落ち着いたら旅行に行けるかな。本気でお金を貯めようか。
そんなことを、少し思った気がする。ずいぶんのんきだったと思う。
それから、また干支が一回り以上する年月が経った。
その間、シリアは、2011年の私ののんきな気分とはあまりに落差のある惨い状況にあった。
そのことは、ときどき、断片的に、こまぎれながら聞こえては来た。
内戦状態、樽爆弾、サリン、戦闘員でもないただのおじさんやおばさん、子供やその若い親たちがただただなんの理由もなく虐殺されていく。アレッポでは攻防戦が繰り返され、瓦礫の山になっていると。
むちゃくちゃだよ、と思った。ひどいことだと思った。
アレッポ、あの石鹸の街。
あのアーチの美しい静かな地下室。あの石鹸が作られた部屋も、この瓦礫のどこかなのか。
とはいえ、私はなにをするでもなかった。
アレッポの石鹸が売られている、というのをネットで見かけて、どうしよう、とは思った。
トルコなどに逃げた石鹸職人がいて、そこでまた石鹸作りを再開したのだという。
悲しい、胸が痛い、でも石鹸まだ作っているのか、また作っているのか。
そうか、良かった、良かった。……良かったか?
通販で買おうかと思いつつ、結局買っていない。
アレッポで作られてはいない、それでもアレッポの人が作った石鹸を、買うのに怖じける気持ちがあった。
なんもしてないんだからせめて石鹸くらい買ったらいいんじゃないかと思いつつ、それでなにかした気になってしまうのも、と、なんとなく。
そうしてなんにもしないまま、シリア、アレッポ、とうっすら思っていたら、突然に2024年も終わりかけのこの冬に、アレッポが反政府側の手に奪還されそうだ、というニュースがとびこんできて、え、と思った。そうしたら、ほんと一晩、二晩で、アレッポは反政府軍の勢力下になり、そしてホムスへ、さらにダマスカス、もう首都ですらアサド政権側の兵隊達は逃走していって、ほぼ無血開城……と、とんとんとシリアの情勢は塗り変わっていった。
今もどうしてこう急に局面が覆ったものか、どうもよくわからんところはあるけども、とにかくシリアの人たちは、ほとんど誰も助けてくれないなかで耐え、戦いつづけ、独裁者の支配を拭ったのだ。
アレッポ、石鹸の街、またここで、石鹸が作られるときが来たのかも知れない。
これから先はどうか穏やかに、大きな争乱や混乱なく、シリアの人たちが自分たちで治め、誰も理不尽に傷つけられたり殺されない国になり、産業がうまく栄えますように。国を追い出されたり逃げ出したりした人たちも帰ってきて、すぐに家や仕事を見いだせますように。つらいことを耐え、生き延びた人たちに幸運と幸福がたくさんありますように。アレッポの石鹸があの美しい地下室でまたたくさん作られて、たくさん売れますように。
そう願いつつも、私自身は、ほんとシリアの人たちの助けになるようなことなんもしてねえんだな、という意識もあり、なんかなんも書けないな、になっているのだった。
私はいつかシリアに、アレッポに行けるだろうか。
そもそも情勢はまったく不透明で、独裁政権は霧散したとしてもその後には、混沌、無政府状態の空隙、乏しすぎる国家財政、壊滅している諸産業、周囲の国々の蚕食、まとまらない国民の意思……とかとかもう不安材料は山ほどある。
それでも、アレッポが、いつか、テレビで見たとおりの、いやそれ以上の豊かで美しい街として再び咲き誇るかもしれない、そうだったら……私というぼんくらの日本人一匹ごときであってすらもごく平和にのんきに街を観光できるような、そんな日が来たなら。
しかし、もしもそうなったとしても、どうにも、ずっとなんもしなかった身ではなんだかとてもそれは重いことで、ただ憧れだけを無邪気に持ってはいられないものだ。
せめてアレッポの石鹸は、例えばネットで注文してでも、買うときがきっとあると思うけども。
それさえもなんだか、苦しいような、悲しいような気持ちはあるが、いやともかくシリアが無事に立ち直っていくなら、そうなるなら、そうなったなら、その場所に加わるために石鹸くらいは買いたい。地中海の古い匂い、と思いながら、あの茶色と緑色の石鹸をまた使う日々にたどりつきたい、たどりつけたらいいと思っている。そうでありますように。
追記:ずいぶん自分勝手な情動だけが垂れ流しで実にみっともない文章だが、こういう世の中の大きな事件に対しての自分の気分というものをそのときにちゃんと書いておかないととも思うので、そりゃもうとんでもなく恥ずかしいし情けないこととは思っているが(なによりなんも知らんままなところが特に)、このまま残しておくつもりだ。
と言っても、私はシリアについてほとんどなにも知らない。
ただ昔、もう四半世紀近くも前になるかもしれないが、確か大学生の頃に、なんとなく見ていた「世界ふしぎ発見」にアレッポの街が出てきた。テレビで見たその街は美しくて、なんだか良いところだと思ったので、いつか見に行きたいなと思ったのだ。
石鹸を作っていたシーンが印象にのこっている。
テレビで見たその街の石鹸は、石造りの作業場(れんがだったのかもしれないが、なんだかローマの遺跡のような、美しいアーチ型に積まれたブロックが印象に残っている)で作られていた。
地下室のような部屋は浅い浴場のようで、上のほうにある窓からほんのり光が入るが、全体は薄暗く、静かだった。その暗い、ひんやりしてそうな石の床の上に、おじさんたちが濁ったどろりとした緑色の液を流し込んでいく。部屋一杯に一定の厚さで広がるので、なんだか製氷のようだった。時間をおくと液が固まり、そうしたらレーキのようなものに人が乗って、もう一人がそのレーキを引く。静かでひんやりした部屋、古めかしい石の部屋で、機械を使わず人の手足だけで黙々と石鹸が作られ、手のひらに余る大きな四角い塊として切り出されて、丁寧に山積みにされていく。
その場面がなんとも心に残って、これをいつか見に行きたいなあ、などと思ったのだ。
世界ふしぎ発見の映像はいつも魅力的なので、もとよりオリエントの遺跡やらに憧れのある私は単純に、いや美しい国だなと思い、パルミラなどのたくさんの遺跡、アレッポの街並の現代的で華やかにネオンのきらめく賑やかな夕べ、そしてあの石鹸が作られる静かな地下室とに憧れ、見に行けたらな、などとのんきな気持ちでいたのだった。
番組で石鹸づくりを見たのは1990年代の終わりか2000年代の初め頃だと思うから、当時シリアはアサド(父)の独裁政権の下にあってもう30年ほどになっていたはずだ。テレビを見ている私は無知で、そんなことは知らなかったが、すでにその当時から密告は盛んにあり、無残な収容所も存在していたはずだ。たいした故もなく投獄され拷問され殺された人もたくさんいたはずで、まったく平和ではなかったのだが、そういうことに当時の私はまったく気付いていなかった。
ただ、番組を見て、いいなあアレッポいつか行きたいなあ、だけがなんとなく心に刻まれていた。
テレビで見てから数年後に、そのアレッポの石鹸というものが雑貨屋に売られているのを見て、ああああの石鹸だああ!と思って、何度か買ったことがある。
オリーブ油の匂いが思ったより強くて最初は驚いたが、慣れるとなんかこう、こういう石鹸使って顔とか洗うのなんかいい感じだなと思えた。憧れも含みだが、そうかあ地中海の石鹸てこういうのかあ、と思って、アレッポの石鹸を使うことでなんていうか心のどこかにある遠い国に気持ちが広がっていく、わりと小さいけども幸せな経験だった。それでしばらくはアレッポの石鹸を使っていたが、確かその雑貨屋が移転したんだか店を閉めたんだかで石鹸を買いに行ける場所が手近になくなって、もとより値の張る石鹸ではあったので通販までするのはどうしようかなあとためらって、それっきりになっていたはずだ。
それからだいぶ経った。2011年に東日本震災が起きた頃、その前後に中東の各地で独裁的な政権に対するデモが起こった。インターネットを介して人びとは連絡を取り合い、デモに繰り出していた。チュニジアで、エジプトで、リビアで、そしてシリアで、若者たちが街に繰り出し、集まり、携帯電話を掲げて、周りの様子を取ったり自撮りをしたりしながら陽気に練り歩いていた。民主的な政治を求めて。
「アラブの春」だとニュースで何度もその言葉を聞いた。
スマホやタブレットが広まる直前だったので、人びとが持っていたのは携帯電話や小型のノートPCばかりだったと思う。
明るい、未来のある光景のように見えた。
シリアも。アレッポ、あの石鹸の街があるところも。
民主化したら観光がもっと促進されるだろうか。そうしたら古い都市であるアレッポももっと開発が進んで、もしかしたら石鹸づくりなんてあんまり流行らなくなっちゃったりするのかな、などと思った。
でも旅行はしやすくなるだろう。情勢がもう少し落ち着いたら旅行に行けるかな。本気でお金を貯めようか。
そんなことを、少し思った気がする。ずいぶんのんきだったと思う。
それから、また干支が一回り以上する年月が経った。
その間、シリアは、2011年の私ののんきな気分とはあまりに落差のある惨い状況にあった。
そのことは、ときどき、断片的に、こまぎれながら聞こえては来た。
内戦状態、樽爆弾、サリン、戦闘員でもないただのおじさんやおばさん、子供やその若い親たちがただただなんの理由もなく虐殺されていく。アレッポでは攻防戦が繰り返され、瓦礫の山になっていると。
むちゃくちゃだよ、と思った。ひどいことだと思った。
アレッポ、あの石鹸の街。
あのアーチの美しい静かな地下室。あの石鹸が作られた部屋も、この瓦礫のどこかなのか。
とはいえ、私はなにをするでもなかった。
アレッポの石鹸が売られている、というのをネットで見かけて、どうしよう、とは思った。
トルコなどに逃げた石鹸職人がいて、そこでまた石鹸作りを再開したのだという。
悲しい、胸が痛い、でも石鹸まだ作っているのか、また作っているのか。
そうか、良かった、良かった。……良かったか?
通販で買おうかと思いつつ、結局買っていない。
アレッポで作られてはいない、それでもアレッポの人が作った石鹸を、買うのに怖じける気持ちがあった。
なんもしてないんだからせめて石鹸くらい買ったらいいんじゃないかと思いつつ、それでなにかした気になってしまうのも、と、なんとなく。
そうしてなんにもしないまま、シリア、アレッポ、とうっすら思っていたら、突然に2024年も終わりかけのこの冬に、アレッポが反政府側の手に奪還されそうだ、というニュースがとびこんできて、え、と思った。そうしたら、ほんと一晩、二晩で、アレッポは反政府軍の勢力下になり、そしてホムスへ、さらにダマスカス、もう首都ですらアサド政権側の兵隊達は逃走していって、ほぼ無血開城……と、とんとんとシリアの情勢は塗り変わっていった。
今もどうしてこう急に局面が覆ったものか、どうもよくわからんところはあるけども、とにかくシリアの人たちは、ほとんど誰も助けてくれないなかで耐え、戦いつづけ、独裁者の支配を拭ったのだ。
アレッポ、石鹸の街、またここで、石鹸が作られるときが来たのかも知れない。
これから先はどうか穏やかに、大きな争乱や混乱なく、シリアの人たちが自分たちで治め、誰も理不尽に傷つけられたり殺されない国になり、産業がうまく栄えますように。国を追い出されたり逃げ出したりした人たちも帰ってきて、すぐに家や仕事を見いだせますように。つらいことを耐え、生き延びた人たちに幸運と幸福がたくさんありますように。アレッポの石鹸があの美しい地下室でまたたくさん作られて、たくさん売れますように。
そう願いつつも、私自身は、ほんとシリアの人たちの助けになるようなことなんもしてねえんだな、という意識もあり、なんかなんも書けないな、になっているのだった。
私はいつかシリアに、アレッポに行けるだろうか。
そもそも情勢はまったく不透明で、独裁政権は霧散したとしてもその後には、混沌、無政府状態の空隙、乏しすぎる国家財政、壊滅している諸産業、周囲の国々の蚕食、まとまらない国民の意思……とかとかもう不安材料は山ほどある。
それでも、アレッポが、いつか、テレビで見たとおりの、いやそれ以上の豊かで美しい街として再び咲き誇るかもしれない、そうだったら……私というぼんくらの日本人一匹ごときであってすらもごく平和にのんきに街を観光できるような、そんな日が来たなら。
しかし、もしもそうなったとしても、どうにも、ずっとなんもしなかった身ではなんだかとてもそれは重いことで、ただ憧れだけを無邪気に持ってはいられないものだ。
せめてアレッポの石鹸は、例えばネットで注文してでも、買うときがきっとあると思うけども。
それさえもなんだか、苦しいような、悲しいような気持ちはあるが、いやともかくシリアが無事に立ち直っていくなら、そうなるなら、そうなったなら、その場所に加わるために石鹸くらいは買いたい。地中海の古い匂い、と思いながら、あの茶色と緑色の石鹸をまた使う日々にたどりつきたい、たどりつけたらいいと思っている。そうでありますように。
追記:ずいぶん自分勝手な情動だけが垂れ流しで実にみっともない文章だが、こういう世の中の大きな事件に対しての自分の気分というものをそのときにちゃんと書いておかないととも思うので、そりゃもうとんでもなく恥ずかしいし情けないこととは思っているが(なによりなんも知らんままなところが特に)、このまま残しておくつもりだ。
先々週と先週のアニポケ、勢いの良いギャグ回だったのでハッピーだった。
先々週はね、モリーさんに萌える回だった。
冷静クールオトナ女性が、真反対の性格の同世代男性の言動にいちいちカッカしてさ、いつもと違う反応するの……もうさあ滋養がありすぎる。回想で出てきた過去のモリーさんがちょっと田舎出の野暮ったい箱入り娘風で、純真すぎかわいすぎてた。
そんな過去のモリーさんを知ってて、昔と変わらずいじくりに回るソーダヨ……その結果、モリーさんの逆鱗に触れ、ハッピーによって星になるほど天高くぶっ飛ばされるお約束場面……。
お前らケンカップルじゃないの? ねえ、そうじゃないのかよぉ!
(そうはいっても、なにせアニポケなので、恋愛っけほぼなしの腐れ縁仲良し感なのも最高に良い)
そして先週の回となるともう勢い良すぎるギャグ回で、これもう大好きなやつだった。はあーこういうお話、書けるようになりたいやつ! テンポと勢い爆走でアホ笑えた。連発されるサメ(ハダー)映画、熱いじいさんたち、「寿司みてえなポケモン」「あれじゃあ回転寿司だ!」
そしてかわいすぎるウパーヌオーとシャリタツ……シャリタツたち無邪気かつずる賢くてめちゃくちゃ良い……マードックが、シャリタツどものやんちゃに振り回されてながらもなにかと大丈夫か!?とか気遣っていたり、こういうとこでなにげなく出てくる、作品全体に通底してるポケモンへの優しい関わり方、最高に良い。そういうところが妙に心に沁みるんだぜ。
そのうえオマケのポケモンゼミで、川流れてるヌオーとドオーが正面衝突してたのほんとめちゃくちゃかわいかった。ヌオドオが同じ画面にいるの最高に精神に効く!!!
それにしてもアニポケリコロイ編での、ランドウ手持ちヌオーは、ほんといい奴だし有能だしかわいい。前にどっかの回でおにぎりもぐもぐしてたときもめちゃくちゃかわいかったな。
アニポケ、ちょっと前までシリアスメインストーリー進展回を数回やってて、それも面白かったんだけど、なんということのない日常のわちゃわちゃ回脇役掘り下げ回はやっぱなんか妙に心に活力くれて楽しいわ。なんかと元気で優しいのよね、リコロイ編。
先々週はね、モリーさんに萌える回だった。
冷静クールオトナ女性が、真反対の性格の同世代男性の言動にいちいちカッカしてさ、いつもと違う反応するの……もうさあ滋養がありすぎる。回想で出てきた過去のモリーさんがちょっと田舎出の野暮ったい箱入り娘風で、純真すぎかわいすぎてた。
そんな過去のモリーさんを知ってて、昔と変わらずいじくりに回るソーダヨ……その結果、モリーさんの逆鱗に触れ、ハッピーによって星になるほど天高くぶっ飛ばされるお約束場面……。
お前らケンカップルじゃないの? ねえ、そうじゃないのかよぉ!
(そうはいっても、なにせアニポケなので、恋愛っけほぼなしの腐れ縁仲良し感なのも最高に良い)
そして先週の回となるともう勢い良すぎるギャグ回で、これもう大好きなやつだった。はあーこういうお話、書けるようになりたいやつ! テンポと勢い爆走でアホ笑えた。連発されるサメ(ハダー)映画、熱いじいさんたち、「寿司みてえなポケモン」「あれじゃあ回転寿司だ!」
そしてかわいすぎるウパーヌオーとシャリタツ……シャリタツたち無邪気かつずる賢くてめちゃくちゃ良い……マードックが、シャリタツどものやんちゃに振り回されてながらもなにかと大丈夫か!?とか気遣っていたり、こういうとこでなにげなく出てくる、作品全体に通底してるポケモンへの優しい関わり方、最高に良い。そういうところが妙に心に沁みるんだぜ。
そのうえオマケのポケモンゼミで、川流れてるヌオーとドオーが正面衝突してたのほんとめちゃくちゃかわいかった。ヌオドオが同じ画面にいるの最高に精神に効く!!!
それにしてもアニポケリコロイ編での、ランドウ手持ちヌオーは、ほんといい奴だし有能だしかわいい。前にどっかの回でおにぎりもぐもぐしてたときもめちゃくちゃかわいかったな。
アニポケ、ちょっと前までシリアスメインストーリー進展回を数回やってて、それも面白かったんだけど、なんということのない日常のわちゃわちゃ回脇役掘り下げ回はやっぱなんか妙に心に活力くれて楽しいわ。なんかと元気で優しいのよね、リコロイ編。
家の近くに、わりと昔からある製菓店がある。
交通量が多くて目立つ表通りではなく、そこから一本入ったところにあるので知名度はさほどないが、近所の人は皆ちょこちょこ、この店で菓子を買う。私がここに越してきたときにはケーキと焼き菓子だけになっていたが、確かもう少し以前はパンも焼いていて、夕方頃には惣菜パンとかを買えたと思う。中学生が塾に行く前とかにここで買い食いしてるのとか、見かけてた気がする。
店は外装も内装も、うっすら昭和の気配を漂わせる、町の片隅の小さな菓子屋だ。今風のカフェやらパティスリーみたいな、気の利いたおしゃれさはない。もっさりしている。それでも入り口の扉は枠が木でできたガラス戸で、少し古びて痛んでいるが、昭和頃の洋菓子にあったヨーロッパぽさ……多分スイスとかドイツとかオランダとか、ぼんやりしたあのあたりのイメージ……が感じられる。
そのドアの取っ手(取っ手も木でできている)のすぐ上には、紙にマジックで手書きした『押す』が、セロテープでビチッと丁寧にしっかり張り付けてある。これ自体、だいぶ以前に貼られたものとおぼしく、少し色褪せている。内側は逆に『引く』になっている。
多分、お客さんがドアの開閉のときによく間違えたんだろう。私も店を出入りするときには毎回、押すのか引くのか一瞬とまどうが、この手書きの『押す』『引く』のお陰でこともなく店を出入りできている。そしてドアを開けて店にはいるときには、ドアに取り付けられたカウベルが気だるくからんころんと鳴る。こういうとこもなんだか懐かしさがある。
売っているケーキも、今時の凝った感じのものはあまりない。ショートケーキとかモンブランとかシュークリームとか、定番はちゃんと一通りある。ホールケーキももちろん売っているし、お誕生日とかクリスマスケーキの予約も承っている。
焼き菓子も、マドレーヌとかクッキーとか、実に普通。
なんもかんも普通で、ありふれてて、突出した気の利いた感はない。ケーキも焼き菓子も、味は、普通。普通よりちょっと、うまい。地味に、ほっこり、美味い。気構えがない、尖りのない、でも弛んでもない、ちゃんとしっかりうまい。
今日寄ってみたときは、クリスマス近くとあっていつもは見かけない星型やツリー型のクッキーが売ってあった。けっこうサイズ大きめのが5枚くらい入って350円。安い。実に庶民的なお値段で財布に優しい。思わず買ってしまった。
写真を撮りそびれたが、見た目は、家でハンドメイドしたクッキーみたいな感じだった。型抜きで作ってると思うけど、それなのにちょっとづつ歪んでて形が少しだけ違う。バザーとかで売られてそうな。
ご家庭のクッキーの味しそうだなあ(それはそれで好きだけど)と思って食べたら、しかしちゃんと、こなれたサブレの味がした。さくさく歯触りは軽く、バターと小麦粉の風味はしっかりして、ちょうど良い案配に甘い。全然、ご家庭の味ではない。
といって、パティスリーが洗練された技術を振るって軽やかに仕上げました、というふうでもない。何年も町の菓子屋で粉と砂糖と卵を混ぜて練ってしてきた職人が、今日も淡々と真面目に焼いたというふうの、日常の中のたしかな美味さだ。
毎度、ここで焼き菓子を買うと、すげー普通なんだけどなんか美味い、て満足度高い。いつも食べたら、しみじみとご満悦な気持ちになる。しかも値段安いし。
近所にこういうお店があってくれて、本当に幸いなことだなと思うし、運が良いなあと思っている。
交通量が多くて目立つ表通りではなく、そこから一本入ったところにあるので知名度はさほどないが、近所の人は皆ちょこちょこ、この店で菓子を買う。私がここに越してきたときにはケーキと焼き菓子だけになっていたが、確かもう少し以前はパンも焼いていて、夕方頃には惣菜パンとかを買えたと思う。中学生が塾に行く前とかにここで買い食いしてるのとか、見かけてた気がする。
店は外装も内装も、うっすら昭和の気配を漂わせる、町の片隅の小さな菓子屋だ。今風のカフェやらパティスリーみたいな、気の利いたおしゃれさはない。もっさりしている。それでも入り口の扉は枠が木でできたガラス戸で、少し古びて痛んでいるが、昭和頃の洋菓子にあったヨーロッパぽさ……多分スイスとかドイツとかオランダとか、ぼんやりしたあのあたりのイメージ……が感じられる。
そのドアの取っ手(取っ手も木でできている)のすぐ上には、紙にマジックで手書きした『押す』が、セロテープでビチッと丁寧にしっかり張り付けてある。これ自体、だいぶ以前に貼られたものとおぼしく、少し色褪せている。内側は逆に『引く』になっている。
多分、お客さんがドアの開閉のときによく間違えたんだろう。私も店を出入りするときには毎回、押すのか引くのか一瞬とまどうが、この手書きの『押す』『引く』のお陰でこともなく店を出入りできている。そしてドアを開けて店にはいるときには、ドアに取り付けられたカウベルが気だるくからんころんと鳴る。こういうとこもなんだか懐かしさがある。
売っているケーキも、今時の凝った感じのものはあまりない。ショートケーキとかモンブランとかシュークリームとか、定番はちゃんと一通りある。ホールケーキももちろん売っているし、お誕生日とかクリスマスケーキの予約も承っている。
焼き菓子も、マドレーヌとかクッキーとか、実に普通。
なんもかんも普通で、ありふれてて、突出した気の利いた感はない。ケーキも焼き菓子も、味は、普通。普通よりちょっと、うまい。地味に、ほっこり、美味い。気構えがない、尖りのない、でも弛んでもない、ちゃんとしっかりうまい。
今日寄ってみたときは、クリスマス近くとあっていつもは見かけない星型やツリー型のクッキーが売ってあった。けっこうサイズ大きめのが5枚くらい入って350円。安い。実に庶民的なお値段で財布に優しい。思わず買ってしまった。
写真を撮りそびれたが、見た目は、家でハンドメイドしたクッキーみたいな感じだった。型抜きで作ってると思うけど、それなのにちょっとづつ歪んでて形が少しだけ違う。バザーとかで売られてそうな。
ご家庭のクッキーの味しそうだなあ(それはそれで好きだけど)と思って食べたら、しかしちゃんと、こなれたサブレの味がした。さくさく歯触りは軽く、バターと小麦粉の風味はしっかりして、ちょうど良い案配に甘い。全然、ご家庭の味ではない。
といって、パティスリーが洗練された技術を振るって軽やかに仕上げました、というふうでもない。何年も町の菓子屋で粉と砂糖と卵を混ぜて練ってしてきた職人が、今日も淡々と真面目に焼いたというふうの、日常の中のたしかな美味さだ。
毎度、ここで焼き菓子を買うと、すげー普通なんだけどなんか美味い、て満足度高い。いつも食べたら、しみじみとご満悦な気持ちになる。しかも値段安いし。
近所にこういうお店があってくれて、本当に幸いなことだなと思うし、運が良いなあと思っている。
なにか検索しててたまたま見出した、自分の中でのアブトゥの見た目イメージまんまなモデルさん、Sacha Quenby。
https://www.womenmanagement.com/paris/wo...
私がこの人の存在を知ったのは今年のことだけど、トップモデルとして数年前からバリバリご活躍なさっていて、検索するといろいろ画像が出てくる。
どの画像もたいそうイケメンなんでしびれちゃう……
と見つめてる中でも気に入ってるフォトがあって、アンニュイでいつものハンサムと少し変わって、ややフェミニンな雰囲気の……こう、キリッとした美形がなんとなくもの思わしげな目線を遠くにやってるの、いいやねえ。
と思っていた画像、今日になって、去年にポルトガルで撮影されたものと知って変な悲鳴を上げてしまった。実際には全然推しとは関係ない人なんだけど、心のなかで勝手に推しを投影しているものだから、どうしても、推しinポルトガル、みたいな気持ちになってしまい……キモいオタクで恥ずかしい。
https://www.fashiongonerogue.com/editori...
ちな気に入ってるのは、↑のページの最後から四枚目、ベージュ色でスリットの入ったロングドレスを着たSachaが自分の肩を抱えるようにしながら遠くに目線をやってる画像。
しかし私のアホオタ視線での推しの投影はさておいても、Sachaめちゃくちゃハンサムで魅力的でド好みな容姿なので、応援していきたい。今年の春くらいのルイ・ヴィトンの広告で着てた海っぽいミニスカワンピの格好も、はちゃめちゃかわゆハンサムで、最高だたなうっとり……
2024年の各ショーまとめ動画もあったよ。ギイィー動いてるとますますハンサムが際立つ!!
https://youtu.be/Nhnf-F2pZ6I?si=ghuYsuM7...
https://www.womenmanagement.com/paris/wo...
私がこの人の存在を知ったのは今年のことだけど、トップモデルとして数年前からバリバリご活躍なさっていて、検索するといろいろ画像が出てくる。
どの画像もたいそうイケメンなんでしびれちゃう……
と見つめてる中でも気に入ってるフォトがあって、アンニュイでいつものハンサムと少し変わって、ややフェミニンな雰囲気の……こう、キリッとした美形がなんとなくもの思わしげな目線を遠くにやってるの、いいやねえ。
と思っていた画像、今日になって、去年にポルトガルで撮影されたものと知って変な悲鳴を上げてしまった。実際には全然推しとは関係ない人なんだけど、心のなかで勝手に推しを投影しているものだから、どうしても、推しinポルトガル、みたいな気持ちになってしまい……キモいオタクで恥ずかしい。
https://www.fashiongonerogue.com/editori...
ちな気に入ってるのは、↑のページの最後から四枚目、ベージュ色でスリットの入ったロングドレスを着たSachaが自分の肩を抱えるようにしながら遠くに目線をやってる画像。
しかし私のアホオタ視線での推しの投影はさておいても、Sachaめちゃくちゃハンサムで魅力的でド好みな容姿なので、応援していきたい。今年の春くらいのルイ・ヴィトンの広告で着てた海っぽいミニスカワンピの格好も、はちゃめちゃかわゆハンサムで、最高だたなうっとり……
2024年の各ショーまとめ動画もあったよ。ギイィー動いてるとますますハンサムが際立つ!!
https://youtu.be/Nhnf-F2pZ6I?si=ghuYsuM7...
スーパーの賞味期限切れ近いもの安売りコーナーに、水飴があった。賞味期限が迫ってるとか言うが、その期限はまだだいぶ先。それで半額なので思わず買ってしまった。
しかし買ったはいいが、料理に使うといってもそれほどたくさん使うわけではない。和菓子でも作れば一気に使い切ることもできそうだが、ちょっとめんどくさい。
結局、普通に一匙ばかりをスプーンで掬い上げて、それをそのままおやつとして食べてる。一日一匙。少しづつ減らしてる。
買ったのは麦芽水飴とかじゃなくて、透明な、デンプンをケミカルな感じでどうにかして作ってる感じのやつだ。食べると、ひたすら甘いんだけど、なんだろ、奥の方にかすかに芋のような穀物のような、ほんのり風味があってわりと美味いと思う。
寒くなってきたので熱い紅茶入れたいがちなんだけど、紅茶ひとくち飲んだら匙の水飴ちょっと舐め、また紅茶飲んでは飴舐めて、という、ロシアンティー方式でおやつしている。甘くて温まる、冬場のお茶としてだいぶ満足度高いやつで気に入ってるけど、しかし人様にお見せできる感じの食べざまではなく、誰にも咎められない一人の空間でのみ果たせるタイプの楽しみである。
しかし買ったはいいが、料理に使うといってもそれほどたくさん使うわけではない。和菓子でも作れば一気に使い切ることもできそうだが、ちょっとめんどくさい。
結局、普通に一匙ばかりをスプーンで掬い上げて、それをそのままおやつとして食べてる。一日一匙。少しづつ減らしてる。
買ったのは麦芽水飴とかじゃなくて、透明な、デンプンをケミカルな感じでどうにかして作ってる感じのやつだ。食べると、ひたすら甘いんだけど、なんだろ、奥の方にかすかに芋のような穀物のような、ほんのり風味があってわりと美味いと思う。
寒くなってきたので熱い紅茶入れたいがちなんだけど、紅茶ひとくち飲んだら匙の水飴ちょっと舐め、また紅茶飲んでは飴舐めて、という、ロシアンティー方式でおやつしている。甘くて温まる、冬場のお茶としてだいぶ満足度高いやつで気に入ってるけど、しかし人様にお見せできる感じの食べざまではなく、誰にも咎められない一人の空間でのみ果たせるタイプの楽しみである。
ちょっと前に、1469の博物図鑑エンドのことを考えていて、否定とか肯定じゃなく、ただウワァーーーー!!って気持ちになっていた。
ちょっと前というか、わりとずっと、図鑑エンドについては推しカプたちを考えるときにどこかでうっすら考えて続けているような気もする。
図鑑エンドの記述は非常に少ないたったの数行だ。情報量は少なく、地図エンドでの一段落ののち、ペレスやアブトゥがどういう年月を過ごしたかについてはほとんどなにもわからない。ただ、ミゲルも、提督達もみんな十年単位では歳を重ねている。
ペレスは学問の世界で大成したが、今は大学は辞して研究に没頭していること。アブトゥはふるさとに戻りシャーマンをしていたが、ペレスの著書のために世間を避け(おそらくは)隠遁しているらしいこと。そういうペレスとアブトゥだが程度は不明だが連絡は取り合っているらしいこと。そして、もう中年か初老に入るくらいの歳になっているだろう二人は、少なくともその時点でどうやら婚姻関係にはないこと。
アマゾネスイベントでアブトゥはペレスを「私のかけがえのない人」と明言し、地図エンドでペレスはアブトゥの存在が気になること、それが「実に切ない」気持ちであることに言及する。お互いに相手に恋心を抱いているのは明らかなのだが、図鑑エンドの段階で二人が恋を成就させたかどうか、あるいは成就させたがそのあと関係を終えたのか、そのへんまったくなんともいえない記述になっている。とはいえ、ミゲルの記述が真であるなら、いろいろあったにせよ図鑑エンドの時点で二人は現在進行形でそれなりに付き合いがあることも明らかではある。
記述は短く、十年だか二十年だかそれ以上だかの長い期間を実際、二人がどう過ごしてきたのかはほぼまったく描写されていない。なのだから、二人がお互いの思いを確かめ合ったんだか、進展したんだか、つきあって別れたんだか、腐れ縁でなんとなく続いているんだか、それとも淡い思いのままずーっっっっとなんとなく仲良しできているんだか、それは一介のオタクである私が行間を無限に読みたいように読めば良い、そうだと思う。
けども、やはり制作陣がそれぞれのキャラクタにどういうイメージを持って作っていたろうかな、みたいなことは考えてしまう。
おそらく。おそらくだが、ペレスは学問に心が傾きまくっているけっこうな変人であり、地図エンドで本人が言及していたようなふんわりした恋を普通の恋愛関係にまで持って行くにはあまりにも学究のほうへの興味意欲が強すぎるのであり、かつ恋愛の経験もなさすぎ朴念仁なのでどうにもできそうにない、そういうキャラだという前提を制作者側が持っている、ような気がする。
なのでペレスは、アブトゥへの恋をはっきり自覚しないまま船を下り学問の世界に戻っていったか。あるいは恋愛を自覚はしたが交際関係にまでは持っていけずにぼんやりと、恋愛未満の(しかしその底には恋心を沈ませたような)友人としてアブトゥとの関係を保っているのか。そういう方向が制作者にはうっすらとあるかもなあと思う。
アブトゥについても、彼女はゲーム本編中で何度も、常人や世俗からだいぶ離れて、神秘を纏う存在だということが強めに描写されているから、浮世にあって浮世の暮らしにどっぷり染まるような人格ではない、どこか手の届かないところにいる。制作者サイドにはそういう感じがちょっとありそうに見える。
それでも、まあ歳は取ったけども、それでも二人が関係性は断っておらず「互いを認め合う仲」にまで至っている。ペレスも性格丸くなったとか言われているので、年齢を重ねたあとで少しづつ、この変人同士が、恋愛も含めて二人だけの強い関係性を構築していく可能性もまた、わざわざに残されたものではないかと思う。
それはそれとして、なんかしみじみしてて味わい深い。
それもいいかもしれない。そういう話も二次として書いてみてもいいかもしれない。
なんでも恋愛にしなくたって。
より大人な関係性というか……。
でも、でもなんだ。
それでも、そう解っていても私には、ペレスとアブトゥの二人に、お互いにとって無二の関係、お互いを特別の相手として末永く仲良くやっていってほしい欲は持っているのだ。
特にアブトゥは、相手が自分に対してそんな気持ちを一切抱いていない(なにせ同性と思っていたので恋愛対象と見なしていない)ことをわかっていながら、それでも愛情を持ち続けていたんだと思うと。
思うとさああ。
叶わせてやってさ、その恋心。
がっつり届かせてよ、その深い愛をよ。
あの朴念仁のペレス太郎のハートにもよ。
そんで図鑑エンドだと、どうやらペレスのせいで、世間がやいのとかしましく押し寄せてくるっつって、姿くらましたらしいんだから。
諸々、責任取れよまったくよ、あの石頭はよ。
まあ、ミゲルが把握してないだけで、実は二人は船を下りたあとくらいからずっと付き合ってたし、正式に婚姻を結びはしなくとも実質的に夫婦関係にある、そんくらいのことは妄想している。言われなくとも。妄想はいつだって爆走暴走していくんだからね。
勝手に妄想はするけど、しかし制作者サイドがペレスとアブトゥをどういうふうなキャラクタとして描いているかというのを、一応念頭には入れておくこともしている(もちろん念頭には入れるが、私自身の妄想や二次創作では、原作の方向を都合良く取り入れたり無視したりする)
しかしまあ、そういうスタンスでいるものの、やっぱり製作サイド的にはペレスは恋心よりも学問優先キャラだろうなあとか、アブトゥはずっとペレスを気長に待ってるキャラだろうなあとか、そういうことをね。
そう考えてね、わかってて、それもそれで味わい深きわね……!!と思いつつも、ワァーーーーーー!やっぱりアブトゥ、どうにかして事実婚しててペレスと!!(なんなら子供もこさえてて!!)って気持ちでウワァーーーーーー!!!!!!ってなってたってわけ。
厄介なオタク心だよまったくな。
追記:そういえば、なんで事実婚かっていうと、史実としてこの時代の婚姻は、ペレスにとってもアブトゥにとっても、それぞれ家と家の関係性という性格が強いだろうというのと、社会階層や信仰する宗教にも縛られるので婚姻自体が認められない場合があること、が気になっているからだ。もし二次創作で、家だとか身分だとか信仰のありかたまで捏造しはじめるとバランス悪すぎる。それにそういうことを書きたいわけではないので……とはいえあまりに史実の15世紀の雰囲気をまるっとなかったようにもできない(とはいえこれは私自身のこだわりにすぎない)。それで、まあはっきりわからんけど社会的なあれこれがあるけん、二人はお役所に届け出を出すような公的な婚姻は結んでないけど実質夫婦だよ、て関係性だったらいいなあ的なあたりに自分の妄想を落ち着かせている。
例えば、天文学者ティコ・ブラーエは位の高い有力貴族の身分だが、その生涯を共にした妻は平民であった。デンマークの法では貴賤結婚も可能ではあったが、それなりのペナルティはあり(結婚しても妻の平民の身分はそのままで貴族としては扱われず、生まれた子供達も同じく平民として扱われ、父が貴族として持つ諸権利を受け継ぐことができない)、またデンマークの貴族社会も宗教界もティコの妻をあくまで平民とみなし、その婚姻について良いものとは見なさなかった。
両者の意志にのみ基づく自由な婚姻というのはごく最近の概念だ。歴史上、婚姻は社会の成員として若い男女に、その家柄や身分や役割を再確認する作用を持っており、社会規範から外れることは婚姻として認められるものではなかった。中世をやっと脱したくらいの時代をモデルとして持つネオアトラス世界において、その社会規範が奈辺にあるものなのかわからない。ポルトガル人のペレスと中近東のどこかで生まれ育ったアブトゥとが結婚するとしてそれはどういうものなのか、ってのがなかなか私には具体的に妄想することができないため、事実婚ということにしておきたいという話である。まあ、当時も、いろいろあって正式な婚姻はちょっと……という関係だけど実質夫婦として添い遂げた人びとというのは結構いるらしいので、そういう感じかなあと想像する次第。
ちょっと前というか、わりとずっと、図鑑エンドについては推しカプたちを考えるときにどこかでうっすら考えて続けているような気もする。
図鑑エンドの記述は非常に少ないたったの数行だ。情報量は少なく、地図エンドでの一段落ののち、ペレスやアブトゥがどういう年月を過ごしたかについてはほとんどなにもわからない。ただ、ミゲルも、提督達もみんな十年単位では歳を重ねている。
ペレスは学問の世界で大成したが、今は大学は辞して研究に没頭していること。アブトゥはふるさとに戻りシャーマンをしていたが、ペレスの著書のために世間を避け(おそらくは)隠遁しているらしいこと。そういうペレスとアブトゥだが程度は不明だが連絡は取り合っているらしいこと。そして、もう中年か初老に入るくらいの歳になっているだろう二人は、少なくともその時点でどうやら婚姻関係にはないこと。
アマゾネスイベントでアブトゥはペレスを「私のかけがえのない人」と明言し、地図エンドでペレスはアブトゥの存在が気になること、それが「実に切ない」気持ちであることに言及する。お互いに相手に恋心を抱いているのは明らかなのだが、図鑑エンドの段階で二人が恋を成就させたかどうか、あるいは成就させたがそのあと関係を終えたのか、そのへんまったくなんともいえない記述になっている。とはいえ、ミゲルの記述が真であるなら、いろいろあったにせよ図鑑エンドの時点で二人は現在進行形でそれなりに付き合いがあることも明らかではある。
記述は短く、十年だか二十年だかそれ以上だかの長い期間を実際、二人がどう過ごしてきたのかはほぼまったく描写されていない。なのだから、二人がお互いの思いを確かめ合ったんだか、進展したんだか、つきあって別れたんだか、腐れ縁でなんとなく続いているんだか、それとも淡い思いのままずーっっっっとなんとなく仲良しできているんだか、それは一介のオタクである私が行間を無限に読みたいように読めば良い、そうだと思う。
けども、やはり制作陣がそれぞれのキャラクタにどういうイメージを持って作っていたろうかな、みたいなことは考えてしまう。
おそらく。おそらくだが、ペレスは学問に心が傾きまくっているけっこうな変人であり、地図エンドで本人が言及していたようなふんわりした恋を普通の恋愛関係にまで持って行くにはあまりにも学究のほうへの興味意欲が強すぎるのであり、かつ恋愛の経験もなさすぎ朴念仁なのでどうにもできそうにない、そういうキャラだという前提を制作者側が持っている、ような気がする。
なのでペレスは、アブトゥへの恋をはっきり自覚しないまま船を下り学問の世界に戻っていったか。あるいは恋愛を自覚はしたが交際関係にまでは持っていけずにぼんやりと、恋愛未満の(しかしその底には恋心を沈ませたような)友人としてアブトゥとの関係を保っているのか。そういう方向が制作者にはうっすらとあるかもなあと思う。
アブトゥについても、彼女はゲーム本編中で何度も、常人や世俗からだいぶ離れて、神秘を纏う存在だということが強めに描写されているから、浮世にあって浮世の暮らしにどっぷり染まるような人格ではない、どこか手の届かないところにいる。制作者サイドにはそういう感じがちょっとありそうに見える。
それでも、まあ歳は取ったけども、それでも二人が関係性は断っておらず「互いを認め合う仲」にまで至っている。ペレスも性格丸くなったとか言われているので、年齢を重ねたあとで少しづつ、この変人同士が、恋愛も含めて二人だけの強い関係性を構築していく可能性もまた、わざわざに残されたものではないかと思う。
それはそれとして、なんかしみじみしてて味わい深い。
それもいいかもしれない。そういう話も二次として書いてみてもいいかもしれない。
なんでも恋愛にしなくたって。
より大人な関係性というか……。
でも、でもなんだ。
それでも、そう解っていても私には、ペレスとアブトゥの二人に、お互いにとって無二の関係、お互いを特別の相手として末永く仲良くやっていってほしい欲は持っているのだ。
特にアブトゥは、相手が自分に対してそんな気持ちを一切抱いていない(なにせ同性と思っていたので恋愛対象と見なしていない)ことをわかっていながら、それでも愛情を持ち続けていたんだと思うと。
思うとさああ。
叶わせてやってさ、その恋心。
がっつり届かせてよ、その深い愛をよ。
あの朴念仁のペレス太郎のハートにもよ。
そんで図鑑エンドだと、どうやらペレスのせいで、世間がやいのとかしましく押し寄せてくるっつって、姿くらましたらしいんだから。
諸々、責任取れよまったくよ、あの石頭はよ。
まあ、ミゲルが把握してないだけで、実は二人は船を下りたあとくらいからずっと付き合ってたし、正式に婚姻を結びはしなくとも実質的に夫婦関係にある、そんくらいのことは妄想している。言われなくとも。妄想はいつだって爆走暴走していくんだからね。
勝手に妄想はするけど、しかし制作者サイドがペレスとアブトゥをどういうふうなキャラクタとして描いているかというのを、一応念頭には入れておくこともしている(もちろん念頭には入れるが、私自身の妄想や二次創作では、原作の方向を都合良く取り入れたり無視したりする)
しかしまあ、そういうスタンスでいるものの、やっぱり製作サイド的にはペレスは恋心よりも学問優先キャラだろうなあとか、アブトゥはずっとペレスを気長に待ってるキャラだろうなあとか、そういうことをね。
そう考えてね、わかってて、それもそれで味わい深きわね……!!と思いつつも、ワァーーーーーー!やっぱりアブトゥ、どうにかして事実婚しててペレスと!!(なんなら子供もこさえてて!!)って気持ちでウワァーーーーーー!!!!!!ってなってたってわけ。
厄介なオタク心だよまったくな。
追記:そういえば、なんで事実婚かっていうと、史実としてこの時代の婚姻は、ペレスにとってもアブトゥにとっても、それぞれ家と家の関係性という性格が強いだろうというのと、社会階層や信仰する宗教にも縛られるので婚姻自体が認められない場合があること、が気になっているからだ。もし二次創作で、家だとか身分だとか信仰のありかたまで捏造しはじめるとバランス悪すぎる。それにそういうことを書きたいわけではないので……とはいえあまりに史実の15世紀の雰囲気をまるっとなかったようにもできない(とはいえこれは私自身のこだわりにすぎない)。それで、まあはっきりわからんけど社会的なあれこれがあるけん、二人はお役所に届け出を出すような公的な婚姻は結んでないけど実質夫婦だよ、て関係性だったらいいなあ的なあたりに自分の妄想を落ち着かせている。
例えば、天文学者ティコ・ブラーエは位の高い有力貴族の身分だが、その生涯を共にした妻は平民であった。デンマークの法では貴賤結婚も可能ではあったが、それなりのペナルティはあり(結婚しても妻の平民の身分はそのままで貴族としては扱われず、生まれた子供達も同じく平民として扱われ、父が貴族として持つ諸権利を受け継ぐことができない)、またデンマークの貴族社会も宗教界もティコの妻をあくまで平民とみなし、その婚姻について良いものとは見なさなかった。
両者の意志にのみ基づく自由な婚姻というのはごく最近の概念だ。歴史上、婚姻は社会の成員として若い男女に、その家柄や身分や役割を再確認する作用を持っており、社会規範から外れることは婚姻として認められるものではなかった。中世をやっと脱したくらいの時代をモデルとして持つネオアトラス世界において、その社会規範が奈辺にあるものなのかわからない。ポルトガル人のペレスと中近東のどこかで生まれ育ったアブトゥとが結婚するとしてそれはどういうものなのか、ってのがなかなか私には具体的に妄想することができないため、事実婚ということにしておきたいという話である。まあ、当時も、いろいろあって正式な婚姻はちょっと……という関係だけど実質夫婦として添い遂げた人びとというのは結構いるらしいので、そういう感じかなあと想像する次第。
キッチンタイマーある暮らし、とても快適だ!
野菜がどれもこれも高いけど、旬に入ったレンコンが比較的安めだし旨い。ので、最近はレンコンの入った炒め物よく作ってたんだけど、寒くなってきたので、おつゆ用の骨付き鳥と、レンコンと同じく比較的安値で買えるかぼちゃとで、煮物にしてみた。
キッチンタイマーあるから煮物だってらくちんだよ、だいたい、いいあんばいの時間をピって押して、別のことしにいってても、ピピピピって鳴ったら台所戻って鍋の様子見て、あとは火弱めたり止めたりすればいいだけだもん。それでなんも考えんでもほろっと柔らかに炊けたレンコンと鶏肉の煮物が出来上がる。大勝利。
ありがとう人類。ありがとう文明。キッチンタイマーを世にあらしめた全てに感謝だよ。
野菜がどれもこれも高いけど、旬に入ったレンコンが比較的安めだし旨い。ので、最近はレンコンの入った炒め物よく作ってたんだけど、寒くなってきたので、おつゆ用の骨付き鳥と、レンコンと同じく比較的安値で買えるかぼちゃとで、煮物にしてみた。
キッチンタイマーあるから煮物だってらくちんだよ、だいたい、いいあんばいの時間をピって押して、別のことしにいってても、ピピピピって鳴ったら台所戻って鍋の様子見て、あとは火弱めたり止めたりすればいいだけだもん。それでなんも考えんでもほろっと柔らかに炊けたレンコンと鶏肉の煮物が出来上がる。大勝利。
ありがとう人類。ありがとう文明。キッチンタイマーを世にあらしめた全てに感謝だよ。
キッチンタイマーが壊れたので買ってきた。
壊れたのは前の週だったのだが、ふゆーなーして(面倒くさがって)今日になってしまったのだ。
百均のタイマーだからすぐ壊れるし壊れたなら買ってくる、でいいのだがなんとなく粘ってしまった。
しかし、キッチンタイマー使えないとQoLだいぶ下がる。スマホのタイマー機能使えばいいだけなのにそれがやけに億劫で、キッチンタイマーがないというただそれだけで炊事に対する意欲がめちゃくちゃ下がった。
なんなら朝にパン一枚を焼くのすら面倒になる。トースター持ってなくてガス台のグリルでトーストしてるもんだから、タイマーは必須なのだ。わずかでも火を入れてる時間が過ぎらば黒焦げだし、まして他のことに気を取られてうっかり数分忘れた日にはグリルの中でパンがぼうぼうと燃え盛り始める。
QoLどころか、キッチンタイマーは私の生活の色んな場面の安全を担保してくれている存在なのだ。キッチンタイマーに依存しまくった生活すぎる。生物としてあまりに脆弱なのではないか。しかし、キッチンタイマーないと、煮物も飯炊きもまったくうまくいきそうになくて、ほんとキッチンタイマーない頃の人類、すごいよな。時間わからんのに焦がさない火加減and加熱時間andタイミングをどうやって身につけたのだろ、たいへんそうだなあ。
壊れたのは前の週だったのだが、ふゆーなーして(面倒くさがって)今日になってしまったのだ。
百均のタイマーだからすぐ壊れるし壊れたなら買ってくる、でいいのだがなんとなく粘ってしまった。
しかし、キッチンタイマー使えないとQoLだいぶ下がる。スマホのタイマー機能使えばいいだけなのにそれがやけに億劫で、キッチンタイマーがないというただそれだけで炊事に対する意欲がめちゃくちゃ下がった。
なんなら朝にパン一枚を焼くのすら面倒になる。トースター持ってなくてガス台のグリルでトーストしてるもんだから、タイマーは必須なのだ。わずかでも火を入れてる時間が過ぎらば黒焦げだし、まして他のことに気を取られてうっかり数分忘れた日にはグリルの中でパンがぼうぼうと燃え盛り始める。
QoLどころか、キッチンタイマーは私の生活の色んな場面の安全を担保してくれている存在なのだ。キッチンタイマーに依存しまくった生活すぎる。生物としてあまりに脆弱なのではないか。しかし、キッチンタイマーないと、煮物も飯炊きもまったくうまくいきそうになくて、ほんとキッチンタイマーない頃の人類、すごいよな。時間わからんのに焦がさない火加減and加熱時間andタイミングをどうやって身につけたのだろ、たいへんそうだなあ。
ポケトゥーンの「幼なじみのカルボウ」見た。カルボウとソウブレイズとグレンアルマが好きなので、特にソウブレイズは大好きなので。
正直を言えばお話はそれほど好みじゃ無い。まあ、これがエモで泣ける話だってのも、こういうのがおそらくいまどきの話作りというものだということにも納得はある。とはいえ、私自身は(おそらくソウブレイズに思い入れが強めなだけに)ソウブレイズ結局ずっとストイックに孤独だし不遇ではと思えるので、なんかこのへんの始末をもうちょっと拾ってほしかったような……
それはそれとしてソウブレイズ(グレンアルマも)はほんと格好良い。アニメもよく動いてて、SV遊んでてソウブレイズかっこいーな!と思ってたのさらに五割増しでカッコイイ! アニメってすごい!
あとね、ソウブレイズね、めちゃんこ声がかっこいい。
凜々しく、静かな響きの、めちゃくちゃ中性的な……しかし女性の声だな、っていう。
ぶっちゃけ推しを重ねている。推しの声のイメージこれ。これがいい。この声で、静かにしゃべってほしい~!!
しかしまあ、ソウブレイズはなんせポケモンなので、セリフちゅうか鳴き声なんだよね、「ソウ……」しか言わない。でもこの「ソウ……」が良くてさ。推しが「そう……」って呟くならこんな呟き方すると思うね。まちがいない。
考えてみたら、ソウブレイズの、めちゃんこ素早くて研ぎ澄まされた刃の感じも、夜や孤独を感じさせるところも、考えてみるとめちゃくちゃ推しの基底イメージにマッチするような、て気になってきた!
やべえなソウブレイズもっと好きになっちゃう。
というところでふと我に返って、いやポケトゥーン見てただけでふいにソウブレイズに推しを重ねるとか、あまりにも突然に推しへの狂気が炸裂しちゃったの巻でしかないね……。
正直を言えばお話はそれほど好みじゃ無い。まあ、これがエモで泣ける話だってのも、こういうのがおそらくいまどきの話作りというものだということにも納得はある。とはいえ、私自身は(おそらくソウブレイズに思い入れが強めなだけに)ソウブレイズ結局ずっとストイックに孤独だし不遇ではと思えるので、なんかこのへんの始末をもうちょっと拾ってほしかったような……
それはそれとしてソウブレイズ(グレンアルマも)はほんと格好良い。アニメもよく動いてて、SV遊んでてソウブレイズかっこいーな!と思ってたのさらに五割増しでカッコイイ! アニメってすごい!
あとね、ソウブレイズね、めちゃんこ声がかっこいい。
凜々しく、静かな響きの、めちゃくちゃ中性的な……しかし女性の声だな、っていう。
ぶっちゃけ推しを重ねている。推しの声のイメージこれ。これがいい。この声で、静かにしゃべってほしい~!!
しかしまあ、ソウブレイズはなんせポケモンなので、セリフちゅうか鳴き声なんだよね、「ソウ……」しか言わない。でもこの「ソウ……」が良くてさ。推しが「そう……」って呟くならこんな呟き方すると思うね。まちがいない。
考えてみたら、ソウブレイズの、めちゃんこ素早くて研ぎ澄まされた刃の感じも、夜や孤独を感じさせるところも、考えてみるとめちゃくちゃ推しの基底イメージにマッチするような、て気になってきた!
やべえなソウブレイズもっと好きになっちゃう。
というところでふと我に返って、いやポケトゥーン見てただけでふいにソウブレイズに推しを重ねるとか、あまりにも突然に推しへの狂気が炸裂しちゃったの巻でしかないね……。
今週、だいぶ気温が下がってきて涼しい。やっとクーラーを使わないで済む感じになってきた。
といっても最高25度とかなので、日中、なぜか保温性の高い私の職場はまだまだ結構暑い。そのうえ修繕に入ってしまったクーラーを稼働できない状態なので、扇風機が何台もぶんぶん首を振っている。
夕方になって、やれやれ暑いなこの職場は、と仕事場から一歩でると、とたんに涼しいどころかちょっと肌寒いくらいの風に吹きすさばれる。びいぇえさぶい!と同僚達と叫び合いながら歩き出す。
家でもついに毛布を出した。タオルケットではもう寒い。
夏から急に晩秋に飛んだ感じだが、毎年わりとこんなだ。
といっても最高25度とかなので、日中、なぜか保温性の高い私の職場はまだまだ結構暑い。そのうえ修繕に入ってしまったクーラーを稼働できない状態なので、扇風機が何台もぶんぶん首を振っている。
夕方になって、やれやれ暑いなこの職場は、と仕事場から一歩でると、とたんに涼しいどころかちょっと肌寒いくらいの風に吹きすさばれる。びいぇえさぶい!と同僚達と叫び合いながら歩き出す。
家でもついに毛布を出した。タオルケットではもう寒い。
夏から急に晩秋に飛んだ感じだが、毎年わりとこんなだ。
ロシアがICBM撃った、とウクライナ側からの報道。ICBMじゃなくIRBMだ、とかもあるけど、どうあれ長距離弾道弾を実戦での使用というのは踏み出している。
今回は模擬弾頭だったのではと。それでおそらく被害は甚大とはならないだろうけども、明らかに恫喝ではある。実際に進行中の戦争の中で、こういう兵器でメッセージが発せられるという状況に、ううっ、と息がつまる。
20世紀末、世界中の国はなんとかそうした緊張の事態を脱しつつあって、人間同士はもう少しえげつなくないやり方で対話と交渉ができるように思えていたが、当時の世の中の、あまり根拠のない楽観が演出した幻影に過ぎなかったのかなと、あらためてつきつけられるような気分で、気が重い。
それはさておき、日付が変わる前まで半額分のポイント還元ということで、『チ。-地球の運動について-』を慌てて衝動買いしてしまった。
前から面白そうだなと思っていたのと、以前、ネオアトの同人誌にゲスト稿として寄稿したペレスの学者人生を考える、という記事のなかで、ペレスとはほぼ同世代と思われる天文学者として名前と略歴だけは把握していたアルベルト・ブルゼフスキが、物語の最後のほうで登場すると聞き及んでいたのだ。
この漫画、とても面白かった。
真理への道を見てしまい、真理に引かれてしまい、異端として迫害されることを目の前にしても安寧にいきることを選べなかった何人もが連なる、年代記のような、とはいえ架空の物語。天を美しいと思い、自らの立つ場所もその美しい世界に含まれていることを信じる人びとの物語だ。
さまざまな、「チ」を突き抜け飛び上がって、その向こうにある天に手を伸ばす、そうせざるを得ない人類の話、その物語の作りそのものに憧れがある。私にはあまりその資質はないという自覚もあるが、一歩先へ、その先のさらに遠くへ、に読み手の心を誘う物語は、それそのものが星のように煌めいて、心がその遠くに吸い寄せられるし、このような物語を紡ぐことができる才能への慕わしさや尊さが自分の奥深くにふつふつ滾る。
しかしまた、今夜読んだのは間の悪いことだった。
弾道弾が戦争で使われたで、という報道のあとに読んだのは……。
なんかもう、いろいろが重なりすぎて、作品とはまるで関係ないところでだけど、心のなかに行き交う情報と歴史の重みにへしがれそうになった。
はるか何千年もの時間を越え、真理を求める人びとが積み上げた世界の認識と知識は文字として残されて人類をさらにその先へ進ませる。天体は、世界は、本当はどのように動いているのか。そこに達した知というなの情報系は、文字、そして印刷の技術で広く人類に共有されていく。それは物事を結びつけ、新しい理論と技術を鍛え上げ、人々はまた新しい世界にたどり着いていき……その果てに今や人は天に手が届いた。
地を離れ大気圏の外に、鉄と火薬の塊を送り出し、それで街を焼くほどのところにまで。
このへんはチ。の作品中でも何度も言及されている。知が、人びとをより酷く害することにつながると。知は人を自由にしつつ誤らせ、人びとは何度でもそれを繰り返しながら、迷いながら歩いていくのだと。
この夕のひとつの出来事だけですっかり絶望するわけではないが、しかし今夜はたまたま、少し天が重すぎる。その重みの圧をもて余している。
とはいえ今夜のこの心の重さは『チ。』それ自体の面白さやテーマとは直接的な関係はない。
もちろん『チ。』は、そのテーマを語るために人が拷問されたり死んだりする場面がよく出てくるので、穏やかでもないし明るいとも言いがたい作品ではある。しかし、迷いながら真理を求め、そのために過酷な決断をし苦痛を舐め、揺らぎながら酷いこともしながら、それでも美や倫理や善にも心を動かしていくあまたの人間たちの物語には、愛というものがほの見え、そして不思議なほど突き抜けた開放も感動もある。良い漫画である。
今回は模擬弾頭だったのではと。それでおそらく被害は甚大とはならないだろうけども、明らかに恫喝ではある。実際に進行中の戦争の中で、こういう兵器でメッセージが発せられるという状況に、ううっ、と息がつまる。
20世紀末、世界中の国はなんとかそうした緊張の事態を脱しつつあって、人間同士はもう少しえげつなくないやり方で対話と交渉ができるように思えていたが、当時の世の中の、あまり根拠のない楽観が演出した幻影に過ぎなかったのかなと、あらためてつきつけられるような気分で、気が重い。
それはさておき、日付が変わる前まで半額分のポイント還元ということで、『チ。-地球の運動について-』を慌てて衝動買いしてしまった。
前から面白そうだなと思っていたのと、以前、ネオアトの同人誌にゲスト稿として寄稿したペレスの学者人生を考える、という記事のなかで、ペレスとはほぼ同世代と思われる天文学者として名前と略歴だけは把握していたアルベルト・ブルゼフスキが、物語の最後のほうで登場すると聞き及んでいたのだ。
この漫画、とても面白かった。
真理への道を見てしまい、真理に引かれてしまい、異端として迫害されることを目の前にしても安寧にいきることを選べなかった何人もが連なる、年代記のような、とはいえ架空の物語。天を美しいと思い、自らの立つ場所もその美しい世界に含まれていることを信じる人びとの物語だ。
さまざまな、「チ」を突き抜け飛び上がって、その向こうにある天に手を伸ばす、そうせざるを得ない人類の話、その物語の作りそのものに憧れがある。私にはあまりその資質はないという自覚もあるが、一歩先へ、その先のさらに遠くへ、に読み手の心を誘う物語は、それそのものが星のように煌めいて、心がその遠くに吸い寄せられるし、このような物語を紡ぐことができる才能への慕わしさや尊さが自分の奥深くにふつふつ滾る。
しかしまた、今夜読んだのは間の悪いことだった。
弾道弾が戦争で使われたで、という報道のあとに読んだのは……。
なんかもう、いろいろが重なりすぎて、作品とはまるで関係ないところでだけど、心のなかに行き交う情報と歴史の重みにへしがれそうになった。
はるか何千年もの時間を越え、真理を求める人びとが積み上げた世界の認識と知識は文字として残されて人類をさらにその先へ進ませる。天体は、世界は、本当はどのように動いているのか。そこに達した知というなの情報系は、文字、そして印刷の技術で広く人類に共有されていく。それは物事を結びつけ、新しい理論と技術を鍛え上げ、人々はまた新しい世界にたどり着いていき……その果てに今や人は天に手が届いた。
地を離れ大気圏の外に、鉄と火薬の塊を送り出し、それで街を焼くほどのところにまで。
このへんはチ。の作品中でも何度も言及されている。知が、人びとをより酷く害することにつながると。知は人を自由にしつつ誤らせ、人びとは何度でもそれを繰り返しながら、迷いながら歩いていくのだと。
この夕のひとつの出来事だけですっかり絶望するわけではないが、しかし今夜はたまたま、少し天が重すぎる。その重みの圧をもて余している。
とはいえ今夜のこの心の重さは『チ。』それ自体の面白さやテーマとは直接的な関係はない。
もちろん『チ。』は、そのテーマを語るために人が拷問されたり死んだりする場面がよく出てくるので、穏やかでもないし明るいとも言いがたい作品ではある。しかし、迷いながら真理を求め、そのために過酷な決断をし苦痛を舐め、揺らぎながら酷いこともしながら、それでも美や倫理や善にも心を動かしていくあまたの人間たちの物語には、愛というものがほの見え、そして不思議なほど突き抜けた開放も感動もある。良い漫画である。
『コロンブスの図書館』読んだあれこれ。
内容は一言で言うとコロンブス(クリストバル・コロン)の息子であり、生涯を通じて本を集め続けた愛書家エルナンド・コロンの伝記。
原題は" THE CATALOGUE OF SHIPWRECKED BOOKS: Young Columbus and the Quest for a Universal Library"である。
エルナンドは、15世紀末という大航海時代の曙光の時期に生まれ育ち、16世紀半ばよりは少し前に50歳で死んだスペイン人だ。その父はクリストバル・コロン。つまり大航海者であると同時に大言壮語の夢想家として現在の世にも名を轟かせるかのコロンブスだ。
父クリストバルは二十代終わり頃に貴族の娘フェリパと結婚し、長男ディエゴを得たが、フェリパは早くに亡くなってしまった。そう時をおかずにクリストバルは農家の娘ベアトリスと関係を持つ。ベアトリスは一定の学はあったが農民階級で身分は高くはなく、クリストバルはベアトリスとは正式には結婚しなかった。そんな二人の間に生まれたのが次男エルナンドである。
エルナンドはいわば庶子の立場ではあったが、正式に手続きされてクリストバルの子であると認められ、ごく幼い時期から兄ディエゴと共にスペイン宮廷に出仕した。宮廷で、エルナンドはフアン王子の小姓を務めながら高い教育を受けて育った。
13歳のとき、エルナンドは父の探検航海に同行する。コロンブスの第四回目にして最後の航海であるが、このときクリストバルはすでに50歳の坂を越え、入植地の失敗を理由に逮捕されたりと落ち目にもあって、航海は当初から支援が乏しかった。1502年に船出した船はフナクイムシにやられてボロボロで、出航から1年あまり後にはジャマイカで座礁して動けなくなった。救助が来るまでさらに1年、その間、病気や資源の不足や乗組員の反乱に悩まされる散々な旅だった。クリストバルは失意のうちに1506年にスペイン本国で死去する。とはいえ、まだ若々しい少年だったエルナンドはこの厳しい航海を生き延びて航海の経験を積み、父との旅を思い出に深く留め、そして新世界で目にした事物に好奇心を向けた。
ところで伝記を読むとエルナンドは、航海者としての資質もきっちり持っているが、それ以上にとにかく几帳面であり、また実務に長けた人であるように思える。
とくに情報の積み上げへの熱は、もともとの気質がそうなのかもしれないし、宮廷で暮らした少年時代に事務能力がさらに磨かれたのかもしれないが、とにかく若い頃から大量の物品を帳面に付け、秩序立て、取り出すべきときに取り出せるようにきちんと整えておくクセがあるらしい。世界の全てを情報化して手元に置いておきたい、そういう博物学的な感覚がなんだか強く彼に内在しているように見えた。
世界はどんな様子か、どんなものがどこにあり、どうやったら知ることができ触れることが出来、役に立てることができるか。世界のあらゆる要素を情報の山脈として築き上げ、それをいかに効率的に運用できるか、そんなことを意識し続けているような気がする。そういうエルナンドの気質には、なんていうか、ぐっと来た。
個人的に日本の長久保赤水もそういう風なタイプに見えているのだが、世界の手触りを文字と絵図にして紙に記し、その手触りをいつでも好きなときに仮想的に取り出せる、そんな便利なものをこさえて手元に置きたいし他人にも共有して使ってもらいたい、そういう欲求があるように思えるのである。エルナンドはデータベースの魅力に憑かれた人間なのだ。
わかる。データベースにはそういう魔力がある。それにしてもエルナンド、印刷技術という新技術を全面的に前提としながらとはいえ、よくもまあその時代にそれだけのデータベース構築に邁進したものだなと思う。
本のなかでは、エルナンドが図書館を作り上げようとした根にあるものとして、父クリストバルへの追慕と、また父への思いもひっくるめて祖国スペインが世界を統べる唯一の国として屹立するために当然必要なものとして、世界の知識を集約したデータベースを構築することへの意識が取り出される。それは確かにそう思えるのだが、私自身は、とにもかくにもあらゆる知識と情報にアクセスしたい、それも効率的にできるようにその原材料を集め仕組みを黙々と積み上げていくエルナンドの気質、その集大成としての図書館というのがなんとも印象に残った。
なんとも共感というか感心してしまうのは、彼がとにかくなんでもかき集めていたことだ。なんらかの地理や情勢を記した版画だ、音楽の譜面、当時としては意味も価値もたいして高くないと考えられていた流行の恋愛詩といったものまで、とにかくなんであれ文字や記号や図像でなにかが記録されているものは片っ端からかき集め、目録を営々と綴っていこうとした。
手書き写本は高価すぎるという経済上の理由もあるとは思うが、当時の本収集マニアとして見た場合、高価で美しい写本を工芸品として求めるのではなく、印刷されてそこらの庶民も手に取るような本や図版、言ってみればマニアの間では木っ端のような紙切れ扱いされるようなものまで大量にストックしていくエルナンドは、当時では好事家としてもかなり奇妙な人枠だったかもしれない。
しかし、エルナンドが生涯かけて図書を収集し続けたのも、スペイン地理誌をまとめようとしたのも、情報コレクション欲という程度には留まらないように思う。だから彼は収集マニアではないのだ。集めて並べて眺めて満足、ではないのだ。
そしてまた、知らないことを知りたいという学術的・知的好奇心も、それが基盤にあるのはもちろんだが、それだけではないように思う。学究の欲をさらに上回って、ただただ大量の情報を集約し並べ直し整えて、快適に取り出したい、そういう欲求を持った人だからこそ、本を集め図書館を運営しようとしたのではないかと思える。
図書館として運営しようとしたときに、エルナンドが概要目録や題材別目録、さらには著者一覧・科目一覧も作り、本をそれに沿って並べ替えようとした。そのあたりに、その熱が爆発しているように思う。しかも目録類は複製して各地に配ろうともしていた(当然ながら印刷技術を前提としているだろう)。誰もが参照できる知識の山があり、そこではいくつもの原典を確認して比べることができ、実証や議論の支えにすることができる。そのために、書庫という物理的な記憶保存媒体をこしらえるだけでなく、検索性というソフト面もがっつり作り上げようとしていた。本の中で喝破されているとおり、彼はインターネットの検索システムのようなものを構築したかったのだと思う。
だが、この先見性のありすぎた図書館構想は、完成間際といえる段階まできて本人の死で未完に終わる。エルナンドは子をなさなかったので、一万五千冊の蔵書を含む全ての遺産は甥のルイス(兄ディエゴの息子)に引き継がれることになっていた。当然ながらエルナンドは遺言書で、遺産のうちの相当量を図書館の維持運営と拡大に当てるように記載していたが、やっぱりというかなんというか、その望みは守られなかった。甥は図書館運営には興味を持たず数年放置し、エルナンドの本はセビーリャ大聖堂に移管された。大聖堂で図書は死蔵に近い状態に置かれ、エルナンドが夢として描いた壮大な図書館として機能することはなかった。
しかし、訳者のあとがきによれば、エルナンドの蔵書の一部は現在もセビーリャのコロンビーナ研究所を構成するコロンビーナ図書館に収蔵されているということだ。コロンビーナ図書館、スペイン語でビブリオテカ・コロンビーナ、つまりコロンブス図書館である。
同じく訳者あとがきでは、エルナンド本人は図書館に自分の名をつけて「ビブリオテカ・エルナンディーナ」とするつもりだったようだと言及している。父を慕い続け、その名誉のためにあらゆることをなした息子エルナンドの蔵書を引き継ぐ図書館としては、コロンの名を冠しているというのは父もエルナンド本人も双方含まれていて賢明なネーミングかもしれないと、そのように触れられているし、それもそうだと思う。
しかし、それでも個人的には、私の心の奥では、熱すぎるほどのデータベースへの情熱はエルナンド本人の内側から湧き上がってきていたもののように思えて、もしも彼の夢の図書館の名残が現在にもかろうじて残ったのなら、その名前はエルナンド図書館であってくれても良かったなあと、判官贔屓っぽいが、そんなふうに思った。
内容は一言で言うとコロンブス(クリストバル・コロン)の息子であり、生涯を通じて本を集め続けた愛書家エルナンド・コロンの伝記。
原題は" THE CATALOGUE OF SHIPWRECKED BOOKS: Young Columbus and the Quest for a Universal Library"である。
エルナンドは、15世紀末という大航海時代の曙光の時期に生まれ育ち、16世紀半ばよりは少し前に50歳で死んだスペイン人だ。その父はクリストバル・コロン。つまり大航海者であると同時に大言壮語の夢想家として現在の世にも名を轟かせるかのコロンブスだ。
父クリストバルは二十代終わり頃に貴族の娘フェリパと結婚し、長男ディエゴを得たが、フェリパは早くに亡くなってしまった。そう時をおかずにクリストバルは農家の娘ベアトリスと関係を持つ。ベアトリスは一定の学はあったが農民階級で身分は高くはなく、クリストバルはベアトリスとは正式には結婚しなかった。そんな二人の間に生まれたのが次男エルナンドである。
エルナンドはいわば庶子の立場ではあったが、正式に手続きされてクリストバルの子であると認められ、ごく幼い時期から兄ディエゴと共にスペイン宮廷に出仕した。宮廷で、エルナンドはフアン王子の小姓を務めながら高い教育を受けて育った。
13歳のとき、エルナンドは父の探検航海に同行する。コロンブスの第四回目にして最後の航海であるが、このときクリストバルはすでに50歳の坂を越え、入植地の失敗を理由に逮捕されたりと落ち目にもあって、航海は当初から支援が乏しかった。1502年に船出した船はフナクイムシにやられてボロボロで、出航から1年あまり後にはジャマイカで座礁して動けなくなった。救助が来るまでさらに1年、その間、病気や資源の不足や乗組員の反乱に悩まされる散々な旅だった。クリストバルは失意のうちに1506年にスペイン本国で死去する。とはいえ、まだ若々しい少年だったエルナンドはこの厳しい航海を生き延びて航海の経験を積み、父との旅を思い出に深く留め、そして新世界で目にした事物に好奇心を向けた。
ところで伝記を読むとエルナンドは、航海者としての資質もきっちり持っているが、それ以上にとにかく几帳面であり、また実務に長けた人であるように思える。
とくに情報の積み上げへの熱は、もともとの気質がそうなのかもしれないし、宮廷で暮らした少年時代に事務能力がさらに磨かれたのかもしれないが、とにかく若い頃から大量の物品を帳面に付け、秩序立て、取り出すべきときに取り出せるようにきちんと整えておくクセがあるらしい。世界の全てを情報化して手元に置いておきたい、そういう博物学的な感覚がなんだか強く彼に内在しているように見えた。
世界はどんな様子か、どんなものがどこにあり、どうやったら知ることができ触れることが出来、役に立てることができるか。世界のあらゆる要素を情報の山脈として築き上げ、それをいかに効率的に運用できるか、そんなことを意識し続けているような気がする。そういうエルナンドの気質には、なんていうか、ぐっと来た。
個人的に日本の長久保赤水もそういう風なタイプに見えているのだが、世界の手触りを文字と絵図にして紙に記し、その手触りをいつでも好きなときに仮想的に取り出せる、そんな便利なものをこさえて手元に置きたいし他人にも共有して使ってもらいたい、そういう欲求があるように思えるのである。エルナンドはデータベースの魅力に憑かれた人間なのだ。
わかる。データベースにはそういう魔力がある。それにしてもエルナンド、印刷技術という新技術を全面的に前提としながらとはいえ、よくもまあその時代にそれだけのデータベース構築に邁進したものだなと思う。
本のなかでは、エルナンドが図書館を作り上げようとした根にあるものとして、父クリストバルへの追慕と、また父への思いもひっくるめて祖国スペインが世界を統べる唯一の国として屹立するために当然必要なものとして、世界の知識を集約したデータベースを構築することへの意識が取り出される。それは確かにそう思えるのだが、私自身は、とにもかくにもあらゆる知識と情報にアクセスしたい、それも効率的にできるようにその原材料を集め仕組みを黙々と積み上げていくエルナンドの気質、その集大成としての図書館というのがなんとも印象に残った。
なんとも共感というか感心してしまうのは、彼がとにかくなんでもかき集めていたことだ。なんらかの地理や情勢を記した版画だ、音楽の譜面、当時としては意味も価値もたいして高くないと考えられていた流行の恋愛詩といったものまで、とにかくなんであれ文字や記号や図像でなにかが記録されているものは片っ端からかき集め、目録を営々と綴っていこうとした。
手書き写本は高価すぎるという経済上の理由もあるとは思うが、当時の本収集マニアとして見た場合、高価で美しい写本を工芸品として求めるのではなく、印刷されてそこらの庶民も手に取るような本や図版、言ってみればマニアの間では木っ端のような紙切れ扱いされるようなものまで大量にストックしていくエルナンドは、当時では好事家としてもかなり奇妙な人枠だったかもしれない。
しかし、エルナンドが生涯かけて図書を収集し続けたのも、スペイン地理誌をまとめようとしたのも、情報コレクション欲という程度には留まらないように思う。だから彼は収集マニアではないのだ。集めて並べて眺めて満足、ではないのだ。
そしてまた、知らないことを知りたいという学術的・知的好奇心も、それが基盤にあるのはもちろんだが、それだけではないように思う。学究の欲をさらに上回って、ただただ大量の情報を集約し並べ直し整えて、快適に取り出したい、そういう欲求を持った人だからこそ、本を集め図書館を運営しようとしたのではないかと思える。
図書館として運営しようとしたときに、エルナンドが概要目録や題材別目録、さらには著者一覧・科目一覧も作り、本をそれに沿って並べ替えようとした。そのあたりに、その熱が爆発しているように思う。しかも目録類は複製して各地に配ろうともしていた(当然ながら印刷技術を前提としているだろう)。誰もが参照できる知識の山があり、そこではいくつもの原典を確認して比べることができ、実証や議論の支えにすることができる。そのために、書庫という物理的な記憶保存媒体をこしらえるだけでなく、検索性というソフト面もがっつり作り上げようとしていた。本の中で喝破されているとおり、彼はインターネットの検索システムのようなものを構築したかったのだと思う。
だが、この先見性のありすぎた図書館構想は、完成間際といえる段階まできて本人の死で未完に終わる。エルナンドは子をなさなかったので、一万五千冊の蔵書を含む全ての遺産は甥のルイス(兄ディエゴの息子)に引き継がれることになっていた。当然ながらエルナンドは遺言書で、遺産のうちの相当量を図書館の維持運営と拡大に当てるように記載していたが、やっぱりというかなんというか、その望みは守られなかった。甥は図書館運営には興味を持たず数年放置し、エルナンドの本はセビーリャ大聖堂に移管された。大聖堂で図書は死蔵に近い状態に置かれ、エルナンドが夢として描いた壮大な図書館として機能することはなかった。
しかし、訳者のあとがきによれば、エルナンドの蔵書の一部は現在もセビーリャのコロンビーナ研究所を構成するコロンビーナ図書館に収蔵されているということだ。コロンビーナ図書館、スペイン語でビブリオテカ・コロンビーナ、つまりコロンブス図書館である。
同じく訳者あとがきでは、エルナンド本人は図書館に自分の名をつけて「ビブリオテカ・エルナンディーナ」とするつもりだったようだと言及している。父を慕い続け、その名誉のためにあらゆることをなした息子エルナンドの蔵書を引き継ぐ図書館としては、コロンの名を冠しているというのは父もエルナンド本人も双方含まれていて賢明なネーミングかもしれないと、そのように触れられているし、それもそうだと思う。
しかし、それでも個人的には、私の心の奥では、熱すぎるほどのデータベースへの情熱はエルナンド本人の内側から湧き上がってきていたもののように思えて、もしも彼の夢の図書館の名残が現在にもかろうじて残ったのなら、その名前はエルナンド図書館であってくれても良かったなあと、判官贔屓っぽいが、そんなふうに思った。
昨日書いたように、11月の始め、特に先週からこの土日にかけては親族のことと仕事のことで時間が埋まっていたので、推し活がほんとほとんど何もできなかった。ハロウィンのらくがきを無理くり気味にツイッタに上げたが、あれがギリだった。あれも、10月末に伯母が退院して島に戻ると決まり、合わせて私も11月の頭の連休は島に滞在する予定となった上に、連休明けは仕事で忙しくなることもわかっていたために、しばらく推し活動なんもできなさそうという予感だったので、ここで推し活ぶっこんでおけ!という行動だった。
今週もいろいろやらんといかんことは湧いてくるが、推しのことは頭の片隅でいつもなんかし、ふわっとした妄想はしていて、らくがきとかてえなあ。でもまだ、疲労が少し残ってるので、アウトプットに至る活力が少しだけ足りない。昨日はポッキーの日だったのでなんかしたかったけど、てんでその元気がなかったな。今週末の自分に期待しておく。
今週もいろいろやらんといかんことは湧いてくるが、推しのことは頭の片隅でいつもなんかし、ふわっとした妄想はしていて、らくがきとかてえなあ。でもまだ、疲労が少し残ってるので、アウトプットに至る活力が少しだけ足りない。昨日はポッキーの日だったのでなんかしたかったけど、てんでその元気がなかったな。今週末の自分に期待しておく。
しばらくぶりに、離島に渡った。
祖父母の生まれ育った離島には、母の姉にあたる伯母たちが二人、暮らしていた。祖父母は結婚してから別の島に出て暮らしていたので、伯母たちはふたりともこの島では生まれ育ってないが、ルーツを辿るように、祖父母も亡くなった後で、伯母たち本人が高齢となってから、島に移り住んだのだ。
この二人の伯母のうち、長姉にあたる伯母が危篤となり、もはや看取りの段階ということで、島に住む親族や、他の島に住む親戚、私の母なども離島に集まって、当然私も久々に島に渡ったのだ。
長姉伯母はだいぶ以前に脳梗塞に見舞われて、二十年以上を半身麻痺の障害と共に生きていた人だったが、生来、陽キャで、脳梗塞以外では頑丈な体でもあったので、概ね元気に明るく暮らしてきた。
しかし高齢となってから、去年に二度目、そして今年に三度目の脳梗塞発作を繰り返し、そのたびに状態は悪くなって、とうとう全介護が必要になった。
夏までは本島の病院にリハビリ入院をしていた。言語障害もかなり酷くなってはいたものの意思表示はでき、本人もそれなりに元気で、一人暮らしは無理だけども老人ホームで生活できそう、ということで運良く島のホームに入る算段もついた。しかし、ホームに移ってすぐ、そこでの生活が落ち着く前に四度目の発作が起きてしまった。
今度の発作でも、伯母にはまだ辛うじて曖昧ながらも意識はあるようだったが、今までと違い寝たきりの状態となり、自分の意志で体を動かすことがほとんどできなくなった。もはや自分で食物を嚥下することもできないので、とりあえずは経管栄養の措置が取られていたものの、今後は胃ろうにしないと生命維持はできない。そして胃ろうしないのであれば看取りをするしかない、となった。
伯母は、もしなにかあっても胃ろうはしないということで以前から意思を固めていた。それで、母や、母のすぐ上の姉である三女伯母は、胃ろうはせず、経管栄養を中止して看取りを迎えるということを選んだのだった。
長姉伯母は病院から島に再び搬送され、島で数日を過ごして亡くなった。11月はじめの連休がちょうどそのタイミングだったので私も島に渡り、伯母の顔を見てきた。
連休中に亡くなる可能性が高いということで、集まった親族たちで葬儀の支度もしながらの看取りだった。私も喪服を携えていったが、私が島にいる間には伯母はまだ息が続いていて、親族みんなで輪番で伯母の様子を見守り続けた。伯母が亡くなったのは結局、私が島から自宅に戻ってから2日後となった。
私のほうは、仕事もいろいろと手が離せない時期だったので、葬儀のために改めて島に渡ることはできなかった。ちょうど昨日が締め切りの仕事の追い込みがあって、今週は仕事が多く、この土日も持ち帰りで徹夜状態で作業していた。
葬儀の手伝いができなかったのは、亡くなった長姉伯母にも、喪主を務めた三女伯母にも、手伝い主戦力として島に来た母にも、たいへん申し訳のないことではあったが、今週、特にこの土日はほんとに稀に見る強度の作業量に追い詰められていたので、どうにもならなかったなあと思う(のがわかっていたので、亡くなった知らせを聞いた早々に、すまんが島に渡るのは今週無理であると母には伝えてあった)。
PC作業なのだが長時間作業を続けたせいかなんだか全身が疲労していて、足先に溜まった疲労がどろどろとしていて歩くのも難儀な気持ちがする。睡眠不足なので頭もものすごい働かない。マウスを使う右手も軽く腱鞘炎を起こしかけている。
今日は作業成果の提出とちょこまかした事務作業のために朝だけ仕事場に行き、そのちょっとの作業ですらアホほど時間かかって、マジで使いものにならないポンコツだったので、昼前に休みとってさっさと退勤して後はずっとごろごろしていた。
今回の作業についてなんとか締切に間に合わせたが、他にもまだ別の作業が次から次へ来るので、しばらくは(この土日の惨状ほどにはならないだろうけども)まだまだ忙しいだろう。
年度の後半恒例だが、伯母たちには不義理を働くことになったので申し訳ない。
不義理も含め、伯母の死に対して、記述がなんだか淡々としてしまっているが、これは伯母への思い入れがないとか、仕事が忙しくて疲れすぎててとかではなく、上のような経過で脳梗塞発作が立て続けに起こった段階ですでにいろいろ覚悟していたというのがある。
いよいよ明白に死への道のりが見えたとなったのは10月のことだったが、半年以上前の3度目の脳梗塞からうっすらと、ゆるゆると伯母の死を意識するところはあった。
そうとはいえ、もはや治療のすべがなく看取りするしかない状態に至った最期の数日は、内心として心がざわつくにはざわつくことではあったのだが、一方でこれは人が老いて死んでいく自然な過程ではあり、母たちも、私も、他親族たちも、いろいろとゆっくり穏やかにことに当たれたなとは思う。長姉伯母の最後の数日は、本人にとって辛くなかったわけではなかろうけれども、静かに世を去り、それによって彼女は現世のあらゆる苦痛や苦悩から解放されたと思う。そのことに、せめてほっとしている。
祖父母の生まれ育った離島には、母の姉にあたる伯母たちが二人、暮らしていた。祖父母は結婚してから別の島に出て暮らしていたので、伯母たちはふたりともこの島では生まれ育ってないが、ルーツを辿るように、祖父母も亡くなった後で、伯母たち本人が高齢となってから、島に移り住んだのだ。
この二人の伯母のうち、長姉にあたる伯母が危篤となり、もはや看取りの段階ということで、島に住む親族や、他の島に住む親戚、私の母なども離島に集まって、当然私も久々に島に渡ったのだ。
長姉伯母はだいぶ以前に脳梗塞に見舞われて、二十年以上を半身麻痺の障害と共に生きていた人だったが、生来、陽キャで、脳梗塞以外では頑丈な体でもあったので、概ね元気に明るく暮らしてきた。
しかし高齢となってから、去年に二度目、そして今年に三度目の脳梗塞発作を繰り返し、そのたびに状態は悪くなって、とうとう全介護が必要になった。
夏までは本島の病院にリハビリ入院をしていた。言語障害もかなり酷くなってはいたものの意思表示はでき、本人もそれなりに元気で、一人暮らしは無理だけども老人ホームで生活できそう、ということで運良く島のホームに入る算段もついた。しかし、ホームに移ってすぐ、そこでの生活が落ち着く前に四度目の発作が起きてしまった。
今度の発作でも、伯母にはまだ辛うじて曖昧ながらも意識はあるようだったが、今までと違い寝たきりの状態となり、自分の意志で体を動かすことがほとんどできなくなった。もはや自分で食物を嚥下することもできないので、とりあえずは経管栄養の措置が取られていたものの、今後は胃ろうにしないと生命維持はできない。そして胃ろうしないのであれば看取りをするしかない、となった。
伯母は、もしなにかあっても胃ろうはしないということで以前から意思を固めていた。それで、母や、母のすぐ上の姉である三女伯母は、胃ろうはせず、経管栄養を中止して看取りを迎えるということを選んだのだった。
長姉伯母は病院から島に再び搬送され、島で数日を過ごして亡くなった。11月はじめの連休がちょうどそのタイミングだったので私も島に渡り、伯母の顔を見てきた。
連休中に亡くなる可能性が高いということで、集まった親族たちで葬儀の支度もしながらの看取りだった。私も喪服を携えていったが、私が島にいる間には伯母はまだ息が続いていて、親族みんなで輪番で伯母の様子を見守り続けた。伯母が亡くなったのは結局、私が島から自宅に戻ってから2日後となった。
私のほうは、仕事もいろいろと手が離せない時期だったので、葬儀のために改めて島に渡ることはできなかった。ちょうど昨日が締め切りの仕事の追い込みがあって、今週は仕事が多く、この土日も持ち帰りで徹夜状態で作業していた。
葬儀の手伝いができなかったのは、亡くなった長姉伯母にも、喪主を務めた三女伯母にも、手伝い主戦力として島に来た母にも、たいへん申し訳のないことではあったが、今週、特にこの土日はほんとに稀に見る強度の作業量に追い詰められていたので、どうにもならなかったなあと思う(のがわかっていたので、亡くなった知らせを聞いた早々に、すまんが島に渡るのは今週無理であると母には伝えてあった)。
PC作業なのだが長時間作業を続けたせいかなんだか全身が疲労していて、足先に溜まった疲労がどろどろとしていて歩くのも難儀な気持ちがする。睡眠不足なので頭もものすごい働かない。マウスを使う右手も軽く腱鞘炎を起こしかけている。
今日は作業成果の提出とちょこまかした事務作業のために朝だけ仕事場に行き、そのちょっとの作業ですらアホほど時間かかって、マジで使いものにならないポンコツだったので、昼前に休みとってさっさと退勤して後はずっとごろごろしていた。
今回の作業についてなんとか締切に間に合わせたが、他にもまだ別の作業が次から次へ来るので、しばらくは(この土日の惨状ほどにはならないだろうけども)まだまだ忙しいだろう。
年度の後半恒例だが、伯母たちには不義理を働くことになったので申し訳ない。
不義理も含め、伯母の死に対して、記述がなんだか淡々としてしまっているが、これは伯母への思い入れがないとか、仕事が忙しくて疲れすぎててとかではなく、上のような経過で脳梗塞発作が立て続けに起こった段階ですでにいろいろ覚悟していたというのがある。
いよいよ明白に死への道のりが見えたとなったのは10月のことだったが、半年以上前の3度目の脳梗塞からうっすらと、ゆるゆると伯母の死を意識するところはあった。
そうとはいえ、もはや治療のすべがなく看取りするしかない状態に至った最期の数日は、内心として心がざわつくにはざわつくことではあったのだが、一方でこれは人が老いて死んでいく自然な過程ではあり、母たちも、私も、他親族たちも、いろいろとゆっくり穏やかにことに当たれたなとは思う。長姉伯母の最後の数日は、本人にとって辛くなかったわけではなかろうけれども、静かに世を去り、それによって彼女は現世のあらゆる苦痛や苦悩から解放されたと思う。そのことに、せめてほっとしている。
ちょっと前に免許更新行ってきたら、安全講習で警察OBだろう講師おいちゃんが、LUUP周りの法改正の説明をだいぶ否定的に、というか愚痴半分で言及してた。
(「警察庁はね、これはもう反対したんですよ、したけど、なんでか国会通っちゃった。だからこれはもうしょうがない、皆さんも道走るときにはぜひ気をつけてください」という感じの……これを、沖縄のおじちゃんの訛りバリバリイントネーションで読んでほしい)
私自身、そもそも自転車も免許必須がいい(交通法規を理解したうえで乗ってほしいので実技はともかく筆記試験は受けててほしい)と思っている人間なので現行のLUUPの扱いにも当然否定的だが、こんなにあからさまに警察にも文句言いたい心が満ちているのか、というのは思いもよらなかった。
ほんとLUUP、なんか気づいたら爆速で法整備されてたよなという感じ。
LUUP走らせる法整備がこんな爆速でいけるなら、リチウムイオン電池の廃品回収環境の法的整備も爆速で進めてくれよと思ったりはするが、LUUPと違って実質規制の方向にしかならないし、電子機器どころか電気自動車にま関係するし、輸送流通も絡むしで、話がデカすぎるから誰も責任取りたがらなくて進まないんだろうなあと思ったりもする。
こないだの衆議院選挙のとき、もし公約にリチウムイオン電池のリサイクル法や環境整備を掲げてる候補や党があったら投票してたかもしらん。そんくらい、リチウムバッテリーを捨てるときの面倒くささに釈然としてない。気づいたら話めっちゃズレたな。
(「警察庁はね、これはもう反対したんですよ、したけど、なんでか国会通っちゃった。だからこれはもうしょうがない、皆さんも道走るときにはぜひ気をつけてください」という感じの……これを、沖縄のおじちゃんの訛りバリバリイントネーションで読んでほしい)
私自身、そもそも自転車も免許必須がいい(交通法規を理解したうえで乗ってほしいので実技はともかく筆記試験は受けててほしい)と思っている人間なので現行のLUUPの扱いにも当然否定的だが、こんなにあからさまに警察にも文句言いたい心が満ちているのか、というのは思いもよらなかった。
ほんとLUUP、なんか気づいたら爆速で法整備されてたよなという感じ。
LUUP走らせる法整備がこんな爆速でいけるなら、リチウムイオン電池の廃品回収環境の法的整備も爆速で進めてくれよと思ったりはするが、LUUPと違って実質規制の方向にしかならないし、電子機器どころか電気自動車にま関係するし、輸送流通も絡むしで、話がデカすぎるから誰も責任取りたがらなくて進まないんだろうなあと思ったりもする。
こないだの衆議院選挙のとき、もし公約にリチウムイオン電池のリサイクル法や環境整備を掲げてる候補や党があったら投票してたかもしらん。そんくらい、リチウムバッテリーを捨てるときの面倒くささに釈然としてない。気づいたら話めっちゃズレたな。
アニポケ、新しい章に入ってパルデアを離れてキタカミに向かっているんだけど、SVのダウンロードコンテンツ買ってないやってないなので、キタカミ編はいろいろ未知だ。けど、もちろんそれはそれで楽しみだ。
ポケモンはSVしか遊んでないけど、SVの世界かなり好きなので、アニポケもテラスタルデビュー編(46話~67話)からとりあえず追い始めた。パルデア舞台にアカデミーに留学してジムリたちと対戦するということでSVのキャラ達がたっぷり出そうだったからだ。
実際、テラスタルデビュー編では、SVでのチャンピオンロードをなぞるように知ってる街やジムリ・四天王が登場し、主人公達が対戦していく流れで楽しかった。一方で、SVでは出てこない物語、アニメのコアストーリーであるテラパゴスと冒険者ルシアスと楽園ラクアをめぐる謎とか、訪れた街でバトルではなく人とポケモンたちの手助けをする物語なんてのもけっこう面白かった。
とにかく基本として物語がとても前向きで、そしていろいろと優しい。その描写がまたわざとらしすぎず丁寧なので、良いアニメだなあと思いながらわりとしっかり見ている。
先々週の放送はテラスタルデビュー編のシメとなる67話、リコ&ニャローテとロイ&ホゲータでの模擬戦バトルだったんだけど、これがめちゃくちゃ熱くて良かった。もう一回見たけどやっぱり泣いた。
たぶんドドゲザンのうどんの回も、見るたび泣くと思うお気に入りの話だけど、このへんの、ポケモンと人間が一緒に絆を育んで育って変わっていくみたいな話に弱すぎる。
67話でリコロイのバトル中に過去振り返りがいろいろあり、気になったので、この連休中に1話~46話も見た。
やっぱ丁寧で良かった。子供が見るのに良いし、私が子供だったらこのアニメ見て育ちたかったなあ。
主人公の、リコもロイもドットも、それぞれがとても良い子で、三人ともその手持ちポケモンたちも含めて好きな主人公たちだ。子供目線で見ても親しみが持てるし、そんな彼らが少しずつ育っていくのがまた親目線で見てもグっとくる。
ライジングボルテッカーズの大人メンバーも好きだなあ。子供を見守ってくれる大人でもありつつ、それぞれの人生みたいのもちょっぴり感じさせる、いい距離感で描かれてる感じ。
主人公三人+ボルテッカーズの面々で、子供にも大人にも響く物語が紡がれてる感じで良い。
そういえば、主人公達の旅をサポートするお兄さん、ライジングボルテッカーズのリーダーであるフリード博士は、女児の初恋どろぼうとしてときどき名前を挙げられるようだ。
確かに、たいそう頼もしく賢くワイルドかつ陽気な冒険学者で(インディ・ジョーンズがモデルかなと思う)、ポケモントレーナーとしても腕が立ち、なおかつ顔面も全身もイケメンというとんでもねーキャラ造形、これは確かに、オタクの資質を持つ女児のハートを射貫きまくっている気配がある。
ただ、もし自分が子供の頃にこのアニメ見てたら、アメジオが初恋どろぼうになっていたかもしれんなと思った。アメジオも、おそらく女児たちの初恋どろぼうの役をけっこう務めているだろう。
敵方の幹部だが、真面目で努力家、若さゆえに激昂したりすることもゼロではないが年齢に比して圧倒的に冷静で、話を聞かないわけでもなく敵とも対話できる、だけどそのまっとうさの故に不遇。どうやら血筋はかなり良い、そんな線細美形。
敵ながら義に厚い、美少年の王子様だよ。女児の心を掴まないはずもない。
アメジオは、ほんといちいち顔と立ち姿が良いんだよな。手持ちのソウブレイズもだいぶシュッとしててかっこいいし。それに忠誠心が高い部下に慕われているので、人徳もあるなって感じでさ。
この部下達も好きだな。ジル(グルミン推し)もコニア(ニャオハ推し)も、それぞれリーダーであるアメジオに厚い忠誠心を向けているがそれと別にこっそり推しを持っているとこが良い。なんなんだあいつら。かわいすぎる。三人セットで好き。
ただし、今の私の好みで考えるなら、マードックかオニキスの二択だな。
マードック、いいよね。料理が上手で涙もろくておじさんとしてドットのことめっちゃ一生懸命心配しててさ……ガタイが良くて料理できる気さくで優しいおっさん、最高だよ。
オニキスは、口数少なめ、くそ真面目、筋を通す正々堂々タイプ、そしてちょっと天然入ってるガタイの良い敵幹部兄さんなので、これまた好みのドツボ。
アメジオはまず確実にどっかで光堕ちすると思うが、オニキスも、味方してくれる位置に来てほしいな。が、自由奔放でマイペースに身勝手なサンゴ(どう考えても光堕ちとかいうタイプではない)とのコンビがたいへん良いということを考慮すると、光堕ちという感じではなくだな……こう、いろいろあってなりゆきで、サンゴと一緒に共闘枠で、リコたちの味方で戦ったりしてほしい、一時的に。
あ、そうそう、他に好きキャラといえば、敵方のアゲート。
見た目と声がやべえ。ミステリアス美人で理知的な、肌の色が黒くて目力のある女ー!!
なにか企みを抱えてそうなとこもこう、謎めいていて良い。
あと、アゲートは衣装のデザインすげー良いんだ。普段のアゲートのときの衣装も、アカデミーにアゲパン先生として潜入時のスーツ姿も、かなり露出度は低いのに大人の女っぽさがある。つかおっぱいデカくないですか。ポケモンだから過剰に性的なニュアンスは全然ないけど、こう、大人の女性感があるルックス造形で、なんつーかこう、モデル的なかっこよい色気があってド好み。
ポケモンはSVしか遊んでないけど、SVの世界かなり好きなので、アニポケもテラスタルデビュー編(46話~67話)からとりあえず追い始めた。パルデア舞台にアカデミーに留学してジムリたちと対戦するということでSVのキャラ達がたっぷり出そうだったからだ。
実際、テラスタルデビュー編では、SVでのチャンピオンロードをなぞるように知ってる街やジムリ・四天王が登場し、主人公達が対戦していく流れで楽しかった。一方で、SVでは出てこない物語、アニメのコアストーリーであるテラパゴスと冒険者ルシアスと楽園ラクアをめぐる謎とか、訪れた街でバトルではなく人とポケモンたちの手助けをする物語なんてのもけっこう面白かった。
とにかく基本として物語がとても前向きで、そしていろいろと優しい。その描写がまたわざとらしすぎず丁寧なので、良いアニメだなあと思いながらわりとしっかり見ている。
先々週の放送はテラスタルデビュー編のシメとなる67話、リコ&ニャローテとロイ&ホゲータでの模擬戦バトルだったんだけど、これがめちゃくちゃ熱くて良かった。もう一回見たけどやっぱり泣いた。
たぶんドドゲザンのうどんの回も、見るたび泣くと思うお気に入りの話だけど、このへんの、ポケモンと人間が一緒に絆を育んで育って変わっていくみたいな話に弱すぎる。
67話でリコロイのバトル中に過去振り返りがいろいろあり、気になったので、この連休中に1話~46話も見た。
やっぱ丁寧で良かった。子供が見るのに良いし、私が子供だったらこのアニメ見て育ちたかったなあ。
主人公の、リコもロイもドットも、それぞれがとても良い子で、三人ともその手持ちポケモンたちも含めて好きな主人公たちだ。子供目線で見ても親しみが持てるし、そんな彼らが少しずつ育っていくのがまた親目線で見てもグっとくる。
ライジングボルテッカーズの大人メンバーも好きだなあ。子供を見守ってくれる大人でもありつつ、それぞれの人生みたいのもちょっぴり感じさせる、いい距離感で描かれてる感じ。
主人公三人+ボルテッカーズの面々で、子供にも大人にも響く物語が紡がれてる感じで良い。
そういえば、主人公達の旅をサポートするお兄さん、ライジングボルテッカーズのリーダーであるフリード博士は、女児の初恋どろぼうとしてときどき名前を挙げられるようだ。
確かに、たいそう頼もしく賢くワイルドかつ陽気な冒険学者で(インディ・ジョーンズがモデルかなと思う)、ポケモントレーナーとしても腕が立ち、なおかつ顔面も全身もイケメンというとんでもねーキャラ造形、これは確かに、オタクの資質を持つ女児のハートを射貫きまくっている気配がある。
ただ、もし自分が子供の頃にこのアニメ見てたら、アメジオが初恋どろぼうになっていたかもしれんなと思った。アメジオも、おそらく女児たちの初恋どろぼうの役をけっこう務めているだろう。
敵方の幹部だが、真面目で努力家、若さゆえに激昂したりすることもゼロではないが年齢に比して圧倒的に冷静で、話を聞かないわけでもなく敵とも対話できる、だけどそのまっとうさの故に不遇。どうやら血筋はかなり良い、そんな線細美形。
敵ながら義に厚い、美少年の王子様だよ。女児の心を掴まないはずもない。
アメジオは、ほんといちいち顔と立ち姿が良いんだよな。手持ちのソウブレイズもだいぶシュッとしててかっこいいし。それに忠誠心が高い部下に慕われているので、人徳もあるなって感じでさ。
この部下達も好きだな。ジル(グルミン推し)もコニア(ニャオハ推し)も、それぞれリーダーであるアメジオに厚い忠誠心を向けているがそれと別にこっそり推しを持っているとこが良い。なんなんだあいつら。かわいすぎる。三人セットで好き。
ただし、今の私の好みで考えるなら、マードックかオニキスの二択だな。
マードック、いいよね。料理が上手で涙もろくておじさんとしてドットのことめっちゃ一生懸命心配しててさ……ガタイが良くて料理できる気さくで優しいおっさん、最高だよ。
オニキスは、口数少なめ、くそ真面目、筋を通す正々堂々タイプ、そしてちょっと天然入ってるガタイの良い敵幹部兄さんなので、これまた好みのドツボ。
アメジオはまず確実にどっかで光堕ちすると思うが、オニキスも、味方してくれる位置に来てほしいな。が、自由奔放でマイペースに身勝手なサンゴ(どう考えても光堕ちとかいうタイプではない)とのコンビがたいへん良いということを考慮すると、光堕ちという感じではなくだな……こう、いろいろあってなりゆきで、サンゴと一緒に共闘枠で、リコたちの味方で戦ったりしてほしい、一時的に。
あ、そうそう、他に好きキャラといえば、敵方のアゲート。
見た目と声がやべえ。ミステリアス美人で理知的な、肌の色が黒くて目力のある女ー!!
なにか企みを抱えてそうなとこもこう、謎めいていて良い。
あと、アゲートは衣装のデザインすげー良いんだ。普段のアゲートのときの衣装も、アカデミーにアゲパン先生として潜入時のスーツ姿も、かなり露出度は低いのに大人の女っぽさがある。つかおっぱいデカくないですか。ポケモンだから過剰に性的なニュアンスは全然ないけど、こう、大人の女性感があるルックス造形で、なんつーかこう、モデル的なかっこよい色気があってド好み。
下半期に入った途端いろいろ差し迫ることはわかってたが、それ以上に予定外の細かな雑事が降ってきて積もり、なんか忙しない。
家に帰って推し活的なことをやろうと思えば時間はないわけでもなく、うっ落書きとかしてえなあ!とか思う気持ちはあるのだが、推しのことに手を付けちゃうとそこにかなり時間を割いてしまうだろうという気持ちがブレーキになって、手が出せない。
雑事で進められてないメイン案件の準備などの持ち帰り作業しはじめちゃってもいるから、あまり家での自分一人の趣味にのめりこめない感じ。
年度の後半はいつもこうなりがちで、これはひとえに私が不器用で手が遅く無能で、そしてそのうえ怠惰なせいである。持ち帰らんと仕事片付けられんトロくささがそもそもいかんという話だ、が、こう……推し活も仕事もさくさくバリバリ両立できるシゴデキの人に憧れちゃうね
家に帰って推し活的なことをやろうと思えば時間はないわけでもなく、うっ落書きとかしてえなあ!とか思う気持ちはあるのだが、推しのことに手を付けちゃうとそこにかなり時間を割いてしまうだろうという気持ちがブレーキになって、手が出せない。
雑事で進められてないメイン案件の準備などの持ち帰り作業しはじめちゃってもいるから、あまり家での自分一人の趣味にのめりこめない感じ。
年度の後半はいつもこうなりがちで、これはひとえに私が不器用で手が遅く無能で、そしてそのうえ怠惰なせいである。持ち帰らんと仕事片付けられんトロくささがそもそもいかんという話だ、が、こう……推し活も仕事もさくさくバリバリ両立できるシゴデキの人に憧れちゃうね
結局、帯状疱疹ではなかった(あるいは発症しかけてたけど本格化しなかったのかもしれない)。
それはそれとして、先週、名護にドライブ行って帰りの日曜から月曜にかけての夜中、猛烈な腹痛にみまわれた。久しぶりに冷や汗がどばっと出るレベルに腹が痛かった。はるか昔、賞味期限を勘違いしててすっかり腐ってた牛乳を飲んでしまったとき、きっかり三時間後に激烈な腹痛を起こしたときにせまる、二十年に一度クラスの強烈な腹痛、ヴィンテージものであった。
つまり、多分なんか当たった。怪しいのは、飲みかけでわりと長いこと車内に放置してて、夜になって残りを飲み干したペットボトルのお茶かな~。それ以外は思い当たるような飲食物を摂ってないんだよね。
そういうことで夜中の三時にへろへろになりながら、トイレに一時間はこもりなんとか痛みが治まったあと、そういえばお腹下したときにこんだけ猛烈に痛いのって実際なんでなの、どこが痛いと感じてるってハナシなの、と思ってググった。そしたらなんか、腸がいつもと違うぜん動を起こして痛みを感じるんだとか。
腸がいつもよりちょっと妙にうごうごしたくらいでこんな冷や汗出るレベルで痛いのか。そしたら、切腹するときにはらわた自分で引きずり出す作法とかあるらしいけど、あれってどんだけ痛いのよ。なんでわざわざそんなことするのよ。おかしいだろ。想像したら怖くなってしまった(思い描いている絵面は山口貴由画)
それはそれとして、先週、名護にドライブ行って帰りの日曜から月曜にかけての夜中、猛烈な腹痛にみまわれた。久しぶりに冷や汗がどばっと出るレベルに腹が痛かった。はるか昔、賞味期限を勘違いしててすっかり腐ってた牛乳を飲んでしまったとき、きっかり三時間後に激烈な腹痛を起こしたときにせまる、二十年に一度クラスの強烈な腹痛、ヴィンテージものであった。
つまり、多分なんか当たった。怪しいのは、飲みかけでわりと長いこと車内に放置してて、夜になって残りを飲み干したペットボトルのお茶かな~。それ以外は思い当たるような飲食物を摂ってないんだよね。
そういうことで夜中の三時にへろへろになりながら、トイレに一時間はこもりなんとか痛みが治まったあと、そういえばお腹下したときにこんだけ猛烈に痛いのって実際なんでなの、どこが痛いと感じてるってハナシなの、と思ってググった。そしたらなんか、腸がいつもと違うぜん動を起こして痛みを感じるんだとか。
腸がいつもよりちょっと妙にうごうごしたくらいでこんな冷や汗出るレベルで痛いのか。そしたら、切腹するときにはらわた自分で引きずり出す作法とかあるらしいけど、あれってどんだけ痛いのよ。なんでわざわざそんなことするのよ。おかしいだろ。想像したら怖くなってしまった(思い描いている絵面は山口貴由画)
今日、昼過ぎか夕方くらいに気付いたけど、なんか左手の甲の皮膚だけ、なんか虫刺されかアリに噛まれた?みたいな感じでピリピリちょっと痛い。
でも見た目なんもない。
手を使ってなんかしたときとか、手の甲にさわったときだけ、痛みがピリピリっと。
今までかかったことがないが、なんかどうも帯状疱疹の前触れぽい気がする。
とはいえ明日は祝日で病院お休みだなあ。
行くなら明後日か。
まあ、もし帯状疱疹だとして、まだ発疹も出てないし、火曜日ならギリギリ抗ウイルス剤が効く時期かもしんない。
いや、そもそも発疹出てないと診断できんのだろうか……わからん。とりあえず連休明けの朝まではどうもできんな。明後日の朝考えよう。
でも見た目なんもない。
手を使ってなんかしたときとか、手の甲にさわったときだけ、痛みがピリピリっと。
今までかかったことがないが、なんかどうも帯状疱疹の前触れぽい気がする。
とはいえ明日は祝日で病院お休みだなあ。
行くなら明後日か。
まあ、もし帯状疱疹だとして、まだ発疹も出てないし、火曜日ならギリギリ抗ウイルス剤が効く時期かもしんない。
いや、そもそも発疹出てないと診断できんのだろうか……わからん。とりあえず連休明けの朝まではどうもできんな。明後日の朝考えよう。
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たぶん、私は絵であっても、描かれたもののなかにあるなんらかの物語や世界を見たいのだ。そこにある、私ではない誰かの視点が……。AIは今のところ、個を持たないし伝えたいことがあるわけではない。その意味ではAIが出力するものには物語も視点も存在しない。そういうものと解って利用したり、遊ぶのは全然ありだけど、AIがいい感じの絵や文章を出力してくれるからもう二次創作はいらないやってなるかっていうと、全然、そういう話ではないんだよなあ。