雑記
連休前半に入ったっぽい。が、なんとかギリギリ4月中にやらんといけん仕事は間に合ったが、ギリギリすぎて5/1-2にあれこれ細かい残務処理などせないかんことに。土日休んだら月火は普通に出勤ということだ。GW前半と後半とを有休で繋いで大連休を錬成するは叶わず。まあ休み取ろうってつもり別になかったんだけど、ひょっとしたらあわよくばの気持ち、ちょっとはなくもなかったね、でもまあ普通に無理だったね
2023.04.28 21:59:11 編集
日記、なんだけど、だいぶ長い。ごく個人的な、身内の思い出をつらつら綴ってある。自分のために書き留めたやつ。まあ、見る人とかほぼいないこの場所だから、人目を気にせず書いておこう。なんでも、心内に響くものごとを書きあらわしておくのは、私のどうにも抜きがたい性分なのだから。
つきあいが深い親族のおばさん(といっても高齢なので、世間的にはだいぶなおばあちゃん)が脳梗塞で倒れたということで、母が私の在所に飛行機に飛び乗ってやってきた。私も、おばさんの家に顔を出してきた。おばさんは病院のICUにいるのだが、昨今の感染症対策で面会は厳しかろうと私は病院にはいかず、集まってきたおばさんの子や孫たちにだけ挨拶してきた。母は病院にかけつけ、運良く面会はできたようであるが、意識は全くない状態で、自発呼吸もできないので人工呼吸器を繋がれているという話だった。おそらく、意識が戻る見込みはないという。
倒れた人は90歳を超える高齢ではある。血縁からいえば母のいとこにあたるのだが、年齢は親子ほどに離れている。母が生まれた頃にこの人は結婚したばかりで、母の家の近所に若夫婦で住んでいた。母の実家は漁師で、男衆が魚を獲り祖母が店で売る、という家だったのだが、このおばさんも旦那が漁師で、おばさんは魚の行商をしていた。行商をしていた頃の思い出話をわりと近年に、雑談のなかでなんとなく聞かせてもらったことがある。頭に、たらいと魚、まな板と包丁とを一揃い載せ、峠一つ超えて隣の集落まで魚を売りに歩いたとか、そんな話だった。
子沢山の家の末っ子に生まれた母は、当時の母家庭の家計が火の車で祖父母が忙しかったこともあり、あまりかまいつけられずに育っていたのだが、そんな母の日々の面倒を見てくれたのがこのおばさんだった。おばさんの長男は母の2つ下で、母は弟のように認識しているのだが、その子と一緒に育てられたような感じだった、と母は言う。小学生の頃の母は毎夕、晩飯は当たり前のようにこのおばさんのところで食べていたとか。母にとってこのおばさんは、実母である祖母以上に親しい存在であるようだった。
私も、大学以降この地域に住んでから、とても世話になった。おばさんは、私を孫の一人のようにみなしてくれていて、盆と正月に顔を見せないと「来んね〜!」と電話が来るから、毎年2回はこのおばあさんに会いに行き、手土産にはおばさんの作ったごちそうの山の一部が折箱にみっしりつめられたやつを、持てるだけ持たされて帰るのだ。そんなふうに会う折々に、おばさんの思い出をあれこれと聞いた。物覚えの良い人なので、いろいろな話を持っていた。
幼い頃、母親につれられて田舎の離島から船に乗って都会に出かけ、芝居やら映画やらを見たこと。小学生の頃、おばあさんが住んでいた離島にはうさぎがいっぱいいて、小学校の校庭にうさぎが現れたから追いかけた話とか(どうやら食べる考えだったようである。リアルにうさぎ美味しいかの山だな、と思いながら話を聞いた)。その小学校の校庭に特攻隊の飛行機が不時着して、集落のかみさんたちが炊き出しで握り飯を山盛り作って風呂敷に包んで持たせたら兵隊さんは深々と礼をして飛行機に乗った、それを見送った話とか。戦後すぐ、島々のあいだの移動は禁じられていたが闇で渡し船があって、当時まだ16、7という年齢だったおばさんは、芋の一袋を運賃に、島々伝いに別の島まで渡ったという話とか。渡し船は監視船に見つからないように夜の間だけ動き、小さい島々の影に隠れるように数日かけて移動した。そうやっておばさんは、血縁のある私の祖母を頼って島を出て、魚の行商を生活のたつきとするようになったのだった。
幼い頃にかかった麻疹かなにかで昔から耳が遠くはあったが、心身ともに頑健な人だった。というか、大の病院嫌いなので、腕を骨折しても痛みをこらえて自然治癒にまかせるような人だった(骨折は、80代になってからのことだ)。しかしとにかく頭の回転も早ければ記憶力も良い人で、それはずっと変わらなかった。親族の誰だれは何歳で干支がなにか、曾孫の誕生日までも逐一覚えていて、入学や卒業の歳、法事の歳を細かにしっかり把握し、まめに祝儀や見舞いを送るのだった。
このおばさんもさすがに膝が弱り、この2、3年は台所に立つのが難儀になって料理をできなくなったが、それまでは毎年、盆正月には山盛りのごちそうを自らこさえていた。料理上手で、自分でもそれを誇りとしていた。地域の伝統的な料理の味わいや下ごしらえというものや、その他にもあれこれのちょっとした習俗習慣を、このおばさんの生活にたまに顔を出すことによって、私は断片的ながら触れさせてもらった。一方で、おばさんの娘によれば惣菜屋で働いてた時期もあるといい、そこでおぼえたマッシュポテトだのサラダだの、モダンな料理もささっと作れる人だった。だが、焼き物だけは、彼女の伝統的な調理感覚と合わず、なんでも揚げ焼きにした(こちらの伝統的方言では、「焼く」というのは、油で揚げることを意味するのだ)。さんまもホッケも、なんであれ魚を焼いてくれと頼むと、それはカリカリに揚げられた唐揚げになって出てきた。
新型コロナの拡大で、2年ほどの間、顔を出すのを遠慮していた。去年辺りからぼちぼち、短時間ながら顔を出すのを再開はしていたが、長いこと会えない間におばさんは少しだけ老けたし耳も余計に遠くなってはいた。それでもあいかわらず達者だった。
ついこの間、4月のはじめに、母がこちらに来ていておばさんのとこにいるというので、私も顔を出して会ってきたばかりだった。会ってみたら胸元いっぱい大きな青黒い痣をこさえていてびっくりしたが、最近足がだいぶ悪くなっていて、部屋の中で躓いて真正面からこけてしまったのだという。幸いに骨折はしていなかったということだったが、胸元に大きくできた打ち身の痛みで呼吸するたびにしんどかったので、さすがのおばさんも、近くに住む孫たちの手配で大嫌いな病院にかかり痛み止めをもらったのだとか。痛み止めのお陰で睡眠も取れたせいか、おばさんはわりとケロッとした顔だった。「どうする〜○○ちゃん、おばは年取って、もうこんなだよ、どうしようかね」と、顔を合わせるといつも言うような文句はひとくさり言っていたが、へこたれている気配ではなかった。
それから一月も経たない。倒れてもう意識が戻らない、というのはどうにも急なことで、虚を衝かれた気持ちはある。
おばさんは、必ずしも温厚というわけでもなく、抜け目のない部分もあるし、頑固なところもあるのだが、とにかく情の厚い人だった。
おばさんは団地に住んでいるのだが、私が帰るとき、玄関から私を送り出したあと、今度はベランダに出て、私の姿がバス停までの道を折れて見えなくなるまで見送っているらしかった。それもさすがに近年は足腰の弱りでやってなかったとは思うが、結構最近まで、毎度そんなふうだったのである。
今日、おばさんの家に集まったおばさんの子孫たちや母と、和気あいあいと笑いもしながら、またしんみりともなりながら、あれこれゆっくり話をし、帰ろうねとその家を出て、バス停まで歩く道すがら、おばさんがいつもベランダから見守ってくれてたんだな、と思い出していた。その人は今はもうその家にいない。病院のベッドに寝ていて、彼女の意識には帳が降りたままで、その帳は、私にも垣間見えていたおばさんの生きてきた長い年月とおばさんの世界とをまるごと閉ざしてしまった。いつかは来ることと思っていたけれど、ついに閉じてしまったその世界を、悲しいとか寂しいとは思わないでおこう、ただ懐かしむように思い出そう、そうしたいんだと、そんなことを考えながらバス停までのいつもの道を歩いた。
つきあいが深い親族のおばさん(といっても高齢なので、世間的にはだいぶなおばあちゃん)が脳梗塞で倒れたということで、母が私の在所に飛行機に飛び乗ってやってきた。私も、おばさんの家に顔を出してきた。おばさんは病院のICUにいるのだが、昨今の感染症対策で面会は厳しかろうと私は病院にはいかず、集まってきたおばさんの子や孫たちにだけ挨拶してきた。母は病院にかけつけ、運良く面会はできたようであるが、意識は全くない状態で、自発呼吸もできないので人工呼吸器を繋がれているという話だった。おそらく、意識が戻る見込みはないという。
倒れた人は90歳を超える高齢ではある。血縁からいえば母のいとこにあたるのだが、年齢は親子ほどに離れている。母が生まれた頃にこの人は結婚したばかりで、母の家の近所に若夫婦で住んでいた。母の実家は漁師で、男衆が魚を獲り祖母が店で売る、という家だったのだが、このおばさんも旦那が漁師で、おばさんは魚の行商をしていた。行商をしていた頃の思い出話をわりと近年に、雑談のなかでなんとなく聞かせてもらったことがある。頭に、たらいと魚、まな板と包丁とを一揃い載せ、峠一つ超えて隣の集落まで魚を売りに歩いたとか、そんな話だった。
子沢山の家の末っ子に生まれた母は、当時の母家庭の家計が火の車で祖父母が忙しかったこともあり、あまりかまいつけられずに育っていたのだが、そんな母の日々の面倒を見てくれたのがこのおばさんだった。おばさんの長男は母の2つ下で、母は弟のように認識しているのだが、その子と一緒に育てられたような感じだった、と母は言う。小学生の頃の母は毎夕、晩飯は当たり前のようにこのおばさんのところで食べていたとか。母にとってこのおばさんは、実母である祖母以上に親しい存在であるようだった。
私も、大学以降この地域に住んでから、とても世話になった。おばさんは、私を孫の一人のようにみなしてくれていて、盆と正月に顔を見せないと「来んね〜!」と電話が来るから、毎年2回はこのおばあさんに会いに行き、手土産にはおばさんの作ったごちそうの山の一部が折箱にみっしりつめられたやつを、持てるだけ持たされて帰るのだ。そんなふうに会う折々に、おばさんの思い出をあれこれと聞いた。物覚えの良い人なので、いろいろな話を持っていた。
幼い頃、母親につれられて田舎の離島から船に乗って都会に出かけ、芝居やら映画やらを見たこと。小学生の頃、おばあさんが住んでいた離島にはうさぎがいっぱいいて、小学校の校庭にうさぎが現れたから追いかけた話とか(どうやら食べる考えだったようである。リアルにうさぎ美味しいかの山だな、と思いながら話を聞いた)。その小学校の校庭に特攻隊の飛行機が不時着して、集落のかみさんたちが炊き出しで握り飯を山盛り作って風呂敷に包んで持たせたら兵隊さんは深々と礼をして飛行機に乗った、それを見送った話とか。戦後すぐ、島々のあいだの移動は禁じられていたが闇で渡し船があって、当時まだ16、7という年齢だったおばさんは、芋の一袋を運賃に、島々伝いに別の島まで渡ったという話とか。渡し船は監視船に見つからないように夜の間だけ動き、小さい島々の影に隠れるように数日かけて移動した。そうやっておばさんは、血縁のある私の祖母を頼って島を出て、魚の行商を生活のたつきとするようになったのだった。
幼い頃にかかった麻疹かなにかで昔から耳が遠くはあったが、心身ともに頑健な人だった。というか、大の病院嫌いなので、腕を骨折しても痛みをこらえて自然治癒にまかせるような人だった(骨折は、80代になってからのことだ)。しかしとにかく頭の回転も早ければ記憶力も良い人で、それはずっと変わらなかった。親族の誰だれは何歳で干支がなにか、曾孫の誕生日までも逐一覚えていて、入学や卒業の歳、法事の歳を細かにしっかり把握し、まめに祝儀や見舞いを送るのだった。
このおばさんもさすがに膝が弱り、この2、3年は台所に立つのが難儀になって料理をできなくなったが、それまでは毎年、盆正月には山盛りのごちそうを自らこさえていた。料理上手で、自分でもそれを誇りとしていた。地域の伝統的な料理の味わいや下ごしらえというものや、その他にもあれこれのちょっとした習俗習慣を、このおばさんの生活にたまに顔を出すことによって、私は断片的ながら触れさせてもらった。一方で、おばさんの娘によれば惣菜屋で働いてた時期もあるといい、そこでおぼえたマッシュポテトだのサラダだの、モダンな料理もささっと作れる人だった。だが、焼き物だけは、彼女の伝統的な調理感覚と合わず、なんでも揚げ焼きにした(こちらの伝統的方言では、「焼く」というのは、油で揚げることを意味するのだ)。さんまもホッケも、なんであれ魚を焼いてくれと頼むと、それはカリカリに揚げられた唐揚げになって出てきた。
新型コロナの拡大で、2年ほどの間、顔を出すのを遠慮していた。去年辺りからぼちぼち、短時間ながら顔を出すのを再開はしていたが、長いこと会えない間におばさんは少しだけ老けたし耳も余計に遠くなってはいた。それでもあいかわらず達者だった。
ついこの間、4月のはじめに、母がこちらに来ていておばさんのとこにいるというので、私も顔を出して会ってきたばかりだった。会ってみたら胸元いっぱい大きな青黒い痣をこさえていてびっくりしたが、最近足がだいぶ悪くなっていて、部屋の中で躓いて真正面からこけてしまったのだという。幸いに骨折はしていなかったということだったが、胸元に大きくできた打ち身の痛みで呼吸するたびにしんどかったので、さすがのおばさんも、近くに住む孫たちの手配で大嫌いな病院にかかり痛み止めをもらったのだとか。痛み止めのお陰で睡眠も取れたせいか、おばさんはわりとケロッとした顔だった。「どうする〜○○ちゃん、おばは年取って、もうこんなだよ、どうしようかね」と、顔を合わせるといつも言うような文句はひとくさり言っていたが、へこたれている気配ではなかった。
それから一月も経たない。倒れてもう意識が戻らない、というのはどうにも急なことで、虚を衝かれた気持ちはある。
おばさんは、必ずしも温厚というわけでもなく、抜け目のない部分もあるし、頑固なところもあるのだが、とにかく情の厚い人だった。
おばさんは団地に住んでいるのだが、私が帰るとき、玄関から私を送り出したあと、今度はベランダに出て、私の姿がバス停までの道を折れて見えなくなるまで見送っているらしかった。それもさすがに近年は足腰の弱りでやってなかったとは思うが、結構最近まで、毎度そんなふうだったのである。
今日、おばさんの家に集まったおばさんの子孫たちや母と、和気あいあいと笑いもしながら、またしんみりともなりながら、あれこれゆっくり話をし、帰ろうねとその家を出て、バス停まで歩く道すがら、おばさんがいつもベランダから見守ってくれてたんだな、と思い出していた。その人は今はもうその家にいない。病院のベッドに寝ていて、彼女の意識には帳が降りたままで、その帳は、私にも垣間見えていたおばさんの生きてきた長い年月とおばさんの世界とをまるごと閉ざしてしまった。いつかは来ることと思っていたけれど、ついに閉じてしまったその世界を、悲しいとか寂しいとは思わないでおこう、ただ懐かしむように思い出そう、そうしたいんだと、そんなことを考えながらバス停までのいつもの道を歩いた。
仕事で書いてた文にたまたま民謡の歌詞を引用したいとこがあって、なんの気なしに〽を使ったら、校正頼んだ上司(同世代)にもさらに上の上司(だいぶ年上)にも通じなくて、いやいや昭和世代ならテレビのテロップとかどっかで見かけとるでしょ?!て訴えても誰にも伝わらず、より若い世代である平成キッズは当然にご存じなくて、それはしょうがないけど同世代まで誰も分からんとか嘘やろ!?!てアワアワしてた。世代差だとかそんなチャチなもんじゃあねえ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
あとで別の同世代同僚に聞いたら、忘れてたけどそんなんあったね〜!てなったので、まちがっても私だけが知ってる謎の記号とかではないはず。ほんと誰も知らなくてびっくり、どころか少し怖かったわ。あんなに誰にも理解されないはずがない、だいぶ当たり前に使う記号だと思ってたので……
まあ確かに、考えてみれば近年とんと見かけてないなあこの記号……とは思ったのだが、こんなに認知度低いとは思っておらなく。気がつかないうちにこんなふうに自然に廃れて忘れられてくってこと、意外とたくさんあるのかもなあ
あとで別の同世代同僚に聞いたら、忘れてたけどそんなんあったね〜!てなったので、まちがっても私だけが知ってる謎の記号とかではないはず。ほんと誰も知らなくてびっくり、どころか少し怖かったわ。あんなに誰にも理解されないはずがない、だいぶ当たり前に使う記号だと思ってたので……
まあ確かに、考えてみれば近年とんと見かけてないなあこの記号……とは思ったのだが、こんなに認知度低いとは思っておらなく。気がつかないうちにこんなふうに自然に廃れて忘れられてくってこと、意外とたくさんあるのかもなあ
(サンジョルディの日とミゲルのネタ、うっかりツイッターで連ツイしちゃったけど、ネタバレもしてたし、最初からこっちに書いておけばよかったかと思ったのでコピペしとく。ツイッターのほうは削除)
以前、大航海のやつでツイッター検索してた時、航海士として登場するセルバンテス(名前がミゲル)に触れて、ネオアのミゲルのモデルかな?と呟いているツイートを見かけたことがあるけど、ほんとに関係あるかも。ミゲルの名字パサモンテなんだよね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%...
『ドン・キホーテ』のヒットにあやかり勝手に続編が出されるんだけど、その作者Avellanedaは、本名Jerónimo de Pasamonteではないかという説があるらしい。パサモンテは、レパントの海戦などいくつかセルバンテスと同じ戦に参加し、同時期に捕虜になった経歴があり、知り合いかもしれないという。
ネオアのミゲルの名字が明らかになるのは1469の博物図鑑エンドでの話なので(※図鑑エンド堂々とネタバレごめんなさい)2や3のときまではそういう設定はなかったのかもしれない。後からこっそり関連ネタが仕込まれたのかなあ。こう、地味に仕込んでくるとこ……好き!
以前、大航海のやつでツイッター検索してた時、航海士として登場するセルバンテス(名前がミゲル)に触れて、ネオアのミゲルのモデルかな?と呟いているツイートを見かけたことがあるけど、ほんとに関係あるかも。ミゲルの名字パサモンテなんだよね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%...
『ドン・キホーテ』のヒットにあやかり勝手に続編が出されるんだけど、その作者Avellanedaは、本名Jerónimo de Pasamonteではないかという説があるらしい。パサモンテは、レパントの海戦などいくつかセルバンテスと同じ戦に参加し、同時期に捕虜になった経歴があり、知り合いかもしれないという。
ネオアのミゲルの名字が明らかになるのは1469の博物図鑑エンドでの話なので(※図鑑エンド堂々とネタバレごめんなさい)2や3のときまではそういう設定はなかったのかもしれない。後からこっそり関連ネタが仕込まれたのかなあ。こう、地味に仕込んでくるとこ……好き!
朝から微熱と疲労感でなんだか調子が悪いと思ったので、今日は外せないスケジュールもないことだしと仕事を休んだ。
一日、スマホ見たりうとうとしたりを繰り返し、つまりとてもぐうたらしたわけだが、うとうとするたびに、帰省して電車に乗って出かけようとして、うまく行き先にたどり着けず、知らぬ路線を知らぬ方向に乗り換え続けるような夢を繰り返し見た。
だいたい首都近郊ではあるらしいのだが、聞いたことのない駅名が続き、私は自分が知る地域に繋がるぽい路線に乗り換えたつもりなのに、何故かまるで別の方向に向かっているらしかった。そこはかとない不安と焦りはあるもののなんだかうまく行かないなあという気分があるだけで、間違えたという顔もせず、誰かに聞きもせず、私は黙って電車に乗り、ホームを降りては乗り換えしようとして、ますますわからない路線に移っていった。
電車は混んでも空いてもおらず、席には座れるが常に人はそれなりに周囲にいた。見知らぬ街の見知らぬ人々だが自分の実家らへんとそう違いのない、普通の人びとの穏やかな繰り返しの日常の中に、ほんの少し居住まいの悪い気持ちでしれっとまざって、一緒に電車に揺られていた。
一日、スマホ見たりうとうとしたりを繰り返し、つまりとてもぐうたらしたわけだが、うとうとするたびに、帰省して電車に乗って出かけようとして、うまく行き先にたどり着けず、知らぬ路線を知らぬ方向に乗り換え続けるような夢を繰り返し見た。
だいたい首都近郊ではあるらしいのだが、聞いたことのない駅名が続き、私は自分が知る地域に繋がるぽい路線に乗り換えたつもりなのに、何故かまるで別の方向に向かっているらしかった。そこはかとない不安と焦りはあるもののなんだかうまく行かないなあという気分があるだけで、間違えたという顔もせず、誰かに聞きもせず、私は黙って電車に乗り、ホームを降りては乗り換えしようとして、ますますわからない路線に移っていった。
電車は混んでも空いてもおらず、席には座れるが常に人はそれなりに周囲にいた。見知らぬ街の見知らぬ人々だが自分の実家らへんとそう違いのない、普通の人びとの穏やかな繰り返しの日常の中に、ほんの少し居住まいの悪い気持ちでしれっとまざって、一緒に電車に揺られていた。
今年の新馬にプラニスフェリオって名前の馬がいることに気づいた。去年出したオタ活個人誌とタイトル被っててぎょっとする。一般名詞だからこういうの普通にありえるけど、不意打ちで気づいちゃうと肝が冷えるもんだな……
JRAのサイトによると馬名の由来は「星座早見盤(西)」とあるからスペイン語、自分の本のタイトルはポルトガル語から取ってて、スペルもカナ表記も少し違うから馬とは無関係だよ!てカオもしやすくてギリ、セフセフ(しかしカナ表記は、アクセント部分を長音にするかどうか迷ったとこなので危なかったな)。
とはいえせっかくご縁があったので、プラニスフェリオ号にはぜひ活躍してほしい、応援したい。2戦目は惜しい4着、次戦は未勝利脱せるといいね〜。活躍馬も多いドゥラメンテ産駒だし、結構走りそうな感じある。 https://www.jra.go.jp/JRADB/accessU.html...
JRAのサイトによると馬名の由来は「星座早見盤(西)」とあるからスペイン語、自分の本のタイトルはポルトガル語から取ってて、スペルもカナ表記も少し違うから馬とは無関係だよ!てカオもしやすくてギリ、セフセフ(しかしカナ表記は、アクセント部分を長音にするかどうか迷ったとこなので危なかったな)。
とはいえせっかくご縁があったので、プラニスフェリオ号にはぜひ活躍してほしい、応援したい。2戦目は惜しい4着、次戦は未勝利脱せるといいね〜。活躍馬も多いドゥラメンテ産駒だし、結構走りそうな感じある。 https://www.jra.go.jp/JRADB/accessU.html...
以前自分のツイッタアカウントで映画『1492 コロンブス』のサントラ動画にリンク貼ったけど、その動画の中で木の棒を海に落として船速測ってるシーンが一瞬出てくる。この木の棒がログ(丸太の意)2:38らへん。 https://youtu.be/aCynyt9z8CQ
このLOGのページ、ほんと手軽に設置できた、てがろぐと作者のにししさんのおかげさま。スキンも「個人サイトをつくろう!」 https://sitetsukurou.x0.com/ さんからダウンロードさせてもらったのそのまま使ってる。ありがて、ありがて!
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ばあは苦しそうな感じはなくただ眠っているようだったが、人工呼吸器がないと呼吸はできないし意識はない。顔見て手をさする程度のことで長居もしなかった。そもそも病院立ち入り者が厳重に管理されてる状態なので長っ尻なんてできない雰囲気。見舞いはみじかくさっと切り上げて、三人でお茶したりしながら、ゆるゆると親族があつまるばあの家に戻った(母と伯母はこのばあの家に泊まっている)。
行ってみると、各所から続々集まってきたばあの子孫の数がたいへん多くて、いやこの狭い家にみんなよう収まっとるなという人口密度だった。ばあにとってひ孫世代に当たる小さい子も山盛りいて、とんでもないカオス。元気を持て余した幼児たちは、ずっと走ってるしずっとしゃべってる。さすがにくたびれてたので、挨拶程度でさっさと帰ってきた。とはいえ、久々に会う親族もいて、ちょっと話をした。
ばあの孫世代の中では一番年かさで、私より二つ三つばかり年下の子も遠方から来ていた。彼女に子供が居るのは知ってて、確か上の子は二十歳越えてたはずと思いながら、今は子供達どうしてるのと尋ねたら、上の子はもう赤ん坊が生まれてて孫がいるって! ふええええ、孫ォ! ばあにとって玄孫にあたる世代がすでにいるということだ。まあ良かった良かったという気持ち。孫がいるとはいえこの子もまだ四十代にさしかかったくらいのはずで、見た目はまったくおばあちゃんの雰囲気ではないが、しっかり子供育て上げたわけで、もうなんていうか、立派だなあ。