雑記
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11月に入って涼しくなり、これはさすがに秋めいてきたぞ、毛布出しちゃうか!とたんすから毛布を引っ張り出してきた途端、アホほど湿度高いし気温も高いしで、毛布だとちょっと暑くて持てあましている。早まった。
ていうか台風め、湿りけと温もりけみちみちの空気を沖縄にたたきつけてくる。
雨もえらいどしゃどしゃ降るし、気温は30度もある。もうほぼほぼ梅雨じゃん。
そのくせ、まだ台湾あたりにいるというのにすでにもうかなり減衰してしまってきている。
沖縄島付近に移動してくるころには、温帯低気圧になりそうだとか。
うーん、マジでホットケーキチャレンジやる気になってたのに。
今日は平常時の気圧状態という設定で普通にホットケーキを焼いてみて、厚さとかわざわざ計ってみたりしたのにな。
どうやら今回は、台風での気圧下がった状態でのホットケーキ作成の機会は得られなさそうだ。
まあ、いつか台風に直撃されそうになったら、忘れずにホットケーキを焼こう。
ところで台風が去った後の来週、予報では急に冬くらいの寒さに気温が下がるらしい。
最高気温20度! 最低気温16度!!
なにそれ冬到来!!
最高気温20度を下回ったら沖縄ではそれはもう冬。
毛布1枚じゃ足りなくなるかもなあ。でも気温下がるのも一日だけで、まだしばらくは気温もう少しあるらしいし。難しいな~。
ていうか台風め、湿りけと温もりけみちみちの空気を沖縄にたたきつけてくる。
雨もえらいどしゃどしゃ降るし、気温は30度もある。もうほぼほぼ梅雨じゃん。
そのくせ、まだ台湾あたりにいるというのにすでにもうかなり減衰してしまってきている。
沖縄島付近に移動してくるころには、温帯低気圧になりそうだとか。
うーん、マジでホットケーキチャレンジやる気になってたのに。
今日は平常時の気圧状態という設定で普通にホットケーキを焼いてみて、厚さとかわざわざ計ってみたりしたのにな。
どうやら今回は、台風での気圧下がった状態でのホットケーキ作成の機会は得られなさそうだ。
まあ、いつか台風に直撃されそうになったら、忘れずにホットケーキを焼こう。
ところで台風が去った後の来週、予報では急に冬くらいの寒さに気温が下がるらしい。
最高気温20度! 最低気温16度!!
なにそれ冬到来!!
最高気温20度を下回ったら沖縄ではそれはもう冬。
毛布1枚じゃ足りなくなるかもなあ。でも気温下がるのも一日だけで、まだしばらくは気温もう少しあるらしいし。難しいな~。
まあとにかく映像作品というものを、私はろくに見ないので、世界の黒澤作品でさえ、一作しか見たことがない。
『椿三十郎』である。
なんで今さら急にそんなことを書いてるかと言うと、そりゃあもう、仲代達矢が亡くなったという知らせがネットニュースの世界にも駆け回っているからに他ならない。
椿三十郎の主役は勝新太郎だが、その好敵手として最後の最後で斬り合いをする敵役の室戸を演じていたのが、仲代達矢だった。
『椿三十郎』は、大学生の時に映画好きの友達が、邦画の名作も見てみようよ、とレンタルビデオ屋で借りてきてくれて、見る機会に恵まれた。
かのクロサワの、と構えて観始めたら、まあ見始めた最初っからずっとド面白くて、なんだこれすげー!ってブチ上がったのだ。
ドまっすぐに痛快時代活劇で、すさまじくかっこいい殺陣もありつつコミカルな場面もたっぷり、とにかくどこ切り取ってもずっと面白い、ものすごい映画だった。しかしそんな激キマるワクワク映画の最後の最後で、ざっくり一太刀かましていったのが、やはりラストシーンの決闘、勝と仲代が一瞬の斬り合いを行う場面で、もうこのラストシーンがほんとにすごくてめちゃくちゃ心に刻まれた。
仲代の死去の知らせで、ツイッターにもラストシーンの動画とかが流れてきて見てみれば、今見てもやっぱりとんでもねえすごさだ。こんなに豊潤かつずばんとした落とし方で物語が語られるなんて、なんというマスターピース……
まずこの椿三十郎という物語は、初まりからヒヨヒヨのひよっこ若侍が九人も、藩の中枢で行われている不正をいかにせん!などと青臭く、よちよちおたおたわちゃわちゃと頑張っている。藩への忠義を尽くそうという一心なのはわかるのだがとにかく危なっかしくて、あっという間に黒幕の大目付の罠に掛かりそうになる。そこに偶然行き合ってしまった手練れの浪人、勝新太郎。(あとで椿三十郎と名乗るものの、おそらくその場ででっち上げた名前で、本名は明かさない)。
不正の追及などとめんどくさいことに巻き込まれるのはごめんだと、そんなしかめっ面をしながらも、ヒヨヒヨ侍たちを見捨てられず、やれやれと彼らを助けてやる。
若侍たちはとにかく呑気で単純でまっすぐで、そして必死ではあるけど頼りない。
それに対して浪人は、腕が立つだけでなく世慣れていて肝も据わっている。ものすごく大人で頼もしい。この頼もしい荒くれが、どうにも先走りがちなヒヨヒヨたちに振り回されつつも、若侍たちの実質的リーダーとなってくれて、事態がどうにか解決する。不正の黒幕であった大目付は策謀を暴かれて自ら腹を召し、藩は平和になる。めでたし落着。
なのだが、大目付の腹心であった侍の室戸……仲代の演じるこの男は、趨勢が決まってもなお勝の演じる浪人に果たし合いを求める。戦いが、刀のぶつかり合う刹那に散り飛ぶ火花への渇望が、この男の核にある。
浪人と侍、二人は互角の腕であることが暗に示されている。
果たし合うと決まった瞬間に、それまでの空気が一変張り詰めて、刀を抜くためにお互い袖から手を出して、わずか片手分の長さの距離で正対して見つめあう。長い、とても長いじりじりとした溜め。ふと、ある瞬間、糸が弾ける。ほんの一瞬で生と死が斬り分けられ、物語の真の決着が倒れ伏す。
この場面には、純朴な若侍全員、立ち会っている。こんな対決が来るものとは思いもせずに。ここまで若侍たちは、それなりに危険があったとはいえ総じてわちゃわちゃほのぼのと、荒くれだがなんだかんだ情の厚い浪人に教えられ、引っ張られて、晴れて願いを果たすことができた。
その頼もしい恩人が最後に見せた、本気の命の取り合い。
浪人の持つ強さ、格好良さ、俠気に対して憧れを抱いている若侍たちに、刀での斬り合いなんてものには義も忠も名誉も格好良さもない、無残な暴力そのものでしかないことが強烈に叩きつけられる。浪人の生きる腕一本で渡る世界というのは、自分たちとは全く切り離された異世界の荒野なのだということが……
それでもやっぱり、なんといったら良いか、勝も仲代も、痺れるほどかっこいいんだよなあ。憧れではなく、畏敬のようなかっこよさで。
改めて全部通して見てみたくなったので、そのうち見てみよ。
勝と仲代が素晴らしいけど、若侍たちもとにかくかわいくて好き。あと城代家老夫妻。老獪頭脳派でどっしり構えた狸おやじと、夫によく似た鷹揚さを持つ、おっとりして品良く、しかし抜け目ない智慧ある奥方。めちゃくちゃ最高のキャラ立て。
娯楽の物語でありながら、こんだけ隅々まで研ぎ澄まされてると、ほんと、そりゃあ名作だよなあとため息が出てしまうのだった。あと、このお話、とことん映画というメディアでしか語り得ない物語だと思うんだよね。私は友達と部屋のテレビで見たのだけど、ほんとはスクリーンで見るべき作品だ。他のどの媒体でも、この作品の最後、脳天から爪先まで雷撃食らうような痺れ方は起こし得ないだろうって、そう思う。映画という様式に最高にピタッと来てる作品で、そういう作品てすごくさあ、良いんだよなあ。好き。
『椿三十郎』である。
なんで今さら急にそんなことを書いてるかと言うと、そりゃあもう、仲代達矢が亡くなったという知らせがネットニュースの世界にも駆け回っているからに他ならない。
椿三十郎の主役は勝新太郎だが、その好敵手として最後の最後で斬り合いをする敵役の室戸を演じていたのが、仲代達矢だった。
『椿三十郎』は、大学生の時に映画好きの友達が、邦画の名作も見てみようよ、とレンタルビデオ屋で借りてきてくれて、見る機会に恵まれた。
かのクロサワの、と構えて観始めたら、まあ見始めた最初っからずっとド面白くて、なんだこれすげー!ってブチ上がったのだ。
ドまっすぐに痛快時代活劇で、すさまじくかっこいい殺陣もありつつコミカルな場面もたっぷり、とにかくどこ切り取ってもずっと面白い、ものすごい映画だった。しかしそんな激キマるワクワク映画の最後の最後で、ざっくり一太刀かましていったのが、やはりラストシーンの決闘、勝と仲代が一瞬の斬り合いを行う場面で、もうこのラストシーンがほんとにすごくてめちゃくちゃ心に刻まれた。
仲代の死去の知らせで、ツイッターにもラストシーンの動画とかが流れてきて見てみれば、今見てもやっぱりとんでもねえすごさだ。こんなに豊潤かつずばんとした落とし方で物語が語られるなんて、なんというマスターピース……
まずこの椿三十郎という物語は、初まりからヒヨヒヨのひよっこ若侍が九人も、藩の中枢で行われている不正をいかにせん!などと青臭く、よちよちおたおたわちゃわちゃと頑張っている。藩への忠義を尽くそうという一心なのはわかるのだがとにかく危なっかしくて、あっという間に黒幕の大目付の罠に掛かりそうになる。そこに偶然行き合ってしまった手練れの浪人、勝新太郎。(あとで椿三十郎と名乗るものの、おそらくその場ででっち上げた名前で、本名は明かさない)。
不正の追及などとめんどくさいことに巻き込まれるのはごめんだと、そんなしかめっ面をしながらも、ヒヨヒヨ侍たちを見捨てられず、やれやれと彼らを助けてやる。
若侍たちはとにかく呑気で単純でまっすぐで、そして必死ではあるけど頼りない。
それに対して浪人は、腕が立つだけでなく世慣れていて肝も据わっている。ものすごく大人で頼もしい。この頼もしい荒くれが、どうにも先走りがちなヒヨヒヨたちに振り回されつつも、若侍たちの実質的リーダーとなってくれて、事態がどうにか解決する。不正の黒幕であった大目付は策謀を暴かれて自ら腹を召し、藩は平和になる。めでたし落着。
なのだが、大目付の腹心であった侍の室戸……仲代の演じるこの男は、趨勢が決まってもなお勝の演じる浪人に果たし合いを求める。戦いが、刀のぶつかり合う刹那に散り飛ぶ火花への渇望が、この男の核にある。
浪人と侍、二人は互角の腕であることが暗に示されている。
果たし合うと決まった瞬間に、それまでの空気が一変張り詰めて、刀を抜くためにお互い袖から手を出して、わずか片手分の長さの距離で正対して見つめあう。長い、とても長いじりじりとした溜め。ふと、ある瞬間、糸が弾ける。ほんの一瞬で生と死が斬り分けられ、物語の真の決着が倒れ伏す。
この場面には、純朴な若侍全員、立ち会っている。こんな対決が来るものとは思いもせずに。ここまで若侍たちは、それなりに危険があったとはいえ総じてわちゃわちゃほのぼのと、荒くれだがなんだかんだ情の厚い浪人に教えられ、引っ張られて、晴れて願いを果たすことができた。
その頼もしい恩人が最後に見せた、本気の命の取り合い。
浪人の持つ強さ、格好良さ、俠気に対して憧れを抱いている若侍たちに、刀での斬り合いなんてものには義も忠も名誉も格好良さもない、無残な暴力そのものでしかないことが強烈に叩きつけられる。浪人の生きる腕一本で渡る世界というのは、自分たちとは全く切り離された異世界の荒野なのだということが……
それでもやっぱり、なんといったら良いか、勝も仲代も、痺れるほどかっこいいんだよなあ。憧れではなく、畏敬のようなかっこよさで。
改めて全部通して見てみたくなったので、そのうち見てみよ。
勝と仲代が素晴らしいけど、若侍たちもとにかくかわいくて好き。あと城代家老夫妻。老獪頭脳派でどっしり構えた狸おやじと、夫によく似た鷹揚さを持つ、おっとりして品良く、しかし抜け目ない智慧ある奥方。めちゃくちゃ最高のキャラ立て。
娯楽の物語でありながら、こんだけ隅々まで研ぎ澄まされてると、ほんと、そりゃあ名作だよなあとため息が出てしまうのだった。あと、このお話、とことん映画というメディアでしか語り得ない物語だと思うんだよね。私は友達と部屋のテレビで見たのだけど、ほんとはスクリーンで見るべき作品だ。他のどの媒体でも、この作品の最後、脳天から爪先まで雷撃食らうような痺れ方は起こし得ないだろうって、そう思う。映画という様式に最高にピタッと来てる作品で、そういう作品てすごくさあ、良いんだよなあ。好き。
11月に入って急に気温が落ち着き、昼もクーラーを使わなくて済む感じになった。真昼でも26℃から27℃くらい。もちろん日なたに出て日光浴びまくればまだ暑いが、やっと沖縄にも秋らしきものが届いた。
それにしても10月いっぱいまではわりと暑く、普通に昼夜通してクーラーを使っていた。例年なら、10月にもなれば夜は涼しくなって、クーラーかけずにいられたと思うんだが、今年は夜もずっとつけてないと暑くて夜中に目が覚めたりしていた。やはり今年の夏はいつもより暑かったのだと思う。
なかなか暑気が去らなかったのは、台風があまり来なかったから、かもしれない。台風が、暴風雨とともに来て去り、空気と海水を撹拌しまわっていくたびに気温が下がっていくのが、一昔前の沖縄の夏から秋への移行だったが、近年は、台風の発達する緯度が北寄りになったり、台風の進行方向がなんだか以前と少し変わってきたような気がする。
前だと、フィリピンからずっと東のあたりで熱低が生まれ、それがうっすらと北西へ、つまり中国大陸の懐たる黄海に向かってじわじわ進んでいくのだが、ちょうど琉球列島あたりで大陸からの風に押され、その場で少し足踏みしながら北東にぐにっと曲がる。そうやって、十数時間とか、時にはまる二日くらい沖縄らへんに滞留して琉球列島をと奄美をヒンヒン鳴かせたあとで、まるでくの字を下から上に向かって書いたかの如くのルート取りで九州やら本州やらに向かうみたいなルートが多かったと思う。
それがなんかここ数年は、フィリピンの真東で発生したらそのままほぼ西に向かい、フィリピン北部を直撃した後で台湾の南をかすったり、香港がある広東らへんや海南島などに向かうといったパターンが増えてきた。
おかげでここ数年、沖縄方面は、立て続けの台風襲来というのは体感として少なくなった。ただ、三年前くらいに何日も沖縄あたりを右往左往した迷走台風とかあったりして大停電や多大なインフラ被害もあったので、台風が少し寄りつかなくなってきたと思っても油断はできない。
そして今、台風シーズンというにはやや時期外れな11月半ば近く、ようやっと沖縄らへんにも寄ってきそうな台風が近づいてきている。
秋台風らしくぐるぐる迷走台風の気配があり、まだコースがちょっと読めない。沖縄本島は、台風の端がかするかどうかくらいかもしれないが、がっつり直撃される危険は未だある。
とりあえずまだ天気がさほど荒れてないうちに、食料や食材を買い込んでおくかとスーパーに向かい、そういえば切らしてたなと思って、ホットケーキミックスを買っておいた。もちろん牛乳と卵もともに。
卵はともかくとして牛乳は、ホットケーキを作るか、フレンチトーストを作るプランがあるときしか買わない。私は牛乳に、飲み物というよりも食材としての役割を求めがちだ。もし停電になっても、牛乳が腐る前に全部ホットケーキに焼いてしまえばいい。ホットケーキは偉大。
そうなのだ。
台風が来るかもしれないので、ホットケーキを作ろうと思ったのだ。
そして今回は、まだ気圧が平常時と同じくらいのときに1枚焼く。
そして同じ分量と同じ焼き方で、台風で気圧が下がったときに1枚焼いてみる。
(もしも台風直撃するならば、だが)
以前、台風襲来中にホットケーキを焼いたとき、なんかやけに膨らみが強かったような気がしてたのだ。
これが再現できるのかどうかためしてみたい。
というわけで今は、なんか全体に降水も風量もそこまでキツくはないが気圧が980をちょっと下回るくらいのほどよい台風の直撃を期待している。
まったく身勝手である。
それにしても10月いっぱいまではわりと暑く、普通に昼夜通してクーラーを使っていた。例年なら、10月にもなれば夜は涼しくなって、クーラーかけずにいられたと思うんだが、今年は夜もずっとつけてないと暑くて夜中に目が覚めたりしていた。やはり今年の夏はいつもより暑かったのだと思う。
なかなか暑気が去らなかったのは、台風があまり来なかったから、かもしれない。台風が、暴風雨とともに来て去り、空気と海水を撹拌しまわっていくたびに気温が下がっていくのが、一昔前の沖縄の夏から秋への移行だったが、近年は、台風の発達する緯度が北寄りになったり、台風の進行方向がなんだか以前と少し変わってきたような気がする。
前だと、フィリピンからずっと東のあたりで熱低が生まれ、それがうっすらと北西へ、つまり中国大陸の懐たる黄海に向かってじわじわ進んでいくのだが、ちょうど琉球列島あたりで大陸からの風に押され、その場で少し足踏みしながら北東にぐにっと曲がる。そうやって、十数時間とか、時にはまる二日くらい沖縄らへんに滞留して琉球列島をと奄美をヒンヒン鳴かせたあとで、まるでくの字を下から上に向かって書いたかの如くのルート取りで九州やら本州やらに向かうみたいなルートが多かったと思う。
それがなんかここ数年は、フィリピンの真東で発生したらそのままほぼ西に向かい、フィリピン北部を直撃した後で台湾の南をかすったり、香港がある広東らへんや海南島などに向かうといったパターンが増えてきた。
おかげでここ数年、沖縄方面は、立て続けの台風襲来というのは体感として少なくなった。ただ、三年前くらいに何日も沖縄あたりを右往左往した迷走台風とかあったりして大停電や多大なインフラ被害もあったので、台風が少し寄りつかなくなってきたと思っても油断はできない。
そして今、台風シーズンというにはやや時期外れな11月半ば近く、ようやっと沖縄らへんにも寄ってきそうな台風が近づいてきている。
秋台風らしくぐるぐる迷走台風の気配があり、まだコースがちょっと読めない。沖縄本島は、台風の端がかするかどうかくらいかもしれないが、がっつり直撃される危険は未だある。
とりあえずまだ天気がさほど荒れてないうちに、食料や食材を買い込んでおくかとスーパーに向かい、そういえば切らしてたなと思って、ホットケーキミックスを買っておいた。もちろん牛乳と卵もともに。
卵はともかくとして牛乳は、ホットケーキを作るか、フレンチトーストを作るプランがあるときしか買わない。私は牛乳に、飲み物というよりも食材としての役割を求めがちだ。もし停電になっても、牛乳が腐る前に全部ホットケーキに焼いてしまえばいい。ホットケーキは偉大。
そうなのだ。
台風が来るかもしれないので、ホットケーキを作ろうと思ったのだ。
そして今回は、まだ気圧が平常時と同じくらいのときに1枚焼く。
そして同じ分量と同じ焼き方で、台風で気圧が下がったときに1枚焼いてみる。
(もしも台風直撃するならば、だが)
以前、台風襲来中にホットケーキを焼いたとき、なんかやけに膨らみが強かったような気がしてたのだ。
これが再現できるのかどうかためしてみたい。
というわけで今は、なんか全体に降水も風量もそこまでキツくはないが気圧が980をちょっと下回るくらいのほどよい台風の直撃を期待している。
まったく身勝手である。
アンソロの原稿を書いている。
本当は小説が一番メインになるはずだが、今はそれとは別の記事モノをがんばっている。
(なんかどうも、しばらく小説を書く勢いが持てていない。スランプという言葉は格好が良すぎる。おそらく単に面倒臭がりが出ているだけだ。ペレトゥじゃない話を書こうと思ってみたのはいいが、書き慣れてないのでちょっと気構えしすぎてるかもしれない)
記事モノは、都市の説明テキストについて。
以前、コミケ参加に合わせて出した個人誌の小説を書くために、都市の説明テキストをお題につかった。このときに都市テキストをデータベースとしてまとめていたので、それをネタに記事を書くつもりでいる。
……なのだが、今はまだ、記事を書く前の、データベースの整理や地図図版づくりに手間をとられている。
都市の説明テキストはExcelで簡易なデータベースにはしてあるから、正直記事を書くのに地図図版まで作る必要はない。しかし私はもともと地図好きだし、やっぱ位置情報も把握したいんだよなあ……。個人誌の時には実現できなかったのだが、ネオアト全世界地図に緯度経度を振ってみて位置を把握できるような図版を、やっぱりちゃんと作ってみたくなってしまったのだ。
記事のほうに作った地図図版を載せられる余裕は多分ないので、図版は自分の手元資料におわる予定なのだが、記事書くにあたってだけでも、やっぱり都市の位置を把握はしておきたいのだった。記事では、都市の名前のダジャレっぷりだとか、都市の解説文にある、ネオアト独特のフレーバーテキストの味わいについてなんかを中心に書こうとは思っているのだが、位置に関する小ネタもちょっと書いてみたい。例えば、現実の世界地図と比較したとき、フリップ・タウンはだいたいハワイくらいの位置、フロップ・タウンはだいたいフィジーくらいの位置に出現するっぽいとか、そういうのは現実世界の白地図との重ねあわせでわかったことだった。
実は個人誌を作った段階で、ある程度はその作業が進んでいた。
自分のプレイデータで出現していた都市のテキストをデータベースにしながら、なんかデータベースに座標的なものも入れようとして、あわよくば個人誌冒頭に世界地図も入れてみたくて、図版を作りかけていたのだ。
まずは世界地図のスクショを20枚ばかりつなげて、世界全体と、そのどこに都市があるかがわかる状態の画像を作った。そこからイラレを使って、地図上の都市にIDを振り、データベースと対照してどの位置にどの都市があるかは把握できるようにしていた。さらに実際の白地図と重ね合わせるなどして、ざっくりとだが緯度経度もあてはめられそうだぞ、というとこまで持ってきていて……てたのだが、なぜか、イラレで作業していた図版データをすべてロストしてしまった。どうも作業データを入れたフォルダをまるごと、間違ってゴミ箱に突っ込み、しかもそのまま削除したっぽい。おかげでイラレでやっていた作業以降はすべて無に帰してしまったのである。
個人誌には、元ネタの街は地図上ではこのへん!って図など載せられたらいいなと思っていたのだが、これが実現しなかったのはいまだにちょっと残念ではある……。
しかしまあ、作業をやり直しできる最低限のデータは残っていたわけで、アンソロ寄稿で都市について文章書くついでに、改めてデータベースと突き合わせできるように図版を作り直すことにした。
あと、今は手元にネオアトラス2の攻略本もあるので、データベースのほうも少し手を入れて、2の攻略本にあった都市データと1469の都市データを比べられるようにしてみた。同じ都市名が引き続き使われているものが結構あるのだが、都市名が変更されている場合がまれにある(コンスタンチン→イスタンブールとか)のと、あと産物はちょいちょい違う。2には「ぞうげ」や「タバコ」があったのだが、そういえば1469ではなくなっているんだなあとか。(キャットギターも、現在のコンプラ感覚的には変更されそうなものだが、生き延びていてちょっぴり不思議)
本当は小説が一番メインになるはずだが、今はそれとは別の記事モノをがんばっている。
(なんかどうも、しばらく小説を書く勢いが持てていない。スランプという言葉は格好が良すぎる。おそらく単に面倒臭がりが出ているだけだ。ペレトゥじゃない話を書こうと思ってみたのはいいが、書き慣れてないのでちょっと気構えしすぎてるかもしれない)
記事モノは、都市の説明テキストについて。
以前、コミケ参加に合わせて出した個人誌の小説を書くために、都市の説明テキストをお題につかった。このときに都市テキストをデータベースとしてまとめていたので、それをネタに記事を書くつもりでいる。
……なのだが、今はまだ、記事を書く前の、データベースの整理や地図図版づくりに手間をとられている。
都市の説明テキストはExcelで簡易なデータベースにはしてあるから、正直記事を書くのに地図図版まで作る必要はない。しかし私はもともと地図好きだし、やっぱ位置情報も把握したいんだよなあ……。個人誌の時には実現できなかったのだが、ネオアト全世界地図に緯度経度を振ってみて位置を把握できるような図版を、やっぱりちゃんと作ってみたくなってしまったのだ。
記事のほうに作った地図図版を載せられる余裕は多分ないので、図版は自分の手元資料におわる予定なのだが、記事書くにあたってだけでも、やっぱり都市の位置を把握はしておきたいのだった。記事では、都市の名前のダジャレっぷりだとか、都市の解説文にある、ネオアト独特のフレーバーテキストの味わいについてなんかを中心に書こうとは思っているのだが、位置に関する小ネタもちょっと書いてみたい。例えば、現実の世界地図と比較したとき、フリップ・タウンはだいたいハワイくらいの位置、フロップ・タウンはだいたいフィジーくらいの位置に出現するっぽいとか、そういうのは現実世界の白地図との重ねあわせでわかったことだった。
実は個人誌を作った段階で、ある程度はその作業が進んでいた。
自分のプレイデータで出現していた都市のテキストをデータベースにしながら、なんかデータベースに座標的なものも入れようとして、あわよくば個人誌冒頭に世界地図も入れてみたくて、図版を作りかけていたのだ。
まずは世界地図のスクショを20枚ばかりつなげて、世界全体と、そのどこに都市があるかがわかる状態の画像を作った。そこからイラレを使って、地図上の都市にIDを振り、データベースと対照してどの位置にどの都市があるかは把握できるようにしていた。さらに実際の白地図と重ね合わせるなどして、ざっくりとだが緯度経度もあてはめられそうだぞ、というとこまで持ってきていて……てたのだが、なぜか、イラレで作業していた図版データをすべてロストしてしまった。どうも作業データを入れたフォルダをまるごと、間違ってゴミ箱に突っ込み、しかもそのまま削除したっぽい。おかげでイラレでやっていた作業以降はすべて無に帰してしまったのである。
個人誌には、元ネタの街は地図上ではこのへん!って図など載せられたらいいなと思っていたのだが、これが実現しなかったのはいまだにちょっと残念ではある……。
しかしまあ、作業をやり直しできる最低限のデータは残っていたわけで、アンソロ寄稿で都市について文章書くついでに、改めてデータベースと突き合わせできるように図版を作り直すことにした。
あと、今は手元にネオアトラス2の攻略本もあるので、データベースのほうも少し手を入れて、2の攻略本にあった都市データと1469の都市データを比べられるようにしてみた。同じ都市名が引き続き使われているものが結構あるのだが、都市名が変更されている場合がまれにある(コンスタンチン→イスタンブールとか)のと、あと産物はちょいちょい違う。2には「ぞうげ」や「タバコ」があったのだが、そういえば1469ではなくなっているんだなあとか。(キャットギターも、現在のコンプラ感覚的には変更されそうなものだが、生き延びていてちょっぴり不思議)
なんかふと思い出したんでメモしておくんだけども。
おととしに亡くなった親戚のおばばが、たまに、「これは味があるよ」という言い回しを使っていたような気がする。
日本語で言うなら「滋味がある」が近い気はする。単に出汁が効いてるとか、旨味が強いとかというわけではなく、旨いと思わせる何がしかの要素が濃厚に詰まっておる、というニュアンス。
魚にも肉にも野菜にも使う。煮しめたゴボウに、「このごぼうは味があるよ」みたいに言う。だが、単に出汁がうまく沁みてるということではなく、素材のごぼうが良い味で、というニュアンスがあったように思う。といって、素材そのものの味の良さだけに言及してるわけではなく、必ず仕上がった状態での「味がある」という言い回しだったように思う。素材のごぼうの方を指して「味がある」とは言わなかったと思う。自分でこしらえたごぼうの煮付けを食べながら「このごぼうは味があるね、〇〇ちゃん。食べてごらん、味があるよ」などと言うのだ。
沖縄かまぼこの味わいがおばばの好みであったときにも確か「味がある」と言っていた。おばばは、行事のときの重箱に入れるかまぼこは、わざわざ市場まで出かけて、ここの店のがいちばん味があるよ、と言いながら、いきつけの店で買う。たまに支度に手が回らず、取り急ぎスーパーで買ってきた沖縄かまぼこを使わざるを得なかったときは、たいてい「スーパーのは味がないよ、おいしくない」と文句をぶつくさ言っていた。ちなみにデパ地下で売られているような、江戸前高級かまぼこ(もちろん美味)をいただいたとき、おばばは「内地のかまぼこは、あふぁい(淡い、薄い)ね」と言っていた。高級な贈り物であることはわかっていて、ありがたく美味しく頂いてはいたものの、おばばの言う「味がある」からは、本土のかまぼこの味は少しズレていたようだ。
餅の風味が良いときにも使っていたと思う。餅についてはおばばは、沖縄のもち粉で作る白餅よりも、内地風の搗き餅のほうが評価が高く、「奄美の餅はとても味があるよ、おいしい」とは、奄美に住むおばばの娘から送られてきた搗き餅(輸送で数日経っているがわりと搗き立て)に対しての絶賛コメントだった。そういえば、大福のあんこがなかなか重量のある甘さだがそれゆえに旨いというときも、おばばは「味があるねえ」と喜んでいた気がする。
美味い、とだいたい同義なように思うが、なんかそれとも少し違くて、とにかくあれは「味がある」なのだ。
正直ちょっと記憶が定かでなく、用法や語彙の範囲が合っているのかはわからない。
おばばは、キャラはまったく高濃度のうちなーんちゅだったが、故郷を離れて他県で暮らしていた期間も長かったため、少し独特の言語表現をすることがあった。彼女の発するフレーズのなかには耳慣れないものが混じることがあったが、それが方言なのか、沖縄なまりの日本語なのか、それとも彼女独自の創作語彙(方言の語感を彼女の感覚で独自に日本語化させたと思われるもの)だったのか、はっきりしないものが多数あった。
「味がある」も、おばば独自の語だったかもしれない。
しかし私も、このおばばの言い回しがなんとなく脳に染みついていて、ときどき(これは味があるね)などと思いながらものを食べているときがある。使い方が合ってるかは、いまだによく分からないけど。
おととしに亡くなった親戚のおばばが、たまに、「これは味があるよ」という言い回しを使っていたような気がする。
日本語で言うなら「滋味がある」が近い気はする。単に出汁が効いてるとか、旨味が強いとかというわけではなく、旨いと思わせる何がしかの要素が濃厚に詰まっておる、というニュアンス。
魚にも肉にも野菜にも使う。煮しめたゴボウに、「このごぼうは味があるよ」みたいに言う。だが、単に出汁がうまく沁みてるということではなく、素材のごぼうが良い味で、というニュアンスがあったように思う。といって、素材そのものの味の良さだけに言及してるわけではなく、必ず仕上がった状態での「味がある」という言い回しだったように思う。素材のごぼうの方を指して「味がある」とは言わなかったと思う。自分でこしらえたごぼうの煮付けを食べながら「このごぼうは味があるね、〇〇ちゃん。食べてごらん、味があるよ」などと言うのだ。
沖縄かまぼこの味わいがおばばの好みであったときにも確か「味がある」と言っていた。おばばは、行事のときの重箱に入れるかまぼこは、わざわざ市場まで出かけて、ここの店のがいちばん味があるよ、と言いながら、いきつけの店で買う。たまに支度に手が回らず、取り急ぎスーパーで買ってきた沖縄かまぼこを使わざるを得なかったときは、たいてい「スーパーのは味がないよ、おいしくない」と文句をぶつくさ言っていた。ちなみにデパ地下で売られているような、江戸前高級かまぼこ(もちろん美味)をいただいたとき、おばばは「内地のかまぼこは、あふぁい(淡い、薄い)ね」と言っていた。高級な贈り物であることはわかっていて、ありがたく美味しく頂いてはいたものの、おばばの言う「味がある」からは、本土のかまぼこの味は少しズレていたようだ。
餅の風味が良いときにも使っていたと思う。餅についてはおばばは、沖縄のもち粉で作る白餅よりも、内地風の搗き餅のほうが評価が高く、「奄美の餅はとても味があるよ、おいしい」とは、奄美に住むおばばの娘から送られてきた搗き餅(輸送で数日経っているがわりと搗き立て)に対しての絶賛コメントだった。そういえば、大福のあんこがなかなか重量のある甘さだがそれゆえに旨いというときも、おばばは「味があるねえ」と喜んでいた気がする。
美味い、とだいたい同義なように思うが、なんかそれとも少し違くて、とにかくあれは「味がある」なのだ。
正直ちょっと記憶が定かでなく、用法や語彙の範囲が合っているのかはわからない。
おばばは、キャラはまったく高濃度のうちなーんちゅだったが、故郷を離れて他県で暮らしていた期間も長かったため、少し独特の言語表現をすることがあった。彼女の発するフレーズのなかには耳慣れないものが混じることがあったが、それが方言なのか、沖縄なまりの日本語なのか、それとも彼女独自の創作語彙(方言の語感を彼女の感覚で独自に日本語化させたと思われるもの)だったのか、はっきりしないものが多数あった。
「味がある」も、おばば独自の語だったかもしれない。
しかし私も、このおばばの言い回しがなんとなく脳に染みついていて、ときどき(これは味があるね)などと思いながらものを食べているときがある。使い方が合ってるかは、いまだによく分からないけど。
カクヨムだかアルファポリスだか、小説投稿サイトでAI生成の小説がランキング1位になったという。
これだけの見出しだとなかなか衝撃的だ。反射的に、AIはとうとう人間を凌駕し始めたのかとか、人間という中身がなくたってAIが良質の絵も文章も作れる、読み手がついてPV取れて、つまりマネタイズもできるぞ、人間の作家への脅威だ、いや創作物の民主化だ……みたいな言葉がすでにツイッターには沸き返っている。
ただ、今回の件詳しく見ると、投稿者は1日に30本を超えるAI生成作品を一度に投稿していて、そのうちのいくつかがそれなりの評価を得ているという話だそうだ。つまり数撃ちゃ当たる戦法。加えて、評価をつけた読者サイドにもbotが紛れてる可能性あり、とか。
おそらくpixivでいっとき問題になったように、人がこしらえる数十倍の量と速さでAI生成物が投稿されまくるようになると投稿サイトの場が荒れ、メディアとしての価値自体も減衰するので、おそらく小説投稿サイト側でも、AI生成作品の投稿や公開には、なんらかの規制やフィルタがかける対策を取るのではないかと思う。
しかし実際、なろうなりカクヨムなりのプラットフォームにおいて、読み手側は、書き手の個性を必ず求めているわけでもないかもしれない。
すごく面白いとかじゃなくても、なんとなくキャラがかっこよさげに書かれてるとか、なんか良い具合にチートやザマァが決まってなんとなく楽しい、それで満足だったりするかもしれない。ツボを押さえたテンプレが期待通りのタイミングで期待通りにキマる(水戸黄門の印籠のように)、それがあればいいや、という読み手も実は割といるかもしれず。人間が書いていようがAI生成であろうが、様式のツボさえ押さえてあるなら読む楽しさは満たされるから文句はない、そんな実態がもしかしたらあるかもしれない。
いちおう個人的には、今のAI生成物はまだ、魅力的な創作物、書き手の語りがしっかり乗った創作物、を生成することは得意ではないように思う。単にAIにプロンプト投げてやるだけでは、コミカライズやアニメ化に至るほどのヒット作までは吐き出されはしないだろう。マネタイズという点では、おそらくAIが生み出したそのままのものにはそんなに値段はつかない、おそらく、今はまだ。
ただ、現段階のAIは、すでにむちゃくちゃ文章は上手いというか、読みやすい、飲み込みやすい文章を綴っていく能力に長けている。人間がつるっと飲める文章というのはすごく楽で、引っかからない。その快適さを好ましいと思う人は結構いると思う。逆に言うと、これから何年かかけて、AIが吐き出す文章のスムーズさが標準になり、癖や個性の強い文章はめんどくさがられて忌避されるようになっていくかもしれない、なあと思う。
良し悪しどちらもあるが、人類が日々接するあらゆる情報、文章や画像や音楽といった創作物、つまりあらゆる伝達のための「ことば」「ものがたり」は、もはやAI生成物の存在とその影響を免れ得なくなっている。
すでに私は、物珍しい出来事が起こる動画を観るたびに、この世のものとは思えない美しい風景写真を観るたびに、そのいちいちについて、これはAIが生成した実在しないものなのか、それとも実際に起こったことなのか、と考えてしまう。今までやってきたような情報への対応では、もうままならなくなってきている。
こうした情報の氾濫に、小説ほどの長い物語文というジャンルも、とうとう参入しはじめてきたというだけのことだ。
なお書き手としては、私自身はそれで金を稼いでいるというわけでもない気楽な立場なので、特に焦るものはない。私は物語を自分の脳からひねり出した言葉で書き綴る行為そのものを楽しんでいるのであって、AIにそこの作業を代替してもらう必要はほとんど感じていない。これは絵もいっしょなのだが、自分の指先を動かしながら、線を引いたり消したり、文字を打ったり消したり、あーでもないこーでもないと試行錯誤する行為を繰り返すこと自体が楽しいのだ。面倒は面倒だけど、楽しいは楽しい。だからAI生成使わないと効率的じゃないとか、手作業でもたもたこしらえた悪文駄文なんざ誰も見たくねえ、とか言われたとしても、やっぱり自分で書くし描くだろう。
ああ、ただ、創作物こしらえるのにAI全然使いたくないとかいう話ではなくて、簡単な調べ物や翻訳といったことにAIを便利に利用させてもらってはいる。特に翻訳は、今までアクセスできなかった、まったく知識のない言語の情報にさえかなり気軽に接することができるようになったので、とても助かるなあと思っている。
これだけの見出しだとなかなか衝撃的だ。反射的に、AIはとうとう人間を凌駕し始めたのかとか、人間という中身がなくたってAIが良質の絵も文章も作れる、読み手がついてPV取れて、つまりマネタイズもできるぞ、人間の作家への脅威だ、いや創作物の民主化だ……みたいな言葉がすでにツイッターには沸き返っている。
ただ、今回の件詳しく見ると、投稿者は1日に30本を超えるAI生成作品を一度に投稿していて、そのうちのいくつかがそれなりの評価を得ているという話だそうだ。つまり数撃ちゃ当たる戦法。加えて、評価をつけた読者サイドにもbotが紛れてる可能性あり、とか。
おそらくpixivでいっとき問題になったように、人がこしらえる数十倍の量と速さでAI生成物が投稿されまくるようになると投稿サイトの場が荒れ、メディアとしての価値自体も減衰するので、おそらく小説投稿サイト側でも、AI生成作品の投稿や公開には、なんらかの規制やフィルタがかける対策を取るのではないかと思う。
しかし実際、なろうなりカクヨムなりのプラットフォームにおいて、読み手側は、書き手の個性を必ず求めているわけでもないかもしれない。
すごく面白いとかじゃなくても、なんとなくキャラがかっこよさげに書かれてるとか、なんか良い具合にチートやザマァが決まってなんとなく楽しい、それで満足だったりするかもしれない。ツボを押さえたテンプレが期待通りのタイミングで期待通りにキマる(水戸黄門の印籠のように)、それがあればいいや、という読み手も実は割といるかもしれず。人間が書いていようがAI生成であろうが、様式のツボさえ押さえてあるなら読む楽しさは満たされるから文句はない、そんな実態がもしかしたらあるかもしれない。
いちおう個人的には、今のAI生成物はまだ、魅力的な創作物、書き手の語りがしっかり乗った創作物、を生成することは得意ではないように思う。単にAIにプロンプト投げてやるだけでは、コミカライズやアニメ化に至るほどのヒット作までは吐き出されはしないだろう。マネタイズという点では、おそらくAIが生み出したそのままのものにはそんなに値段はつかない、おそらく、今はまだ。
ただ、現段階のAIは、すでにむちゃくちゃ文章は上手いというか、読みやすい、飲み込みやすい文章を綴っていく能力に長けている。人間がつるっと飲める文章というのはすごく楽で、引っかからない。その快適さを好ましいと思う人は結構いると思う。逆に言うと、これから何年かかけて、AIが吐き出す文章のスムーズさが標準になり、癖や個性の強い文章はめんどくさがられて忌避されるようになっていくかもしれない、なあと思う。
良し悪しどちらもあるが、人類が日々接するあらゆる情報、文章や画像や音楽といった創作物、つまりあらゆる伝達のための「ことば」「ものがたり」は、もはやAI生成物の存在とその影響を免れ得なくなっている。
すでに私は、物珍しい出来事が起こる動画を観るたびに、この世のものとは思えない美しい風景写真を観るたびに、そのいちいちについて、これはAIが生成した実在しないものなのか、それとも実際に起こったことなのか、と考えてしまう。今までやってきたような情報への対応では、もうままならなくなってきている。
こうした情報の氾濫に、小説ほどの長い物語文というジャンルも、とうとう参入しはじめてきたというだけのことだ。
なお書き手としては、私自身はそれで金を稼いでいるというわけでもない気楽な立場なので、特に焦るものはない。私は物語を自分の脳からひねり出した言葉で書き綴る行為そのものを楽しんでいるのであって、AIにそこの作業を代替してもらう必要はほとんど感じていない。これは絵もいっしょなのだが、自分の指先を動かしながら、線を引いたり消したり、文字を打ったり消したり、あーでもないこーでもないと試行錯誤する行為を繰り返すこと自体が楽しいのだ。面倒は面倒だけど、楽しいは楽しい。だからAI生成使わないと効率的じゃないとか、手作業でもたもたこしらえた悪文駄文なんざ誰も見たくねえ、とか言われたとしても、やっぱり自分で書くし描くだろう。
ああ、ただ、創作物こしらえるのにAI全然使いたくないとかいう話ではなくて、簡単な調べ物や翻訳といったことにAIを便利に利用させてもらってはいる。特に翻訳は、今までアクセスできなかった、まったく知識のない言語の情報にさえかなり気軽に接することができるようになったので、とても助かるなあと思っている。
天気ずっと雨曇り雨曇りくもりくもり雨曇り!て感じ。
来週もずっと天気悪。
ハァ? レモン彗星見に行く気満々でしたけど?!
まさかこんなにぐずつき天気がダラダラ続くとは思わなかった。
なんだよも〜なんで雲多いんだよも〜
熱帯雨林気候が目の前だからなんだけどさ〜(本島あたりは日本と同じ温暖湿潤気候の範囲だが、石垣島らへんは熱帯雨林気候に分類されている)
というわけで、関東よりは明らかに空気が澄んでいるのだが、天体観測には全然向いてない、そんな地域に住んでいる。
晴れた日で離島なら確実に天の川もバッチリ見える、なんなら本島の中部でさえ、場所選べば普通に天の川くらい見えたりするんだけど、とにかく空気に湿度が多い。あと島なので、水平線からすぐの高さになにかと雲が常駐しがちで、彗星のように高度が低い天体の観測はなかなか難しいのだった。天頂のあたりにはちっとも雲のない、さっぱりした快晴であってもも、水平線の上にはだいたい雲が湧いてるふよふよ流れてるっていう。
来週の後半、どうにか晴れてくれないかなあ。
来週もずっと天気悪。
ハァ? レモン彗星見に行く気満々でしたけど?!
まさかこんなにぐずつき天気がダラダラ続くとは思わなかった。
なんだよも〜なんで雲多いんだよも〜
熱帯雨林気候が目の前だからなんだけどさ〜(本島あたりは日本と同じ温暖湿潤気候の範囲だが、石垣島らへんは熱帯雨林気候に分類されている)
というわけで、関東よりは明らかに空気が澄んでいるのだが、天体観測には全然向いてない、そんな地域に住んでいる。
晴れた日で離島なら確実に天の川もバッチリ見える、なんなら本島の中部でさえ、場所選べば普通に天の川くらい見えたりするんだけど、とにかく空気に湿度が多い。あと島なので、水平線からすぐの高さになにかと雲が常駐しがちで、彗星のように高度が低い天体の観測はなかなか難しいのだった。天頂のあたりにはちっとも雲のない、さっぱりした快晴であってもも、水平線の上にはだいたい雲が湧いてるふよふよ流れてるっていう。
来週の後半、どうにか晴れてくれないかなあ。
絵をなあ、描いてる場合ではない……という躊躇いがあることについてここに書いたが、しかし絵を描くこと自体は、頭と手指が連動するタイプでそんなに金もかからない趣味なので、続けた方が良いなとも思う。たぶん年寄りになったときに効く。
一時中断してしまうかも考えたが、描くのを休止すると、意欲も手順もすぐ忘れて薄まってしまう。老後に絵を趣味にできる程度を維持するには、上達を目指さないにしてもなお、継続的に絵を描き続ける必要はあるように思う。じゃないと、たぶんだけど、鉛筆握って絵を描こう、という気待を維持できなくて、描けなくなる。
絵を描く行為は、わりと身体を使う行動だ。同時に、視覚中心に、脳に情報を延々と受け止め続ける行為であり、かつまた、一瞬一瞬、短く考え判断し続ける行為だ。頭使う、精神力も消費する。
身体のいろんな機能を使うので、年寄りの趣味にほんと悪くないとは思うが、わりとくたびれる趣味でもあるので、体を慣れさせ続けてないと、年取って急に、昔取った杵柄……と思っても、うまく取り組めない気がするのだ。続けてないと、手と脳を慣れさせ続けておかないと。
だから絵は、がんばって描く癖を捨てないどこ、と思った。年寄りになったときに健康に効きそうな趣味、他に持ってないし。(作文はねえ、考えなくてもずっと続けてるとは思うけど、絵描くほど身体のいろんな機能を使うタイプの手すさびじゃないからなあ)
一時中断してしまうかも考えたが、描くのを休止すると、意欲も手順もすぐ忘れて薄まってしまう。老後に絵を趣味にできる程度を維持するには、上達を目指さないにしてもなお、継続的に絵を描き続ける必要はあるように思う。じゃないと、たぶんだけど、鉛筆握って絵を描こう、という気待を維持できなくて、描けなくなる。
絵を描く行為は、わりと身体を使う行動だ。同時に、視覚中心に、脳に情報を延々と受け止め続ける行為であり、かつまた、一瞬一瞬、短く考え判断し続ける行為だ。頭使う、精神力も消費する。
身体のいろんな機能を使うので、年寄りの趣味にほんと悪くないとは思うが、わりとくたびれる趣味でもあるので、体を慣れさせ続けてないと、年取って急に、昔取った杵柄……と思っても、うまく取り組めない気がするのだ。続けてないと、手と脳を慣れさせ続けておかないと。
だから絵は、がんばって描く癖を捨てないどこ、と思った。年寄りになったときに健康に効きそうな趣味、他に持ってないし。(作文はねえ、考えなくてもずっと続けてるとは思うけど、絵描くほど身体のいろんな機能を使うタイプの手すさびじゃないからなあ)
絵を描くのはやめようかなあ、という考えは、わりといつもなんとなく持っているのだが、実際やめてしまうと決めてしまったらどうだろう、という気持ちが、ここ半年ほどかなり心にひっかかっている。
らくがきを描くのは楽しいし、どんな絵であれ描き上げたところまで届いたらそれなりの満足感もあるし、自分の絵はそう嫌いではない。
ただ、まあやはり、他人の目からすれば、喜んで見るような絵でもまるでないので……らくがきは、らくがきだから自分が楽しけりゃいいではある。しかし、たまに必死に自分なりの全力で絵を描いてみても、絵として魅力的なところが薄いものしか描けない。もちろん下手で絵の技術がないからだ。絵としての核がなんか欠けてる、というか華がない、ような気がする。といって、なんかそういう、絵であることの魅力がちゃんと出せるとこまで、コツが掴めるとこまで絵の練習を頑張れる気もしない。もちろん漫画を描く能力はほぼゼロで、特にストーリー漫画は描けない。(1枚のらくがきをするのと、ちゃんとした絵を仕上げるぞと臨むのと、そして漫画という媒体で物語を描きだすことは、それぞれまったく別の種類の作業だと考えている。もちろん文章を書くのはさらに違うかたちの作業だ)
とはいえ、描くこと自体は楽しいので下手でもいいから描くだけ描き、そして枯れ木も山ってやつでネットにも置くようにはしているのだが、本当にこれにどれだけ意味があるのやら……という疑念がどうもいつもちらちら揺れている気がする。
それに、らくがき描いて満足してると、なんか物語のかたちに仕上げなきゃなっていう衝動を中途半端に満足させてしまってる気がしているのだ。そんな物語っぽい半端ものであれコンテンツはコンテンツでしょ、とか、言うて文章よりはやっぱ絵のほうがキャッチーではあるんだよ一目見てぱっと全体が掴めるもの、というメリットも考えては来たが。
しかしなにせ絵を描くことに慣れてないので筆が遅く、らくがきのくせにうっすら時間をかけて描いてネットに転がしててる。しかしそんなことをして小手先ごまかしていやしないか、みたいな。私は推し作品のなにが好きかを深々考えたり、推し作品の世界にタッチできる物語を(自分のために)こしらえる手業からなんとなく逃避してる気もしてきたあーー!というのが、最近の私のなんとなくのひっかかりなのだ。
とはいえ、考えすぎな気もしてる……べつにネットの隅の数メガもないくらいのデータ量使ってて誰が困るわけでもないし。らくがきはらくがきで楽しいしなあ。でも人に見せる意味はなあ……考えてみればないんだよなあ、特には。まあしかし、文章よりは絵のほうがとっつきやすくてフレンドリーさある……それくらいしか理由がない……つまり推しを推す活動が他者に対してフレンドリーである必然をどれだけ重要視するか。いや、そりゃ重要だよな。そうだけど。
うーん。絵……うーん、どうしよう。まだなんとなく考え込んでる。しばらく(年単位になりそう、気が長い)考え込んでると思う。
追記:
考えたら液タブ買っちゃってるからな……液タブ壊れるまでは絵は描いとくがいいか。液タブがもったいないからな。絵を公開するものとして描くかどうかはまた悩むとして。(でも人に見せるとでも思わないと描き切る根性が実はなかったりする……怠け者だから……)
らくがきを描くのは楽しいし、どんな絵であれ描き上げたところまで届いたらそれなりの満足感もあるし、自分の絵はそう嫌いではない。
ただ、まあやはり、他人の目からすれば、喜んで見るような絵でもまるでないので……らくがきは、らくがきだから自分が楽しけりゃいいではある。しかし、たまに必死に自分なりの全力で絵を描いてみても、絵として魅力的なところが薄いものしか描けない。もちろん下手で絵の技術がないからだ。絵としての核がなんか欠けてる、というか華がない、ような気がする。といって、なんかそういう、絵であることの魅力がちゃんと出せるとこまで、コツが掴めるとこまで絵の練習を頑張れる気もしない。もちろん漫画を描く能力はほぼゼロで、特にストーリー漫画は描けない。(1枚のらくがきをするのと、ちゃんとした絵を仕上げるぞと臨むのと、そして漫画という媒体で物語を描きだすことは、それぞれまったく別の種類の作業だと考えている。もちろん文章を書くのはさらに違うかたちの作業だ)
とはいえ、描くこと自体は楽しいので下手でもいいから描くだけ描き、そして枯れ木も山ってやつでネットにも置くようにはしているのだが、本当にこれにどれだけ意味があるのやら……という疑念がどうもいつもちらちら揺れている気がする。
それに、らくがき描いて満足してると、なんか物語のかたちに仕上げなきゃなっていう衝動を中途半端に満足させてしまってる気がしているのだ。そんな物語っぽい半端ものであれコンテンツはコンテンツでしょ、とか、言うて文章よりはやっぱ絵のほうがキャッチーではあるんだよ一目見てぱっと全体が掴めるもの、というメリットも考えては来たが。
しかしなにせ絵を描くことに慣れてないので筆が遅く、らくがきのくせにうっすら時間をかけて描いてネットに転がしててる。しかしそんなことをして小手先ごまかしていやしないか、みたいな。私は推し作品のなにが好きかを深々考えたり、推し作品の世界にタッチできる物語を(自分のために)こしらえる手業からなんとなく逃避してる気もしてきたあーー!というのが、最近の私のなんとなくのひっかかりなのだ。
とはいえ、考えすぎな気もしてる……べつにネットの隅の数メガもないくらいのデータ量使ってて誰が困るわけでもないし。らくがきはらくがきで楽しいしなあ。でも人に見せる意味はなあ……考えてみればないんだよなあ、特には。まあしかし、文章よりは絵のほうがとっつきやすくてフレンドリーさある……それくらいしか理由がない……つまり推しを推す活動が他者に対してフレンドリーである必然をどれだけ重要視するか。いや、そりゃ重要だよな。そうだけど。
うーん。絵……うーん、どうしよう。まだなんとなく考え込んでる。しばらく(年単位になりそう、気が長い)考え込んでると思う。
追記:
考えたら液タブ買っちゃってるからな……液タブ壊れるまでは絵は描いとくがいいか。液タブがもったいないからな。絵を公開するものとして描くかどうかはまた悩むとして。(でも人に見せるとでも思わないと描き切る根性が実はなかったりする……怠け者だから……)
寝っ転がってスマホいじってるとき、手元を誤って枕元に落とした。たまたま落下した箇所にサブの、二世代前に使っていたスマホがあって、ガチンと思い切り当たる音がしていた。
現用スマホもサブも京セラのTORQUEシリーズで、現用は06、サブは03である。どっちも頑丈で、今まで散々ポケットから転がり落としてはアスファルトに叩きつけるうっかりなどにも耐えてきた連中なので、ぶつけてもあまり心配をしていなかった。ただ、なんとなく、最強の矛と最強の盾をぶつけると……みたいな故事成語をなんとなく連想した。ダイヤモンドを傷つけることができるのはダイヤモンドだけ……みたいな。なんか少年漫画にありそうな感じの。最強タフスマホと最強タフスマホ(ゴリラガラス)同士をぶつけるとどうなるのか……
とはいえ、現用スマホのほうは何の不具合も見当たらなかったのでそのまま忘れていたのだが、数時間経ってふとサブのスマホの画面を見たら、打撃でダメージを食らっていたことに気づいた。

サブの方はもうSIMも入ってないし、最近は動作も重いわ突然の再起動を繰り返すわで動きが怪しくなってきているので、サブとはいえほぼ時計代わりにしか使っていないから、画面にヒビが入ったとしても困ることはあまりない。ただ、不注意でこう目立つヒビを入れてしまったのは、なんだかかわいそうなことをしちゃったなと思う。というか、時間差でダメージに気づいたので、マジで少年漫画ぽいわという変な感慨もある。あるけど、やっぱ画面に不具合あるとしょんぼりではあるわ。ごめんな03。
現用スマホもサブも京セラのTORQUEシリーズで、現用は06、サブは03である。どっちも頑丈で、今まで散々ポケットから転がり落としてはアスファルトに叩きつけるうっかりなどにも耐えてきた連中なので、ぶつけてもあまり心配をしていなかった。ただ、なんとなく、最強の矛と最強の盾をぶつけると……みたいな故事成語をなんとなく連想した。ダイヤモンドを傷つけることができるのはダイヤモンドだけ……みたいな。なんか少年漫画にありそうな感じの。最強タフスマホと最強タフスマホ(ゴリラガラス)同士をぶつけるとどうなるのか……
とはいえ、現用スマホのほうは何の不具合も見当たらなかったのでそのまま忘れていたのだが、数時間経ってふとサブのスマホの画面を見たら、打撃でダメージを食らっていたことに気づいた。

サブの方はもうSIMも入ってないし、最近は動作も重いわ突然の再起動を繰り返すわで動きが怪しくなってきているので、サブとはいえほぼ時計代わりにしか使っていないから、画面にヒビが入ったとしても困ることはあまりない。ただ、不注意でこう目立つヒビを入れてしまったのは、なんだかかわいそうなことをしちゃったなと思う。というか、時間差でダメージに気づいたので、マジで少年漫画ぽいわという変な感慨もある。あるけど、やっぱ画面に不具合あるとしょんぼりではあるわ。ごめんな03。
パンさあ、食パン。
別に普段食べてる、変哲のないいつものパンなんだけど、なんか妙に美味いな~ってなるときある。
パン、美味いぜ、美味い、小麦の恵みだよ。
晩飯、適当に冷凍庫に余ってた野菜の切れっ端とか冷凍シーフードを炒めて、そんでスーパーで安売りしてたボンゴレビアンコのソース和えて、まあこれもすげー変哲のない味だし人にお出しできる飯じゃねえんだけど、私は貝類の味好きだから、まあ私にはだいぶ美味いわけ。そんで、具材炒めたフライパンにうっすらのこったソースがちょっともったいないなってんで、食パンのはじの、ほぼ耳だけの切り落とし部分あるやん、あれで拭って食べるっていうみみっちい食べ方したわけ。んでソースもいい感じに好みの味だし、パンもなんかしみじみ美味いしさ。はぁ、これは私、ただいま人生にだいぶ満足しちまってるな、て、なんかエモ感じちゃったってわけ。
あと、今日は同僚から、「コーグヮーシ要ります?」て聞かれてな。
まあ即答よ、「余ってるんだな、くれよ、くれよ、くれくれ、ぜひ!」

(文庫本とほぼ同じ高さ、幅はさらにもうちょっとある!
なお、むき出しに見えるが、なんかピチっとパッキングされてるだけで、ちゃんと表面はフィルム張り。
最初出されたとき、エッむき出しかい!ってびっくりしたけどそんなはずはなかった)
コーグヮーシ、これは沖縄語の言い方で(たぶん漢字を当てるなら羹菓子かねえ)、日本語で言う、いわゆる落雁。お盆とか法事のときにお供えする、あの鯛とか蓮とかのかたちしててグラデ便箋みたいなレインボーで彩られてるやつ。和菓子屋で買えるような品が良くて干菓子とか呼ばれてるあの丁寧な食べ物じゃないやつね。
それのもっと色がついてないやつ。砂糖と米粉の味が延々する地味なやつ。あれ。
そう、地味な味が好きな私の、わりと好物のひとつなんだ。
好物ったって飛びつくほど好きってほどじゃないけど(葡萄とかベリー類ほどの好き枠ではない)、あったら嬉しくなって、ちまちま食べるんよね。
だけどあれ、地味な味なせいかそんなに喜ぶ人いないらしくて、コーグヮーシが余ったらだいたい私に声かけてもらえるんだ。私、気がつけばコーグヮーシ処理班という立ち位置をゲットしている。
個人的には、フチャギほど飽きる味でもないし、甘くて美味いし、湿気のこないとこにしまっておけばまあまあ日持ちもするから、口寂しいときにかけらに割って、一切れ二切れ、ちまちまかじるのはかなりいい感じなんだけどな。
とりあえず、世間ではそれほどもてはやされてないものを好きなときは、私はこれが好き!と隙あらばアピールしている。そうするとニッチな需要に滑り込めて、世間でそいつがもて余されたとき、ちゃんと私に回ってくるのだ。ライフハックとかいえばいくらか聞こえが良いが、まあぶっちゃけ、みみっちいというか、さもしい行動ではあるのだろう。しかし私は、私の好きなものがなんとなく持て余されてるの、なんかしょんぼりしちゃうわけよ……頼むよ邪険にしないでやってくれよ私が食べるからよこしてくれよ、その美味しいの。そんな感じ。
ちなみに他の人もたいがい好きなものでも、まあ積極的に好きを全露出してはいる。葡萄とか葡萄とか葡萄とかネオアトラスとか船とか馬のことだね(食べ物に限らない)……とりあえずこれが好き、をアピールしておくと、あんたの好きなあれに関連してこんな情報あったよ!ってすぐ人から新情報を教えてもらえるから、超ありがたいよ。
話がまとまんねえが、まあテーマのある話じゃない。思いつくままキーボードを打っている。私、地味めの味がけっこう好きって、なんとなくそんなことを言いたいのかもしれない。
というわけで、コーグヮーシをデザートにするために、コーヒーもわざわざ入れた。自分が好むものをおよそからもらいものしたとき、いつでもありがてえので、美味しく食べる支度はおさおさ怠らない。
それにしたって、まあ、よう食うわね。
どうあっても痩せたりしないわけだよ。
別に普段食べてる、変哲のないいつものパンなんだけど、なんか妙に美味いな~ってなるときある。
パン、美味いぜ、美味い、小麦の恵みだよ。
晩飯、適当に冷凍庫に余ってた野菜の切れっ端とか冷凍シーフードを炒めて、そんでスーパーで安売りしてたボンゴレビアンコのソース和えて、まあこれもすげー変哲のない味だし人にお出しできる飯じゃねえんだけど、私は貝類の味好きだから、まあ私にはだいぶ美味いわけ。そんで、具材炒めたフライパンにうっすらのこったソースがちょっともったいないなってんで、食パンのはじの、ほぼ耳だけの切り落とし部分あるやん、あれで拭って食べるっていうみみっちい食べ方したわけ。んでソースもいい感じに好みの味だし、パンもなんかしみじみ美味いしさ。はぁ、これは私、ただいま人生にだいぶ満足しちまってるな、て、なんかエモ感じちゃったってわけ。
あと、今日は同僚から、「コーグヮーシ要ります?」て聞かれてな。
まあ即答よ、「余ってるんだな、くれよ、くれよ、くれくれ、ぜひ!」

(文庫本とほぼ同じ高さ、幅はさらにもうちょっとある!
なお、むき出しに見えるが、なんかピチっとパッキングされてるだけで、ちゃんと表面はフィルム張り。
最初出されたとき、エッむき出しかい!ってびっくりしたけどそんなはずはなかった)
コーグヮーシ、これは沖縄語の言い方で(たぶん漢字を当てるなら羹菓子かねえ)、日本語で言う、いわゆる落雁。お盆とか法事のときにお供えする、あの鯛とか蓮とかのかたちしててグラデ便箋みたいなレインボーで彩られてるやつ。和菓子屋で買えるような品が良くて干菓子とか呼ばれてるあの丁寧な食べ物じゃないやつね。
それのもっと色がついてないやつ。砂糖と米粉の味が延々する地味なやつ。あれ。
そう、地味な味が好きな私の、わりと好物のひとつなんだ。
好物ったって飛びつくほど好きってほどじゃないけど(葡萄とかベリー類ほどの好き枠ではない)、あったら嬉しくなって、ちまちま食べるんよね。
だけどあれ、地味な味なせいかそんなに喜ぶ人いないらしくて、コーグヮーシが余ったらだいたい私に声かけてもらえるんだ。私、気がつけばコーグヮーシ処理班という立ち位置をゲットしている。
個人的には、フチャギほど飽きる味でもないし、甘くて美味いし、湿気のこないとこにしまっておけばまあまあ日持ちもするから、口寂しいときにかけらに割って、一切れ二切れ、ちまちまかじるのはかなりいい感じなんだけどな。
とりあえず、世間ではそれほどもてはやされてないものを好きなときは、私はこれが好き!と隙あらばアピールしている。そうするとニッチな需要に滑り込めて、世間でそいつがもて余されたとき、ちゃんと私に回ってくるのだ。ライフハックとかいえばいくらか聞こえが良いが、まあぶっちゃけ、みみっちいというか、さもしい行動ではあるのだろう。しかし私は、私の好きなものがなんとなく持て余されてるの、なんかしょんぼりしちゃうわけよ……頼むよ邪険にしないでやってくれよ私が食べるからよこしてくれよ、その美味しいの。そんな感じ。
ちなみに他の人もたいがい好きなものでも、まあ積極的に好きを全露出してはいる。葡萄とか葡萄とか葡萄とかネオアトラスとか船とか馬のことだね(食べ物に限らない)……とりあえずこれが好き、をアピールしておくと、あんたの好きなあれに関連してこんな情報あったよ!ってすぐ人から新情報を教えてもらえるから、超ありがたいよ。
話がまとまんねえが、まあテーマのある話じゃない。思いつくままキーボードを打っている。私、地味めの味がけっこう好きって、なんとなくそんなことを言いたいのかもしれない。
というわけで、コーグヮーシをデザートにするために、コーヒーもわざわざ入れた。自分が好むものをおよそからもらいものしたとき、いつでもありがてえので、美味しく食べる支度はおさおさ怠らない。
それにしたって、まあ、よう食うわね。
どうあっても痩せたりしないわけだよ。
電ファミで「記憶を消してもういちど遊びたいゲームは?」というアンケートをやっていて、アンケで名前が挙がったソフト名を全列挙という記事があったのだが
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakut...
ネオアトラスがないじゃん!(大航海時代もないです)
まあネオアトラスも大航海時代も、記憶消してあの驚愕をもいっかい!というタイプのゲームではないからね。
世間一般にはね。
私にとっては。
私にとってはそうじゃない。
記憶消してもっかい、もっかい遊びたい!
もっかいアマゾネスイベントの驚きと萌え悶えを体験したいんですけどおお?!!
私は基本的に人生において後悔とか、「あのときに戻れたら」という考えを抱かないタイプの人間なのだが(やりきって満足とかそういうのではなく、味の悪い過去は都合良く忘却して生きていくタイプ)アマゾネスイベントについてだけは、20年ちょっと前、大学生のときにネオアトラス最初に遊んだときにどうしてゾネスイベスルーしちゃってたんだよぉお!!というのだけ、なんかとても悔しいのだった。
あのとき、ゾネスイベクリアしてたら、絶対、ペレスとアブトゥにどハマりしてたと思うんだよなあ。好みどまんなか男女なんだもん……。
近い時期にガンパレとかにハマったりしてうっかり二次創作小説とか二つ三つばかりは書いていたあの頃の自分が、ネオアト2に今のレベルでドはまりしてたらどうなってたかなあと。
そう、あの頃は自作ホームページを持ち、webringとやらにも参加し、コミケとかにも足を運ぶレベルでだいぶオタ活づいていた時期だったのだ。もしかしてあの頃、コミケで探してりゃ、うっかりネオアトの同人誌見つけられてたりしませんかねええ?!
まあ、そうはいっても、現実はそうじゃなかったのだ。
私は大学を出て仕事に就いて、二次創作もしなくなったし、ゲームもあまり遊ばなくなった。
自分の根っこがオタクであることの自覚はあったけれども、オタク的な活動からはだいぶ遠のいたし、次第にオタ活動の記憶も遠くなっていった。
令和に入る頃には、「萌え、二次創作、そういうものをいくらかたしなんだ過去もあったな……」くらいの距離感になっていた。山並みの向こうの黄金の残照を見つめるような気持ちとでもいえばいいのか。慕わしさはあれどもあれはだんだんに過ぎていく、真昼のきらめく日差しだったのだ。
……だったのに、なんだよ。
なんなんだよ、1469。おまえ。
そんな、そんな萌えをさあ、令和の世に私にたたき込んできてくれてさあ!
ていうかほんと、なんで平成のうちに私はアブトゥの正体に気づくことができなかったのか。
ぐやじいいい!!
もっと早いうちに萌えてたかったし、1469発売の知らせでウワァーーー!!!!2リメイクきちゃったよぉどうするどうするのどうなるの推したちーーーー!!!って、ソワッソワしたかったな……発売すぐのころのイベントとかにも参加しまくりたかった……。
あとネオアトラス3も遊べば良かったな……
ほんとここについてだけ後悔というか。後から悔しさかみしめてる。
後から悔しがる、その字面のまんまの後悔を、人生でここまで感じた記憶はない。
とはいえ、おそらくネオアトを一度遊んで、海運交易ゲーム楽しいね~の体験がなければ大航海時代オンラインを遊んではおらず、そして大航海時代シリーズにハマっていなければ、ネオアトラス1469を遊ぶということもなかった。そういう運命だったのだと納得するしかない。
あと、二次創作については、二十代前半にちょろっと手を染めて(これについては、ほんとにちょろっとで、ネットでサイト作って二次創作小説何本か置いてたくらいで、紙の同人誌は出したことがなかった)それ以降は一次にしろ二次にしろ小説やイラスト書くってことはほとんどなかったのだが、1469どハマりのおかげで今更紙の本は出すわコミケに出るわと、えらい勢いづいてしまった。
20代で遠ざかって以降、二十年ほど創作活動というものはほぼ空白だったので、正直技量も積まれてなきゃ深みも掘っておらず、この年齢になってこの稚拙な二次創作を世にさらすってのは正直だいぶ恥ずかしいのだが、そうは言っても多分、二十代だったら今サイトに上げているような二次小説は書けてなかったようにも思う。特に『四方の風』にまとめた短編とかは、自分がこういうタイプのものを書けるとはあまり思っていなかったのに、ふと思いつくまま書いてみたらなんとなしに当たり前みたいに書き出せてたので、自分でも意外だった。あのへんはほんとにネオアトラスという作品あってこその短編なので、なんかこういうの書かせてもらえる作品にめぐりあって良かったなあ、と思っている。
ま、それはそれとして、一週間くらいのあいだだけ記憶消せるなら記憶飛ばして、そしてもっかいゾネスイベ味わってみたいねえ。多分おんなじように萌え転がれると思うわ。萌え転がりたいわ。
いや今でも萌え転がれるんだけどさ。それはそれとして、あの衝撃をさ。うん、ほんと記憶消して遊べたら遊んでみたいなマジで。
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakut...
ネオアトラスがないじゃん!(大航海時代もないです)
まあネオアトラスも大航海時代も、記憶消してあの驚愕をもいっかい!というタイプのゲームではないからね。
世間一般にはね。
私にとっては。
私にとってはそうじゃない。
記憶消してもっかい、もっかい遊びたい!
もっかいアマゾネスイベントの驚きと萌え悶えを体験したいんですけどおお?!!
私は基本的に人生において後悔とか、「あのときに戻れたら」という考えを抱かないタイプの人間なのだが(やりきって満足とかそういうのではなく、味の悪い過去は都合良く忘却して生きていくタイプ)アマゾネスイベントについてだけは、20年ちょっと前、大学生のときにネオアトラス最初に遊んだときにどうしてゾネスイベスルーしちゃってたんだよぉお!!というのだけ、なんかとても悔しいのだった。
あのとき、ゾネスイベクリアしてたら、絶対、ペレスとアブトゥにどハマりしてたと思うんだよなあ。好みどまんなか男女なんだもん……。
近い時期にガンパレとかにハマったりしてうっかり二次創作小説とか二つ三つばかりは書いていたあの頃の自分が、ネオアト2に今のレベルでドはまりしてたらどうなってたかなあと。
そう、あの頃は自作ホームページを持ち、webringとやらにも参加し、コミケとかにも足を運ぶレベルでだいぶオタ活づいていた時期だったのだ。もしかしてあの頃、コミケで探してりゃ、うっかりネオアトの同人誌見つけられてたりしませんかねええ?!
まあ、そうはいっても、現実はそうじゃなかったのだ。
私は大学を出て仕事に就いて、二次創作もしなくなったし、ゲームもあまり遊ばなくなった。
自分の根っこがオタクであることの自覚はあったけれども、オタク的な活動からはだいぶ遠のいたし、次第にオタ活動の記憶も遠くなっていった。
令和に入る頃には、「萌え、二次創作、そういうものをいくらかたしなんだ過去もあったな……」くらいの距離感になっていた。山並みの向こうの黄金の残照を見つめるような気持ちとでもいえばいいのか。慕わしさはあれどもあれはだんだんに過ぎていく、真昼のきらめく日差しだったのだ。
……だったのに、なんだよ。
なんなんだよ、1469。おまえ。
そんな、そんな萌えをさあ、令和の世に私にたたき込んできてくれてさあ!
ていうかほんと、なんで平成のうちに私はアブトゥの正体に気づくことができなかったのか。
ぐやじいいい!!
もっと早いうちに萌えてたかったし、1469発売の知らせでウワァーーー!!!!2リメイクきちゃったよぉどうするどうするのどうなるの推したちーーーー!!!って、ソワッソワしたかったな……発売すぐのころのイベントとかにも参加しまくりたかった……。
あとネオアトラス3も遊べば良かったな……
ほんとここについてだけ後悔というか。後から悔しさかみしめてる。
後から悔しがる、その字面のまんまの後悔を、人生でここまで感じた記憶はない。
とはいえ、おそらくネオアトを一度遊んで、海運交易ゲーム楽しいね~の体験がなければ大航海時代オンラインを遊んではおらず、そして大航海時代シリーズにハマっていなければ、ネオアトラス1469を遊ぶということもなかった。そういう運命だったのだと納得するしかない。
あと、二次創作については、二十代前半にちょろっと手を染めて(これについては、ほんとにちょろっとで、ネットでサイト作って二次創作小説何本か置いてたくらいで、紙の同人誌は出したことがなかった)それ以降は一次にしろ二次にしろ小説やイラスト書くってことはほとんどなかったのだが、1469どハマりのおかげで今更紙の本は出すわコミケに出るわと、えらい勢いづいてしまった。
20代で遠ざかって以降、二十年ほど創作活動というものはほぼ空白だったので、正直技量も積まれてなきゃ深みも掘っておらず、この年齢になってこの稚拙な二次創作を世にさらすってのは正直だいぶ恥ずかしいのだが、そうは言っても多分、二十代だったら今サイトに上げているような二次小説は書けてなかったようにも思う。特に『四方の風』にまとめた短編とかは、自分がこういうタイプのものを書けるとはあまり思っていなかったのに、ふと思いつくまま書いてみたらなんとなしに当たり前みたいに書き出せてたので、自分でも意外だった。あのへんはほんとにネオアトラスという作品あってこその短編なので、なんかこういうの書かせてもらえる作品にめぐりあって良かったなあ、と思っている。
ま、それはそれとして、一週間くらいのあいだだけ記憶消せるなら記憶飛ばして、そしてもっかいゾネスイベ味わってみたいねえ。多分おんなじように萌え転がれると思うわ。萌え転がりたいわ。
いや今でも萌え転がれるんだけどさ。それはそれとして、あの衝撃をさ。うん、ほんと記憶消して遊べたら遊んでみたいなマジで。
今日は十五夜だ。満月がきれいに見えている。
写真に撮りたいが、今持ってるスマホもコンデジも、月の撮影には不向きでまったくまともに撮れはしなかった。私の持ってるコンデジはTg-7で、頑丈なうえにマクロ撮影がやたらうまくいくので資料撮影向きだと思って買ったのだが(実際、資料をとりあえずなんでもかんでも撮っておくという使い方をするには非常に勝手が良い)、遠くのものはそれほどうまくない。
代わりというのもなんだが、沖縄の十五夜の行事食、フチャギを撮っておいた。
一番下にそのフチャギの写真を置いてあるが、粒の小豆が大量に白餅に群がっている、という見た目なので、集合体の見た目がダメな人にはアウトかもしれない。スクロールするときはご注意ください。
(ちょっと空白も空けておく)。
さて、見た目がだいぶアレだが、味は意外と……ということもなく、見た目から想像される通りの味だ。
というのは、味付けらしい味付けがほとんどないからだ。
餅粉を練って蒸した白餅、要は味付けのない白玉団子そのまま味、これがのぺっと長方形の塊になっていて、この「のぺっ」にうっすら塩煮しただけの甘くない小豆がまぶしてある、それだけである。
これがフチャギで、この材料や製法から想像するとおりの味である。とにかく地味。
強いて言えば、小豆そのまま、餅粉そのままの味を堪能できるとは思う。農作の恵みの味である。
私も、最初の一口、二口くらい、口いっぱいに広がる「豆だー!」の風味を楽しむ。そのためにわざわざ買っている。
が、きなこやはったい粉などの地味風味の穀物粉を好む私でさえ、フチャギは三口目あたりから早くも飽きる。漠然とした味、そしてぬぼっとした大きさ……とにかくアクセントのない味、そしてむやみと腹にたまる。
収穫の秋にふさわしき「穀」の味に満ちてはいるのだが、とにかく単調である。
こういう食べ物だけども、やっぱり沖縄の民は十五夜にはフチャギを食べたいものなのだろう。毎年、旧の八月十五夜の日だけ、このフチャギが大量にスーパーに並ぶ。いちおう平生でも惣菜コーナーにちょろっと置いてあることもあるが、普段わざわざフチャギを買う人というのもあまりいないので、平常は置いてないことのほうが多い。
私も毎年十五夜にはスーパーでフチャギの三個入りを買う。本当言うと一個で十分なのだが、最小ロットが三個からなのだ。
自分で好みの量を作ったらいいのだろうが、気が向かない。地味な味のくせに手間と時間はかかる。自分が食べたい一つ二つのふちゃぎをわざわざこしらえるのは、めちゃくちゃコスパが悪いのだ。といって、大量に作ったところで持て余すだけだ。喜んでフチャギを大量に平らげてくれる人なんてSSRの割合でしか世間に存在していない。職場や友人に持って行ったとしても特に喜ばれはしないので処理に困る。
なお、スーパーには、砂糖とか、紅いも、よもぎなどで味や風味を足したものも売っている。味が単調なのがダメってんなら味ついてるやつ買えばいいじゃんと思うかもしれないが、甘けりゃ甘いでやっぱり飽きるし腹にたまる速度は1.5倍くらいになる。味がついてもやっぱり単調なのだ。いっそ甘い味などない方が、小豆のまめまめしい風味を堪能できてまだ喜びがある。
そういうわけで、毎年十五夜には私はわざわざフチャギを買いにスーパーにいくし、買うなら絶対に味なしのもの、とこだわっている(夕方遅めにスーパーに行ってみたら甘い味のやつしか残ってなくて、その年のフチャギを断念したこともある)
いちおう餅ということで、おやつの位置づけの食べ物だが、正直、腹にたまりすぎるので、晩飯として食べている。今日の晩飯はうどんにしようかなと思っていたのだが、そうだフチャギ買わなきゃ!と思ったので、フチャギと、あと惣菜コーナーに並んでたなんかの野菜を買って、それで晩飯にした。
……たぶんフチャギも、冷たくした汁粉なんかにデカい白玉として沈めて食べればそれなりにうまいのではないかと思う。だが、わざわざそんなことはしない。そんなものはフチャギではない。私は十五夜の晩にフチャギをこそ食べたいのだ、甘くない、単調で漠然としたあの豊年満作を、味わって祝いたいのだ。
そう言って、毎年、今年も、ただただのっぺりと立ち塞がる小豆と米粉の味に溺れている。
というわけで、この下に、そのフチャギの写真貼っておくね。
写真に撮りたいが、今持ってるスマホもコンデジも、月の撮影には不向きでまったくまともに撮れはしなかった。私の持ってるコンデジはTg-7で、頑丈なうえにマクロ撮影がやたらうまくいくので資料撮影向きだと思って買ったのだが(実際、資料をとりあえずなんでもかんでも撮っておくという使い方をするには非常に勝手が良い)、遠くのものはそれほどうまくない。
代わりというのもなんだが、沖縄の十五夜の行事食、フチャギを撮っておいた。
一番下にそのフチャギの写真を置いてあるが、粒の小豆が大量に白餅に群がっている、という見た目なので、集合体の見た目がダメな人にはアウトかもしれない。スクロールするときはご注意ください。
(ちょっと空白も空けておく)。
さて、見た目がだいぶアレだが、味は意外と……ということもなく、見た目から想像される通りの味だ。
というのは、味付けらしい味付けがほとんどないからだ。
餅粉を練って蒸した白餅、要は味付けのない白玉団子そのまま味、これがのぺっと長方形の塊になっていて、この「のぺっ」にうっすら塩煮しただけの甘くない小豆がまぶしてある、それだけである。
これがフチャギで、この材料や製法から想像するとおりの味である。とにかく地味。
強いて言えば、小豆そのまま、餅粉そのままの味を堪能できるとは思う。農作の恵みの味である。
私も、最初の一口、二口くらい、口いっぱいに広がる「豆だー!」の風味を楽しむ。そのためにわざわざ買っている。
が、きなこやはったい粉などの地味風味の穀物粉を好む私でさえ、フチャギは三口目あたりから早くも飽きる。漠然とした味、そしてぬぼっとした大きさ……とにかくアクセントのない味、そしてむやみと腹にたまる。
収穫の秋にふさわしき「穀」の味に満ちてはいるのだが、とにかく単調である。
こういう食べ物だけども、やっぱり沖縄の民は十五夜にはフチャギを食べたいものなのだろう。毎年、旧の八月十五夜の日だけ、このフチャギが大量にスーパーに並ぶ。いちおう平生でも惣菜コーナーにちょろっと置いてあることもあるが、普段わざわざフチャギを買う人というのもあまりいないので、平常は置いてないことのほうが多い。
私も毎年十五夜にはスーパーでフチャギの三個入りを買う。本当言うと一個で十分なのだが、最小ロットが三個からなのだ。
自分で好みの量を作ったらいいのだろうが、気が向かない。地味な味のくせに手間と時間はかかる。自分が食べたい一つ二つのふちゃぎをわざわざこしらえるのは、めちゃくちゃコスパが悪いのだ。といって、大量に作ったところで持て余すだけだ。喜んでフチャギを大量に平らげてくれる人なんてSSRの割合でしか世間に存在していない。職場や友人に持って行ったとしても特に喜ばれはしないので処理に困る。
なお、スーパーには、砂糖とか、紅いも、よもぎなどで味や風味を足したものも売っている。味が単調なのがダメってんなら味ついてるやつ買えばいいじゃんと思うかもしれないが、甘けりゃ甘いでやっぱり飽きるし腹にたまる速度は1.5倍くらいになる。味がついてもやっぱり単調なのだ。いっそ甘い味などない方が、小豆のまめまめしい風味を堪能できてまだ喜びがある。
そういうわけで、毎年十五夜には私はわざわざフチャギを買いにスーパーにいくし、買うなら絶対に味なしのもの、とこだわっている(夕方遅めにスーパーに行ってみたら甘い味のやつしか残ってなくて、その年のフチャギを断念したこともある)
いちおう餅ということで、おやつの位置づけの食べ物だが、正直、腹にたまりすぎるので、晩飯として食べている。今日の晩飯はうどんにしようかなと思っていたのだが、そうだフチャギ買わなきゃ!と思ったので、フチャギと、あと惣菜コーナーに並んでたなんかの野菜を買って、それで晩飯にした。
……たぶんフチャギも、冷たくした汁粉なんかにデカい白玉として沈めて食べればそれなりにうまいのではないかと思う。だが、わざわざそんなことはしない。そんなものはフチャギではない。私は十五夜の晩にフチャギをこそ食べたいのだ、甘くない、単調で漠然としたあの豊年満作を、味わって祝いたいのだ。
そう言って、毎年、今年も、ただただのっぺりと立ち塞がる小豆と米粉の味に溺れている。
というわけで、この下に、そのフチャギの写真貼っておくね。
台風2025年22号、おっこれは久々に沖縄本島直撃コースか???と構えてたら、なんか本州に急旋回予報に。秋台風のコース取りだなあ。
https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/3...
気候変動のせいか、ここ数年、今までだと沖縄付近で発生してたような台風の発生位置やコースが少し変わってきてる気がする。
特に今年の台風は、フィリピンあたりの緯度で台風になってそのままほぼ西進というのが多くて、沖縄にはあまり大きな影響がなかった。波や風が少し強くなったりはしたけどね。
そのフィリピンは、こないだ北の方が猛烈な台風に晒されたばかりなのに、先週にはセブ島でM6.9の地震もあって立て続けの災害はなんともかわいそうなことだ。地震では亡くなった人だけで数十名も出たそうで、痛ましい。ちょこっとしか出せないけど、せめて募金とかしよう……
https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/3...
気候変動のせいか、ここ数年、今までだと沖縄付近で発生してたような台風の発生位置やコースが少し変わってきてる気がする。
特に今年の台風は、フィリピンあたりの緯度で台風になってそのままほぼ西進というのが多くて、沖縄にはあまり大きな影響がなかった。波や風が少し強くなったりはしたけどね。
そのフィリピンは、こないだ北の方が猛烈な台風に晒されたばかりなのに、先週にはセブ島でM6.9の地震もあって立て続けの災害はなんともかわいそうなことだ。地震では亡くなった人だけで数十名も出たそうで、痛ましい。ちょこっとしか出せないけど、せめて募金とかしよう……
コンビニでなんとなく買ってみたブルボンの「コメノチップス のり塩味」おいしかった。
味も食感もかなり好み。米粉とトウモロコシ粉でできてるのだが風味がまさに薄焼きおせんべいとタコスを足して二で割った感じ、小さめサイズの薄焼きおせんべいで堅くてパリッパリ。このパリパリ感にのり塩の味付けはベストチョイス。
さすがブルボン。
わたしはブルボンに厚い信頼を寄せている。
菓子皿に入ってると私のテンションが上がるお菓子、メーカー見たらだいたいブルボン。
アルフォートとエリーゼとシルベーヌを作った会社だよ。
ダイジェスティブビスケットもブルボンだ。
シルベーヌなんてさあ、あんなちゃんとしたケーキの見た目で味もちゃんとケーキしてるやつ、スーパーで売ってるお菓子の箱からひょいと出てきていいクオリティじゃねえな!といつも思ってるよ。シルベーヌを生んだブルボンがあるこの国に生まれ、子供の頃からシルベーヌに親しむ環境があった(いやまあ、シルベーヌは高級品だからめったに買ってもらえなかったが)……少なくともその1点だけでも、私はものすごい幸運の星の下に生まれたんじゃないかって思う。
ブルボンは、おせんべい系も地味に好き。おつまみに味サロン紛れてるとだいぶアゲだよね。というわけで、ブルボンを信じてコメノチップス買ってみて大正解だったし、ブルボンへの信頼がますます上昇したのですという報告です。
味も食感もかなり好み。米粉とトウモロコシ粉でできてるのだが風味がまさに薄焼きおせんべいとタコスを足して二で割った感じ、小さめサイズの薄焼きおせんべいで堅くてパリッパリ。このパリパリ感にのり塩の味付けはベストチョイス。
さすがブルボン。
わたしはブルボンに厚い信頼を寄せている。
菓子皿に入ってると私のテンションが上がるお菓子、メーカー見たらだいたいブルボン。
アルフォートとエリーゼとシルベーヌを作った会社だよ。
ダイジェスティブビスケットもブルボンだ。
シルベーヌなんてさあ、あんなちゃんとしたケーキの見た目で味もちゃんとケーキしてるやつ、スーパーで売ってるお菓子の箱からひょいと出てきていいクオリティじゃねえな!といつも思ってるよ。シルベーヌを生んだブルボンがあるこの国に生まれ、子供の頃からシルベーヌに親しむ環境があった(いやまあ、シルベーヌは高級品だからめったに買ってもらえなかったが)……少なくともその1点だけでも、私はものすごい幸運の星の下に生まれたんじゃないかって思う。
ブルボンは、おせんべい系も地味に好き。おつまみに味サロン紛れてるとだいぶアゲだよね。というわけで、ブルボンを信じてコメノチップス買ってみて大正解だったし、ブルボンへの信頼がますます上昇したのですという報告です。
国勢調査の用紙が届いてて、ネットで回答した。
ネット回答らくちんだな~。
そういえばだいぶ昔、まだ学生の頃だったかの国勢調査で、家の広さを床面積で書く欄に遭遇した記憶がある。そのときは、えっ!この部屋ってどんくらいの広さなんか?!とわたふたした。学生アパート住まいで、ただ1Kの部屋だという程度の認識で、床は畳でもなかったから、広さを数値で把握できてなかったのだ。結局どうやって回答したかはまるで覚えてないんだけど、契約書を引っ張り出してきたか、それともメジャーで部屋の2辺をざっくり測るかして回答したような気がする。
そういえば、今回の国勢調査では床面積とか聞かれてない。
そっか、質問項目も変わってるんだろうなと思って検索してみたら、やっぱり近年になるにつれ質問項目が減ってて、住居の床面積の質問は平成22年の調査が最後となっていた。
>国勢調査の調査事項の変遷(総務省統計局ホームページより)
https://www.stat.go.jp/info/kenkyu/kokus...
そもそも国勢調査には大規模調査と簡易調査というのがあって、交互に繰り返している。
今年の調査は簡易調査なので、設問が少し簡単だったのだ。そんなことも今さら知った。
設問が簡単、といってもそもそも大規模調査の設問自体がどんどんスリム化している。五年前の大規模調査と比べ、今回の調査で省かれた項目といっても、在学/卒業教育機関(学歴)と利用交通手段(通勤通学)の2つくらいだ。ていうか5年前の調査のときって学歴とか通勤手段とか書くところあったんだ……ぜんぜん覚えてない。なにもかも、すっかり忘れている。回答はしたはずなんだけど……なんも……おぼえてない……記憶力……
5年前の調査のときって、そういえばネオアトラスにまだハマってなかった頃だな。
私は2021年のゴールデンウィークに1469を遊び始めた。Covid-19に関連しての緊急事態宣言で家ごもりが求められていたのがきっかけの一つだった。
令和2年度の国勢調査はその前の年の10月にやってることになる。2020年のはじめから、すでに世の中は新型コロナ感染症の話題に席巻されていて、2020年の前半の段階で、アマビエブームだとかマスクが売ってないだとか2020年東京オリンピックは延期だ、とかとか、そんないろいろの大騒動がすでに起こっていた。そんな大騒ぎの中、国全体での大規模統計調査をなんとか実施してたってことか。同じ年、厚労省の「国民生活基礎調査」とかはその年の調査を断念しているのだが、国勢調査はどうにかふんばったのだ。ずいぶん頑張って調査したんだろうなあ。
(統計データって私はわりと好きなので、それを調査してくれる機関のがんばりを応援する気持ちが結構ある)
ネット回答らくちんだな~。
そういえばだいぶ昔、まだ学生の頃だったかの国勢調査で、家の広さを床面積で書く欄に遭遇した記憶がある。そのときは、えっ!この部屋ってどんくらいの広さなんか?!とわたふたした。学生アパート住まいで、ただ1Kの部屋だという程度の認識で、床は畳でもなかったから、広さを数値で把握できてなかったのだ。結局どうやって回答したかはまるで覚えてないんだけど、契約書を引っ張り出してきたか、それともメジャーで部屋の2辺をざっくり測るかして回答したような気がする。
そういえば、今回の国勢調査では床面積とか聞かれてない。
そっか、質問項目も変わってるんだろうなと思って検索してみたら、やっぱり近年になるにつれ質問項目が減ってて、住居の床面積の質問は平成22年の調査が最後となっていた。
>国勢調査の調査事項の変遷(総務省統計局ホームページより)
https://www.stat.go.jp/info/kenkyu/kokus...
そもそも国勢調査には大規模調査と簡易調査というのがあって、交互に繰り返している。
今年の調査は簡易調査なので、設問が少し簡単だったのだ。そんなことも今さら知った。
設問が簡単、といってもそもそも大規模調査の設問自体がどんどんスリム化している。五年前の大規模調査と比べ、今回の調査で省かれた項目といっても、在学/卒業教育機関(学歴)と利用交通手段(通勤通学)の2つくらいだ。ていうか5年前の調査のときって学歴とか通勤手段とか書くところあったんだ……ぜんぜん覚えてない。なにもかも、すっかり忘れている。回答はしたはずなんだけど……なんも……おぼえてない……記憶力……
5年前の調査のときって、そういえばネオアトラスにまだハマってなかった頃だな。
私は2021年のゴールデンウィークに1469を遊び始めた。Covid-19に関連しての緊急事態宣言で家ごもりが求められていたのがきっかけの一つだった。
令和2年度の国勢調査はその前の年の10月にやってることになる。2020年のはじめから、すでに世の中は新型コロナ感染症の話題に席巻されていて、2020年の前半の段階で、アマビエブームだとかマスクが売ってないだとか2020年東京オリンピックは延期だ、とかとか、そんないろいろの大騒動がすでに起こっていた。そんな大騒ぎの中、国全体での大規模統計調査をなんとか実施してたってことか。同じ年、厚労省の「国民生活基礎調査」とかはその年の調査を断念しているのだが、国勢調査はどうにかふんばったのだ。ずいぶん頑張って調査したんだろうなあ。
(統計データって私はわりと好きなので、それを調査してくれる機関のがんばりを応援する気持ちが結構ある)
なんでだったか、急に「アンジェラ」って名前を検索したら、最初に「英語の人名」みたいな説明が出て、えっ、アンジェラって英語圏だけの読み方だっけ?!ってビビった。
アンジェラがイギリス人の可能性、全然考えてなかったけど、ありえなくはないよなあ。赤毛の人はどっちかいえば北寄りの地域、特にアイルランドに多いと聞くし……。
しかし以前に合同誌を作ったとき、私はアンジェラを南イタリア方面のわりと格の高い貴族の家出身とかいう設定をしてしまったのだ。うへえ、もしかしてアンジェラって、イタリア語だと発音違ってる?て思って確認したら、同じくアンジェラだったので、救われた。イタリア半島出身としても間違いではない。
でも、イギリス出身とかでもおもしろかったかもね、なんとなく。
現在だと、英語圏(というかアメリカかな?)ではやや古風な名前という印象はあるみたい。redditとかで「今、赤ちゃんにアンジェラって名前つけるのダサいですか?」とか「アンジェラって名前どう思う?」みたいな質問がちょこちょこある。その回答を見ていると、上の世代では多かったし人気の名前だったんだよ、とドイツのメルケル首相の名前が挙げられてたりしていた(そいえばアンゲラって名前だったね)。現在で年齢が5,60歳代くらいになる世代の女性にありそうな名前、という印象が結構あるみたい。日本語だと昭恵とか光子くらいなイメージ? どの言語であれ、名前の流行りすたりってけっこうくっきりとあるもんだね、面白い。
あと、「angel」というところで宗教的ニュアンスが強めと感じて、それがなんとなくひっかかる人もいるみたいだった。やっぱ音の響きもだけど、語源とかも気になる人はなるよねえ。
なお音の響きそのものについて、あんまりいい響きじゃないかな、という意見が散見された。日本人の感覚としては、有声音多くて深く音が響くし、なんか優雅じゃんという印象あるんだけど、どういう調音や音の組み合わせが美しいと感じるかって言語でほんとそれぞれなもんだ。
そういえばラグナール、Ragnarという名前は、今でも北欧で一般的に使われる男性名だそうだけど、おそらく由来はラグナル・ロズブロークという伝説的なヴァイキングの英雄にある。
ラグナルは9世紀頃にイギリスとフランスを荒らしまくったというヴァイキングの長だという。「ラグナル・ロズブロークのサガ」ではシグルドとブリュンヒルドの娘を娶り、その娘との間に生まれた子孫からノルウェーを統一したハーラル一世が出た、と語られている(ハーラル一世はラグナルから見ると孫娘の子で、ひ孫にあたる)。このへん、古い時代のことで史実かどうかは疑わしいが、しかしラグナルといえば確かに後世にも名を轟かす英雄というのは間違いないようだ。
ネオアトラスでのラグナールは、この伝説のヴァイキングと比べるとまただいぶギャップがあるキャラなとこ、そういうのなんか好きだな。
アンジェラがイギリス人の可能性、全然考えてなかったけど、ありえなくはないよなあ。赤毛の人はどっちかいえば北寄りの地域、特にアイルランドに多いと聞くし……。
しかし以前に合同誌を作ったとき、私はアンジェラを南イタリア方面のわりと格の高い貴族の家出身とかいう設定をしてしまったのだ。うへえ、もしかしてアンジェラって、イタリア語だと発音違ってる?て思って確認したら、同じくアンジェラだったので、救われた。イタリア半島出身としても間違いではない。
でも、イギリス出身とかでもおもしろかったかもね、なんとなく。
現在だと、英語圏(というかアメリカかな?)ではやや古風な名前という印象はあるみたい。redditとかで「今、赤ちゃんにアンジェラって名前つけるのダサいですか?」とか「アンジェラって名前どう思う?」みたいな質問がちょこちょこある。その回答を見ていると、上の世代では多かったし人気の名前だったんだよ、とドイツのメルケル首相の名前が挙げられてたりしていた(そいえばアンゲラって名前だったね)。現在で年齢が5,60歳代くらいになる世代の女性にありそうな名前、という印象が結構あるみたい。日本語だと昭恵とか光子くらいなイメージ? どの言語であれ、名前の流行りすたりってけっこうくっきりとあるもんだね、面白い。
あと、「angel」というところで宗教的ニュアンスが強めと感じて、それがなんとなくひっかかる人もいるみたいだった。やっぱ音の響きもだけど、語源とかも気になる人はなるよねえ。
なお音の響きそのものについて、あんまりいい響きじゃないかな、という意見が散見された。日本人の感覚としては、有声音多くて深く音が響くし、なんか優雅じゃんという印象あるんだけど、どういう調音や音の組み合わせが美しいと感じるかって言語でほんとそれぞれなもんだ。
そういえばラグナール、Ragnarという名前は、今でも北欧で一般的に使われる男性名だそうだけど、おそらく由来はラグナル・ロズブロークという伝説的なヴァイキングの英雄にある。
ラグナルは9世紀頃にイギリスとフランスを荒らしまくったというヴァイキングの長だという。「ラグナル・ロズブロークのサガ」ではシグルドとブリュンヒルドの娘を娶り、その娘との間に生まれた子孫からノルウェーを統一したハーラル一世が出た、と語られている(ハーラル一世はラグナルから見ると孫娘の子で、ひ孫にあたる)。このへん、古い時代のことで史実かどうかは疑わしいが、しかしラグナルといえば確かに後世にも名を轟かす英雄というのは間違いないようだ。
ネオアトラスでのラグナールは、この伝説のヴァイキングと比べるとまただいぶギャップがあるキャラなとこ、そういうのなんか好きだな。
どうでもいい最近のこと。
今週末に後輩の披露宴に招かれており、久々にフォーマル服などがちゃんと装着できるのかとか確かめたりなどの準備を進めている。
で、普段の私は白髪を染めておらず、今やかなり白髪交じりの頭になっているのだが、さすがに白髪いっぱいじゃ美容室の人もセットに困るだろうと思って、久々に白髪を染めた。ちなみに前回染めたのも、結婚式にお呼ばれしたときであった。そういうことでもない限り、白髪を染めない人間なのである。
染めがちょっと足りてないとこあったけど、まあこんなもんでしょという感じにはなった。
わー、久々、髪が黒ばっかりだ!と感心する。普段どんだけ白髪生えてんだ。
ただ、こうなってみて気づいたけど、白髪がないとものさみしい。
寝床に転がったとき、ぼんやりと髪にまじる白髪を見つめるクセがあった(と気づいた)のだが、今や見つめても見つめてもなかなか白髪が見えないのが、なんか釈然としない。あんなにいっぱいあったのに。
あとたまに(一週間にいっぺんくらい?)白髪抜きゲームとかしてた。なんとなく3本抜いたらゲームセットという自分のなかでのルールがあった。ゲームとか言うが別に勝ち負けとかタイムトライアルとかでもない。白髪をぷちっと抜く感触を楽しんで満足してただけだ。でもいまは、思い立っても白髪抜きゲームできないのだ……染めそびれの逃亡白髪がいるのでできなくはないが白髪見つける難度が段違いに上がっているので実質これは私の白髪抜きゲームではない。なんとなし落ち着かない。
私は白髪がいっぱいまじっている自分の頭にわりと親しんで生きていたのだなと変なところで気づかされた。
今週末に後輩の披露宴に招かれており、久々にフォーマル服などがちゃんと装着できるのかとか確かめたりなどの準備を進めている。
で、普段の私は白髪を染めておらず、今やかなり白髪交じりの頭になっているのだが、さすがに白髪いっぱいじゃ美容室の人もセットに困るだろうと思って、久々に白髪を染めた。ちなみに前回染めたのも、結婚式にお呼ばれしたときであった。そういうことでもない限り、白髪を染めない人間なのである。
染めがちょっと足りてないとこあったけど、まあこんなもんでしょという感じにはなった。
わー、久々、髪が黒ばっかりだ!と感心する。普段どんだけ白髪生えてんだ。
ただ、こうなってみて気づいたけど、白髪がないとものさみしい。
寝床に転がったとき、ぼんやりと髪にまじる白髪を見つめるクセがあった(と気づいた)のだが、今や見つめても見つめてもなかなか白髪が見えないのが、なんか釈然としない。あんなにいっぱいあったのに。
あとたまに(一週間にいっぺんくらい?)白髪抜きゲームとかしてた。なんとなく3本抜いたらゲームセットという自分のなかでのルールがあった。ゲームとか言うが別に勝ち負けとかタイムトライアルとかでもない。白髪をぷちっと抜く感触を楽しんで満足してただけだ。でもいまは、思い立っても白髪抜きゲームできないのだ……染めそびれの逃亡白髪がいるのでできなくはないが白髪見つける難度が段違いに上がっているので実質これは私の白髪抜きゲームではない。なんとなし落ち着かない。
私は白髪がいっぱいまじっている自分の頭にわりと親しんで生きていたのだなと変なところで気づかされた。
たまにブラッドベリの『死ぬときはひとりぼっち』を読み返したくなるときがあるんだけど、持ってないんだよなあ。買おうかな。
タイトルすごいけど、原題めちゃくちゃかっこいい。
"Death Is a Lonely Business"である。
タイトルにいきなりDEATHと来るのだが、わりと作品全体を通すと明るいほうの話。とはいえブラッドベリなので、奇妙と退廃とノスタルジーが、あらゆる場面にぎっちり詰めではある。
主人公は、ブラッドベリ自身の青年期をモデルにしたとおぼしき貧乏物書きの「僕」。ということはブラッドベリの少年期をモデルにした『たんぽぽのお酒』の十年後のお話なのかもしれないが、『たんぽぽのお酒』に比べるとより筋書きがある。
過日の栄光はとっくに過ぎて寂れて活気のない街、安普請のボロアパートに錆びた観覧車、暗い澱んだ水が退屈にちゃぷちゃぷしてるだけの運河、そういう街を舞台に、「僕」はどこかで挫折し世間から弾かれてしまった少し奇妙な隣人たちに翻弄されながら、彼らが突然飛び込んでしまう「死」の謎に迫る。
ブラッドベリは献辞にチャンドラーの名を挙げていて、この作品はハードボイルドとして書いたということだけど、それにしては主人公がおとなしくて気弱な青年で、そしてヘマも多くて不器用ゆえに、なんだか愛嬌のある存在なので、あまりハードボイルドな感じはしないのだった。
文体まいつものブラッドベリで、ミステリとか探偵小説というにはあまりに幻想みが強い。『何かが道をやってくる』の読み味と似てる感じがあるが、『何かが道をやってくる』ほど非現実な設定ではなく、いちおう現実の理屈のうえで話は展開してる、いちおう(だからって現実的なお話かというとそういうわけではない)。
なにかとうろたえがちな主人公に、なんだかんだ味方して力づけてくれる大人たちが何人もいてくれて、わりとほっこりなとこが好き。年齢不詳美魔女?コンスタンスの家で古い映画を夜通し見たり、クラムリー刑事の秘密の植物園で水撒きして虹を見る場面とか、なんかそういうひと場面の味わいやきらめきがなんかすごく良い。
でも終盤は、その彼らにも謎の孤独や「死」の気配がうっすらと差して、主人公のほうが彼らを心配したり、なにかしなきゃと駆け回る。この主人公の駆け回りぷりもなんか良い。どちらかというとハードボイルドというよりはホラーやスリラーが近いのかも。あと主人公が、成人とは言えまだまだ若くて世間知らずなキャラクタなので、ジュブナイル、成長譚の気配もある。
タイトルすごいけど、原題めちゃくちゃかっこいい。
"Death Is a Lonely Business"である。
タイトルにいきなりDEATHと来るのだが、わりと作品全体を通すと明るいほうの話。とはいえブラッドベリなので、奇妙と退廃とノスタルジーが、あらゆる場面にぎっちり詰めではある。
主人公は、ブラッドベリ自身の青年期をモデルにしたとおぼしき貧乏物書きの「僕」。ということはブラッドベリの少年期をモデルにした『たんぽぽのお酒』の十年後のお話なのかもしれないが、『たんぽぽのお酒』に比べるとより筋書きがある。
過日の栄光はとっくに過ぎて寂れて活気のない街、安普請のボロアパートに錆びた観覧車、暗い澱んだ水が退屈にちゃぷちゃぷしてるだけの運河、そういう街を舞台に、「僕」はどこかで挫折し世間から弾かれてしまった少し奇妙な隣人たちに翻弄されながら、彼らが突然飛び込んでしまう「死」の謎に迫る。
ブラッドベリは献辞にチャンドラーの名を挙げていて、この作品はハードボイルドとして書いたということだけど、それにしては主人公がおとなしくて気弱な青年で、そしてヘマも多くて不器用ゆえに、なんだか愛嬌のある存在なので、あまりハードボイルドな感じはしないのだった。
文体まいつものブラッドベリで、ミステリとか探偵小説というにはあまりに幻想みが強い。『何かが道をやってくる』の読み味と似てる感じがあるが、『何かが道をやってくる』ほど非現実な設定ではなく、いちおう現実の理屈のうえで話は展開してる、いちおう(だからって現実的なお話かというとそういうわけではない)。
なにかとうろたえがちな主人公に、なんだかんだ味方して力づけてくれる大人たちが何人もいてくれて、わりとほっこりなとこが好き。年齢不詳美魔女?コンスタンスの家で古い映画を夜通し見たり、クラムリー刑事の秘密の植物園で水撒きして虹を見る場面とか、なんかそういうひと場面の味わいやきらめきがなんかすごく良い。
でも終盤は、その彼らにも謎の孤独や「死」の気配がうっすらと差して、主人公のほうが彼らを心配したり、なにかしなきゃと駆け回る。この主人公の駆け回りぷりもなんか良い。どちらかというとハードボイルドというよりはホラーやスリラーが近いのかも。あと主人公が、成人とは言えまだまだ若くて世間知らずなキャラクタなので、ジュブナイル、成長譚の気配もある。
今年に入ってからか、変な時間に非通知で0秒だけコール、という着信が記録されてる時が2、3回あって、最近、たまたまその瞬間を見かけたんだけど、ワン切りどころか着信音もならないくらい一瞬なのな。
非通知だからかけ直しようがない。フィッシングではない。
どういう電話だろ、なんか名簿業者とか、業者から名簿を手に入れた輩とかがリストにある番号生きてるかの確認入れてんのかな……と思いつつググったら、どうもだいたいそのとおりらしい。
てことは、もしかしたらそのうち、詐欺電話かかってくるかもしんねえ。気をつけとこ。
もう一つの可能性としては嫌がらせというのがありはする。するんだけど、多分それはない、ないと思いたい……私もあまり人に好かれないタイプの人間ではあるけど、非通知イタ電食らうほどの恨みを買ったことはない、はず、と思う、たぶん。……たぶん……(マジで思い当たることはなにもないんだけど、考え出すときりがねえな、まあこういうのはあんま考えんどこうね!)
非通知だからかけ直しようがない。フィッシングではない。
どういう電話だろ、なんか名簿業者とか、業者から名簿を手に入れた輩とかがリストにある番号生きてるかの確認入れてんのかな……と思いつつググったら、どうもだいたいそのとおりらしい。
てことは、もしかしたらそのうち、詐欺電話かかってくるかもしんねえ。気をつけとこ。
もう一つの可能性としては嫌がらせというのがありはする。するんだけど、多分それはない、ないと思いたい……私もあまり人に好かれないタイプの人間ではあるけど、非通知イタ電食らうほどの恨みを買ったことはない、はず、と思う、たぶん。……たぶん……(マジで思い当たることはなにもないんだけど、考え出すときりがねえな、まあこういうのはあんま考えんどこうね!)
二次小説はともかく、雑記は、しかしなんで書いているのだろう。
改めて考え出すと、なんだか不思議な気持ちもする。いいかげん誰にも読まれていないだろうと思いつつ、他人が読む前提で今もこの記事を書いているのだ。なんでだ、マジで。
自分用のメモではある。
ただ、メモのわりには、他人が読んだときというのを一応想定して書くことにはしている。読んでる人がいる保証はないのに、それでもだ(多分本当にこの雑記は、もはや私以外には読まれていない)。
一個前の記事に書いたように、職場の小説書きの人に私の二次小説を読んでもらった。話が面白いかどうかはともかく、文章はそれなりにこなれてて、他人が読むことを想定した体裁の文章になってる、という評をもらった。
自認としては、私はろくにフィクションを摂取しない人間なので小説書く基礎力にまるで自信がないのだが……という事を言うと、しかし人が読むことを常に脳裏において書いているタイプの文章ではあるよ、と指摘をもらった。そういえば私は説明文とか報告書とかは仕事でちょこちょこ書いているもんなあ、という話になった。(同部署なので、彼女は私が扱う業務内容を把握している)
そして、物語文ではないが書きものをしているのはこの仕事でたまに書く文章類以外にもあって、それがこの雑記、ブログ的なものなのだ。こういうどうでもいいことをつらつら書く場所を、断続的にだがずっと書いてはきた。なんとなく人に読まれるものとしての文章を書き続けてはいることにはなる(しかし本当に、読者がいたことがほとんどないまま書き続けているのが常態で、それなのに虚空の読み手に向かって書き続けてるのだから考えてみると地味に狂気めいている)。
雑記については、文章書きにとっての業務前のラジオ体操くらいのストレッチ機能はあるのかもしれないなと思う。筋トレというほどの強度ではないにせよ。たから誰に読まれなくとも、間がひどく空くときもあるけども、たまにでも、なんかしらは書くようにしたほうが良さそうかなと思っている。
改めて考え出すと、なんだか不思議な気持ちもする。いいかげん誰にも読まれていないだろうと思いつつ、他人が読む前提で今もこの記事を書いているのだ。なんでだ、マジで。
自分用のメモではある。
ただ、メモのわりには、他人が読んだときというのを一応想定して書くことにはしている。読んでる人がいる保証はないのに、それでもだ(多分本当にこの雑記は、もはや私以外には読まれていない)。
一個前の記事に書いたように、職場の小説書きの人に私の二次小説を読んでもらった。話が面白いかどうかはともかく、文章はそれなりにこなれてて、他人が読むことを想定した体裁の文章になってる、という評をもらった。
自認としては、私はろくにフィクションを摂取しない人間なので小説書く基礎力にまるで自信がないのだが……という事を言うと、しかし人が読むことを常に脳裏において書いているタイプの文章ではあるよ、と指摘をもらった。そういえば私は説明文とか報告書とかは仕事でちょこちょこ書いているもんなあ、という話になった。(同部署なので、彼女は私が扱う業務内容を把握している)
そして、物語文ではないが書きものをしているのはこの仕事でたまに書く文章類以外にもあって、それがこの雑記、ブログ的なものなのだ。こういうどうでもいいことをつらつら書く場所を、断続的にだがずっと書いてはきた。なんとなく人に読まれるものとしての文章を書き続けてはいることにはなる(しかし本当に、読者がいたことがほとんどないまま書き続けているのが常態で、それなのに虚空の読み手に向かって書き続けてるのだから考えてみると地味に狂気めいている)。
雑記については、文章書きにとっての業務前のラジオ体操くらいのストレッチ機能はあるのかもしれないなと思う。筋トレというほどの強度ではないにせよ。たから誰に読まれなくとも、間がひどく空くときもあるけども、たまにでも、なんかしらは書くようにしたほうが良さそうかなと思っている。
そういえばちょっと前に、職場の同人趣味持ちに、自分の本(プラニスフェーリオ)を貸して読んでもらった。同人趣味持ちで小説書きの人ではあるが、その人の趣味とは全然別ジャンルなうえにそれなりのページ数がある本を渡してしまったので、全部読んでもらったのは実にありがたいのと、なんか申し訳ないのと。いや、ともかく、ありがてえ、マジでありがてえ!
話の中身についての感想は聞きようがないなと思ってろくに聞いてないのだが(なにせ原作ミリ知らなのだし)、前から気になってた、文体の癖とか強くないかなあ?というのと、冗長で読みにくくないか、というのを聞いてみたかったのだ。
そしたら、あっさりめの文章と感じた、という返事が帰ってきて、そこはわりと意外だった。
文章くどくどで説明ぽくない?ていうのがいつも気になってたけど、あんまり引っかからないで読める、とのこと。朗報ーー!!
あと、わりと映像的だとも。これは自分でも意識的にそう書いてたし、今まで頂いた感想でもそのようにコメント頂いたことが幾度かあったので、やっぱりそう感じるんだということで、これもなんかほっとした。
前にもこの雑記で書いたことがあるが、自分の文章がどう人から見えるものか、読まれるものか、その風合いみたいなものがあまりよくわかっていない。私の書くものに文体と言えるほど個性があるかはちょっと自信ないし、もし私なりの文体らしきものがあったとしても、それが客観的にどういう味わいのものかがほとんど掴めてない。
そもそも、私は自分の書いたものが、読んでいる人にそれなりに伝わる文章として成立しているのか、どこか自信がない。服を着たつもりなのに実はパンツ一丁で往来に踊り出てて、普通に喋ってるつもりなのに周囲からは意味不明の言動をわめいているような、そんな奇怪な光景を生み出しているのではなかろうか、なんかそんな気分がずっと抜けない。
とりあえず、職場の人によれば、場面はちゃんと思い描けるし、話の筋も理解できるし、読み物として読むことはできるということだったので、あまり心配しなくてもいいのかもしれない。
とはいえやっぱりこれからも、なにか一つ短編でも書くたびに、「ねえ、これほんとに合ってるのかなぁ!? 日本語として理解可能なやつです!?」て気分は抜けないで文章書き続けることになるんだろうな、とは思うけども。
話の中身についての感想は聞きようがないなと思ってろくに聞いてないのだが(なにせ原作ミリ知らなのだし)、前から気になってた、文体の癖とか強くないかなあ?というのと、冗長で読みにくくないか、というのを聞いてみたかったのだ。
そしたら、あっさりめの文章と感じた、という返事が帰ってきて、そこはわりと意外だった。
文章くどくどで説明ぽくない?ていうのがいつも気になってたけど、あんまり引っかからないで読める、とのこと。朗報ーー!!
あと、わりと映像的だとも。これは自分でも意識的にそう書いてたし、今まで頂いた感想でもそのようにコメント頂いたことが幾度かあったので、やっぱりそう感じるんだということで、これもなんかほっとした。
前にもこの雑記で書いたことがあるが、自分の文章がどう人から見えるものか、読まれるものか、その風合いみたいなものがあまりよくわかっていない。私の書くものに文体と言えるほど個性があるかはちょっと自信ないし、もし私なりの文体らしきものがあったとしても、それが客観的にどういう味わいのものかがほとんど掴めてない。
そもそも、私は自分の書いたものが、読んでいる人にそれなりに伝わる文章として成立しているのか、どこか自信がない。服を着たつもりなのに実はパンツ一丁で往来に踊り出てて、普通に喋ってるつもりなのに周囲からは意味不明の言動をわめいているような、そんな奇怪な光景を生み出しているのではなかろうか、なんかそんな気分がずっと抜けない。
とりあえず、職場の人によれば、場面はちゃんと思い描けるし、話の筋も理解できるし、読み物として読むことはできるということだったので、あまり心配しなくてもいいのかもしれない。
とはいえやっぱりこれからも、なにか一つ短編でも書くたびに、「ねえ、これほんとに合ってるのかなぁ!? 日本語として理解可能なやつです!?」て気分は抜けないで文章書き続けることになるんだろうな、とは思うけども。
スーパーマン2025年版、最初から好きィ!と思ってはいたけど、後からじわじわ高まってくる~!
と思ってツイッタとか検索してたら、公式からの供給が多すぎて暴風雨の屋外のヤシの木に縛り付けられて一晩放置されたような気持ちになった。
どういう風速ですか、耐久保ちません、ムリです!!!!
なにがって公式がクラーク・ケントのツイッタアカウント運営してくれてる……
思わずフォローしちゃったよ。そしたら毎日、朝イチ(といってもアメリカの朝イチなので日本では夕方だが)にめっちゃポジティブで優しい前向きはげましツイートしてくれる……他の人に言われたら鼻白むようなことでもクラークだと思うと、thnksクラーク!今日もがんばるね!ってなっちゃうな……私がちょろい、ちょろすぎる。
あとスーパーマンにインタビューした記事をスレッドでツイートしてたりする、そしてリプでファンたちが、まるであなた自身がスーパーマンみたいな詳しい記事ですね?みたいなツッコミを入れている。
そしてクラーク垢、ロイスとの自撮り画像とかめっちゃ気軽にうpってくれる……ヒィ……好き……
男女厨だから、とりあえず今めちゃくちゃクラーク×ロイスのカプ推しになってるのでめちゃくちゃ嬉しい、けど嬉しすぎて嘘だろ! こんなに私に都合のよい公式供給が山盛あるとか、夢とかじゃないの、ねえ、これ、なに💢💢💢💢!!ってなってる。
なにせ普段の推し界隈、公式からの供給はもうだいぶ無風なので……なんかもう胃がびっくりするような気持ち。
でもアメコミの沼はやべーサイズと深度なの知ってるから、追いませんよ。
ところでクラーク、キャラクタといい筋肉たっぷりデカ男であるところといい、K2の一也みてーなやつだ……などと考えてて今更気づいたけど、私、気は優しくで力持ちな純朴誠実男性キャラ、めちゃくちゃ好みっぽいね? いや今更だけど。
別に筋肉なくてもいいけど、素直で真面目で裏表のない男性キャラは好きだな、ジークアクスでもエグザベくんなんだかんだいって気に入ってるし。そこに筋肉の厚みが加わるとだいぶ好み指数が上がるような。
でも、カップルであってこそだったりもするので。
一也は宮坂さん、クラークはロイスがいることにより指数関数的に爆上げ大好き!という感じもある。安定、信頼、絆がド深いカップル好き~。しかも女性キャラが自立してる強い女だと最高に良い~。
メイン推しカプは、というかペレスは……
(アブトゥはもう私が好きなタイプの女性キャラど真ん中なので、まあなにも言うことはないとして)
知識先行すぎてちょっと変人だし、純朴かっていうとそういうのとはちょっと違うし、筋肉はたぶん全然ナイナイだけど……まあ真面目ではあるね、多分。裏表はない。学問一直線ゆえに。それを誠実と読み替えて勝手に萌えている気もしなくはない。
もしもペレスが、気は優しくて力持ちで筋肉分厚くてボイン胸筋で、そのうえ田舎者で朴訥で、ひとに優しい好青年とかだったらますますヤバかったのか……?
いや、ペレスはあのキャラ、頭でっかちテック系だからいいんだよな~(たぶん外見設定としてはややひょろなんだろう。ただし1469の立ち絵がゴツめなため、1469ペについてはまあまあ体格良さそうなイメージにはなっている)。
ていうか筋肉の厚みがすごくて温厚篤実で他人からの信頼度はんぱないペレスってなんだよ。
ペレスは友好度初期値4なところがいいんだよ。人間社会でいまいちスマートにやってけそうにないところがいいんだよ。あれ、不器用要素、ここにあったね……ていうか褒めてないな、これ。
こんなん言うてますけど、だいぶ好きなんだよ、ペレスのことも。
と思ってツイッタとか検索してたら、公式からの供給が多すぎて暴風雨の屋外のヤシの木に縛り付けられて一晩放置されたような気持ちになった。
どういう風速ですか、耐久保ちません、ムリです!!!!
なにがって公式がクラーク・ケントのツイッタアカウント運営してくれてる……
思わずフォローしちゃったよ。そしたら毎日、朝イチ(といってもアメリカの朝イチなので日本では夕方だが)にめっちゃポジティブで優しい前向きはげましツイートしてくれる……他の人に言われたら鼻白むようなことでもクラークだと思うと、thnksクラーク!今日もがんばるね!ってなっちゃうな……私がちょろい、ちょろすぎる。
あとスーパーマンにインタビューした記事をスレッドでツイートしてたりする、そしてリプでファンたちが、まるであなた自身がスーパーマンみたいな詳しい記事ですね?みたいなツッコミを入れている。
そしてクラーク垢、ロイスとの自撮り画像とかめっちゃ気軽にうpってくれる……ヒィ……好き……
男女厨だから、とりあえず今めちゃくちゃクラーク×ロイスのカプ推しになってるのでめちゃくちゃ嬉しい、けど嬉しすぎて嘘だろ! こんなに私に都合のよい公式供給が山盛あるとか、夢とかじゃないの、ねえ、これ、なに💢💢💢💢!!ってなってる。
なにせ普段の推し界隈、公式からの供給はもうだいぶ無風なので……なんかもう胃がびっくりするような気持ち。
でもアメコミの沼はやべーサイズと深度なの知ってるから、追いませんよ。
ところでクラーク、キャラクタといい筋肉たっぷりデカ男であるところといい、K2の一也みてーなやつだ……などと考えてて今更気づいたけど、私、気は優しくで力持ちな純朴誠実男性キャラ、めちゃくちゃ好みっぽいね? いや今更だけど。
別に筋肉なくてもいいけど、素直で真面目で裏表のない男性キャラは好きだな、ジークアクスでもエグザベくんなんだかんだいって気に入ってるし。そこに筋肉の厚みが加わるとだいぶ好み指数が上がるような。
でも、カップルであってこそだったりもするので。
一也は宮坂さん、クラークはロイスがいることにより指数関数的に爆上げ大好き!という感じもある。安定、信頼、絆がド深いカップル好き~。しかも女性キャラが自立してる強い女だと最高に良い~。
メイン推しカプは、というかペレスは……
(アブトゥはもう私が好きなタイプの女性キャラど真ん中なので、まあなにも言うことはないとして)
知識先行すぎてちょっと変人だし、純朴かっていうとそういうのとはちょっと違うし、筋肉はたぶん全然ナイナイだけど……まあ真面目ではあるね、多分。裏表はない。学問一直線ゆえに。それを誠実と読み替えて勝手に萌えている気もしなくはない。
もしもペレスが、気は優しくて力持ちで筋肉分厚くてボイン胸筋で、そのうえ田舎者で朴訥で、ひとに優しい好青年とかだったらますますヤバかったのか……?
いや、ペレスはあのキャラ、頭でっかちテック系だからいいんだよな~(たぶん外見設定としてはややひょろなんだろう。ただし1469の立ち絵がゴツめなため、1469ペについてはまあまあ体格良さそうなイメージにはなっている)。
ていうか筋肉の厚みがすごくて温厚篤実で他人からの信頼度はんぱないペレスってなんだよ。
ペレスは友好度初期値4なところがいいんだよ。人間社会でいまいちスマートにやってけそうにないところがいいんだよ。あれ、不器用要素、ここにあったね……ていうか褒めてないな、これ。
こんなん言うてますけど、だいぶ好きなんだよ、ペレスのことも。
ちょっと前に書いた100歳越えて逝去した大叔父さんだが、今日、母と電話して聞いたら、なんか去年まで工場で働いていたらしい。100歳過ぎても働いてたの!? とんでもねえ現役おじいちゃんだった……。すごいなあ。なんていうか、かくあれたら、と思っても真似とかできる気がしないけど、しかし尊敬というか、なんだ、すごいなあ。
施設に入ったのはやはり今年に入ってからのことで、本人の状態に問題があったのではなく、同居して生活の面倒を見ていた息子のおじさん(父の従弟)が怪我で長期入院になったため、一時的に大叔父さんに施設で暮らしてもらっていたという経緯らしい。
いやあ……なんと強靱な人生だったことか。そして、本人は病気とかで苦しんだというのはほとんどなく、安らかな顔をしていたというので良かった。お葬式も身内でまったりで、いいお葬式だったよと母は言っていた。大叔父さんがもういないのかってのはやっぱり寂しいけど、ほんと元気な長寿で最期まで貫いた人生だったの、なんか良かったな。
施設に入ったのはやはり今年に入ってからのことで、本人の状態に問題があったのではなく、同居して生活の面倒を見ていた息子のおじさん(父の従弟)が怪我で長期入院になったため、一時的に大叔父さんに施設で暮らしてもらっていたという経緯らしい。
いやあ……なんと強靱な人生だったことか。そして、本人は病気とかで苦しんだというのはほとんどなく、安らかな顔をしていたというので良かった。お葬式も身内でまったりで、いいお葬式だったよと母は言っていた。大叔父さんがもういないのかってのはやっぱり寂しいけど、ほんと元気な長寿で最期まで貫いた人生だったの、なんか良かったな。
スーパーマンの感想、今日もまとまって書けそうにはないけど、思いついたあたりで、分断についてとか、分断の向こうに手を伸ばす心意気についてとか、言葉が、対話が、その手立てなんだということとか、なんかそういう……あと、対話と対極にある、野生と粗暴もなんかそれはそれで居場所がある感じとか……
でも、この作品の良さにについて、一生懸命に言葉をえらんで説明する必要があるかというとそういう作品ではない。
単純明快に、見たら分かる。
見る価値のある良い作品だ。
見たら楽しい、すきっと晴れた気持ちになる。じんとする。ちょっと泣ける。だいぶ笑える。少し(だいぶ?)苦い。純朴マッチョの筋肉が良い。その筋肉がぼっさりスーツとダサ眼鏡に覆われてるのもまた良い。女子が軒並みキュートで良し。ツンデレインテリも良し、口悪ツンデレおっさんもまた良し。ヤンデレ(デレ?)悪役も良し、讃えよニコラス・ホルトの演技力。そして犬。とにかく犬。まあ犬が良い。片耳折れのジャック・ラッセル・テリアっぽくて雑種ぽい、赤マントつけたバカ犬、ごく普通のちょっとやんちゃなスーパードッグ、おもちゃで遊んでたら世界を救ってる暴れわんこ、愛してる。
まあとにかく画面の情報量が多い作品でもあるので、場面の一つ一つが楽しかったり、愛おしかったりするので、私もひたすら、この場面好きィ!ここも好きィ!!見て!!この夏の推し映画だよ!!って場面を羅列すればそれでよろしかろうとも思うんだけど、しかし作品全体を通してこの作品から強く受ける印象というものを私なりに言葉でまとまったかたちで記述しておきたい気持ちもある。それで、いくらかちょっと時間を掛けて考えつつ、書いてみたいなあという感じ。
でも、この作品の良さにについて、一生懸命に言葉をえらんで説明する必要があるかというとそういう作品ではない。
単純明快に、見たら分かる。
見る価値のある良い作品だ。
見たら楽しい、すきっと晴れた気持ちになる。じんとする。ちょっと泣ける。だいぶ笑える。少し(だいぶ?)苦い。純朴マッチョの筋肉が良い。その筋肉がぼっさりスーツとダサ眼鏡に覆われてるのもまた良い。女子が軒並みキュートで良し。ツンデレインテリも良し、口悪ツンデレおっさんもまた良し。ヤンデレ(デレ?)悪役も良し、讃えよニコラス・ホルトの演技力。そして犬。とにかく犬。まあ犬が良い。片耳折れのジャック・ラッセル・テリアっぽくて雑種ぽい、赤マントつけたバカ犬、ごく普通のちょっとやんちゃなスーパードッグ、おもちゃで遊んでたら世界を救ってる暴れわんこ、愛してる。
まあとにかく画面の情報量が多い作品でもあるので、場面の一つ一つが楽しかったり、愛おしかったりするので、私もひたすら、この場面好きィ!ここも好きィ!!見て!!この夏の推し映画だよ!!って場面を羅列すればそれでよろしかろうとも思うんだけど、しかし作品全体を通してこの作品から強く受ける印象というものを私なりに言葉でまとまったかたちで記述しておきたい気持ちもある。それで、いくらかちょっと時間を掛けて考えつつ、書いてみたいなあという感じ。
スーパーマンを見てきて、だいぶ気に入ったので吹き替え版もおかわりしてきたので感想書きたいけど、明らかに長文になるのでまた今度、気が向いたら。
今日は、母から、父方の大叔父さんが亡くなったと連絡があったので、大叔父さんのことを書いておこう。
不幸の知らせではあるが、なにせ100歳を越えてのことなので大往生であり、おじさん立派に生きたなあという感慨がある。
大叔父さんは父方祖母の三つほど年下の弟で、父の叔父にあたる。祖母は六人兄弟だったと聞いているが、五番目が祖母、六番目の末っ子がこの叔父さんである。祖母の旧姓は鈴木(仮名)といい、大叔父さんは鈴木という名字だったので、私や私の実家の面々からは「鈴木のおじさん」と呼ばれていた。
小柄で痩せていて、線の細い見た目の人だったが、非常に頑健で、確かほとんど病気らしい病気はしたことはなかったんじゃないだろうか。祖母の兄弟は、祖母もおじさんも含めてみな長寿で、だいたい90歳を越えてからしか亡くなっていない。昔、祖母が元気だった頃に、兄弟の長男にあたる大伯父も100歳越えても矍鑠としているという話を聞いた。鈴木のおじさんも同じように長生きをしたことになる。
しかし祖母には細身で温厚な鈴木のおじさんはか弱く見えていたのか、よく「しょうちゃんは優しい子だからねえ、体も小さいからねえ、よくいじめられてねえ、昔は泣きべそでねえ……」みたいなことを言ってた記憶がある。ただし祖母はなにごともやや大げさに言う人だったので、鈴木のおじさんが、祖母が言うようなひ弱ないじめられキャラだったかはわからない。確かにおじさんはごく温厚な人ではあったが、なにせ自営業者であり、職人であり、黙々と働き続けた人なので、根性は座ってるタイプじゃなかったかと思う。
なお、大叔父の名前を今は正確に思い出せないが、たしか「しょう」がついていたんじゃなかったろうか、それで祖母は大叔父をしょうちゃんと呼んでいた気がするが、間違っているかもしれない。
ともかく鈴木のおじさんは、戦前に、長野に生まれ、小学校を出た後で東京に出て、工場で働いたようだ。のちに金属加工の零細町工場を持って自立したらしい。
私が生まれた頃にはすでにおじさんは東京郊外の宅地の一隅に、1階が工場で2階が住居、という町工場兼自宅を構えていて、妻であるおばさん(数年前に亡くなったが、この人も長寿であった)と、私の父からはいとこにあたる息子と住んで、三人で工場を運営していた。もしかしたら一人、二人くらいは雇っている人がいたような気もするが、私はごく幼かったので細かいことはわからないし、覚えていない。工場が稼働している平日にはほとんどここを訪れたことがなかったのだ。
以前にも書いたが私と父母の三人は小さな賃貸アパートに住んでいたが、鈴木のおじさんの工場兼自宅はそこからほんの50mほどのところにあった。それでときどき鈴木のおじさんとこに飲みに行く親に連れられてお邪魔したのである。おじさんの住まいは、1階にある工場の入り口をくぐり、よこっちょの狭い階段をとんとん上って辿りつく2階だった。建物の広さは普通の一軒家程度の間口しかないから、ちょっと狭い感じもあったようには思うが、私は自分の体が小さかったこともあり、むしろそのちょっと手狭な居心地の良さは好きだった。ただ、1階の工場部分は、訪問がいつも休日か夜なのでなにも動いておらず、しんとした暗がりに鉄の重々しい機械がでんと沈黙しているだけで、それがどう動き、なにをどういうふうにするものなのか、子供にはなにもわからなかった。ただ階段をのぼるとき、工場の暗がりからは、油と鉄の匂いと静けさがひんやり流れてきて、子供の私には薄気味悪くて怖くて未知の、でも同時にたいそう秘密のこもった魅力的な異空間だった。
私が三歳の頃、我々一家はアパートを引き払ってよそに移ったが、それでも引っ越し先は隣町くらいの場所だったので、親はちょくちょく鈴木のおじさんのところに飲みに行き(サザエさんでいう、ノリスケおじさん一家の立ち位置である)、そのときは私も連れて行かれて、おばさんの出してくれるごはんやら酒のおつまみやらのご相伴をいただいたものだった。
平成の初め頃、鈴木のおじさんは工場ごと別の場所に引っ越した。これまた私の実家があるのと同じ県内ではあったが、路線の都合などで行きにくい場所だったのと、私が大学以降は沖縄に移ってしまったため、私は鈴木のおじさんの新しい家&工場には行ったことがない。
しかし鈴木のおじさんはその工場でずっとがんばっていたと聞く。かなり高齢になるまで工場の経営を自ら担い、さすがに平成の後半には息子である父のいとこのおじさんに経営を譲ったのだがその後も毎日工場に出勤し、旋盤や清掃などの作業をしていたらしい。それはほんの数年前……つまりおじさんが90代半ばを超えたあたりのことで、「こないだお中元のお礼で電話したら、鈴木のおじさんまだ工場に立ってるんだって!」と母から聞いたのだった。なにかの折々に鈴木のおじさんがあいかわらず元気であるという話はちょくちょく聞いたが、それにしてもこの歳まであまりに頑健ご長寿の行動ばかりなので、身内ながら毎度びっくりしていた。
去年も、おじさんの100歳のお祝いということで父母は鈴木のおじさんちにお祝いに行ってきたのだそうだが、そのときはまったく元気だったという。ボケてもいないし、ほとんど介護もなしで自分でおおかたの生活を自立してできていたそうだ。
訃報と同時に得た情報では、施設に入っていてそこで亡くなった、と母は聞いたらしいが、施設に入っていたことは父も母も聞き及んでいなかったというから、今年くらいに施設に移ったばかりだったのだろうか。施設ではどういう状態だったかはまだくわしく聞いていないが、長患いをしたようでもないので、ほんとに最後まで元気だったんだろうなあ、と思うとなんとなくほっとする。
考えたら、おじさん、ギリギリ大正末の生まれだったかなと思う。祖母が確か大正10年くらいの生まれだったので……。私も若い頃、沖縄で聞き取りとかやっていて、高齢の人に方言や生活誌を聞くことがたくさんあったが、考えたらこのときの聞き取りに協力してくれた世代の人はだいたい大正生まれで、おじさんと同世代か、少しだけ上くらいの世代だ。最近はその年代の人びとに聞き取りできることはほとんどなくなっていた。そのことに気付く度、自然の時間の流れとは言え、少し、いやだいぶ、寂しいところはあった。だからおじさんがついに亡くなったとなったとき、大正の生まれの人が本当にもういなくなってっちゃうんだなあという意味でもだいぶ寂しい気持ちがある。
しかし鈴木のおじさんの生涯についていえば、その長い生をほぼずっと現役で過ごし、黙々働き続けた。このおじさんの存在は、なんとなく私にとっては心に灯となる感じがある。私自身にはあまり長生きをしようという意識がなく、60そこそこであんまり苦しまずに死ねたらいいんだけど~、なんてことを無責任にお気楽に考えたりもするが、しかしおじさんのように毎日ちゃんとちゃんと日々の仕事を続けて、生き続ける、暮らし続けることって大事だなとも思う。いつ死ぬかなんてわからないけど、まあ病気になったり障害を負ったりもありえるんだけど、生きてる限りはまあ日々を黙々やっていきましょう、という気持ちも湧いている。
戦前から高度経済成長まで、そして現在にいたるまでも、おじさんのような人びとが日本の産業を支えてきた。おじさんはそういう無名の働き者のひとりだった。生涯通して働き者だった。彼の成した仕事は、おそらく今どきらしいスマートさとか高い生産性とかコスパとかいう言葉とはかけはなれているのだが、百年に近い黙々とした活動の日々を、無駄で非効率だなどと蔑むのは愚か者の弁にすぎないと思う。とても立派な年月を成し遂げて、おじさんは去っていった。ただ深く敬意が向かうばかりだ。
今日は、母から、父方の大叔父さんが亡くなったと連絡があったので、大叔父さんのことを書いておこう。
不幸の知らせではあるが、なにせ100歳を越えてのことなので大往生であり、おじさん立派に生きたなあという感慨がある。
大叔父さんは父方祖母の三つほど年下の弟で、父の叔父にあたる。祖母は六人兄弟だったと聞いているが、五番目が祖母、六番目の末っ子がこの叔父さんである。祖母の旧姓は鈴木(仮名)といい、大叔父さんは鈴木という名字だったので、私や私の実家の面々からは「鈴木のおじさん」と呼ばれていた。
小柄で痩せていて、線の細い見た目の人だったが、非常に頑健で、確かほとんど病気らしい病気はしたことはなかったんじゃないだろうか。祖母の兄弟は、祖母もおじさんも含めてみな長寿で、だいたい90歳を越えてからしか亡くなっていない。昔、祖母が元気だった頃に、兄弟の長男にあたる大伯父も100歳越えても矍鑠としているという話を聞いた。鈴木のおじさんも同じように長生きをしたことになる。
しかし祖母には細身で温厚な鈴木のおじさんはか弱く見えていたのか、よく「しょうちゃんは優しい子だからねえ、体も小さいからねえ、よくいじめられてねえ、昔は泣きべそでねえ……」みたいなことを言ってた記憶がある。ただし祖母はなにごともやや大げさに言う人だったので、鈴木のおじさんが、祖母が言うようなひ弱ないじめられキャラだったかはわからない。確かにおじさんはごく温厚な人ではあったが、なにせ自営業者であり、職人であり、黙々と働き続けた人なので、根性は座ってるタイプじゃなかったかと思う。
なお、大叔父の名前を今は正確に思い出せないが、たしか「しょう」がついていたんじゃなかったろうか、それで祖母は大叔父をしょうちゃんと呼んでいた気がするが、間違っているかもしれない。
ともかく鈴木のおじさんは、戦前に、長野に生まれ、小学校を出た後で東京に出て、工場で働いたようだ。のちに金属加工の零細町工場を持って自立したらしい。
私が生まれた頃にはすでにおじさんは東京郊外の宅地の一隅に、1階が工場で2階が住居、という町工場兼自宅を構えていて、妻であるおばさん(数年前に亡くなったが、この人も長寿であった)と、私の父からはいとこにあたる息子と住んで、三人で工場を運営していた。もしかしたら一人、二人くらいは雇っている人がいたような気もするが、私はごく幼かったので細かいことはわからないし、覚えていない。工場が稼働している平日にはほとんどここを訪れたことがなかったのだ。
以前にも書いたが私と父母の三人は小さな賃貸アパートに住んでいたが、鈴木のおじさんの工場兼自宅はそこからほんの50mほどのところにあった。それでときどき鈴木のおじさんとこに飲みに行く親に連れられてお邪魔したのである。おじさんの住まいは、1階にある工場の入り口をくぐり、よこっちょの狭い階段をとんとん上って辿りつく2階だった。建物の広さは普通の一軒家程度の間口しかないから、ちょっと狭い感じもあったようには思うが、私は自分の体が小さかったこともあり、むしろそのちょっと手狭な居心地の良さは好きだった。ただ、1階の工場部分は、訪問がいつも休日か夜なのでなにも動いておらず、しんとした暗がりに鉄の重々しい機械がでんと沈黙しているだけで、それがどう動き、なにをどういうふうにするものなのか、子供にはなにもわからなかった。ただ階段をのぼるとき、工場の暗がりからは、油と鉄の匂いと静けさがひんやり流れてきて、子供の私には薄気味悪くて怖くて未知の、でも同時にたいそう秘密のこもった魅力的な異空間だった。
私が三歳の頃、我々一家はアパートを引き払ってよそに移ったが、それでも引っ越し先は隣町くらいの場所だったので、親はちょくちょく鈴木のおじさんのところに飲みに行き(サザエさんでいう、ノリスケおじさん一家の立ち位置である)、そのときは私も連れて行かれて、おばさんの出してくれるごはんやら酒のおつまみやらのご相伴をいただいたものだった。
平成の初め頃、鈴木のおじさんは工場ごと別の場所に引っ越した。これまた私の実家があるのと同じ県内ではあったが、路線の都合などで行きにくい場所だったのと、私が大学以降は沖縄に移ってしまったため、私は鈴木のおじさんの新しい家&工場には行ったことがない。
しかし鈴木のおじさんはその工場でずっとがんばっていたと聞く。かなり高齢になるまで工場の経営を自ら担い、さすがに平成の後半には息子である父のいとこのおじさんに経営を譲ったのだがその後も毎日工場に出勤し、旋盤や清掃などの作業をしていたらしい。それはほんの数年前……つまりおじさんが90代半ばを超えたあたりのことで、「こないだお中元のお礼で電話したら、鈴木のおじさんまだ工場に立ってるんだって!」と母から聞いたのだった。なにかの折々に鈴木のおじさんがあいかわらず元気であるという話はちょくちょく聞いたが、それにしてもこの歳まであまりに頑健ご長寿の行動ばかりなので、身内ながら毎度びっくりしていた。
去年も、おじさんの100歳のお祝いということで父母は鈴木のおじさんちにお祝いに行ってきたのだそうだが、そのときはまったく元気だったという。ボケてもいないし、ほとんど介護もなしで自分でおおかたの生活を自立してできていたそうだ。
訃報と同時に得た情報では、施設に入っていてそこで亡くなった、と母は聞いたらしいが、施設に入っていたことは父も母も聞き及んでいなかったというから、今年くらいに施設に移ったばかりだったのだろうか。施設ではどういう状態だったかはまだくわしく聞いていないが、長患いをしたようでもないので、ほんとに最後まで元気だったんだろうなあ、と思うとなんとなくほっとする。
考えたら、おじさん、ギリギリ大正末の生まれだったかなと思う。祖母が確か大正10年くらいの生まれだったので……。私も若い頃、沖縄で聞き取りとかやっていて、高齢の人に方言や生活誌を聞くことがたくさんあったが、考えたらこのときの聞き取りに協力してくれた世代の人はだいたい大正生まれで、おじさんと同世代か、少しだけ上くらいの世代だ。最近はその年代の人びとに聞き取りできることはほとんどなくなっていた。そのことに気付く度、自然の時間の流れとは言え、少し、いやだいぶ、寂しいところはあった。だからおじさんがついに亡くなったとなったとき、大正の生まれの人が本当にもういなくなってっちゃうんだなあという意味でもだいぶ寂しい気持ちがある。
しかし鈴木のおじさんの生涯についていえば、その長い生をほぼずっと現役で過ごし、黙々働き続けた。このおじさんの存在は、なんとなく私にとっては心に灯となる感じがある。私自身にはあまり長生きをしようという意識がなく、60そこそこであんまり苦しまずに死ねたらいいんだけど~、なんてことを無責任にお気楽に考えたりもするが、しかしおじさんのように毎日ちゃんとちゃんと日々の仕事を続けて、生き続ける、暮らし続けることって大事だなとも思う。いつ死ぬかなんてわからないけど、まあ病気になったり障害を負ったりもありえるんだけど、生きてる限りはまあ日々を黙々やっていきましょう、という気持ちも湧いている。
戦前から高度経済成長まで、そして現在にいたるまでも、おじさんのような人びとが日本の産業を支えてきた。おじさんはそういう無名の働き者のひとりだった。生涯通して働き者だった。彼の成した仕事は、おそらく今どきらしいスマートさとか高い生産性とかコスパとかいう言葉とはかけはなれているのだが、百年に近い黙々とした活動の日々を、無駄で非効率だなどと蔑むのは愚か者の弁にすぎないと思う。とても立派な年月を成し遂げて、おじさんは去っていった。ただ深く敬意が向かうばかりだ。
推しイメソンプレイリスト、挫けそうになりながらやっとアルバム1個分弱くらいの分数(40分くらい、曲数でいうと13曲)にまとまってきた。
多分私は、推しイメソンの探し方をなんかすごく間違っていたのだと思う。
ぜんぜん、推しイメージだ!と思う曲を思いつけない。
今日になって今更、「そうかネットには推しイメソンを選ぶヒントや指南があるに違いない!」と気付いて検索したら、ちゃんとそういうページがいっぱいあったわ。
そんで、もちろん私は、ぜんぜん推奨されるやり方に沿ってなかった。めちゃくちゃ効率悪かった。
そもそも半分くらい日本語でないし英語ですらない歌を選んでいた。
その歌詞の内容を確認するための翻訳とか情報探しでめちゃくちゃ時間取られてたのだ。
でもおかげで、15世紀のイベリア半島の音楽について少しだけ勉強できたし、世俗曲は特にしっかり聞いてみたいと思う曲がいろいろあったから、アルバムごといくつか買っちゃった。
こういうきっかけになったのはとても良かった。
なお歌詞の翻訳では、今月だけ無料でお試しで使えてるGeminiにすごく世話になった。
ありがとうGemini。課金更新はしないけど、本当にとても助かったわ。
逐語訳出してもらったり、ニュアンスや文化的背景について質問できるのほんと便利だね。
しかし月額が1500円なら課金してもよかったけど、3000円は趣味に使うにはちょっと高いので継続課金は厳しいな……。仕事で使うんだったらアリだけど、仕事場では使いどころがあんまりない(しセキュリティ上も制約がある)。
そして、探してるうちに出会ったこの曲が!
すごく気に入ったので!! youtubeのアドレス貼っとくね!
シリアとレバノン出身のデュオによるアラビアンハウスだよ!
Kazdoura - Khayal خيال アルバム"Ghoyoum" 2024年
https://youtu.be/xA1TJrx5ZI8?si=SKtQxPRg...
めっちゃくちゃ良い……。好き……。
MVがちょっと妙なんだけどそこも含めて愛せる……。
とりいそぎ自PCのiTuneでいっぱい聞けるようにこの1曲だけ買ったけど、もうアルバムごと買っちゃおうかな。
推しイメソンリスト作りの顛末は、のぐちさんとこのアンソロ向け原稿としてまとめてみようかなと思っている。
イメソンリストとその説明自体はネットに置くのがいいと思ってるけど(リンクですぐ曲聞いてもらえるからね)、私が推したちに抱くイメージをいかにソングスセレクトに落とし込んでいくかの一連の苦闘は、オタ活ド下手人間がやりそうなバカバカしい迷走に満ちていて、わりと読み物にしてもおもしろそうかもと思っている。
多分私は、推しイメソンの探し方をなんかすごく間違っていたのだと思う。
ぜんぜん、推しイメージだ!と思う曲を思いつけない。
今日になって今更、「そうかネットには推しイメソンを選ぶヒントや指南があるに違いない!」と気付いて検索したら、ちゃんとそういうページがいっぱいあったわ。
そんで、もちろん私は、ぜんぜん推奨されるやり方に沿ってなかった。めちゃくちゃ効率悪かった。
そもそも半分くらい日本語でないし英語ですらない歌を選んでいた。
その歌詞の内容を確認するための翻訳とか情報探しでめちゃくちゃ時間取られてたのだ。
でもおかげで、15世紀のイベリア半島の音楽について少しだけ勉強できたし、世俗曲は特にしっかり聞いてみたいと思う曲がいろいろあったから、アルバムごといくつか買っちゃった。
こういうきっかけになったのはとても良かった。
なお歌詞の翻訳では、今月だけ無料でお試しで使えてるGeminiにすごく世話になった。
ありがとうGemini。課金更新はしないけど、本当にとても助かったわ。
逐語訳出してもらったり、ニュアンスや文化的背景について質問できるのほんと便利だね。
しかし月額が1500円なら課金してもよかったけど、3000円は趣味に使うにはちょっと高いので継続課金は厳しいな……。仕事で使うんだったらアリだけど、仕事場では使いどころがあんまりない(しセキュリティ上も制約がある)。
そして、探してるうちに出会ったこの曲が!
すごく気に入ったので!! youtubeのアドレス貼っとくね!
シリアとレバノン出身のデュオによるアラビアンハウスだよ!
Kazdoura - Khayal خيال アルバム"Ghoyoum" 2024年
https://youtu.be/xA1TJrx5ZI8?si=SKtQxPRg...
めっちゃくちゃ良い……。好き……。
MVがちょっと妙なんだけどそこも含めて愛せる……。
とりいそぎ自PCのiTuneでいっぱい聞けるようにこの1曲だけ買ったけど、もうアルバムごと買っちゃおうかな。
推しイメソンリスト作りの顛末は、のぐちさんとこのアンソロ向け原稿としてまとめてみようかなと思っている。
イメソンリストとその説明自体はネットに置くのがいいと思ってるけど(リンクですぐ曲聞いてもらえるからね)、私が推したちに抱くイメージをいかにソングスセレクトに落とし込んでいくかの一連の苦闘は、オタ活ド下手人間がやりそうなバカバカしい迷走に満ちていて、わりと読み物にしてもおもしろそうかもと思っている。
以前、職場のオタの人に推し活のヒントを求めたとき、「推しのイメソンプレイリストを作って、それで短い話とか書いてyoutubeのURL付きでページ数少なめの軽い本を一冊作るってのはどうか」とアイデアをもらっていた。
本作るかはともかく、推しのイメージにあう音楽を集めてリストにするってのは面白そうだなと思ったのだが、いかんせん、私は音楽に疎いしセンスもない。推しの人格や、背負う物語を表現するのに良さげな音楽を見つけ出すことが全然できない。
ので、なんとなく頓挫している。
そもそも、私はそれほど音楽に熱心じゃない。気に入って耳に馴染んでる曲をなんぼでも回し続けるので、新しい曲を全然開拓できない……。なんか未だにTMとか坂本眞綾とかの、学生時代に聞いてたものを延々、聞いてたりするし……。作業用に聞く曲、半分くらい古楽だし……。
古楽についてもべつに詳しいわけでもない。NHKのラジオ番組の「古楽の楽しみ」の配信をPCで録音しながら聞いて、いいなと思った曲を後で切り取って、mp3ファイルにしてプレイリストに入れるという、なんていうかみみっちいことをしているだけだ。体系的な、音楽や古楽ジャンルについての知識と理解はほとんど持っていないのだ。
しかし職場のオタの人も、先週なんとなしに気になっていたのか、「そういえば推しソングプレイリスト、やらないんですか」と水を向けてくれたが、しょせん私が音楽わからんの民なのでぜんぜん選曲できない……という話をしたら、「まあ、推しイメソン作るの、才能とセンス要りますよね……」と優しく言ってくれた。
推しイメソン作成の道は果てしない……深い沼が、ここにあるぜ……。
本作るかはともかく、推しのイメージにあう音楽を集めてリストにするってのは面白そうだなと思ったのだが、いかんせん、私は音楽に疎いしセンスもない。推しの人格や、背負う物語を表現するのに良さげな音楽を見つけ出すことが全然できない。
ので、なんとなく頓挫している。
そもそも、私はそれほど音楽に熱心じゃない。気に入って耳に馴染んでる曲をなんぼでも回し続けるので、新しい曲を全然開拓できない……。なんか未だにTMとか坂本眞綾とかの、学生時代に聞いてたものを延々、聞いてたりするし……。作業用に聞く曲、半分くらい古楽だし……。
古楽についてもべつに詳しいわけでもない。NHKのラジオ番組の「古楽の楽しみ」の配信をPCで録音しながら聞いて、いいなと思った曲を後で切り取って、mp3ファイルにしてプレイリストに入れるという、なんていうかみみっちいことをしているだけだ。体系的な、音楽や古楽ジャンルについての知識と理解はほとんど持っていないのだ。
しかし職場のオタの人も、先週なんとなしに気になっていたのか、「そういえば推しソングプレイリスト、やらないんですか」と水を向けてくれたが、しょせん私が音楽わからんの民なのでぜんぜん選曲できない……という話をしたら、「まあ、推しイメソン作るの、才能とセンス要りますよね……」と優しく言ってくれた。
推しイメソン作成の道は果てしない……深い沼が、ここにあるぜ……。
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ところでちょっと前から、chatGPT、geminiそれぞれに、自作の二次創作短編かつ、単独でいちおうストーリーが成り立っている『四方の風』に載せたやつを、だいたい一日か二日に1短編づつのペースで、感想言ってもらったり分析してもらったりしている。
設問はだいたい同じプロンプトを投げるようにした。それぞれのLLMの違いや傾向について、肌感覚的に把握しときたいなと思ったのだ。なお一日に1つづつなのは、すぐ無料分のトークンを使い果たしちゃうから。有料にしてまでやることじゃないしね……。
……と思っていたのだが、実は前から使ってみたかったclaudeを一ヶ月だけ課金して試してみることにした。
claude、わりとすぐトークン使い果たしちゃうんだよ……課金はproプラン月20ドルで、それ以上だと月100ドルとか200ドルとかなんだけど、Proだと10万字超えの文章の分析投げちゃうとすぐ一日分のトークン使い果たしちゃった。もちろんそれ以上のプランにするほどではないので、おとなしく、トークンが復活するのを一日二日、待つんだけど。まああと一ヶ月弱、ちょっとclaude遊んでみることにするつもり。
で、今日の段階では、chatGPTとgeminiにそれぞれ『四方の風』に載せた8作品の感想とか講評みたいのは書いてもらって、あとそこそこ長さのある「鳥が歌うときには」「覚醒」の感想&講評投げもした。
claudeでは、まだ「鳥が歌うときには」と「覚醒」、『四方の風』から「霧」、を見てもらっただけ。
ただこの段階でも、やっぱりそれぞれ個性があるなってのは感じる。
あとなにより使った感触というか、印象というか、なんかそのへんが違う。
物語分析自体は、短い話だと、おおむねあらすじや、中心的な部分の解釈はだいたい妥当というところで、3者ともそんなに違いはない印象なんだけど、指摘事項とか分析の際の注目点なんかのディテールだとわりと違うかな。特に「リズムや文体について講評して」とか、「評価できる描写や場面はどこ」というふうに、質問のポイントを絞り込むと違いが出てくる印象。
なんとなくそれぞれの印象を書いてみると、
・chatGPTは、リズム分析とかさせると、なんかそれっぽい回答返してくれる感じだった。一文の長短とか、読点とか動詞とか接続詞の位置や用法なんかを数えだして、なにかと可視化しますか?とかグラフにしたがる。グラフにすることが有効かどうかはわからないが、定量的分析っぽくてかっこいい。ただ、本当にリズムが分析できているかというと細部はどうも適当ぽい。文学的分析みたいな設問のときも、なんかそれっぽい専門用語とか概念ぽいことばを取り出して説明しがちだが、その用語が適切かどうかはよくわからない。うっすらと、ちょっとお調子者で知ったかぶりだね……まあそこに湧く親しみもなくはない、という印象に至った。基本、テンション高め、フレンドリー、全体に寄り添い傾向強め、隙あらば褒めてくる。
・Geminiは、物語の流れの把握に長けているが、一方でリズム分析とか他の要素について尋ねたときも意味や文脈といった分野に重点置きがちな感じはする。リズム分析だとなにかと読点の位置を気にしがち。あと、ギャグというか、皮肉とかちょっと脱力する感じの小ネタを置いたとこに存外反応強めだった気がする。落ち着いてるっぽい印象なのにわりと面白がりさんでゲラなのかよ!と思った。あと、Gemini姉さんは語り口落ち着いてるぜ……と思わせて、ふと見ると過剰な褒めをつっこんでくる気がする。実はchatGPTより褒めの派手さが目につくなとおもったりもした。
・claudeは、おそらく文脈把握は3者の中では一番上手で、なおかつ、過剰に褒めもせず、適切な読解を最大限簡潔で必要にたる分として提示してくれる感じ。全体にソツがないし隙もない、仕事出来るマンの匂い。褒めも混ぜてくるけど控えめなので、わりと淡々としている印象がある。物語の理解の的確さやほどほど感はたぶん一番。特に指示をしないで講評とかお願いすると、評価ポイントと同時に改善点や欠点も必ず指摘する。ブラッシュアップのアドバイザーとしては頼りになるかも。ただ、「私はステップアップなど求めてない、なんかいい感じに褒め感想聞きたかっただけや!」という気分のときには、小うるさく感じるかもしれない。プロンプトでそう指示すればある程度フレンドリーにふるまってくれるんじゃないかな、とは思うが、chatGPTやGeminiの、ひたすらちやほや路線とはちょっとタイプが違うのは確か。chatGPTの寄り添いを浴びまくったあとでclaudeを浴びにいくと、急に冷水ぶっかけられて整えられちゃったというか、うっすら鼻柱にデコぴん食らうような感じもするというか……chatGPTよりはうっすらスパイシーかもしれない。
試したわけではないが、20万字くらいの文庫本丸々一冊分の文章を投げてもだいたい的確に要約してくるという話を聞くので、長文読解や文脈理解みたいな仕事だったらとにかくclaudeさんにおまかせするのが一番間違いなさそう。
ああ、そういえば、claudeではやってないけど、chatGPTとGeminiでは、長い文章から任意で場面選んで絵を一枚書いてみてくれ、ってのを試してみた。
で、20000字近くある「覚醒」をファイルごと投げて絵を描いてもらったんだけど、Geminiは20000字あっても余裕であらすじ把握できてたけど、chatGPTは後半なればなるほど把握が怪しかった。ただこれは、課金して高度なモデル使ってみたらまた違うのかもしれない。
あと、どっちも無料で使える範囲でしかやってないので、修正出しながら何回もほしい絵出るまで粘る、という生成はできていない。なので、ポンと出しただけだとだいたい、うぅんなんか違うな……というものにはなる。
正直、絵の生成については自分で描く方が手っ取り早いし、イメージしているものに近いものを出すことができるなあと思う。もちろん私の描く絵は絵としてはものすごくへっぽこなのだが、これは上手下手の問題ではない。人間の描く絵には、なにをどう切り取って見せたいか、その決定と判断の積み重ねががっつりにじみ出ているので、そうかい、あなたの言いたいのはここなのかい!という焦点がくっきりしている、という話。
LLMという技術はやはり、平均値のだいたいの正解を出そうというのが核にあるのだろうなあと思う。なので、テキストで描写された要素をグラフィックとして画面にいくつか並べることまではできるのだが(まあそれができるのがそもそもすごいではある)、テキストで描かれている要素のうち、絵としてはなにをどのように強調し、絵でこそ可能な語りをディテールのどこにどのように忍ばせるか、みたいな主体的な判断まではできないのだ。
「この話の場面なら、きっとこういう画角でこういう光の当たり具合で、こういう位置関係で、顔の向きは、目線はこうだ! そうやって描いたら伝わりそう、伝わると思う、伝わ!れ!!」……と、このように、私が絵を描くときには無意識でいくつもの判断と選択と決定を繰り返していると思うのだが、そういういくつもの積み重なる選択と決定を、LLMはしてくれない(たぶんできない)。
とはいえ物語と密接に結びついた表現物とかではなく、なんか雰囲気アップのために絵とか図解も添えてみた!みたいなグラフィック生成だったら使いどころはかなりあるんだろう。グラフとかチャートとか。絵じゃなくて図、ということなら、簡易なものであれば自分でこさえるよりはよほど素早く正しくきれいなものを出してくれると思う(ハルシネーションがないかのチェックは必須だけど)