雑記

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 天気ずっと雨曇り雨曇りくもりくもり雨曇り!て感じ。
 来週もずっと天気悪。
 ハァ? レモン彗星見に行く気満々でしたけど?!

 まさかこんなにぐずつき天気がダラダラ続くとは思わなかった。
 なんだよも〜なんで雲多いんだよも〜
 熱帯雨林気候が目の前だからなんだけどさ〜(本島あたりは日本と同じ温暖湿潤気候の範囲だが、石垣島らへんは熱帯雨林気候に分類されている)

 というわけで、関東よりは明らかに空気が澄んでいるのだが、天体観測には全然向いてない、そんな地域に住んでいる。
 晴れた日で離島なら確実に天の川もバッチリ見える、なんなら本島の中部でさえ、場所選べば普通に天の川くらい見えたりするんだけど、とにかく空気に湿度が多い。あと島なので、水平線からすぐの高さになにかと雲が常駐しがちで、彗星のように高度が低い天体の観測はなかなか難しいのだった。天頂のあたりにはちっとも雲のない、さっぱりした快晴であってもも、水平線の上にはだいたい雲が湧いてるふよふよ流れてるっていう。

 来週の後半、どうにか晴れてくれないかなあ。

 

日記 編集

 絵をなあ、描いてる場合ではない……という躊躇いがあることについてここに書いたが、しかし絵を描くこと自体は、頭と手指が連動するタイプでそんなに金もかからない趣味なので、続けた方が良いなとも思う。たぶん年寄りになったときに効く。
 一時中断してしまうかも考えたが、描くのを休止すると、意欲も手順もすぐ忘れて薄まってしまう。老後に絵を趣味にできる程度を維持するには、上達を目指さないにしてもなお、継続的に絵を描き続ける必要はあるように思う。じゃないと、たぶんだけど、鉛筆握って絵を描こう、という気待を維持できなくて、描けなくなる。

 絵を描く行為は、わりと身体を使う行動だ。同時に、視覚中心に、脳に情報を延々と受け止め続ける行為であり、かつまた、一瞬一瞬、短く考え判断し続ける行為だ。頭使う、精神力も消費する。
 身体のいろんな機能を使うので、年寄りの趣味にほんと悪くないとは思うが、わりとくたびれる趣味でもあるので、体を慣れさせ続けてないと、年取って急に、昔取った杵柄……と思っても、うまく取り組めない気がするのだ。続けてないと、手と脳を慣れさせ続けておかないと。
 だから絵は、がんばって描く癖を捨てないどこ、と思った。年寄りになったときに健康に効きそうな趣味、他に持ってないし。(作文はねえ、考えなくてもずっと続けてるとは思うけど、絵描くほど身体のいろんな機能を使うタイプの手すさびじゃないからなあ)

日記,地図や地理 編集

 絵を描くのはやめようかなあ、という考えは、わりといつもなんとなく持っているのだが、実際やめてしまうと決めてしまったらどうだろう、という気持ちが、ここ半年ほどかなり心にひっかかっている。
 らくがきを描くのは楽しいし、どんな絵であれ描き上げたところまで届いたらそれなりの満足感もあるし、自分の絵はそう嫌いではない。
 ただ、まあやはり、他人の目からすれば、喜んで見るような絵でもまるでないので……らくがきは、らくがきだから自分が楽しけりゃいいではある。しかし、たまに必死に自分なりの全力で絵を描いてみても、絵として魅力的なところが薄いものしか描けない。もちろん下手で絵の技術がないからだ。絵としての核がなんか欠けてる、というか華がない、ような気がする。といって、なんかそういう、絵であることの魅力がちゃんと出せるとこまで、コツが掴めるとこまで絵の練習を頑張れる気もしない。もちろん漫画を描く能力はほぼゼロで、特にストーリー漫画は描けない。(1枚のらくがきをするのと、ちゃんとした絵を仕上げるぞと臨むのと、そして漫画という媒体で物語を描きだすことは、それぞれまったく別の種類の作業だと考えている。もちろん文章を書くのはさらに違うかたちの作業だ)

 とはいえ、描くこと自体は楽しいので下手でもいいから描くだけ描き、そして枯れ木も山ってやつでネットにも置くようにはしているのだが、本当にこれにどれだけ意味があるのやら……という疑念がどうもいつもちらちら揺れている気がする。
 それに、らくがき描いて満足してると、なんか物語のかたちに仕上げなきゃなっていう衝動を中途半端に満足させてしまってる気がしているのだ。そんな物語っぽい半端ものであれコンテンツはコンテンツでしょ、とか、言うて文章よりはやっぱ絵のほうがキャッチーではあるんだよ一目見てぱっと全体が掴めるもの、というメリットも考えては来たが。
 しかしなにせ絵を描くことに慣れてないので筆が遅く、らくがきのくせにうっすら時間をかけて描いてネットに転がしててる。しかしそんなことをして小手先ごまかしていやしないか、みたいな。私は推し作品のなにが好きかを深々考えたり、推し作品の世界にタッチできる物語を(自分のために)こしらえる手業からなんとなく逃避してる気もしてきたあーー!というのが、最近の私のなんとなくのひっかかりなのだ。
 とはいえ、考えすぎな気もしてる……べつにネットの隅の数メガもないくらいのデータ量使ってて誰が困るわけでもないし。らくがきはらくがきで楽しいしなあ。でも人に見せる意味はなあ……考えてみればないんだよなあ、特には。まあしかし、文章よりは絵のほうがとっつきやすくてフレンドリーさある……それくらいしか理由がない……つまり推しを推す活動が他者に対してフレンドリーである必然をどれだけ重要視するか。いや、そりゃ重要だよな。そうだけど。
 うーん。絵……うーん、どうしよう。まだなんとなく考え込んでる。しばらく(年単位になりそう、気が長い)考え込んでると思う。

追記:
 考えたら液タブ買っちゃってるからな……液タブ壊れるまでは絵は描いとくがいいか。液タブがもったいないからな。絵を公開するものとして描くかどうかはまた悩むとして。(でも人に見せるとでも思わないと描き切る根性が実はなかったりする……怠け者だから……)

日記 編集

 寝っ転がってスマホいじってるとき、手元を誤って枕元に落とした。たまたま落下した箇所にサブの、二世代前に使っていたスマホがあって、ガチンと思い切り当たる音がしていた。
 現用スマホもサブも京セラのTORQUEシリーズで、現用は06、サブは03である。どっちも頑丈で、今まで散々ポケットから転がり落としてはアスファルトに叩きつけるうっかりなどにも耐えてきた連中なので、ぶつけてもあまり心配をしていなかった。ただ、なんとなく、最強の矛と最強の盾をぶつけると……みたいな故事成語をなんとなく連想した。ダイヤモンドを傷つけることができるのはダイヤモンドだけ……みたいな。なんか少年漫画にありそうな感じの。最強タフスマホと最強タフスマホ(ゴリラガラス)同士をぶつけるとどうなるのか……
 とはいえ、現用スマホのほうは何の不具合も見当たらなかったのでそのまま忘れていたのだが、数時間経ってふとサブのスマホの画面を見たら、打撃でダメージを食らっていたことに気づいた。

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 サブの方はもうSIMも入ってないし、最近は動作も重いわ突然の再起動を繰り返すわで動きが怪しくなってきているので、サブとはいえほぼ時計代わりにしか使っていないから、画面にヒビが入ったとしても困ることはあまりない。ただ、不注意でこう目立つヒビを入れてしまったのは、なんだかかわいそうなことをしちゃったなと思う。というか、時間差でダメージに気づいたので、マジで少年漫画ぽいわという変な感慨もある。あるけど、やっぱ画面に不具合あるとしょんぼりではあるわ。ごめんな03。

日記 編集

 パンさあ、食パン。
 別に普段食べてる、変哲のないいつものパンなんだけど、なんか妙に美味いな~ってなるときある。
 パン、美味いぜ、美味い、小麦の恵みだよ。
 晩飯、適当に冷凍庫に余ってた野菜の切れっ端とか冷凍シーフードを炒めて、そんでスーパーで安売りしてたボンゴレビアンコのソース和えて、まあこれもすげー変哲のない味だし人にお出しできる飯じゃねえんだけど、私は貝類の味好きだから、まあ私にはだいぶ美味いわけ。そんで、具材炒めたフライパンにうっすらのこったソースがちょっともったいないなってんで、食パンのはじの、ほぼ耳だけの切り落とし部分あるやん、あれで拭って食べるっていうみみっちい食べ方したわけ。んでソースもいい感じに好みの味だし、パンもなんかしみじみ美味いしさ。はぁ、これは私、ただいま人生にだいぶ満足しちまってるな、て、なんかエモ感じちゃったってわけ。

 あと、今日は同僚から、「コーグヮーシ要ります?」て聞かれてな。
 まあ即答よ、「余ってるんだな、くれよ、くれよ、くれくれ、ぜひ!」

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(文庫本とほぼ同じ高さ、幅はさらにもうちょっとある!
 なお、むき出しに見えるが、なんかピチっとパッキングされてるだけで、ちゃんと表面はフィルム張り。
 最初出されたとき、エッむき出しかい!ってびっくりしたけどそんなはずはなかった)

 コーグヮーシ、これは沖縄語の言い方で(たぶん漢字を当てるなら羹菓子かねえ)、日本語で言う、いわゆる落雁。お盆とか法事のときにお供えする、あの鯛とか蓮とかのかたちしててグラデ便箋みたいなレインボーで彩られてるやつ。和菓子屋で買えるような品が良くて干菓子とか呼ばれてるあの丁寧な食べ物じゃないやつね。
 それのもっと色がついてないやつ。砂糖と米粉の味が延々する地味なやつ。あれ。
 そう、地味な味が好きな私の、わりと好物のひとつなんだ。
 好物ったって飛びつくほど好きってほどじゃないけど(葡萄とかベリー類ほどの好き枠ではない)、あったら嬉しくなって、ちまちま食べるんよね。
 だけどあれ、地味な味なせいかそんなに喜ぶ人いないらしくて、コーグヮーシが余ったらだいたい私に声かけてもらえるんだ。私、気がつけばコーグヮーシ処理班という立ち位置をゲットしている。
 個人的には、フチャギほど飽きる味でもないし、甘くて美味いし、湿気のこないとこにしまっておけばまあまあ日持ちもするから、口寂しいときにかけらに割って、一切れ二切れ、ちまちまかじるのはかなりいい感じなんだけどな。
 とりあえず、世間ではそれほどもてはやされてないものを好きなときは、私はこれが好き!と隙あらばアピールしている。そうするとニッチな需要に滑り込めて、世間でそいつがもて余されたとき、ちゃんと私に回ってくるのだ。ライフハックとかいえばいくらか聞こえが良いが、まあぶっちゃけ、みみっちいというか、さもしい行動ではあるのだろう。しかし私は、私の好きなものがなんとなく持て余されてるの、なんかしょんぼりしちゃうわけよ……頼むよ邪険にしないでやってくれよ私が食べるからよこしてくれよ、その美味しいの。そんな感じ。
 
 ちなみに他の人もたいがい好きなものでも、まあ積極的に好きを全露出してはいる。葡萄とか葡萄とか葡萄とかネオアトラスとか船とか馬のことだね(食べ物に限らない)……とりあえずこれが好き、をアピールしておくと、あんたの好きなあれに関連してこんな情報あったよ!ってすぐ人から新情報を教えてもらえるから、超ありがたいよ。

 話がまとまんねえが、まあテーマのある話じゃない。思いつくままキーボードを打っている。私、地味めの味がけっこう好きって、なんとなくそんなことを言いたいのかもしれない。
 というわけで、コーグヮーシをデザートにするために、コーヒーもわざわざ入れた。自分が好むものをおよそからもらいものしたとき、いつでもありがてえので、美味しく食べる支度はおさおさ怠らない。
 それにしたって、まあ、よう食うわね。
 どうあっても痩せたりしないわけだよ。

日記 編集

 電ファミで「記憶を消してもういちど遊びたいゲームは?」というアンケートをやっていて、アンケで名前が挙がったソフト名を全列挙という記事があったのだが

https://news.denfaminicogamer.jp/kikakut...

 ネオアトラスがないじゃん!(大航海時代もないです)

 まあネオアトラスも大航海時代も、記憶消してあの驚愕をもいっかい!というタイプのゲームではないからね。
 世間一般にはね。

 私にとっては。
 私にとってはそうじゃない。
 記憶消してもっかい、もっかい遊びたい!
 もっかいアマゾネスイベントの驚きと萌え悶えを体験したいんですけどおお?!!

 私は基本的に人生において後悔とか、「あのときに戻れたら」という考えを抱かないタイプの人間なのだが(やりきって満足とかそういうのではなく、味の悪い過去は都合良く忘却して生きていくタイプ)アマゾネスイベントについてだけは、20年ちょっと前、大学生のときにネオアトラス最初に遊んだときにどうしてゾネスイベスルーしちゃってたんだよぉお!!というのだけ、なんかとても悔しいのだった。
 あのとき、ゾネスイベクリアしてたら、絶対、ペレスとアブトゥにどハマりしてたと思うんだよなあ。好みどまんなか男女なんだもん……。

 近い時期にガンパレとかにハマったりしてうっかり二次創作小説とか二つ三つばかりは書いていたあの頃の自分が、ネオアト2に今のレベルでドはまりしてたらどうなってたかなあと。
 そう、あの頃は自作ホームページを持ち、webringとやらにも参加し、コミケとかにも足を運ぶレベルでだいぶオタ活づいていた時期だったのだ。もしかしてあの頃、コミケで探してりゃ、うっかりネオアトの同人誌見つけられてたりしませんかねええ?!

 まあ、そうはいっても、現実はそうじゃなかったのだ。
 私は大学を出て仕事に就いて、二次創作もしなくなったし、ゲームもあまり遊ばなくなった。
 自分の根っこがオタクであることの自覚はあったけれども、オタク的な活動からはだいぶ遠のいたし、次第にオタ活動の記憶も遠くなっていった。
 令和に入る頃には、「萌え、二次創作、そういうものをいくらかたしなんだ過去もあったな……」くらいの距離感になっていた。山並みの向こうの黄金の残照を見つめるような気持ちとでもいえばいいのか。慕わしさはあれどもあれはだんだんに過ぎていく、真昼のきらめく日差しだったのだ。

 ……だったのに、なんだよ。
 なんなんだよ、1469。おまえ。
 そんな、そんな萌えをさあ、令和の世に私にたたき込んできてくれてさあ!
 ていうかほんと、なんで平成のうちに私はアブトゥの正体に気づくことができなかったのか。
 ぐやじいいい!!
 もっと早いうちに萌えてたかったし、1469発売の知らせでウワァーーー!!!!2リメイクきちゃったよぉどうするどうするのどうなるの推したちーーーー!!!って、ソワッソワしたかったな……発売すぐのころのイベントとかにも参加しまくりたかった……。
 あとネオアトラス3も遊べば良かったな……
 ほんとここについてだけ後悔というか。後から悔しさかみしめてる。
 後から悔しがる、その字面のまんまの後悔を、人生でここまで感じた記憶はない。

 とはいえ、おそらくネオアトを一度遊んで、海運交易ゲーム楽しいね~の体験がなければ大航海時代オンラインを遊んではおらず、そして大航海時代シリーズにハマっていなければ、ネオアトラス1469を遊ぶということもなかった。そういう運命だったのだと納得するしかない。
 あと、二次創作については、二十代前半にちょろっと手を染めて(これについては、ほんとにちょろっとで、ネットでサイト作って二次創作小説何本か置いてたくらいで、紙の同人誌は出したことがなかった)それ以降は一次にしろ二次にしろ小説やイラスト書くってことはほとんどなかったのだが、1469どハマりのおかげで今更紙の本は出すわコミケに出るわと、えらい勢いづいてしまった。
 20代で遠ざかって以降、二十年ほど創作活動というものはほぼ空白だったので、正直技量も積まれてなきゃ深みも掘っておらず、この年齢になってこの稚拙な二次創作を世にさらすってのは正直だいぶ恥ずかしいのだが、そうは言っても多分、二十代だったら今サイトに上げているような二次小説は書けてなかったようにも思う。特に『四方の風』にまとめた短編とかは、自分がこういうタイプのものを書けるとはあまり思っていなかったのに、ふと思いつくまま書いてみたらなんとなしに当たり前みたいに書き出せてたので、自分でも意外だった。あのへんはほんとにネオアトラスという作品あってこその短編なので、なんかこういうの書かせてもらえる作品にめぐりあって良かったなあ、と思っている。

 ま、それはそれとして、一週間くらいのあいだだけ記憶消せるなら記憶飛ばして、そしてもっかいゾネスイベ味わってみたいねえ。多分おんなじように萌え転がれると思うわ。萌え転がりたいわ。
 いや今でも萌え転がれるんだけどさ。それはそれとして、あの衝撃をさ。うん、ほんと記憶消して遊べたら遊んでみたいなマジで。

日記 編集

 今日は十五夜だ。満月がきれいに見えている。
 写真に撮りたいが、今持ってるスマホもコンデジも、月の撮影には不向きでまったくまともに撮れはしなかった。私の持ってるコンデジはTg-7で、頑丈なうえにマクロ撮影がやたらうまくいくので資料撮影向きだと思って買ったのだが(実際、資料をとりあえずなんでもかんでも撮っておくという使い方をするには非常に勝手が良い)、遠くのものはそれほどうまくない。
 代わりというのもなんだが、沖縄の十五夜の行事食、フチャギを撮っておいた。

 一番下にそのフチャギの写真を置いてあるが、粒の小豆が大量に白餅に群がっている、という見た目なので、集合体の見た目がダメな人にはアウトかもしれない。スクロールするときはご注意ください。
(ちょっと空白も空けておく)。

 さて、見た目がだいぶアレだが、味は意外と……ということもなく、見た目から想像される通りの味だ。
 というのは、味付けらしい味付けがほとんどないからだ。
 餅粉を練って蒸した白餅、要は味付けのない白玉団子そのまま味、これがのぺっと長方形の塊になっていて、この「のぺっ」にうっすら塩煮しただけの甘くない小豆がまぶしてある、それだけである。
 これがフチャギで、この材料や製法から想像するとおりの味である。とにかく地味。
 強いて言えば、小豆そのまま、餅粉そのままの味を堪能できるとは思う。農作の恵みの味である。
 私も、最初の一口、二口くらい、口いっぱいに広がる「豆だー!」の風味を楽しむ。そのためにわざわざ買っている。
 が、きなこやはったい粉などの地味風味の穀物粉を好む私でさえ、フチャギは三口目あたりから早くも飽きる。漠然とした味、そしてぬぼっとした大きさ……とにかくアクセントのない味、そしてむやみと腹にたまる。
 収穫の秋にふさわしき「穀」の味に満ちてはいるのだが、とにかく単調である。
 こういう食べ物だけども、やっぱり沖縄の民は十五夜にはフチャギを食べたいものなのだろう。毎年、旧の八月十五夜の日だけ、このフチャギが大量にスーパーに並ぶ。いちおう平生でも惣菜コーナーにちょろっと置いてあることもあるが、普段わざわざフチャギを買う人というのもあまりいないので、平常は置いてないことのほうが多い。
 私も毎年十五夜にはスーパーでフチャギの三個入りを買う。本当言うと一個で十分なのだが、最小ロットが三個からなのだ。
 自分で好みの量を作ったらいいのだろうが、気が向かない。地味な味のくせに手間と時間はかかる。自分が食べたい一つ二つのふちゃぎをわざわざこしらえるのは、めちゃくちゃコスパが悪いのだ。といって、大量に作ったところで持て余すだけだ。喜んでフチャギを大量に平らげてくれる人なんてSSRの割合でしか世間に存在していない。職場や友人に持って行ったとしても特に喜ばれはしないので処理に困る。
 なお、スーパーには、砂糖とか、紅いも、よもぎなどで味や風味を足したものも売っている。味が単調なのがダメってんなら味ついてるやつ買えばいいじゃんと思うかもしれないが、甘けりゃ甘いでやっぱり飽きるし腹にたまる速度は1.5倍くらいになる。味がついてもやっぱり単調なのだ。いっそ甘い味などない方が、小豆のまめまめしい風味を堪能できてまだ喜びがある。
 そういうわけで、毎年十五夜には私はわざわざフチャギを買いにスーパーにいくし、買うなら絶対に味なしのもの、とこだわっている(夕方遅めにスーパーに行ってみたら甘い味のやつしか残ってなくて、その年のフチャギを断念したこともある)
 
 いちおう餅ということで、おやつの位置づけの食べ物だが、正直、腹にたまりすぎるので、晩飯として食べている。今日の晩飯はうどんにしようかなと思っていたのだが、そうだフチャギ買わなきゃ!と思ったので、フチャギと、あと惣菜コーナーに並んでたなんかの野菜を買って、それで晩飯にした。
 ……たぶんフチャギも、冷たくした汁粉なんかにデカい白玉として沈めて食べればそれなりにうまいのではないかと思う。だが、わざわざそんなことはしない。そんなものはフチャギではない。私は十五夜の晩にフチャギをこそ食べたいのだ、甘くない、単調で漠然としたあの豊年満作を、味わって祝いたいのだ。
 そう言って、毎年、今年も、ただただのっぺりと立ち塞がる小豆と米粉の味に溺れている。




というわけで、この下に、そのフチャギの写真貼っておくね。





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台風2025年22号、おっこれは久々に沖縄本島直撃コースか???と構えてたら、なんか本州に急旋回予報に。秋台風のコース取りだなあ。
https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/3...

 気候変動のせいか、ここ数年、今までだと沖縄付近で発生してたような台風の発生位置やコースが少し変わってきてる気がする。
 特に今年の台風は、フィリピンあたりの緯度で台風になってそのままほぼ西進というのが多くて、沖縄にはあまり大きな影響がなかった。波や風が少し強くなったりはしたけどね。

 そのフィリピンは、こないだ北の方が猛烈な台風に晒されたばかりなのに、先週にはセブ島でM6.9の地震もあって立て続けの災害はなんともかわいそうなことだ。地震では亡くなった人だけで数十名も出たそうで、痛ましい。ちょこっとしか出せないけど、せめて募金とかしよう……
 

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 コンビニでなんとなく買ってみたブルボンの「コメノチップス のり塩味」おいしかった。
 味も食感もかなり好み。米粉とトウモロコシ粉でできてるのだが風味がまさに薄焼きおせんべいとタコスを足して二で割った感じ、小さめサイズの薄焼きおせんべいで堅くてパリッパリ。このパリパリ感にのり塩の味付けはベストチョイス。
 さすがブルボン。

 わたしはブルボンに厚い信頼を寄せている。
 菓子皿に入ってると私のテンションが上がるお菓子、メーカー見たらだいたいブルボン。
 アルフォートとエリーゼとシルベーヌを作った会社だよ。
 ダイジェスティブビスケットもブルボンだ。
 シルベーヌなんてさあ、あんなちゃんとしたケーキの見た目で味もちゃんとケーキしてるやつ、スーパーで売ってるお菓子の箱からひょいと出てきていいクオリティじゃねえな!といつも思ってるよ。シルベーヌを生んだブルボンがあるこの国に生まれ、子供の頃からシルベーヌに親しむ環境があった(いやまあ、シルベーヌは高級品だからめったに買ってもらえなかったが)……少なくともその1点だけでも、私はものすごい幸運の星の下に生まれたんじゃないかって思う。
 ブルボンは、おせんべい系も地味に好き。おつまみに味サロン紛れてるとだいぶアゲだよね。というわけで、ブルボンを信じてコメノチップス買ってみて大正解だったし、ブルボンへの信頼がますます上昇したのですという報告です。
 

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 国勢調査の用紙が届いてて、ネットで回答した。
 ネット回答らくちんだな~。

 そういえばだいぶ昔、まだ学生の頃だったかの国勢調査で、家の広さを床面積で書く欄に遭遇した記憶がある。そのときは、えっ!この部屋ってどんくらいの広さなんか?!とわたふたした。学生アパート住まいで、ただ1Kの部屋だという程度の認識で、床は畳でもなかったから、広さを数値で把握できてなかったのだ。結局どうやって回答したかはまるで覚えてないんだけど、契約書を引っ張り出してきたか、それともメジャーで部屋の2辺をざっくり測るかして回答したような気がする。
 そういえば、今回の国勢調査では床面積とか聞かれてない。
 そっか、質問項目も変わってるんだろうなと思って検索してみたら、やっぱり近年になるにつれ質問項目が減ってて、住居の床面積の質問は平成22年の調査が最後となっていた。

>国勢調査の調査事項の変遷(総務省統計局ホームページより)
https://www.stat.go.jp/info/kenkyu/kokus...

 そもそも国勢調査には大規模調査と簡易調査というのがあって、交互に繰り返している。
 今年の調査は簡易調査なので、設問が少し簡単だったのだ。そんなことも今さら知った。
 設問が簡単、といってもそもそも大規模調査の設問自体がどんどんスリム化している。五年前の大規模調査と比べ、今回の調査で省かれた項目といっても、在学/卒業教育機関(学歴)と利用交通手段(通勤通学)の2つくらいだ。ていうか5年前の調査のときって学歴とか通勤手段とか書くところあったんだ……ぜんぜん覚えてない。なにもかも、すっかり忘れている。回答はしたはずなんだけど……なんも……おぼえてない……記憶力……

 5年前の調査のときって、そういえばネオアトラスにまだハマってなかった頃だな。
 私は2021年のゴールデンウィークに1469を遊び始めた。Covid-19に関連しての緊急事態宣言で家ごもりが求められていたのがきっかけの一つだった。
 令和2年度の国勢調査はその前の年の10月にやってることになる。2020年のはじめから、すでに世の中は新型コロナ感染症の話題に席巻されていて、2020年の前半の段階で、アマビエブームだとかマスクが売ってないだとか2020年東京オリンピックは延期だ、とかとか、そんないろいろの大騒動がすでに起こっていた。そんな大騒ぎの中、国全体での大規模統計調査をなんとか実施してたってことか。同じ年、厚労省の「国民生活基礎調査」とかはその年の調査を断念しているのだが、国勢調査はどうにかふんばったのだ。ずいぶん頑張って調査したんだろうなあ。
(統計データって私はわりと好きなので、それを調査してくれる機関のがんばりを応援する気持ちが結構ある)

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 なんでだったか、急に「アンジェラ」って名前を検索したら、最初に「英語の人名」みたいな説明が出て、えっ、アンジェラって英語圏だけの読み方だっけ?!ってビビった。
 アンジェラがイギリス人の可能性、全然考えてなかったけど、ありえなくはないよなあ。赤毛の人はどっちかいえば北寄りの地域、特にアイルランドに多いと聞くし……。
 しかし以前に合同誌を作ったとき、私はアンジェラを南イタリア方面のわりと格の高い貴族の家出身とかいう設定をしてしまったのだ。うへえ、もしかしてアンジェラって、イタリア語だと発音違ってる?て思って確認したら、同じくアンジェラだったので、救われた。イタリア半島出身としても間違いではない。
 でも、イギリス出身とかでもおもしろかったかもね、なんとなく。

 現在だと、英語圏(というかアメリカかな?)ではやや古風な名前という印象はあるみたい。redditとかで「今、赤ちゃんにアンジェラって名前つけるのダサいですか?」とか「アンジェラって名前どう思う?」みたいな質問がちょこちょこある。その回答を見ていると、上の世代では多かったし人気の名前だったんだよ、とドイツのメルケル首相の名前が挙げられてたりしていた(そいえばアンゲラって名前だったね)。現在で年齢が5,60歳代くらいになる世代の女性にありそうな名前、という印象が結構あるみたい。日本語だと昭恵とか光子くらいなイメージ? どの言語であれ、名前の流行りすたりってけっこうくっきりとあるもんだね、面白い。
 あと、「angel」というところで宗教的ニュアンスが強めと感じて、それがなんとなくひっかかる人もいるみたいだった。やっぱ音の響きもだけど、語源とかも気になる人はなるよねえ。
 なお音の響きそのものについて、あんまりいい響きじゃないかな、という意見が散見された。日本人の感覚としては、有声音多くて深く音が響くし、なんか優雅じゃんという印象あるんだけど、どういう調音や音の組み合わせが美しいと感じるかって言語でほんとそれぞれなもんだ。

 そういえばラグナール、Ragnarという名前は、今でも北欧で一般的に使われる男性名だそうだけど、おそらく由来はラグナル・ロズブロークという伝説的なヴァイキングの英雄にある。
 ラグナルは9世紀頃にイギリスとフランスを荒らしまくったというヴァイキングの長だという。「ラグナル・ロズブロークのサガ」ではシグルドとブリュンヒルドの娘を娶り、その娘との間に生まれた子孫からノルウェーを統一したハーラル一世が出た、と語られている(ハーラル一世はラグナルから見ると孫娘の子で、ひ孫にあたる)。このへん、古い時代のことで史実かどうかは疑わしいが、しかしラグナルといえば確かに後世にも名を轟かす英雄というのは間違いないようだ。
 ネオアトラスでのラグナールは、この伝説のヴァイキングと比べるとまただいぶギャップがあるキャラなとこ、そういうのなんか好きだな。

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 どうでもいい最近のこと。
 今週末に後輩の披露宴に招かれており、久々にフォーマル服などがちゃんと装着できるのかとか確かめたりなどの準備を進めている。
 で、普段の私は白髪を染めておらず、今やかなり白髪交じりの頭になっているのだが、さすがに白髪いっぱいじゃ美容室の人もセットに困るだろうと思って、久々に白髪を染めた。ちなみに前回染めたのも、結婚式にお呼ばれしたときであった。そういうことでもない限り、白髪を染めない人間なのである。

 染めがちょっと足りてないとこあったけど、まあこんなもんでしょという感じにはなった。
 わー、久々、髪が黒ばっかりだ!と感心する。普段どんだけ白髪生えてんだ。
 ただ、こうなってみて気づいたけど、白髪がないとものさみしい。
 寝床に転がったとき、ぼんやりと髪にまじる白髪を見つめるクセがあった(と気づいた)のだが、今や見つめても見つめてもなかなか白髪が見えないのが、なんか釈然としない。あんなにいっぱいあったのに。
 あとたまに(一週間にいっぺんくらい?)白髪抜きゲームとかしてた。なんとなく3本抜いたらゲームセットという自分のなかでのルールがあった。ゲームとか言うが別に勝ち負けとかタイムトライアルとかでもない。白髪をぷちっと抜く感触を楽しんで満足してただけだ。でもいまは、思い立っても白髪抜きゲームできないのだ……染めそびれの逃亡白髪がいるのでできなくはないが白髪見つける難度が段違いに上がっているので実質これは私の白髪抜きゲームではない。なんとなし落ち着かない。
 私は白髪がいっぱいまじっている自分の頭にわりと親しんで生きていたのだなと変なところで気づかされた。

日記 編集

 たまにブラッドベリの『死ぬときはひとりぼっち』を読み返したくなるときがあるんだけど、持ってないんだよなあ。買おうかな。

 タイトルすごいけど、原題めちゃくちゃかっこいい。
"Death Is a Lonely Business"である。
 タイトルにいきなりDEATHと来るのだが、わりと作品全体を通すと明るいほうの話。とはいえブラッドベリなので、奇妙と退廃とノスタルジーが、あらゆる場面にぎっちり詰めではある。
 主人公は、ブラッドベリ自身の青年期をモデルにしたとおぼしき貧乏物書きの「僕」。ということはブラッドベリの少年期をモデルにした『たんぽぽのお酒』の十年後のお話なのかもしれないが、『たんぽぽのお酒』に比べるとより筋書きがある。
 過日の栄光はとっくに過ぎて寂れて活気のない街、安普請のボロアパートに錆びた観覧車、暗い澱んだ水が退屈にちゃぷちゃぷしてるだけの運河、そういう街を舞台に、「僕」はどこかで挫折し世間から弾かれてしまった少し奇妙な隣人たちに翻弄されながら、彼らが突然飛び込んでしまう「死」の謎に迫る。
 ブラッドベリは献辞にチャンドラーの名を挙げていて、この作品はハードボイルドとして書いたということだけど、それにしては主人公がおとなしくて気弱な青年で、そしてヘマも多くて不器用ゆえに、なんだか愛嬌のある存在なので、あまりハードボイルドな感じはしないのだった。
 文体まいつものブラッドベリで、ミステリとか探偵小説というにはあまりに幻想みが強い。『何かが道をやってくる』の読み味と似てる感じがあるが、『何かが道をやってくる』ほど非現実な設定ではなく、いちおう現実の理屈のうえで話は展開してる、いちおう(だからって現実的なお話かというとそういうわけではない)。

 なにかとうろたえがちな主人公に、なんだかんだ味方して力づけてくれる大人たちが何人もいてくれて、わりとほっこりなとこが好き。年齢不詳美魔女?コンスタンスの家で古い映画を夜通し見たり、クラムリー刑事の秘密の植物園で水撒きして虹を見る場面とか、なんかそういうひと場面の味わいやきらめきがなんかすごく良い。
 でも終盤は、その彼らにも謎の孤独や「死」の気配がうっすらと差して、主人公のほうが彼らを心配したり、なにかしなきゃと駆け回る。この主人公の駆け回りぷりもなんか良い。どちらかというとハードボイルドというよりはホラーやスリラーが近いのかも。あと主人公が、成人とは言えまだまだ若くて世間知らずなキャラクタなので、ジュブナイル、成長譚の気配もある。

日記 編集

 今年に入ってからか、変な時間に非通知で0秒だけコール、という着信が記録されてる時が2、3回あって、最近、たまたまその瞬間を見かけたんだけど、ワン切りどころか着信音もならないくらい一瞬なのな。
 非通知だからかけ直しようがない。フィッシングではない。
 どういう電話だろ、なんか名簿業者とか、業者から名簿を手に入れた輩とかがリストにある番号生きてるかの確認入れてんのかな……と思いつつググったら、どうもだいたいそのとおりらしい。
 てことは、もしかしたらそのうち、詐欺電話かかってくるかもしんねえ。気をつけとこ。
 もう一つの可能性としては嫌がらせというのがありはする。するんだけど、多分それはない、ないと思いたい……私もあまり人に好かれないタイプの人間ではあるけど、非通知イタ電食らうほどの恨みを買ったことはない、はず、と思う、たぶん。……たぶん……(マジで思い当たることはなにもないんだけど、考え出すときりがねえな、まあこういうのはあんま考えんどこうね!)

日記 編集

 しかしなんで私は、読まれもしない文をたらたら書き続けているだろう、という疑問を今日も少し考えていたが、やはりぱきっとした答えを自分は持ち合わせてないなと思う。ただ、誰にも見られてないでただ一人でなんか好きに適当なことをしてて良いというのはとても気持ちが軽く、楽だ。
 記録として文字として記し、それを誰にも見れる場所に置いているからにはいつかに誰かが見ることもあるのかもしれないが、今のところ私の書くものに注意を払う人はいない。誰も見ていない場所で好きにものを書くというのは、下手な鼻歌をフンフン鳴らしながらいい気分でそこらを当てもなく気の済むまで一人で散歩してるのと似たようなことだ。風っていうか、空気みたいな感じだ。そのなんでもなさで気ままにはじめ、適当に切り上げる、そうできるというのはだいぶ心に抜けを作る。良い。

 とはいえ、自分なりの縛りで、やはり読み手を仮想はして、他人に伝わるようになけなしの努力はした文章を書こうという意識は持ちつつ書いている(その意識づけのために、書いたものをネットに置くことにしてある。まあ、公開することにはあまり意味はないだろう。私以外のだれかが読みたくなるような物事はほとんど書いてない、情報としては本当に価値の低い文字列だ)。
 そういう縛りもまた、自由だ。自由に自分に縛りをかけ、書き置いておこうと思ったことを(気が向いたら)書いておく。ただそうしたいからということだけが理由だ。まったく自分のために書いている。フフン、なるほどそりゃ気分がいいに決まってる。
(仕事なりなんなり、目的や目標のある書物は読み手にどう届くかに責任を持ってやらんといけないのでそこに思考も感受も費やすわけだが、読み手がいるかいないかしれんものとなると、誰か読む人いるかもしんないしいないかもしんない、くらいの仮定で書くので、なんらかの責任意識をだいぶ手離して書けるなあと。なんていえばいいんだろ、開放感というか、なんか広々した感じというか)

 取るに足りないものであることの、何の役にも立たないことの、誰を喜ばせる必要もなく誰かに必要ともされないことの、価値を持たないこと顧みられないこと、世の片隅にただあることの、身の軽さと自由と肯定。そう、これは自己を肯定することそのもの。

メモ 編集

 二次小説はともかく、雑記は、しかしなんで書いているのだろう。
 改めて考え出すと、なんだか不思議な気持ちもする。いいかげん誰にも読まれていないだろうと思いつつ、他人が読む前提で今もこの記事を書いているのだ。なんでだ、マジで。

 自分用のメモではある。
 ただ、メモのわりには、他人が読んだときというのを一応想定して書くことにはしている。読んでる人がいる保証はないのに、それでもだ(多分本当にこの雑記は、もはや私以外には読まれていない)。
 一個前の記事に書いたように、職場の小説書きの人に私の二次小説を読んでもらった。話が面白いかどうかはともかく、文章はそれなりにこなれてて、他人が読むことを想定した体裁の文章になってる、という評をもらった。
 自認としては、私はろくにフィクションを摂取しない人間なので小説書く基礎力にまるで自信がないのだが……という事を言うと、しかし人が読むことを常に脳裏において書いているタイプの文章ではあるよ、と指摘をもらった。そういえば私は説明文とか報告書とかは仕事でちょこちょこ書いているもんなあ、という話になった。(同部署なので、彼女は私が扱う業務内容を把握している)
 そして、物語文ではないが書きものをしているのはこの仕事でたまに書く文章類以外にもあって、それがこの雑記、ブログ的なものなのだ。こういうどうでもいいことをつらつら書く場所を、断続的にだがずっと書いてはきた。なんとなく人に読まれるものとしての文章を書き続けてはいることにはなる(しかし本当に、読者がいたことがほとんどないまま書き続けているのが常態で、それなのに虚空の読み手に向かって書き続けてるのだから考えてみると地味に狂気めいている)。
 雑記については、文章書きにとっての業務前のラジオ体操くらいのストレッチ機能はあるのかもしれないなと思う。筋トレというほどの強度ではないにせよ。たから誰に読まれなくとも、間がひどく空くときもあるけども、たまにでも、なんかしらは書くようにしたほうが良さそうかなと思っている。
 

メモ,日記 編集

 そういえばちょっと前に、職場の同人趣味持ちに、自分の本(プラニスフェーリオ)を貸して読んでもらった。同人趣味持ちで小説書きの人ではあるが、その人の趣味とは全然別ジャンルなうえにそれなりのページ数がある本を渡してしまったので、全部読んでもらったのは実にありがたいのと、なんか申し訳ないのと。いや、ともかく、ありがてえ、マジでありがてえ!
 話の中身についての感想は聞きようがないなと思ってろくに聞いてないのだが(なにせ原作ミリ知らなのだし)、前から気になってた、文体の癖とか強くないかなあ?というのと、冗長で読みにくくないか、というのを聞いてみたかったのだ。
 そしたら、あっさりめの文章と感じた、という返事が帰ってきて、そこはわりと意外だった。
 文章くどくどで説明ぽくない?ていうのがいつも気になってたけど、あんまり引っかからないで読める、とのこと。朗報ーー!!
 あと、わりと映像的だとも。これは自分でも意識的にそう書いてたし、今まで頂いた感想でもそのようにコメント頂いたことが幾度かあったので、やっぱりそう感じるんだということで、これもなんかほっとした。

 前にもこの雑記で書いたことがあるが、自分の文章がどう人から見えるものか、読まれるものか、その風合いみたいなものがあまりよくわかっていない。私の書くものに文体と言えるほど個性があるかはちょっと自信ないし、もし私なりの文体らしきものがあったとしても、それが客観的にどういう味わいのものかがほとんど掴めてない。
 そもそも、私は自分の書いたものが、読んでいる人にそれなりに伝わる文章として成立しているのか、どこか自信がない。服を着たつもりなのに実はパンツ一丁で往来に踊り出てて、普通に喋ってるつもりなのに周囲からは意味不明の言動をわめいているような、そんな奇怪な光景を生み出しているのではなかろうか、なんかそんな気分がずっと抜けない。
 とりあえず、職場の人によれば、場面はちゃんと思い描けるし、話の筋も理解できるし、読み物として読むことはできるということだったので、あまり心配しなくてもいいのかもしれない。
 とはいえやっぱりこれからも、なにか一つ短編でも書くたびに、「ねえ、これほんとに合ってるのかなぁ!? 日本語として理解可能なやつです!?」て気分は抜けないで文章書き続けることになるんだろうな、とは思うけども。
 

日記 編集

 推しイメソンリストを考えてたのをきっかけに、緑黄色社会とかサカナクションのアルバムを買ったりしてた。なんか食材づいてる。
 サカナクション、インスト曲がけっこう好きだなと思って、なんかこういう感じの求めてるのか今、ということでRAUSBUBも何曲か買ってみた。なんかすぁーーっとしてて、いい感じ。
……スーパーマンのサントラも買っちゃった。聞くと見たくなるけど、近場の映画館では今日でだいたい終映しちゃったんだよな。円盤出たら買っちゃおう。うーんここのところ散財気味だな~

日記 編集

 あまりにも怠惰なのでフィクション摂取もろくにしない人間なので、あまり映画を見ない。
 それで、アリ・アスター監督作品は『ヘレディタリー/継承』も『ミッドサマー』も見ていないという体たらくなんだけど、どうしてか『ボーはおそれている』ジャパンプレミアで監督が来日して、それはいいけど上映前イベントとしてヒット祈念の鏡割りをやったことと、そのときのかけ声が「ボーは」と司会が言うのに続いて会場みんなで「おそれている」と発声してた(させられてた)ということだけが、めちゃくちゃ記憶から消えない。

https://natalie.mu/eiga/news/553709

 あれ、夢とかじゃないよね?と不安になって調べたら、ちゃんと私が記憶してた通りの鏡割りだった。
 あと私の記憶から飛んでたけど、アリ・アスター監督、なんか特注のゴールデン法被も着ていた。味わいが突拍子なさすぎてやっぱ不思議がどんどんわいてくる。これを思いついた人も、このセンで実行しようね!って決めた人たちも、つきあったアリ・アスター監督もぶっ飛んでいるなあ(それが宣伝として効果的か、面白いネタだったと言えるのかも、まったく掴めなくてすごい)

 ここまで書いておいてなんだけど、多分『ボーはおそれている』を見ることはこれからもなさそうな気はする。(私が積極的に好むタイプの作品ではなさそうかなという判断。多分嫌いとかではないんだが)

メモ 編集

 スーパーマン2025年版、最初から好きィ!と思ってはいたけど、後からじわじわ高まってくる~!
 と思ってツイッタとか検索してたら、公式からの供給が多すぎて暴風雨の屋外のヤシの木に縛り付けられて一晩放置されたような気持ちになった。
 どういう風速ですか、耐久保ちません、ムリです!!!!

 なにがって公式がクラーク・ケントのツイッタアカウント運営してくれてる……
 思わずフォローしちゃったよ。そしたら毎日、朝イチ(といってもアメリカの朝イチなので日本では夕方だが)にめっちゃポジティブで優しい前向きはげましツイートしてくれる……他の人に言われたら鼻白むようなことでもクラークだと思うと、thnksクラーク!今日もがんばるね!ってなっちゃうな……私がちょろい、ちょろすぎる。
 あとスーパーマンにインタビューした記事をスレッドでツイートしてたりする、そしてリプでファンたちが、まるであなた自身がスーパーマンみたいな詳しい記事ですね?みたいなツッコミを入れている。
 そしてクラーク垢、ロイスとの自撮り画像とかめっちゃ気軽にうpってくれる……ヒィ……好き……

 男女厨だから、とりあえず今めちゃくちゃクラーク×ロイスのカプ推しになってるのでめちゃくちゃ嬉しい、けど嬉しすぎて嘘だろ! こんなに私に都合のよい公式供給が山盛あるとか、夢とかじゃないの、ねえ、これ、なに💢💢💢💢!!ってなってる。
 なにせ普段の推し界隈、公式からの供給はもうだいぶ無風なので……なんかもう胃がびっくりするような気持ち。

 でもアメコミの沼はやべーサイズと深度なの知ってるから、追いませんよ。

 ところでクラーク、キャラクタといい筋肉たっぷりデカ男であるところといい、K2の一也みてーなやつだ……などと考えてて今更気づいたけど、私、気は優しくで力持ちな純朴誠実男性キャラ、めちゃくちゃ好みっぽいね? いや今更だけど。
 別に筋肉なくてもいいけど、素直で真面目で裏表のない男性キャラは好きだな、ジークアクスでもエグザベくんなんだかんだいって気に入ってるし。そこに筋肉の厚みが加わるとだいぶ好み指数が上がるような。
 でも、カップルであってこそだったりもするので。
 一也は宮坂さん、クラークはロイスがいることにより指数関数的に爆上げ大好き!という感じもある。安定、信頼、絆がド深いカップル好き~。しかも女性キャラが自立してる強い女だと最高に良い~。

 メイン推しカプは、というかペレスは……
(アブトゥはもう私が好きなタイプの女性キャラど真ん中なので、まあなにも言うことはないとして)
 知識先行すぎてちょっと変人だし、純朴かっていうとそういうのとはちょっと違うし、筋肉はたぶん全然ナイナイだけど……まあ真面目ではあるね、多分。裏表はない。学問一直線ゆえに。それを誠実と読み替えて勝手に萌えている気もしなくはない。
 もしもペレスが、気は優しくて力持ちで筋肉分厚くてボイン胸筋で、そのうえ田舎者で朴訥で、ひとに優しい好青年とかだったらますますヤバかったのか……?
 いや、ペレスはあのキャラ、頭でっかちテック系だからいいんだよな~(たぶん外見設定としてはややひょろなんだろう。ただし1469の立ち絵がゴツめなため、1469ペについてはまあまあ体格良さそうなイメージにはなっている)。
 ていうか筋肉の厚みがすごくて温厚篤実で他人からの信頼度はんぱないペレスってなんだよ。
 ペレスは友好度初期値4なところがいいんだよ。人間社会でいまいちスマートにやってけそうにないところがいいんだよ。あれ、不器用要素、ここにあったね……ていうか褒めてないな、これ。
 こんなん言うてますけど、だいぶ好きなんだよ、ペレスのことも。

日記 編集

 ちょっと前に書いた100歳越えて逝去した大叔父さんだが、今日、母と電話して聞いたら、なんか去年まで工場で働いていたらしい。100歳過ぎても働いてたの!? とんでもねえ現役おじいちゃんだった……。すごいなあ。なんていうか、かくあれたら、と思っても真似とかできる気がしないけど、しかし尊敬というか、なんだ、すごいなあ。
 施設に入ったのはやはり今年に入ってからのことで、本人の状態に問題があったのではなく、同居して生活の面倒を見ていた息子のおじさん(父の従弟)が怪我で長期入院になったため、一時的に大叔父さんに施設で暮らしてもらっていたという経緯らしい。
 いやあ……なんと強靱な人生だったことか。そして、本人は病気とかで苦しんだというのはほとんどなく、安らかな顔をしていたというので良かった。お葬式も身内でまったりで、いいお葬式だったよと母は言っていた。大叔父さんがもういないのかってのはやっぱり寂しいけど、ほんと元気な長寿で最期まで貫いた人生だったの、なんか良かったな。

日記 編集

 スーパーマンの感想、今日もまとまって書けそうにはないけど、思いついたあたりで、分断についてとか、分断の向こうに手を伸ばす心意気についてとか、言葉が、対話が、その手立てなんだということとか、なんかそういう……あと、対話と対極にある、野生と粗暴もなんかそれはそれで居場所がある感じとか……

 でも、この作品の良さにについて、一生懸命に言葉をえらんで説明する必要があるかというとそういう作品ではない。
 単純明快に、見たら分かる。
 見る価値のある良い作品だ。
 見たら楽しい、すきっと晴れた気持ちになる。じんとする。ちょっと泣ける。だいぶ笑える。少し(だいぶ?)苦い。純朴マッチョの筋肉が良い。その筋肉がぼっさりスーツとダサ眼鏡に覆われてるのもまた良い。女子が軒並みキュートで良し。ツンデレインテリも良し、口悪ツンデレおっさんもまた良し。ヤンデレ(デレ?)悪役も良し、讃えよニコラス・ホルトの演技力。そして犬。とにかく犬。まあ犬が良い。片耳折れのジャック・ラッセル・テリアっぽくて雑種ぽい、赤マントつけたバカ犬、ごく普通のちょっとやんちゃなスーパードッグ、おもちゃで遊んでたら世界を救ってる暴れわんこ、愛してる。
 まあとにかく画面の情報量が多い作品でもあるので、場面の一つ一つが楽しかったり、愛おしかったりするので、私もひたすら、この場面好きィ!ここも好きィ!!見て!!この夏の推し映画だよ!!って場面を羅列すればそれでよろしかろうとも思うんだけど、しかし作品全体を通してこの作品から強く受ける印象というものを私なりに言葉でまとまったかたちで記述しておきたい気持ちもある。それで、いくらかちょっと時間を掛けて考えつつ、書いてみたいなあという感じ。

メモ,日記 編集

 スーパーマンを見てきて、だいぶ気に入ったので吹き替え版もおかわりしてきたので感想書きたいけど、明らかに長文になるのでまた今度、気が向いたら。

 今日は、母から、父方の大叔父さんが亡くなったと連絡があったので、大叔父さんのことを書いておこう。
 不幸の知らせではあるが、なにせ100歳を越えてのことなので大往生であり、おじさん立派に生きたなあという感慨がある。
 大叔父さんは父方祖母の三つほど年下の弟で、父の叔父にあたる。祖母は六人兄弟だったと聞いているが、五番目が祖母、六番目の末っ子がこの叔父さんである。祖母の旧姓は鈴木(仮名)といい、大叔父さんは鈴木という名字だったので、私や私の実家の面々からは「鈴木のおじさん」と呼ばれていた。
 小柄で痩せていて、線の細い見た目の人だったが、非常に頑健で、確かほとんど病気らしい病気はしたことはなかったんじゃないだろうか。祖母の兄弟は、祖母もおじさんも含めてみな長寿で、だいたい90歳を越えてからしか亡くなっていない。昔、祖母が元気だった頃に、兄弟の長男にあたる大伯父も100歳越えても矍鑠としているという話を聞いた。鈴木のおじさんも同じように長生きをしたことになる。
 しかし祖母には細身で温厚な鈴木のおじさんはか弱く見えていたのか、よく「しょうちゃんは優しい子だからねえ、体も小さいからねえ、よくいじめられてねえ、昔は泣きべそでねえ……」みたいなことを言ってた記憶がある。ただし祖母はなにごともやや大げさに言う人だったので、鈴木のおじさんが、祖母が言うようなひ弱ないじめられキャラだったかはわからない。確かにおじさんはごく温厚な人ではあったが、なにせ自営業者であり、職人であり、黙々と働き続けた人なので、根性は座ってるタイプじゃなかったかと思う。
 なお、大叔父の名前を今は正確に思い出せないが、たしか「しょう」がついていたんじゃなかったろうか、それで祖母は大叔父をしょうちゃんと呼んでいた気がするが、間違っているかもしれない。

 ともかく鈴木のおじさんは、戦前に、長野に生まれ、小学校を出た後で東京に出て、工場で働いたようだ。のちに金属加工の零細町工場を持って自立したらしい。
 私が生まれた頃にはすでにおじさんは東京郊外の宅地の一隅に、1階が工場で2階が住居、という町工場兼自宅を構えていて、妻であるおばさん(数年前に亡くなったが、この人も長寿であった)と、私の父からはいとこにあたる息子と住んで、三人で工場を運営していた。もしかしたら一人、二人くらいは雇っている人がいたような気もするが、私はごく幼かったので細かいことはわからないし、覚えていない。工場が稼働している平日にはほとんどここを訪れたことがなかったのだ。
 以前にも書いたが私と父母の三人は小さな賃貸アパートに住んでいたが、鈴木のおじさんの工場兼自宅はそこからほんの50mほどのところにあった。それでときどき鈴木のおじさんとこに飲みに行く親に連れられてお邪魔したのである。おじさんの住まいは、1階にある工場の入り口をくぐり、よこっちょの狭い階段をとんとん上って辿りつく2階だった。建物の広さは普通の一軒家程度の間口しかないから、ちょっと狭い感じもあったようには思うが、私は自分の体が小さかったこともあり、むしろそのちょっと手狭な居心地の良さは好きだった。ただ、1階の工場部分は、訪問がいつも休日か夜なのでなにも動いておらず、しんとした暗がりに鉄の重々しい機械がでんと沈黙しているだけで、それがどう動き、なにをどういうふうにするものなのか、子供にはなにもわからなかった。ただ階段をのぼるとき、工場の暗がりからは、油と鉄の匂いと静けさがひんやり流れてきて、子供の私には薄気味悪くて怖くて未知の、でも同時にたいそう秘密のこもった魅力的な異空間だった。
 私が三歳の頃、我々一家はアパートを引き払ってよそに移ったが、それでも引っ越し先は隣町くらいの場所だったので、親はちょくちょく鈴木のおじさんのところに飲みに行き(サザエさんでいう、ノリスケおじさん一家の立ち位置である)、そのときは私も連れて行かれて、おばさんの出してくれるごはんやら酒のおつまみやらのご相伴をいただいたものだった。
 平成の初め頃、鈴木のおじさんは工場ごと別の場所に引っ越した。これまた私の実家があるのと同じ県内ではあったが、路線の都合などで行きにくい場所だったのと、私が大学以降は沖縄に移ってしまったため、私は鈴木のおじさんの新しい家&工場には行ったことがない。
 しかし鈴木のおじさんはその工場でずっとがんばっていたと聞く。かなり高齢になるまで工場の経営を自ら担い、さすがに平成の後半には息子である父のいとこのおじさんに経営を譲ったのだがその後も毎日工場に出勤し、旋盤や清掃などの作業をしていたらしい。それはほんの数年前……つまりおじさんが90代半ばを超えたあたりのことで、「こないだお中元のお礼で電話したら、鈴木のおじさんまだ工場に立ってるんだって!」と母から聞いたのだった。なにかの折々に鈴木のおじさんがあいかわらず元気であるという話はちょくちょく聞いたが、それにしてもこの歳まであまりに頑健ご長寿の行動ばかりなので、身内ながら毎度びっくりしていた。
 去年も、おじさんの100歳のお祝いということで父母は鈴木のおじさんちにお祝いに行ってきたのだそうだが、そのときはまったく元気だったという。ボケてもいないし、ほとんど介護もなしで自分でおおかたの生活を自立してできていたそうだ。
 訃報と同時に得た情報では、施設に入っていてそこで亡くなった、と母は聞いたらしいが、施設に入っていたことは父も母も聞き及んでいなかったというから、今年くらいに施設に移ったばかりだったのだろうか。施設ではどういう状態だったかはまだくわしく聞いていないが、長患いをしたようでもないので、ほんとに最後まで元気だったんだろうなあ、と思うとなんとなくほっとする。

 考えたら、おじさん、ギリギリ大正末の生まれだったかなと思う。祖母が確か大正10年くらいの生まれだったので……。私も若い頃、沖縄で聞き取りとかやっていて、高齢の人に方言や生活誌を聞くことがたくさんあったが、考えたらこのときの聞き取りに協力してくれた世代の人はだいたい大正生まれで、おじさんと同世代か、少しだけ上くらいの世代だ。最近はその年代の人びとに聞き取りできることはほとんどなくなっていた。そのことに気付く度、自然の時間の流れとは言え、少し、いやだいぶ、寂しいところはあった。だからおじさんがついに亡くなったとなったとき、大正の生まれの人が本当にもういなくなってっちゃうんだなあという意味でもだいぶ寂しい気持ちがある。
 しかし鈴木のおじさんの生涯についていえば、その長い生をほぼずっと現役で過ごし、黙々働き続けた。このおじさんの存在は、なんとなく私にとっては心に灯となる感じがある。私自身にはあまり長生きをしようという意識がなく、60そこそこであんまり苦しまずに死ねたらいいんだけど~、なんてことを無責任にお気楽に考えたりもするが、しかしおじさんのように毎日ちゃんとちゃんと日々の仕事を続けて、生き続ける、暮らし続けることって大事だなとも思う。いつ死ぬかなんてわからないけど、まあ病気になったり障害を負ったりもありえるんだけど、生きてる限りはまあ日々を黙々やっていきましょう、という気持ちも湧いている。
 戦前から高度経済成長まで、そして現在にいたるまでも、おじさんのような人びとが日本の産業を支えてきた。おじさんはそういう無名の働き者のひとりだった。生涯通して働き者だった。彼の成した仕事は、おそらく今どきらしいスマートさとか高い生産性とかコスパとかいう言葉とはかけはなれているのだが、百年に近い黙々とした活動の日々を、無駄で非効率だなどと蔑むのは愚か者の弁にすぎないと思う。とても立派な年月を成し遂げて、おじさんは去っていった。ただ深く敬意が向かうばかりだ。

日記 編集

 ラスト、13曲目。
 大航海時代2のサントラから、古楽っぽい穏やかな曲でシメ。

●13:菅野よう子 / リュートの為の奇想曲

【演奏してみた】ルネサンス・リュートで菅野よう子『リュートの為の奇想曲』 (大航海時代Ⅱより) を弾いてみた

 アレンジサントラではクラシックギター演奏だったが、youtubeに実際にリュートで弾いてくれている動画があったので、それを貼ってみた。
 演奏してるぽっぷ古楽さんは他にもいろいろなゲーム音楽やポップスなどを古楽風に演奏してくれる。解説も詳しくて、古楽初心者の私にとってたいへんありがたいチャンネルである。

 大航海時代シリーズはオアトラスとおなじ大航海時代を舞台にした作品であり、私がネオアトラス1469を遊んだきっかけの一つでもあるから、大航海時代シリーズの曲からどれか一つは選びたかった。最終的にこの穏やかな曲をイメソンリストに入れてみた。
 元曲は、大航海時代2、ポルトガル出身主人公のジョアンのテーマ曲だ。ジョアンを主人公にして海を移動しているときはこの曲が流れている。
 リュート曲なのは、ジョアンがリュート演奏を趣味とする貴公子という設定だからだろう。ジョアンの父は前作主人公のレオンなのだが、前作エンディングでレオンは恋仲だったポルトガル王女を娶って公爵になったため、二人の間に生まれたジョアンは生まれついて公爵家の跡継ぎ、文字通りに貴族で公子、ガチのプリンスなのである。
 ちなみにレオンはポルトガル国の宰相だそうだから、バルディと同じだね!(てことはバルディは公爵くらいの身分なんだろうか。そっから一商会雇われの海の男に戻って海賊のアンジェラを嫁にしたのなら、だいぶ破天荒で良いね!)

 大航海時代1と2は菅野よう子氏が音楽を担当している。それはもう曲がいい。しかもアレンジサントラはアレンジや演奏に菅野氏本人が係わっており、はちゃめちゃ最高の名曲がより抜き勢揃いという神アルバムである。
 この「リュートの為の奇想曲」もアレンジアルバムに収録されている。ゲーム上ではジョアン主人公シナリオのときの航海中BGMで穏やかな曲だが、アレンジではさらにゆったりしたテンポになっていてノスタルジックさが増しているように思う。
 私はこの曲に、航海から戻ってきてリスボンで航海日誌をまとめたりしているような、ほっと息のつける日常の風景のイメージを持っている。季節で言うなら秋、爽やかに晴れた日の午後くらいのイメージだろうか。で、さらに勝手ながらこの曲を通して私は、ペレスとアブトゥがそうしてリスボンで穏やかに陸での日々を過ごしている姿を妄想している。
 書きものをしたり、荷物を片付けたり、本を読んだり、食事をしたり、庭の手入れをしたり。

 イメソンリスト全曲の「南エリアを歩く」でも書いたが、ペレスとアブトゥの二人には、ずっと一緒になんかわちゃわちゃやっててほしいなと思っている。
 科学だ神秘だと延々言い合いながら、二人で新しいなにかを見つけに旅をし、リスボンに帰ってきたらしばらくのんびり暮らし、また新しい研究テーマを見つけて船出する。そんな日々を送っていてくれたら……(図鑑エンドだとアブトゥは国に帰ってシャーマンに戻るみたいだけど、その場合でもペレスに悪態つきながらなんやかんやでたまに旅に同行したりしててほしい)。
 アマゾネスイベントの後も、100%に達して地図エンドを迎えたあとも、商会の提督をやめた後だって。両片思いのまんまでもいいし、気持ちを確かめ合ってもいいし、同棲でも結婚でも事実婚でも、子供ができてもできなくても、あるいは普段は遠く離れててもたまには一緒になって。まあなんでもいいからとにかく二人、末永く一緒にさ!……という願望を、この優しい曲に託しておきたいなと思う。

メモ,ネオアトラス 編集

12曲目。自作二次小説「鳥が歌うときには」の着想元の古楽。
音楽についてというより、「鳥が歌うときには」の説明ばかりになる。
しかも長い。ごめん。

●12:Christopher Page · Gothic Voices / Quando i oselli canta 《鳥たちが歌うとき》

Quando i oselli canta · Christopher Page · Gothic Voices
"A Song for Francesca: Music in Italy, 1330-1430”

 2024年の春先、仕事の年度末進行が終わって一息ついたところでふと勢いで二次小説を書くぞと思い立ち、春だから恋だね!って感じの浮かれたやつ書きてえ! そうだ、よく聞いてる古楽の曲からネタを取るか!と思いつきで選んだのが"Quando i oselli canta"だった。
 なお、私が古楽をよく聞いてるのは、NHK-FMの早朝番組「古楽の楽しみ」を聞いているからだ。もっぱらこのNHKのラジオ番組を通してしか古楽を聞いていないので、古楽そのものに対する体系的な知識は持っていないし、そもそも音楽にも歴史にも詳しいわけでもない。
 そういうわけで私には非常に乏しい知見しかないのではあるが、古楽をわりに聞くようにしているのは、ネオアトラス1469の同時代の音楽も古楽と呼ばれるジャンルに含まれているからだ。
 ただ、1469年頃、中世ヨーロッパからルネサンスに移行するこの年代は古楽というジャンルのなかでも早いほうの時期で、記録が残っている歌も教会で歌われる聖歌や宗教的な主題のものが多い。「古楽の楽しみ」でかかるこの時期の曲も聖歌が多いが、世俗の歌もないわけではなく、私の古楽プレイリストにも宗教的なテーマに依らない世俗歌がちょぼちょぼとだが入っていた。
 そして、世俗歌というのはたいてい恋歌なのである。
 自分のプレイリストにいくつか入ってる世俗歌のなかにだって、探せばなんかちょうどよく春っぽい歌詞で恋っぽい歌、一つ二つくらいはあるだろ!……といくつか候補をさらった中で、"Quando i oselli canta"が目に留まり、なんとなくこれ良いかも、となったわけである。
 ちなみに前に紹介した"Ay luna que reluzes"のようなビリャンシーコというジャンルをこのときはまだ知らなくて、知っていたらビリャンシーコの中から選んでいただろうが、その場合はまた少し違うタイトルや場面の話を書いていたと思う。

 "Quando i oselli canta"は中世マドリガーレと呼ばれる形式の歌で、このジャンルは北イタリア中心に14世紀のあいだだけ流行ってすぐに廃れたのだそう。しかし少なくとも1469年よりは前に存在しているはずの歌だから、ペレスが耳にした可能性はなくもない、と無理矢理決めつけた。
 タイトル(歌詞の第1節目のフレーズでもある)は訳すると「鳥たちが歌うとき」、つまり春のことだ。
 歌詞はそれほど長くはない、簡潔かつ典雅な表現が使われてはいるが、素朴な詩だ。内容をざっくりまとめてしまえば「鳥も鳴いて春だね~、牧場に羊飼いのかわいこちゃんも出てきて遊んでるね……ハァー! スウィートラブリィシーズン到来! 好きになっちゃった! ラブチュ!」っていう感じの歌だ。意訳しすぎだが、個人的にはこれくらい軽めな歌なんじゃないかと思っている。なお、最後の一行、歌だとメロディが変わるところは、歌い手の兄さんがラブチュ!と羊飼いガールに迫った結果、ガールに糸紡ぎ棒でしばかれたというオチの節である。
 現代の我々からすれば厳かにすら聞こえるコーラスだが、内容はこういう感じでかなりくだけた歌である。
 ペレスもなんでこんな民謡をきっちり覚えていたのかといえば、ぶっちゃけ単に話の都合だが、あえて理屈をつけるなら、ペレスは天才脳の持ち主なのでなんでもなんとなく記憶しちゃう癖でもあるんだろう、ということにしておこう。もちろん、まだ十代くらいの若いペレスの無意識に、恋愛というものへの興味関心がゼロではなかったのでこういうのがすっと頭に入ってしまっていた、のかもしれない。そういう設定にしておくのも美味しい。が、まあ多分、くだらない歌だと思いつつ、きれいな曲だなくらいの肯定的な評価はぼんやりあったのかもしれない。この歌のメロディ、きれいでいいよね。
 それにしてもペレスがこの歌を覚えていた経緯といい、その他もろもろ、いろいろの無理をなぎ倒して書いてしまったのが「鳥が歌うときには」ではあった。出たとこ勝負というか、自分都合でまともな実証や整合性など無視して書いた作品だった。
 このときの私は、仕事の年度末進行に圧迫されて控えていたオタ活動に取り組める余裕ができたので元気いっぱいで、そのままのノリで恋心を自覚しちゃった春先の浮かれペレスを書きたい一心だったのだ。なのでいつも以上に細かいことを気にせずノリで書きはしたが、そうは言っても歌の選択と歌詞概要を掴むのに数日、本文を書き上げるのに丸二日くらいを費やしたので、実際のところは全然勢い良くはなかった。
 ワンドロで2000字くらいのをぱっと書ける手練れの書き手になりたいな、なりたいけれどなれないな(遠い目標)。

 とはいえ、当社比較的にはスピード感ある進行で書いた作品ではあり、おかげでそれまであまり書いたことがなかったペレス、恋心をはっきり自覚してて告白するつもりまであるペレスをやっと書くことができた。自分が見たかったものを自分に供給してやれたのだ。二次創作書きの本懐をひとつ遂げたといってもいい。そういうわけで「鳥が歌うときには」は自作二次小説のなかでは気に入っている作品である。
 ありがとう"Quando i oselli canta"、名の知られぬその作り手と歌い手たち、写本を保存してくれた人びと、現代の世に復元演奏してくれた人びと、そうしたあれこれの情報をネットワークに公開してくれた人びとよ。この古い美しい歌の助けで、私の萌えがひとつ、かたちを得ることができた。とはいえ先人たちも、21世紀のオタクに身勝手な感謝をされたところで困惑しかないだろうが……。

 ところで、せっかくだから推しイメソンプレイリストにも二次小説の元ネタになったこの曲は入れておくかと思い、歌詞をちゃんと紹介したいね……と思って改めて調べていたら、ネットで確認できる歌詞の大元のリソースであるバチカン図書館のデータベースが複製禁止という規定になっていることに気付き、やっべえ!と慌てて、二次小説のほうの歌詞部分を修正したりした。
 気付いて良かったよぉ!
 そういうわけで残念ながらここでも歌詞を全訳で紹介するのは控えるが、上記の確認過程でオーストラリアのLa Trobe Universityという大学の図書館が中世音楽のデータベースを作ってくれているのを知った。このデータベースに"Quando i oselli canta"の詳しい情報も、原語歌詞も、そして英訳も載っているので、そちらから歌詞を確認してもらえばと思う。
◆La Trobe大学MMDB https://www.lib.latrobe.edu.au/MMDB/anon...

また、元資料である写本はバチカン図書館のアーカイブで画像で見ることができる。
「Codex Rossi(ロッシ写本)」の2vおよび3rとなっている画像の下の二行くらいが"Quando i oselli canta"の譜面と歌詞である。
◆バチカン図書館所蔵 Codex Rossi(Ross.215) https://digi.vatlib.it/view/MSS_Ross.215...

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 11曲目。ポケモンSVのサントラから。
 自作二次「幸運の星」を書いてるときずっと聞いてた曲。

●11:GAME FREAK / 「南エリアを歩く」

【ポケモンSV】南エリア ハープ演奏 Pokémon Scarlet & Violet : South Province Harp cover
Nana Harp

 youtubeでは元の音源は聞けないが、代わりに弾いてみたやってくださってる音源を見つけてきた。
 元曲はNintendo Musicで聞けるはずなので、聞ける人は良かったら聞いてみて。
 とはいえ、URL貼った弾いてみた演奏も、ハープがすごく雰囲気がぴったりで、美しくて最高だ。

 ポケモン・スカーレット/バイオレットを遊んでいて、一番好きな曲はこれ。
 SVはイベリア半島の風景を参考にしたフィールドグラフィックがえらい美しい。そのうえオープンワールドなのでその美しい風景を延々と歩いていけるし、ストーリーが進むと滑空して上空からひろびろと世界を眺め渡すことさえできる。ほんとゲーム内散歩が楽しかった。
 BGMも軒並み良くて、思わずCDでサントラ買っちゃったのだ。なかでも「南エリアを歩く」は、夜間の星空のもとでフィールドを歩くときにぴったりのピアノ曲で、水のような透明感のある音色とメロディがとにかく素晴らしい。SV遊んでたときは無駄に南エリアの夜時間に散歩しまくったし、CDを手に入れてからは作業用にもこの曲を聞きまくっていた。「西エリアを歩く」「東エリアを歩く」も同じように好きで、3曲合わせてなんとなく、夜に草原を歩くときの曲、と思って聞いている。
 ところで、自作二次小説「幸運の星」はのぐちさんと作った合同誌『ふたりはいつでも、今日も明日も、あさっても。』に書いたもので、夜に天体観測に赴くペレスとアブトゥという話なのだが、その話の舞台となる夜の草原の風景は、自分のなかではSVの南エリアあたりの夜間そのまんまのイメージだった。それで話を書きながら延々「南エリアを歩く」をヘビロテしていたのだが、おかげで「幸運の星」を読み返すとなんだか背後に「南エリアを歩く」が流れているような気がしてしまう。元曲は別に夜間だけの曲じゃないんだけどね。

 ペレスとアブトゥの二人について、私は二次小説では、なんとなく夜に会話している場面をよく書きがちだ。アブトゥが夜が似合うからっていうのはあるけど、なんだか二人で静かな夜にぽつぽつ会話しててほしいという欲がある。
 地図完成エンドで、ペレスが「実に切ない……この気持ちはいったい何か?」と言いながらも「彼女の主張は、私の思考を乱し、また同時に深く静めてくれるのだ。」のラスト一行でがらっとしっとり落ち着いた感じの言葉で締めたのがもうなんかめちゃくちゃツボで。ペレスも、無自覚の恋にどぎまぎしてるだけじゃなくて、アブトゥの存在を心根の深くで受け止めようとしている感じがある。だからなんとなく、ペレスは地図エンドの頃には、アブトゥの言葉をすごくじっくり聞くようになってるような気がするのだ。多分、アブトゥもまた。
 それで、ゾネスイベ後のペレスがアブトゥと会話するとき、二人で並んで、ぼそぼそぽつぽつ、ゆっくり会話しててほしいのである。もともと議論好きというか、対話が基本にある人たちっぽいし。そしてそういう対話の場面に似合うのは、夜の静けさと星明かりだと思っているのだ(このへんの感覚は指輪物語の影響もあるかもしれない。指輪物語だと、なにかと夜に星明かりのもとで、来たし方を静かに語りあうっていうような場面がちょいちょい出てくるんだよね)

 でもまあ、なにせこの二人なので、穏やかとはいえなにかと言い合い(言い合いの形を取ったいちゃつき)はしてる気もする。しててほしい。軽口たたき合いつつ、なにかと二人で一緒に取り組んじゃったりみたいな。そういう欲望がほとばしりまくったのが「幸運の星」という二次小説で、もしその関係性を音楽にするなら「南エリアを歩く」くらいの落ち着きと生き生きが同居する感じだし、晴れた夜の星空のイメージなのだ。

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 10曲目。古楽から。これも月の歌。「月の椀」と同様ペレス側の内面のイメージ。

●10:Dulces Exuviae / Ay luna que reluzes 《ああ、かがやく月よ》

◆Wikisourceスペイン語版 Ay luna que reluzes
https://es.wikisource.org/wiki/Ay_luna_q...

 "Cancionero de Upsala"と呼ばれる歌集に収められたビリャンシーコの一曲だ。
 ビリャンシーコは15世紀から18世紀、イベリア半島や新大陸で流行った世俗音楽のスタイルだそうだ。歌詞はおおかたスペイン語やその方言のようだが、ポルトガル語のビリャンシーコなどもあるらしい。
 wikipediaスペイン語版のページを貼っておく。
 ビリャンシーコ→ https://es.wikipedia.org/wiki/Villancico...
 "Cancionero de Upsala" → https://es.wikipedia.org/wiki/Cancionero...

 "Cancionero de Upsala"はバレンシアのカラブリア公家のクリスマスの宴用の曲をまとめた歌曲集だそうだ。1556年にヴェネツィアで出版されたそうだが、そのあと本の存在は忘れ去られ、ウプサラ大学の無数の蔵書に埋もれていたのを、20世紀初頭にスペインの音楽研究者が見いだしたのだとか。
 本には全部で70作品の歌曲が集録されているが、うち54曲がビリャンシーコである。聖母子や降誕を賛美し祝うクリスマス向けのビリャンシーコもあるが、宗教的な要素をまったく持たない恋愛などが主題のビリャンシーコも多数集録されている。

 Ay luna que reluzesは四声のビリャンシーコの項目に挙げられている。4声ということは4パート構成で演奏されるものということだろうが、URL貼った音源ではソロ歌唱で演奏しており、伴奏もリュート1本だけだ。別の動画では4人以上でパート分かれて歌っている動画とか、メインボーカル+楽器で4パート構成の演奏も見ることができる。そっちのほうが演奏の復元の本来としては近いのかもしれない。
 とりあえず歌詞のテキストがWikisourceにあったので全文ここで翻訳つきで挙げておく
(CC BY-SA 4.0の規定になっていた。出典は上に記したWikisourceのリンク先参照)。
 なお私は現代スペイン語も古スペイン語もノー知識なので、翻訳はgoogle翻訳先生と、gemini2.5pro先生にどうにかしてもらった。いちおう機械翻訳を土台に、少しだけ手を加えている。

  Ay luna que reluzes,
  Toda la noche m'alumbres.
  Ay luna tan bella
  Alumbresme a la sierra;
  Por do vaya y venga
  Ay luna que reluzes
  Toda la noche m'alumbres.

  ああ、かがやく月よ
  夜通し照らしておくれ
  ああ、いとうるわしき月よ
  山への道のりを照らしておくれ
  私が行き帰るところを
  ああ、かがやく月よ
  夜通し照らしておくれ

 夜の静かさと月の明るさ。
 メロディの美しさに似合う、シンプルで美しい歌詞だと思う。
 とはいえこの歌詞については、単純に月を歌った美しい情景歌と受け取るものか、それとも恋人への思いや信頼を静かに歌った恋愛歌なのか、はたまた仰ぎ見られる月は救い主のメタファーであり主への賛歌と見るべきなのか、知識のない私にはわからない。
 が、恋愛歌とみなして歌うと、なんだかオツな歌詞のように思う。
 ちなみに同じ本に載っている歌のうち、明らかに恋愛歌と思われる歌詞の他の歌と比べるとだいぶ物静かで落ち着いた歌詞ではあり、あまり恋愛歌っぽくはない(この歌曲集には人妻に言い寄るような歌も普通に載せられている)。
 そして、たまたまなんだけど、一個前に挙げたサカナクションの「月の椀」とは重なる部分がある。月はもちろんだが(これは私が「月」という言葉をフックに探していたところがあるから当たり前だ)が、山と旅のイメージが両方ともにあるのはなんとなく不思議だ。
 「月の椀」作詞の山口一郎氏は種田山頭火をテーマに作ったと述べていたそうだ。だからAy luna que reluzesとモチーフが重なっているのはまずもって偶然なのだが、古今東西、月は山と組み合わせるととても絵になるということなのかもしれない。そして月が、夜の孤独な旅に寄り添う柔らかな存在であることも。

 私の方は、月のイメージでフックする歌をなんとなく探し、ポップスからは「月の椀」、古楽からは"Ay luna que reluzes"を深い考えもなくそれぞれに拾ってきただけではある。そして、月の歌ってことで重複するから、イメソンリストに入れるならどっちか一つかな……などと思いつつ、いいや両方入れちゃおう!となった。どっちもだいぶ好きな曲なので。
 加えて、ペレスの心境に寄せるなら「月の椀」は無自覚片思い期っぽいけど、"Ay luna que reluzes"は気持ちを自覚している感じで、ちょっと心持ちが違うかも、とも思った。
 ぐらぐらと揺れる心を抱えてあてどなく夜を歩いているような「月の椀」に比べると、"Ay luna que reluzes"は曲調もしっとりしてて、月を旅の友として心に据えている感じがある。もし恋愛歌として見るなら、もうこの人だと心に定めてる人がいるよね、というのがこの歌の印象だったのだ。
 というわけで、アブトゥに対する気持ちをはっきり自覚しかけてる時期のペレスの歌(仮)、という気持ちでこの歌を挙げておく。(仮なのは、原作にはそんな時期なんてミリも描かれてないからっていうニュアンス)

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 9曲目。アマゾネスイベ後のペレスのイメージ。

●09:サカナクション / 月の椀

◆歌詞のオフィシャルの置き場所は見つからなかった。検索で見つけてくだされい。

 自作二次の「酔いどれと歌」のイメージからフックした。
(プラニスフェーリオには収録してない短編だけど)
 ずっとペレス単体のイメソンってのは挙げてこなかったんだけど、あえていえばこの曲かなあ。
 ほんとに、ペレスについてはイメソン全然思いつかなかった。
 ペレス、自他の感情に鈍感で、感受性がだいぶ死んでそうなド理系科学者で、ほぼ学問にしか興味が無い朴念仁だと。
 私にそう思われているせいで!
 とにかくペレスは文学的な情緒に欠けてるタイプとしか思われず、彼が自分の感情を内省的に振り返るようなイメージもまるでわかず、そうなるとなんらかの歌に思いを載せていくイメージも、んまーーーーーぜんっっっっぜん、思い浮かばなくて。
 世の若い者たちが嗜む音楽のなかでは、男子もいろいろ情動をほとばしらせている。
 なんでもなくても走り出したり……
 雨が顔を打ってだけど君が君だけがそばにいなかったり……
 防波堤で笑い合った日々だけがキラキラしてたり……
(※上記のフレーズは適当にそれっぽいのをでっち上げたものなので、具体的に実在する歌は参照してないよ。似たような歌詞の歌がもしあるとしてもそれはマジで偶然)
 そんな感じでどの歌でもなかなかリリカルに男子の心は叫んでる……
 しかしペレスの心には……そういう言語化が全然なさそうで……
 情動が動かないというよりも、とにかく文学的抒情性と自己表現の欲求が未発達すぎてそうで……

 ほんとなんも思いつかず、ペレスにあてるイメソン探しはすごい難航した。
 それでもさすがにゾネスイベの後、自分の中に湧く不思議な感情に気付きはしたペレスなら、叙情的な感覚もちょっとは、ちょっとは内面に持ち始めているかもしれない。
 そういう気持ちで絞り出すように選んだ曲がこれです。

 「月の椀」はどこか放浪のイメージがつきまとう歌だ。月に誘われて夕暮れを真夜中を、とぼとぼと長い時間かけて歩いていくような。
 月に誰かを重ねて〔気になりだす〕とサビがキマったところで、そういえばアブトゥには月のイメージあるんだよなと思っていたので、アブトゥのことを意識しはじめたペレスっぽいかなあ、などと勝手に思ったのである。そして、自作二次だとちょうど無自覚片思い期のペレスが酔っぱらってふわふわ街を歩いてる「酔いどれと歌」が月夜の晩の話だったので、「月の碗」の歌詞、ちょっとあてはまるぽいかなあと。

 とりま、ゾネスイベ後の、アブトゥのこと女性として強く意識しはじめてはいるもののそれが恋だってことに気付いてないペレスという存在、とても良いよね。滋味がある。無自覚片思い学術系男子……無限にしがんでいられる概念。

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 8曲目。これはアブトゥの、特にアマゾネスイベのときのイメージ。

●08:ADELE / Sweetest Devotion

◆歌詞のオフィシャルの置き場所は見つからなかった。検索で見つけてくだされ。

 Adeleも作業用によく聞いてて、特にアルバム"25”が好きなんだけど、そのアルバムの最後に入っている曲。
 歌詞……まあ英語力ないので断片的に単語しか聞き取れてないんだけど、なんか狂おしく深く愛してる、って感じの歌だなあと思って聞いていた。で、いちど、推しのイメージの曲ってなんかあるかなあとふと考えたときがあって、そのときに、アブトゥはあえていえばこの曲かなあとなんとなく思っていたのだ。
 作業用に聞いてたもんで、歌詞はたいして把握せずになんとなく聞いてきたので、よくよく歌詞見たら失恋の歌だったりして……そうだったらちょっと違うかなあ、と思って改めて歌詞を見直してみたけど、なんていうかとにかく一心不乱に愛情向けてて、あなたの存在で爆発したように世界が変わった、あなたが世界のすべて、と絶唱するような歌だ。でも見返りも求めてない感じの。まあサビが、"Sweetest devotion"だもんね。
 なんていうBIG LOVE。男にとっては重いかもだけど。
 私の中ではアブトゥは、こういうふうに、愛情をひとたび振り向けたら、かなり情け深く一人の男を愛するタイプなんじゃないかなって感覚でいるけど、しかしこれは世間一般の捉え方とはだいぶズレてるかもしれない。原作でのアブトゥはずっと冷静だし、あんまりこう情熱って感じでもないキャラで浮世離れしてるもんね。
 アマゾネスイベのおかげで、こんくらいの質量あるタイプの愛情持ちなんじゃないの?!って思ったんだけど、これは私の勝手な思い入れというか、二次創作的な勝手な人格拡張だね。
 とはいえ私にとってはとにかくこういう歌がアブトゥのイメージではあるのだ。
 そしてdevotionという単語もあって、イベントでいうなら、アマゾネスイベのときのイメージだなと思ったので、イメソンリストには絶対入れよ!と思っていたのだが、改めて歌詞を見直してみたりとしながら、この曲のバックグラウンドは結局どういう感じなんだろ、と思ってもう少し調べた。
 ら、Adele自身が説明することには、子を得て感じた気持ちを歌にした、らしく。

 ああああ、だから子供の笑い声が最初と最後に入ってたのかあ!!
 なーるほどぉ、お母さんソングでらしたの。そらBIG LOVEがにじみ出るわ。

 だけど、ええええ、いやその、アブトゥにペレスのお母さんしてもらうつもりはないよ……
 ないけど……
 まあ、なんかこう、恋っていうよりBIG LOVE、ていう意味ではあまり間違ってないかなあ。
 というわけで、一瞬迷ったけど、推しイメソンリストには予定通り入れておくことになった。
 まあアブトゥ、原作でもほんとペレスに対してはたいそう面倒見がいいと思うし……そしてこれは私の妄想だけど、実は人間全般に対して優しくて意外と面倒見良さそうなイメージもあるので、……アブトゥ、もともとの気質が実はちょっとおかんっぽいかもしれないと思っている。かも。かもね。ちょっとだけね。

メモ,ネオアトラス 編集

7曲目。これちょっと説明むずかしいけど、「ファラオの夢」の最後くらいのイメージ。
自作二次小説で言うなら「去来」の後半部分。

●07:Ffynnon / Llanw Chwant 《欲望の潮》

◆Ffynnon公式サイト歌詞ページ http://ffynnon.org/music_adar_04.php

 歌詞はウェールズ語?かな? これも歌詞の意味をわかってないまま作業用にずっと聞いてた曲だ。
 ウェールズのバンドの歌だが、私は"Rough guide to Celtic Music, vol.2"というコンピアルバムに入っていたものから接した。ケルティックというが、このアルバムの音楽はそんなにケルトケルトしたのばっかりではなく、Ffynnonというバンドも、ウェールズのフォークを中心に、ブルターニュやガリシアなど広い地域のフォークを取り入れた幅広いアレンジやオリジナル曲も手がけているグループのようだ。なお、このLlanw Chwantという歌については、おそらくオリジナル曲だと思う。
 美しいメロディではあるが、沈鬱で悲しみに満ちている印象があり、哀歌のような内容の歌なのかなと思っていた。今回、作業用の曲のなかから推しイメソンピックアップしてみるかと思ったときに、そういえばこの歌も気になるがわかんなかった歌詞の意味をちゃんと調べてみたらしっくり来るとこあるかも、と調べてたらオフィシャルサイトと歌詞を見つけたのである。
 で、オフィシャルサイトだとタイトルの横っちょに、英語で"Tide of Desire"という訳が書かれている。なんか別の翻訳あるのかなと思ったけど、いやどうやっても「欲望の潮」ですね。元のウェールズ語?のほうもgoogle翻訳先生に訳してもらったら「欲望の潮」と出る。
 もしかして、実はけっこうえっちな感じの歌詞なんでしたの???
 ……と思って歌詞を見たけど、え、ぜんぜん別にそんなにえっちなことはなかったです。
 途中の、〔トゥイマ、トゥイマ〕と繰り返すとことかかなりの情を感じて好きなんだけど、このトゥイマという語は英語訳だとwarm(命令系)らしい。こういうとこがもし隠喩なら、それなりにとても遠回しに、えっちなことの比喩を言ってますか、ひょっとして??? でも、もしそうだとしてもめちゃくちゃ上品な詩だし……英語訳の全体から見ても、別にそういうコトの隠喩ってニュアンスはなさそうだし……
 ただ、とにかく哀歌ではないことはわかった。たぶんだけど。
 とても上品でしっとり落ち着いた表現の、でもかなり熱量高い、正面突破タイプの恋愛詩だ。たぶんね。しかし私には英語力はないから、英語訳があってくれてもハイコンテクストなレトリックとかが使われてたら私にはまったくわからん。
 タイトルと歌詞内容を考え合わせるなら、触れないようにしていた恋心を自覚して、一直線な感じに燃え上がりはじめたという感じのだいぶラブい歌ということになる。それで、「ファラオの夢」のイメソンとした前曲「バイマイダーリン」に続いて置いてみたが、同じド直球恋愛ソングのはずなのに曲調のギャップがすげえ。
 そう、なにせ曲調がこれなので、自分にとってはあいかわらず、なにかを静かに悼んでいるような印象もすっかりは消えさらない。それで「ファラオの夢」の最後に、若いファラオの墓に赴く場面のイメージが、私のなかではなんとなくこの曲のイメージとつながってしまう。
 歌詞には、そうもの哀しい感じはないんだけどねえ。でもまあ、ファラオも長い間停滞していた恋を成就させたばっかりなんだから、こういう、熱く恋い焦がれる!っていう歌詞はぴったりかもしれない。
 あと、私の二次創作での話だと、「去来」の時期くらいには、アブトゥの心境がこの歌詞の感じくらいにガチめに深まってるんじゃないかなと思っている。ペレスがアブトゥの性別勘違いしたままだからアブトゥもなんも言わないしおくびにも出さないけど、アマゾネスイベで「かけがえのない人」とペレス相手に明言してしまうレベルに至っているのだから、「ファラオの夢」が終わるくらいの時期だとすでに、アブトゥももうだいぶ腹が決まってきてるんじゃないだろうか。

メモ,ネオアトラス 編集

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