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 ズートピア2の感想、ちょっとネタバレ。


saebou先生の評、すごくウンウン……て感じ、随所頷いた。
https://saebou.hatenablog.com/entry/2025...

 ゲイリーはもちろんだけど、ヘイスースというキャラクタもなかなか皮肉があって、はっきりアンチキリストとまでは全然いえないんだけど、なんとなく聖書物語に対して、少し斜に構えてパロディにしてる感じは確かにあるなあと思った。

 それから、私自身は、パレスチナのこともうっすら想起したけど、どこかの現在進行系の出来事というよりも、近代から現代に起きた、故郷を追われて遠い土地に暮らす難民というもののことをなんとなく考えていた。だから、サイゴン生まれで、物心つくかつかないかという幼いときに家族ごとアメリカに渡ったという来歴を持つキー・ホイ・クァンという人物がゲイリーの声をやっていたことに、なんていうか考え込んでたのだ。
 「大丈夫、きっとうまくいく」て、帰りたい遠い場所があって、憧れとしてそこにいつか戻ることを夢見続けながら、ホームから遠い場所で日々の暮らしを踏ん張り続けているから出てくるセリフのような、気がしてさ……

 まあそのへん、別にズトピ2もがっつりそれをテーマにしてるというわけではないし、匂わせというほどにもはっきりしたものでもない。
 ズトピ2はとにもかくにもニックの掘り下げと、ニックとジュディというバディの掘り下げの物語だと思うので、ゲイリーの帰還の物語は実は中心ではない。だからゲイリーやパウバートの人物像はやや一面的な描き方にしかなってなくて、彼らがなぜそういう言動をするキャラクタとして立っているのか、という説明(掘り下げ)は薄い。そこに納得いかん人も出るだろうけど、しかしズトピ無印でも、ボゴ署長やライオンの市長やメイウェザー副市長がなんでああいう言動をするのかという掘り下げは別にされてないので、そんなもんかなあという気待ちでいる。掘り下げてないのにえらく魅力的なキャラなので、描写パワーがすげえんだよな……とむしろ感じ入っている。ゲイリー、めちゃくちゃリアリティないふわふわっとしたキャラクタなのに、なんかしらんけど好きになれるんよね。物語の筋立てだけじゃなくて、アニメーションとか声とか効果音とか音楽とか、ありとあらゆる要素で叩きのめしに来る、これがズートピアって作品だよ……!という納得のもと、私はゲイリー大好きです。
 そう、全体的な印象として、2はズトピ無印のときほどめちゃくちゃ組み立て精度の高い脚本という印象はなくて、少しとっちらかってる印象も受けはした。(キャラとしては好きなんだけど、例えばニブルスあたりは、なんかsaebou先生がいうように、これでいいのかなあという設定だったり)
 でもそれでもめちゃくちゃ面白いし、無印のまさに続編であるので愛すべき新生バディのその後の物語としてこれが出てきたことがそもそも嬉しいし、楽しい。だから少しごちゃついてても、作品の世界と登場人物たちに向かう愛しさみたいのがそこにちゃんとある、形作られてて受け手もそこに喜びを見出せるってこと、だいぶ大事なことなんじゃないかなみたいに受け止めている。

 個人的には、監督のジャレド・ブッシュはモアナの脚本も書いた人で、遠い祖の地に帰還する物語とか、クライマックスで深い愛情が言葉ではなくただただハグで表現されるところとか、なんかそういう物語が好きなのかなあと思っている。私も、モアナにしろズトピ無印なしろ2にしろ、そういう場面が一番グッと来てるので、毎度、今回もまんまとやられましたァ!てなってる、なった。

 あ、そういえばほんとめちゃくちゃパロディ小ネタ満載だけど、途中、これ絶対MADMAX FURYROADですよね?!て思った砂漠の場面あった。モアナの時もあからさまにMMFRパロがあったけど、やっぱとにかくオマージュやりたくなる作品かもねえ、て思った。絵が強い、強すぎる。絵が強い上に悪ノリ気味にパロディ盛ってくるズトピで、MMFRパロディやらんわけがないんだ。

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 昨日、ズートピア2字幕版見てきて、それなりに感想はあるけど今日は忘年会で、詳しく書いてるゆとりはないのだった。そうこうしている内に感想が薄れそうなので今簡単に書けるとこだけ書いておく。
 とりあえず、ゲイリーの声優がキー・ホイ・クァンということをエンドロールで知って、なんかすごいブチ上がった。
 映画全体もちろん面白かったけど、見たあとに感想あれこれ頭のなかで考えてて、結局なんか思考は毎度、そっかゲイリーはキー・ホイ・クァンが演じてたのか……というところに戻って都度じんわり感動してた。メタな話にはなるが、たぶん私にとってはこの映画でそこがいちばん胸熱な部分だったのだ。

 ニックの、思てたよりもさらにクソデカだった感情も見せつけられる。前作でニックにメロついた人々はぜひ見るべきだし、ニック以外にも、とにかくキャラクタに魅了された人はぜひ見てほしい。ジュディも良い。前作キャラもみな良い。新登場キャラも良い。私個人の好みでいうならゲイリー以外にヘイスースもめっちゃ良かった。キャラもだけど造形とか表情つけとか、めちゃくちゃグッと来た。名前もいいよね。ズートピアの世界にもかの救い主の宗教が存在するのかは知らないけど(もし設定があっても絶対に表に出てきたりしないだろうな)。

 1作目と同様、とにかく大量のギャグ、小ネタ、パロディ、そして動物たちの動きや暮らしぶり。絵がとにかく楽しいので円盤買っちゃいたいな、これは。
 

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 私は二次創作でエロ書けるか問題。
 問題というかべつに問題でもなくて、結論から書いておくと、私はセックスの場面は書けないし書かないな、なんだけど。
 このことについて雑記で書くような話なのかどうかもよくわかんないし、これというまとまった結論もないのでわざわざ書くほどでもなあ、と思ってはいるんだけど、なんとなくこう、ぼんやりとしたことだけど書いておくか、今の時点での感覚をメモっておくという意味で。
 まず、文章として書けるか、というと、うーんがんばれば書けるのかも知れないけど、あんまりモチベがない。なんだろうな、官能的な文章を書くのだと心構えをしてがんばれば、とりあえず見た目それっぽい文章自体はなんとか吐き出せる気はする。ただこれ、自分にとってほぼどこかにある文体模写になると思う。なので、そんなに楽しくはない。テンプレの多用になりそう。しかし私にはテンプレとしてメジャーな語はあんまり使いたくないという悪癖があるのだ。
 つまり、乳首のことなんとかな蕾みとか書いてみるとか、蜜壺だの剛直だの、そういうの。うーん、なんだろう、言い換えないでダイレクトにしたい。なんか局所に、いわば映像で言うモザイクをかけるために比喩とか暗喩を使うってのは、なんかこうしっくりこない。
 とはいえダイレクトな単語はやはりインパクトが強すぎて、ともすると笑いになってしまう。エロと笑いは紙一重。昔話には艶笑譚というジャンルがあるが、エロというのは第三者から見るとどこか滑稽で馬鹿馬鹿しいものなのだ。
 私自身は、馬鹿馬鹿しさも含めて人間のいかんともしがたき欲望という意味での性愛も嫌いではなく、また、愛情というものと欲望とがごちゃごちゃしている性にまつわる場や物語もおもしろいものだなと思っている。スケベエがからむ話って、人類おろかだけどわかっててもこういうしょーもないことに必死になっちゃうんだよな~~~!!!っていう意味でわりと好きなのである(自分もそんなおろかな人類の一人であるからだ、己のポンコツを、恥ずかしがりながらどこかで御同様、と認め合う人類のコミュニケーションを私は愛おしく思っている。あとエロい話、ラブラブ前提なら単純にわりと好き)。
 ただ、まじめに、人のエロ気をそそる目的でエロ書くとなると、なかなか難しい。だいたい、私のいつもの描写案配だと、事物をまあまあダイレクトに書いた上で視点人物の解釈や感情をそこに載せる……みたいな書き方なので、これをそのままエロシーンでやってしまうと、単なるグロで気持ち悪い描写になりがち。
 ぶっちゃけエロに求められる描写ってテンプレであることも大事なんだよなあ。あまりにオリジナリティありすぎる書き方だと、エロ的に盛り上がれないっていうか……。しかし私には、言い換えをあまりにありきたりにしたくないの心があるため、そのバランスを取るのがなんか難儀でさ……。
 それはそれとして、官能的な描写自体の魅力もわからなくはないんだけどね。タニス・リーとか、文章自体もえっち(えっちなことしてない場面なのにとてもエロい場面とかある)なうえに、それで実際ドエロなことしてたりする。その豪華絢爛な耽美も、読む分には、眼福~って思ってる。
 というわけで、読むならまあ楽しかったりするんだけど、しかし自分が書ける、書きやすい文体ということでいうなら、私はちょっとエロ書くの苦手だと思う、というのがまず第一点。

 二点目は、推しがエロ気を出してる場面を書きたいかということ。
 いや、見たいよ。推しの色気とかえっちなシーンというのも、まあ見てみたいってのはある。あるけども。
 しかし同時に、いや意外と見たくないかも、の気持ちもある。
 なんだろうな、友達、それもかなり仲のいい友達とか、生き様やら有能っぷりやら憧れてる職場の先輩とかが、すてきな人と付き合いはじめたって聞いてさ、その人たちのエロ気出してる場面見たいかなあっていう。エロい局面も含めて幸せではあってほしいので、スケベエも含めてぜんたい幸せに仲良くしててほしいけど、その細かい場面のあれこれとか、微に入り細に穿ち聞かされても困るじゃん。
 遊びですらそう、好きな人同士ならなおさら、すけべってやっぱこう、二人だけのコミュニケーションなんだよねえ。なので、他者の視点てそこになくていいし、二人のあいだだけで完結しててくれていい。それをあえて覗くのが、エロのエロたる楽しさなんだろうけど、いやでも推し……推しカプたちは、いつかどこかでに幸せにスケベしてくれててほしいんだけど、その場面をあえて見なくてもいいですってな気持ちもある。でもちょっと見たい。いやどーだろ。すくなくとも自分ではちょっと書くの難しいなあ。筆力があるなしに関わらず、単にその場面を自分が読みたいのかという逡巡のために。

 なお、なんか物語を書いてて、途中にセックスしてる場面が必要だなと思えば、書くだろうとは思う。
 ただ、二次創作だとその場面自体書かなきゃいけない必然はたぶんほとんどない。「こいつら交尾したんだ!!」という事実だけが必要なら朝チュンでいいんじゃないかなと思ってたりする。行為の詳細な描写はなくてもいいかなって。

 まあ、ですよ、しかし。
 ふつう、二次創作ってのは一次作品では見られないいろいろの場面を見たいから書くのであって。
 一次作品では主体としていないが、魅力的な推したちの性愛の側面もたくさん読みたい、描きたい。
 そういう需要と供給のフローがあるから二次創作ではエロを含む作品ってのがけっこうな量になる。そういう世界で、あえてエロどころかエロい場面も書かないってのは、なんかちょっと、なんだろうな肩身が狭いような、居住まいが悪いような、なんかそんな気持ちはちょっとあるね。

 長い割になにが言いたいのかわからなくなったけど、とりあえず私はアブトゥとペレスでエロ書く(描く)ことはたぶんないなあと思っているという次第。キスとか朝チュンくらいなら書くことがあるかもしんないが、とはいえそれすら別に予定は今のところない。
 

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 岩波が2020年あたりから出版している「リンドグレーンコレクション」。
 岩波少年文庫で出ていたリンドグレーン作品の新訳・新装版なんだけど、年明けて2026年1月にはこのシリーズに『ミオよ わたしのミオ』が加わるそうだ。その新装版のイラストは酒井駒子の描き下ろし!
 もとのヴィークランドの絵もめちゃくちゃいい、というか、なんなら岩波が出してるリンドグレーンの本のなかでも私は『ミオよ わたしのミオ』の表紙がいちばん好きかもくらいに好きな絵なんだが、しかし酒井駒子が描くミオやユムユムやミラミスやカトー、あとなんかあのすごいうまそうなパンの絵、見てみたいじゃないか。
 ところでこの知らせでテンション上がって、ワサワサとツイッターやらグーグルやら検索してて知ったのだが、『ミオよ わたしのミオ』の映画版、クリスチャン・ベールがユムユム役やってたの?!
 画像見かけたんだけど、まだ子役時代のチャンベール、めちゃくちゃ整った顔の美しい少年だった。さすがチャンベール。
 あと悪の騎士カトーがクリストファー・リーだった。
 映画があるのはうっすら聞き及んでいたけど、配役がこんなビッグネームだったとはね、ふええ見たい。

 あと、元の装丁のほうの挿絵を描いたヴィークランドに話を戻すと、この方はエストニアのタルトゥの生まれだったのね(wikipediaによれば、1944年のソ連再占領の影響でスウェーデンに逃れたとのこと)。
 タルトゥって古い大学があって、街並みもきれいで、なんとなく行ってみたい街の一つなんだけど、そうか、ヴィークランドはここの生まれだったのか。ただし育ったのは、バルト海沿岸の街ハープサルだそうだけども(国内でも東寄りで内陸のタルトゥと、最西部にあってバルト海に面するハープサルではだいぶ環境が違いそうではある)

(いつも以上に締まりもとりとめもない雑記になったが これはメモなので!)

(追記:思い出してたらリンドグレーン語りしてきたくなってきたけど、アホみたいなダラダラ長文綴りそうなのでやめとく。あと、持ってた児童書を何年か前に学童にほとんど寄付してしまって、そのときに岩波少年文庫のリンドグレーン作品もみんな手放してしまったから手元になくて気軽に読み返せない)

メモ 編集

 ふだん家で使っているマグカップは一杯でいくらくらいの容量なのか、ちゃんと計ったことがなかったので計ってみた。
 250ccくらいかな~と予想してたんだけど思ったよりもっと入って、350cccぴったりくらいになった。
 ふだん使ってるときも、なんかこのマグ思ったよりたっぷり入るのではもしかして?……などとうすうす思ってはいたが、缶ジュース1本分が入るとはね。やるじゃん。

 ちなみにやはり普段使いのサーモスの保温容器、これは本来の用途はスープジャーだが私はもっぱらお茶を淹れるのに使用してて、これもついでに計ってみたら350ccであとちょっとの余地があった。たぶんひたひたに淹れたら360~370ccくらい。
 このサーモスの保温ジャーは、適当にお茶をいれてそのまま保温をして飲みたいときによく使っているが、ちゃんとお茶を淹れる用の急須もある。これも計ってみたらヒタヒタで450ccほど。実際には茶葉のかさがあるし、あまりヒタヒタだと注ぐときに漏れるから、実際に使っているときは目一杯注いで400ccくらいというところかな。
 あとついでにおたま。おたまも計ってみた。
 というかおたまは、ときどきふと思い立って一杯どんくらいの量、というのを確認しているのだが、そのたびに忘れる。なので、ここにメモっておくと、だいたい80cc~85ccくらいな感じだった。
 これをちゃんと覚えておけば、料理のときに、ちょっと便利かもしれない。
 あと、インスタントのコーヒーとかココアとかスープとかよく「160ccのお湯を注いで……」というレシピが書いてあることが多いけど、うちのおたまなら、ヒタヒタ2杯分がだいたい160ccくらいになるということだ。なんかいつもちゃんと計ってインスタント入れるとかしないけど、しかしメーカーさんが示すレシピが最大にその商品のポテンシャルを生かし切れているはず。今度からおたまでいいからちゃんと計ってお湯入れたろうと思った。
 まあ、私はめんどくさがりなんで、インスタントのココアにしたって料理の調味料にしたってたぶんすぐ忘れちゃて、目分量で適当に入れだすとは思う、思うけども……(こうやって、おたま一杯がいくらくらいの容量かを計っては忘れして、生きてきたのだ……)

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 そういえば今日あったことでメモっておきたい、だが世間的にはだいぶどうでもいい、ちっちゃなこと。
 ぼんやりとした季節の記録である。

 11月も後半になればそれなりに涼しい日々が続き、沖縄にも秋冬がきたぜ!と意気込んで、毛布も出した、かけ布団も出した、冬服も出した、のだが、ここ三日ほど、普通に暑かった。
 なんなら夏日だったかも。少なくとも昼間は25度超えてる時間帯あったと思う。夜間とか明け方とかの最低気温もずっと20度より上のラインにあったため、正直寝て起きると暑くて喉がカラカラ。
 職場も、さすがに12月とあってクーラーを入れられてなかったのだが、みんなが、うう暑い……とうだっていた。当然、みんな半袖。
 そうは言っても夕方とかは冷えるかもと、朝は上着を羽織っていたのだが、もう全然暑い。ので、さっさと上着は脱ぎ放って、だいたいTシャツで作業してた(あまり人前に出ない作業だから出来た格好)
 帰りに買い物して帰ったら、それだけでうっすら汗をかいた。とっくに日も落ちて暗くなっているのに普通に暑い。
 …………と思いながら帰宅し、そのまま部屋着に着替えて「うわー暑かったー!」としばらくごろごろしてたら今度は汗で冷えて寒くなった。というか、夜になってじわじわ気温が下がりだしたのかもしれない。明日の予報は今日の暑さから一転、4度ほど下がって最高気温20度ほど、最低17度だという。なんという油断ならなさ。 

 ところでその買い物に寄ったスーパーでは、シャンシャンリンリンと鈴の音っぽいソングが流れていた。
 そりゃそうだ、12月だもの、クリスマスムードだよね。
 と思ったが、メロディが、なんかすごく聞いたことがある。
 そして、なんか違和感がある。いや、妙に肌になじむ感じなのだが、なじみすぎる。よじれのような、この小さな違和感。
 りんりん、しゃんしゃん、鈴の音、遠い北の雪降る国、トナカイの引くソリ……のようで、しかし実はもっと近いなにか……
 えっと、この曲、どのクリスマスソングだっけ……???

 シャン、シャンシャシャ、シャンシャンシャン、リンリンリンリンリン。

 もー、いーくつ、ねーるーとー、おーしょおがーつー。

 なんだよ!!! クリスマスっぽい音色で擬態すんなよ正月ソングがよ!!!
 なんだよこの……これ、許されていいの、え……???
 ていうかなんで擬態する必要があるの……

 と思ったけど、売り場にはすでに切り餅コーナーとミカンコーナーがかなりの幅を聞かせており、なるほどなあという感じだった。スーパーはなんだかんだ言って、クリスマス商戦よりも正月のほうが売り上げがハネるのかもしれない。が、今はまだクリスマス前なので、クリスマスムードを思い切り破るわけにもいかず、こういうニッチなBGMが生まれたのだろう。合理的といえば合理的だが、なにか猫だましを食らった気持ちもするのである。

メモ,日記 編集

 それにしてもLLMの機能向上が延々と続いてて、今のGeminiやClaudeだったら、細かめの設定とサンプルに自分の書いた二次文章とかわたしたら、かなり質の高い推しの二次小説を生成してくれそう……多分だけど私が書くのよりもずっと読みやすいやつ。そしてもしかしたら、私が書くのより面白かったり深かったりするやつ。
 そんなのが演算でポンとお出しされてくる世界で、私はどうして自作二次をちまちま続けるんだかね、という気持ちにもなってくる。
 でもやっぱ、自分で書きたいから書くんだよね。AI生成のが早くできあがるだろうけど、それでもなんか、ちまちま書くんだよ。書きたいからね。

 あと、やっぱ人間の呼吸の気配のするもの読みたい。
 昨日、浴びるように推しの二次小説読みたいんだよな〜!みたいな、いつものどうにもなりようのない願望を吐いてたけど、じゃあAIにたくさん生成させたらいいじゃん、にはならない。それが一次作品であれ二次創作であれ、私は単におはなしの展開を追いたいのじゃなくて、書いてる人がなにを見てるか、読み手になにを差し出そうとしてるか、そういうヘキとかこだわりとか解釈みたいなもんを味わいたいんだよな。
 AIは情報整理してまとめてくれるけど解釈はしてくれないというか、できない。ある意図を持って表現することには取捨選択と判断と決断と覚悟がが含まれてるけど、それは個を持つ人間がやることであって、集合知であるAIは表現はしない。私は解釈と表現を見たい、ほかの人が個々に胸うちに持っているだろう推しへの愛着の、そのさまざまさを……平均ではなくて、たくさんのさまざまを……

メモ 編集

 まったく気づいていなかったが、まさに昨日、claudeOpusが4.1から4.5にアップロードしていた。
 ので、昨日と同じく、「一陽来復」「冬越し」「酔いどれの夢」「幸福の星」の4作を投げて、感想を聞いてみた。
 今回は、geminiさんとだいぶ似た感じの感想をお出ししてきてくれた!
 「酔いどれの夢」の感想が、geminiさんとかなり近い。ふうん。
 文脈はばっちり。geminiよりちょっと細かめに読んでくれてるところあるくらい。
(印象的な描写で、「一陽来復」冒頭の話でミゲルがコイン回す場面とか上げてきた、そこがピックアップされるのか、と意外)
 あと「一陽来復」についてはバルディのシナリオが途中で終わってるっぽい、とダメだし食らった。たぶんモーガンの話が出てくるのに、そのまま情報だけもらって終わるからかなあ。もしちがうポイントがひっかかってたらわかんないけど……まあ二次創作なので、原作のイベントは読み手にとっては既知のできごとという前提で作ってるお話だから、しょうがない。
 …………と思って、どこがわかりにくかったか聞いてみたら、ツールの影響で一部省略して読んでたって!
 なんだよ!

claudeさん曰く、
  ファイル全体を表示する際、16,000文字を超える場合は中間部分が省略され、
  冒頭と末尾のみが表示される
  『一陽来復』は320行あり、おそらく16,000文字を超えていたため、
 〈パーティ〉章の後半部分(139行目〜180行目あたり)が省略されてしまいました。 
(中略)
  文章量自体については、数万文字程度であれば問題なく扱えます。
 『一陽来復』の長さは分析対象として全く問題ありません。

 確かに「一陽来復」は18000字。
 「幸運の星」も長めなんだけど14000字だったので、制限にひっかからなかったのかもしれない。
 改めて、省略部分も読んでもういっかい感想書いてみて!したらちゃんと書いてくれた。おわびのように、バルディの〈パーティ〉とペレスの〈葡萄酒〉については妙に細かめの感想が来た。
 うーん、長いテキストだと省略して読むことあるのか。気をつけよう。

メモ,日記 編集

 『四方の風』に載せた短編について、geminiとchatGPTにそれぞれ投げて比べてみるのをやっていたのだが、最近、claudeさんも加えてみた(わざわざ一ヶ月課金してまで)。
 それでここ数日はclaudeさんに感想投げてみるキャンペーンを一日一回開催(課金のくせにすぐトークン貧血するため)してたんだけど、今日あたり、やっと最後の方のソリスの「冬越し」と、ロハスの「酔いどれの夢」まで投げれるぞというところまで来たところで、caludeから「メモリ機能」とやらをおすすめされたり、そうこうしているうちにgeminiも2.5pro→3.0にアップグレードしたりと、いろいろ機能向上のあった気配。なので、よーしそんなら、おまえたち長文読解お得意LLMの、文脈判断力のパワー確かめてやんよ!と、それぞれに対し複数の作品を順次投げてみた。

1:「一陽来復」(提督8名の掌編連作、ゴメスとソリスの友情に触れる部分あり)
2:「冬越し」(ソリス主人公、ソリスがゴソロ少年期に言及)
3:「酔いどれの夢」(ロハス主人公、ゴソロ要素はあまりないが酒場亭主時代への言及あり)
4:「幸福の星」(ペレトゥ話だが、イヴラークの骨発見後のゴメスとソリスの話が出る)

4作品トータルすると40,000字を超えており、そもそも10,000字超えてるのが2作品あるので、これはchatGPTにはちょっと厳しいかもと思ったのでchatGPTには投げてない。

ちなみにclaudeは、昨日試しに「一陽来復」を投げてメモリ機能とやらをオンにしてみたら、この1作品の感想だけでトークン消費しきってしまったため、残り3作品は今日になって投げた。途中でトークン消費しきるかと思ったが、とりあえずなんとかなった模様。ただし、昨日オンにした「メモリ機能」とやらは、実は働いてない気もする。
 geminiは、今日、3.0proモードに切り替えできることに気づいたばかりだ。なので、つい先ほど「一陽来復」から「幸運の星」までを一つづつアップロードしては感想聞く、とやってみた。
 そうしたら、「幸運の星」の感想もらったところでちょうど本日分の3.0pro仕えるトークンを消費しきった。

 各作品、ゴソロ要素については断片的に織り込まれただけの小さいエピソードなのだが、claudeもchatGPTもそれなり、ちゃんとゴソロの友情や関係性についておおむね妥当に解釈してくれる。すげえなあ。

 ただ、claudeは、「一陽来復」だけを昨日投げたせいもあるかもしれないが、秘めた恋愛感情に言及する文章(アブトゥが自分の恋心について言及する描写)を、ペレスの内心として解釈していたので、ううん? あれれ?と思った。
 あと、かなり時間を使った。geminiよりだいぶゆっくり回答が返ってくる。
 そして、gemini3.0はというと、え、なんか、前よりかなり精度上げてきてないかな、これ?
 まず「酔いどれの夢」で、ロハスの「待つ男」としてどっしりした包容力とか安定感みたいな部分について言及してくれたりしてちょっとびっくり。gemini2.5のときにはそういう読みはしてなかったはず。
 これは今回「ロハスがソリスを待つために提督やめて酒場をしていた時期がある」という設定情報をプロンプトに足したせいではあるのだが、claudeにも同じようなプロンプトを出してわりにこのへんの、私がうっすら描きたかったロハスの本質みたいな解釈には及んでいなかったので、geminiがここに着眼したのはだいぶ目を引いた。
 そもそも「一陽来復」も、前にgeminiに感想を聞いたことがあるのだが、そのときよりもキャラの解像度が妙に高い気がする。
 geminiに対しては、これまで散々ネオアト二次の感想をお願いしてきてて、そのたびに毎度うるさいくらいに繰り返し補足情報を書いてきたのだが、今回はこういったこれまでのやりとりも参照されているんだろうか? 2.5proのときはそれほど以前のやりとりを踏まえた感じなかったような気がするんだが……ちょっと仕組みがわからないが、とりあえずgeminiの感想書きます能力、つまり文脈読み取りと情報整理能力はかなりアップしているような印象を受けた。
 しかしclaudeにしてもgeminiにしても、あいかわらず基本として褒めが紛れこんでくる。そういうのは別にいらない……とか言いつつ、そうそうそれそれ、そういうこと書きたかったんよ!、とか、自分の文章のこういうとこわりと自分でも好きなんよね!、って箇所をピンポイントで褒められたりすると、ヘヘッ、喜んじゃうね、そりゃね(ちょろい)

 でも、それでもやっぱり、人間の人に感想もらうのとはまったく違うものではあるなあ。
 なんていうか、鏡を見ている感覚がずっとある。自分で読んで分析してるのに似た感じ。結局、LLMは情報を整理してくれているだけなのであって、「そうそうそう、そういうとこ、そこがね、書けてたなら良かったわ!」とか思う自分の気持ちは、LLMの提示してくれたサマリーを自分に都合良く解釈して「思いどおりに書けてるっぽい」と思い込んでるだけなんじゃないかな。そんなふうな感覚がずっとある。

 とはいえ、LLMに質問するついで、自分でもちょっと書いたものを読み返したり考えたりしてみて、少し新しい視点で作品を読み返すことができたのは良かった。
 書いてるときにはそれぞれの作品を強く結んで書こうという意識は別になかったんだけど、こうして断片的に潜り込ませたゴソロの物語という部分的な要素をつなげて一連としてみると、それぞれの縦糸緯糸がぼんやり重なって大きな一枚に見えるような、織物のような感じもある……ように思えた。まあ、気のせいかもしれないけど。
 私自身が書いたお話だからそういうふうに見えるだけで、読み手の人がこういうふうにくみ取ってくれるわけではないな、とは。
 ただ、私は、今までずっとペレトゥばっかり執着して書いてきてるんだけど、しかし読む方としては、何人もの提督たちの物語がうっすら重なるようなもののほうを、わりと楽しんでいる気がする。
 もちろんペレトゥを中心に書いていこうと思ってるんだけど。でも、それと同時に、提督たちのゆるいつながりとか、ネオアトの世界観とか、そういうのを感じられるような二次、やっぱ今後も書いていけたらいいな。

 え、いやまあ、欲望としてはね、そりゃ欲としては、ペレトゥのいちゃいちゃもいっぱい書きたいよ……
 いやさ、どっちかいうと読みたい。読みたいんだよな。やっぱ萌えは強いモチベーションだし、そして自分で書くのも楽しいが、自分が書いたのじゃないやつもいっぱい、たくさん、浴びるように、読みたいな……でもまあ、二次創作とはDIY精神で取り組むものだ。そこになければないですね。だから自分で書くんだよ。なんでもいろいろ、とりあえず書けばいい、ただそれだけのシンプルな話なんだよ。
(でも、さすがに2000spあるオンリーイベントが年に1、2回は開かれてますねとかいうジャンルだったら、きっと私が書く必要はなくなるんだけどなあ。しかし今のところネオアトラスはそこまでのメジャーではないからね、残念ながら、今のところはね)

メモ,日記,ネオアトラス 編集

 2025.10.28の雑記で、親戚のばばがよく言っていた「味がある」という言い回しについて書いたが、最近、もしかして元はこれかな?という方言の言い回しに出会った。
 「あじらーさん」という言い方があるらしい。
 読谷村史の発刊した『読谷村のしまくとぅば展 展示資料集』という本を見ていて見つけた。
 ちなみにこの資料集、ダウンロードできる。ありがて!!
 https://yomitan-sonsi.jp/iroiro/

さらにありがたいことに読谷村史はホームページがたいへん充実していて、読谷のことばの単語帳というのもまとめてある。ここにも「あじらーさん」が載っていて、発音も聞ける。
https://yomitan-sonsi.jp/kana/a/
(「あ」の項目の後ろのほうにあじらーさんがある)

 ここで記述されている意味は簡潔なので、うちの親戚おばあが言っていたような使い方をするかどうか(とくに餅について「あじらーさん」と言えるのかどうか)はわからないが、たぶん予想では、だいぶ近い使い方する単語なんじゃないかな~。
 読谷村には知りあいもいるので、機会があったら「あじらーさん」の使い方を聞いてみようと思う。

 読谷村史はかなり以前から、継続的に民俗誌や言語資料の収集、とくに民話の収集を綿密にやっているところで、その成果をこうやってかたちにして出してくれるのもすごくきっちり取り組んでいて、リスペクトしかないんだぜ……。

 そうそう、資料をダウンロードできるページに「読谷村民話資料集PDF」というシリーズもあるが、このシリーズにはネットの一部でちょっぴり有名な「ゴリラ女房」が含まれている。『儀間の民話』63pである。
 ゴリラ女房、タイトルのインパクトもさることながらストーリーもなかなかインパクトあっておもしろいというか、なんかすごいよ。
(ただしゴリラという語とストーリーのインパクトがすごいが、ストーリー自体は中国に古くからある「攫猿」の伝説に似ていて、類話がないような民話ではない。あと、より大きくくくれば、熊女房とか虎女房、葛の葉とかの、東アジアに広がる異類婚姻譚の類型に含まれてもいるはず。実際、同じ集落の別話者からは、熊女房の話が聞き取りされているのだ。熊女房も熊女房で、わりとしんみりで気になる話なんだよな~)

メモ 編集

 まだまだいろいろあってて(主に仕事)、雑記書いてる場合でもないんだけど、ふと思い出したから、メモ。
 さっきふと、イラストでこれ好きだな~って思うの見てると、なんとなく自分の好む女性の顔立ちってあるなあ、と。目ぱっちり大きめだけど、切れ長でキリっとして、顔の形ちょっと面長でおとなっぽい、ちょっとマニッシュなタイプめちゃくちゃ好きやね~(こうして書き出すと、アブトゥそのものだね)
 そうさなあ、リアルでいうなら志穂美悦子の面立ちとかやっぱ好きだねえ……と思ったところで思い出した。
 私の男装女子萌えの原点、そういえば志穂美悦子かもしれん。
 深作欣二の里見八犬伝の、犬坂毛野である。

 私が初めて映画館で映画を見たのは5歳のときで、その初映画がなんでだか深作欣二の里見八犬伝だった。
 CM見て自分がせがんだのかもしれない。親父に連れられて、池袋だったか新宿だったか、都内の賑やかなところの大きな映画館に出かけたような記憶がある(地元にも映画館があったはずだが、そこではやってなかったんだろうか、ちょっと覚えてない)
 しかし、映画館で映画見るってのが初めてだったのに、それがどうしてか深作欣二。
 もちろん同監督の他作品に比べればバイオレンスや無残さは控えめだったと思うんだが、5歳児にとってはほぼホラー映画だった。迫力の大画面に、怖い絵面がやたら繰り出されてくる。いつも見ている戦隊モノの悪の秘密基地ですら怖いってのに、深作八犬伝の悪サイドの造形ときたらその十倍くらいおどろおどろしくてグロい。悪役も怖いやつばっかりで、ラスボスの女王っぽい人なんか見るからに大量虐殺なんてお手の物みたいなクソ悪どい顔してて、そんな魔女が血の池で風呂とか浴びだしたりしやがる。もう悪夢みたいすぎた、クソ怖かった。(今見ると夏木マリの玉梓はかなりかっこいいんだけど、5歳児には妖怪魔女にしか見えてんかった)。
 とはいえ、結構おもしろかったのだ。なんせキャラが立っている。いっぱい人が出てくるのに、それぞれに印象的な場面がある。ストーリーもRPG的なわかりやすい筋立てにまとめられていて、ギリギリ5歳にも理解可能だったのも助かった。
 そんななかでいちばんお気に入りだったのは志穂美悦子が演じる犬坂毛野だった。
 この八犬伝、原作からはかなりストーリーが改変されていて、この映画での毛野はどことなく星矢の女聖闘士の設定を思わせる、女を捨てた孤独な仕事人である。普段は若侍の格好をしているが、女性の格好もしてたと思う(隠密の仕事で)。
 ともかく顔はめちゃ美形。涼やかな、意志の強そうな視線で、手足も長くてシュっとしている。そんなきりっとした美人がバリ動きまくる。どの場面みても動きがキレッキレ。殺陣なんか、えげつないかっこいい。
 こんなかっこいい女の人っておるんか……男装女子、かっこええな……というのが映画を見た私の脳裏に刻まれたのだった。
 この数年前に『ベルサイユのばら』のアニメがヒットしていて、私もオスカルの存在を知ってはいたのだが、アニメを見てはおらず、オスカルが男装女子だという認識すらはっきりとは持ってなかったと思う。なので、自分で視聴した映像作品で男装女子というキャラクターに接したのは、たぶんこの1983年映画の犬坂毛野が初めてだと思う。

 あと、深作八犬伝では、志穂美悦子の犬坂毛野と京本政樹の犬塚信乃が斬り合いするシーンなんてのもあったはず。
 ぜんたいに顔面偏差値の高いこの映画の中でもトップレベルの美形二人。この人外めいた美人同士ががっちがちの殺陣をするという、今考えるとすごいぜいたく。
 で、京本政樹もあまりに中性的な美形すぎたので、毛野と信乃が自分のなかで混ざってしまい、家に帰ったあとで、あれ、なんかすげー美形が戦っとったはずだけど、どっちがどっちだ? どっちかが女の人だった気がするが、どっちも男の人だったっけ?どっちも女の人やった? と混乱していたような記憶がある。確か、パンフレットを買ってあったような気がするので(おそらく父が買ったと思う)それを何度もひっくり返しては、やっぱりどっちもきれいすぎて、どっちもかっこいいなということでなにかを納得してた気がする。

メモ,日記 編集

 今週はちょっと仕事の作業が詰まってて、アンソロ原稿にぜんぜん触れてない。ら、来週からがんばろうね……。

 ところでちょっと前から、chatGPT、geminiそれぞれに、自作の二次創作短編かつ、単独でいちおうストーリーが成り立っている『四方の風』に載せたやつを、だいたい一日か二日に1短編づつのペースで、感想言ってもらったり分析してもらったりしている。
 設問はだいたい同じプロンプトを投げるようにした。それぞれのLLMの違いや傾向について、肌感覚的に把握しときたいなと思ったのだ。なお一日に1つづつなのは、すぐ無料分のトークンを使い果たしちゃうから。有料にしてまでやることじゃないしね……。
 ……と思っていたのだが、実は前から使ってみたかったclaudeを一ヶ月だけ課金して試してみることにした。
 claude、わりとすぐトークン使い果たしちゃうんだよ……課金はproプラン月20ドルで、それ以上だと月100ドルとか200ドルとかなんだけど、Proだと10万字超えの文章の分析投げちゃうとすぐ一日分のトークン使い果たしちゃった。もちろんそれ以上のプランにするほどではないので、おとなしく、トークンが復活するのを一日二日、待つんだけど。まああと一ヶ月弱、ちょっとclaude遊んでみることにするつもり。

 で、今日の段階では、chatGPTとgeminiにそれぞれ『四方の風』に載せた8作品の感想とか講評みたいのは書いてもらって、あとそこそこ長さのある「鳥が歌うときには」「覚醒」の感想&講評投げもした。
 claudeでは、まだ「鳥が歌うときには」と「覚醒」、『四方の風』から「霧」、を見てもらっただけ。
 ただこの段階でも、やっぱりそれぞれ個性があるなってのは感じる。
 あとなにより使った感触というか、印象というか、なんかそのへんが違う。
 物語分析自体は、短い話だと、おおむねあらすじや、中心的な部分の解釈はだいたい妥当というところで、3者ともそんなに違いはない印象なんだけど、指摘事項とか分析の際の注目点なんかのディテールだとわりと違うかな。特に「リズムや文体について講評して」とか、「評価できる描写や場面はどこ」というふうに、質問のポイントを絞り込むと違いが出てくる印象。

なんとなくそれぞれの印象を書いてみると、

・chatGPTは、リズム分析とかさせると、なんかそれっぽい回答返してくれる感じだった。一文の長短とか、読点とか動詞とか接続詞の位置や用法なんかを数えだして、なにかと可視化しますか?とかグラフにしたがる。グラフにすることが有効かどうかはわからないが、定量的分析っぽくてかっこいい。ただ、本当にリズムが分析できているかというと細部はどうも適当ぽい。文学的分析みたいな設問のときも、なんかそれっぽい専門用語とか概念ぽいことばを取り出して説明しがちだが、その用語が適切かどうかはよくわからない。うっすらと、ちょっとお調子者で知ったかぶりだね……まあそこに湧く親しみもなくはない、という印象に至った。基本、テンション高め、フレンドリー、全体に寄り添い傾向強め、隙あらば褒めてくる。

・Geminiは、物語の流れの把握に長けているが、一方でリズム分析とか他の要素について尋ねたときも意味や文脈といった分野に重点置きがちな感じはする。リズム分析だとなにかと読点の位置を気にしがち。あと、ギャグというか、皮肉とかちょっと脱力する感じの小ネタを置いたとこに存外反応強めだった気がする。落ち着いてるっぽい印象なのにわりと面白がりさんでゲラなのかよ!と思った。あと、Gemini姉さんは語り口落ち着いてるぜ……と思わせて、ふと見ると過剰な褒めをつっこんでくる気がする。実はchatGPTより褒めの派手さが目につくなとおもったりもした。

・claudeは、おそらく文脈把握は3者の中では一番上手で、なおかつ、過剰に褒めもせず、適切な読解を最大限簡潔で必要にたる分として提示してくれる感じ。全体にソツがないし隙もない、仕事出来るマンの匂い。褒めも混ぜてくるけど控えめなので、わりと淡々としている印象がある。物語の理解の的確さやほどほど感はたぶん一番。特に指示をしないで講評とかお願いすると、評価ポイントと同時に改善点や欠点も必ず指摘する。ブラッシュアップのアドバイザーとしては頼りになるかも。ただ、「私はステップアップなど求めてない、なんかいい感じに褒め感想聞きたかっただけや!」という気分のときには、小うるさく感じるかもしれない。プロンプトでそう指示すればある程度フレンドリーにふるまってくれるんじゃないかな、とは思うが、chatGPTやGeminiの、ひたすらちやほや路線とはちょっとタイプが違うのは確か。chatGPTの寄り添いを浴びまくったあとでclaudeを浴びにいくと、急に冷水ぶっかけられて整えられちゃったというか、うっすら鼻柱にデコぴん食らうような感じもするというか……chatGPTよりはうっすらスパイシーかもしれない。
 試したわけではないが、20万字くらいの文庫本丸々一冊分の文章を投げてもだいたい的確に要約してくるという話を聞くので、長文読解や文脈理解みたいな仕事だったらとにかくclaudeさんにおまかせするのが一番間違いなさそう。

 ああ、そういえば、claudeではやってないけど、chatGPTとGeminiでは、長い文章から任意で場面選んで絵を一枚書いてみてくれ、ってのを試してみた。
 で、20000字近くある「覚醒」をファイルごと投げて絵を描いてもらったんだけど、Geminiは20000字あっても余裕であらすじ把握できてたけど、chatGPTは後半なればなるほど把握が怪しかった。ただこれは、課金して高度なモデル使ってみたらまた違うのかもしれない。
 あと、どっちも無料で使える範囲でしかやってないので、修正出しながら何回もほしい絵出るまで粘る、という生成はできていない。なので、ポンと出しただけだとだいたい、うぅんなんか違うな……というものにはなる。
 正直、絵の生成については自分で描く方が手っ取り早いし、イメージしているものに近いものを出すことができるなあと思う。もちろん私の描く絵は絵としてはものすごくへっぽこなのだが、これは上手下手の問題ではない。人間の描く絵には、なにをどう切り取って見せたいか、その決定と判断の積み重ねががっつりにじみ出ているので、そうかい、あなたの言いたいのはここなのかい!という焦点がくっきりしている、という話。
 LLMという技術はやはり、平均値のだいたいの正解を出そうというのが核にあるのだろうなあと思う。なので、テキストで描写された要素をグラフィックとして画面にいくつか並べることまではできるのだが(まあそれができるのがそもそもすごいではある)、テキストで描かれている要素のうち、絵としてはなにをどのように強調し、絵でこそ可能な語りをディテールのどこにどのように忍ばせるか、みたいな主体的な判断まではできないのだ。
「この話の場面なら、きっとこういう画角でこういう光の当たり具合で、こういう位置関係で、顔の向きは、目線はこうだ! そうやって描いたら伝わりそう、伝わると思う、伝わ!れ!!」……と、このように、私が絵を描くときには無意識でいくつもの判断と選択と決定を繰り返していると思うのだが、そういういくつもの積み重なる選択と決定を、LLMはしてくれない(たぶんできない)。
 とはいえ物語と密接に結びついた表現物とかではなく、なんか雰囲気アップのために絵とか図解も添えてみた!みたいなグラフィック生成だったら使いどころはかなりあるんだろう。グラフとかチャートとか。絵じゃなくて図、ということなら、簡易なものであれば自分でこさえるよりはよほど素早く正しくきれいなものを出してくれると思う(ハルシネーションがないかのチェックは必須だけど)

メモ,日記 編集

 なんかふと思い出したんでメモしておくんだけども。
 おととしに亡くなった親戚のおばばが、たまに、「これは味があるよ」という言い回しを使っていたような気がする。
 日本語で言うなら「滋味がある」が近い気はする。単に出汁が効いてるとか、旨味が強いとかというわけではなく、旨いと思わせる何がしかの要素が濃厚に詰まっておる、というニュアンス。
 魚にも肉にも野菜にも使う。煮しめたゴボウに、「このごぼうは味があるよ」みたいに言う。だが、単に出汁がうまく沁みてるということではなく、素材のごぼうが良い味で、というニュアンスがあったように思う。といって、素材そのものの味の良さだけに言及してるわけではなく、必ず仕上がった状態での「味がある」という言い回しだったように思う。素材のごぼうの方を指して「味がある」とは言わなかったと思う。自分でこしらえたごぼうの煮付けを食べながら「このごぼうは味があるね、〇〇ちゃん。食べてごらん、味があるよ」などと言うのだ。
 沖縄かまぼこの味わいがおばばの好みであったときにも確か「味がある」と言っていた。おばばは、行事のときの重箱に入れるかまぼこは、わざわざ市場まで出かけて、ここの店のがいちばん味があるよ、と言いながら、いきつけの店で買う。たまに支度に手が回らず、取り急ぎスーパーで買ってきた沖縄かまぼこを使わざるを得なかったときは、たいてい「スーパーのは味がないよ、おいしくない」と文句をぶつくさ言っていた。ちなみにデパ地下で売られているような、江戸前高級かまぼこ(もちろん美味)をいただいたとき、おばばは「内地のかまぼこは、あふぁい(淡い、薄い)ね」と言っていた。高級な贈り物であることはわかっていて、ありがたく美味しく頂いてはいたものの、おばばの言う「味がある」からは、本土のかまぼこの味は少しズレていたようだ。
 餅の風味が良いときにも使っていたと思う。餅についてはおばばは、沖縄のもち粉で作る白餅よりも、内地風の搗き餅のほうが評価が高く、「奄美の餅はとても味があるよ、おいしい」とは、奄美に住むおばばの娘から送られてきた搗き餅(輸送で数日経っているがわりと搗き立て)に対しての絶賛コメントだった。そういえば、大福のあんこがなかなか重量のある甘さだがそれゆえに旨いというときも、おばばは「味があるねえ」と喜んでいた気がする。
 美味い、とだいたい同義なように思うが、なんかそれとも少し違くて、とにかくあれは「味がある」なのだ。

 正直ちょっと記憶が定かでなく、用法や語彙の範囲が合っているのかはわからない。
 おばばは、キャラはまったく高濃度のうちなーんちゅだったが、故郷を離れて他県で暮らしていた期間も長かったため、少し独特の言語表現をすることがあった。彼女の発するフレーズのなかには耳慣れないものが混じることがあったが、それが方言なのか、沖縄なまりの日本語なのか、それとも彼女独自の創作語彙(方言の語感を彼女の感覚で独自に日本語化させたと思われるもの)だったのか、はっきりしないものが多数あった。
 「味がある」も、おばば独自の語だったかもしれない。
 しかし私も、このおばばの言い回しがなんとなく脳に染みついていて、ときどき(これは味があるね)などと思いながらものを食べているときがある。使い方が合ってるかは、いまだによく分からないけど。

メモ,日記 編集

 カクヨムだかアルファポリスだか、小説投稿サイトでAI生成の小説がランキング1位になったという。
 これだけの見出しだとなかなか衝撃的だ。反射的に、AIはとうとう人間を凌駕し始めたのかとか、人間という中身がなくたってAIが良質の絵も文章も作れる、読み手がついてPV取れて、つまりマネタイズもできるぞ、人間の作家への脅威だ、いや創作物の民主化だ……みたいな言葉がすでにツイッターには沸き返っている。
 ただ、今回の件詳しく見ると、投稿者は1日に30本を超えるAI生成作品を一度に投稿していて、そのうちのいくつかがそれなりの評価を得ているという話だそうだ。つまり数撃ちゃ当たる戦法。加えて、評価をつけた読者サイドにもbotが紛れてる可能性あり、とか。
 おそらくpixivでいっとき問題になったように、人がこしらえる数十倍の量と速さでAI生成物が投稿されまくるようになると投稿サイトの場が荒れ、メディアとしての価値自体も減衰するので、おそらく小説投稿サイト側でも、AI生成作品の投稿や公開には、なんらかの規制やフィルタがかける対策を取るのではないかと思う。

 しかし実際、なろうなりカクヨムなりのプラットフォームにおいて、読み手側は、書き手の個性を必ず求めているわけでもないかもしれない。
 すごく面白いとかじゃなくても、なんとなくキャラがかっこよさげに書かれてるとか、なんか良い具合にチートやザマァが決まってなんとなく楽しい、それで満足だったりするかもしれない。ツボを押さえたテンプレが期待通りのタイミングで期待通りにキマる(水戸黄門の印籠のように)、それがあればいいや、という読み手も実は割といるかもしれず。人間が書いていようがAI生成であろうが、様式のツボさえ押さえてあるなら読む楽しさは満たされるから文句はない、そんな実態がもしかしたらあるかもしれない。
 いちおう個人的には、今のAI生成物はまだ、魅力的な創作物、書き手の語りがしっかり乗った創作物、を生成することは得意ではないように思う。単にAIにプロンプト投げてやるだけでは、コミカライズやアニメ化に至るほどのヒット作までは吐き出されはしないだろう。マネタイズという点では、おそらくAIが生み出したそのままのものにはそんなに値段はつかない、おそらく、今はまだ。
 ただ、現段階のAIは、すでにむちゃくちゃ文章は上手いというか、読みやすい、飲み込みやすい文章を綴っていく能力に長けている。人間がつるっと飲める文章というのはすごく楽で、引っかからない。その快適さを好ましいと思う人は結構いると思う。逆に言うと、これから何年かかけて、AIが吐き出す文章のスムーズさが標準になり、癖や個性の強い文章はめんどくさがられて忌避されるようになっていくかもしれない、なあと思う。
 良し悪しどちらもあるが、人類が日々接するあらゆる情報、文章や画像や音楽といった創作物、つまりあらゆる伝達のための「ことば」「ものがたり」は、もはやAI生成物の存在とその影響を免れ得なくなっている。
 すでに私は、物珍しい出来事が起こる動画を観るたびに、この世のものとは思えない美しい風景写真を観るたびに、そのいちいちについて、これはAIが生成した実在しないものなのか、それとも実際に起こったことなのか、と考えてしまう。今までやってきたような情報への対応では、もうままならなくなってきている。
 こうした情報の氾濫に、小説ほどの長い物語文というジャンルも、とうとう参入しはじめてきたというだけのことだ。

 なお書き手としては、私自身はそれで金を稼いでいるというわけでもない気楽な立場なので、特に焦るものはない。私は物語を自分の脳からひねり出した言葉で書き綴る行為そのものを楽しんでいるのであって、AIにそこの作業を代替してもらう必要はほとんど感じていない。これは絵もいっしょなのだが、自分の指先を動かしながら、線を引いたり消したり、文字を打ったり消したり、あーでもないこーでもないと試行錯誤する行為を繰り返すこと自体が楽しいのだ。面倒は面倒だけど、楽しいは楽しい。だからAI生成使わないと効率的じゃないとか、手作業でもたもたこしらえた悪文駄文なんざ誰も見たくねえ、とか言われたとしても、やっぱり自分で書くし描くだろう。
 ああ、ただ、創作物こしらえるのにAI全然使いたくないとかいう話ではなくて、簡単な調べ物や翻訳といったことにAIを便利に利用させてもらってはいる。特に翻訳は、今までアクセスできなかった、まったく知識のない言語の情報にさえかなり気軽に接することができるようになったので、とても助かるなあと思っている。

メモ,日記 編集

 ふと思い立って、商会主の設定でも作っておくか、となった。
 今まで、ネオアト二次創作でキャラとしての商会主を描写したことはなかったのだが、前からやりたいなあと考えている枠物語構造の短編集をやろうとしたとき、つなぎの部分はミゲルと商会主のやりとりにするようなイメージでいるので、もし商会主について描写できる準備もしておけば、書き方の選択肢が広がるなと思ったのだ。
 といってもあまり商会主がキャラ立ちした個性派にしたいわけではないので、なんか商人ぽくて、あんまり派手でもないキャラで、でもそれなりに話を転がす程度には行動派でもあってほしい……みたいなことをぼんやり考えている。
 メモとして、今の時点で決まっていることを書いておく。

 名前はFernand Alexandro Sausa。フェルナンド・ソウザ。真ん中のアレシャンドロは外してもいいかもしれない。
 (単に、名前をフェルナンドとアレシャンドロで迷って、とりあえずどっちも入れとくかとなっただけ)
 家系のルーツはポルトガルのもっと北寄りの地域にあるが、フェルナンド自身はリスボンで生まれ育ったリスボンっ子。
 1469年時点での年齢は二十代後半。ペレスより二、三歳年上という感じ。
 1466年にゴメス遭難、その直後に父が病気を得て急逝し、商会主を継いだ。
 跡継ぎ長男で十代後半から父の手伝いもしていたため、商人としての基本能力は身についているが、さすがに経験値が不足している。傾きかけた家業の立て直しに奔走していたが、まだまだ不安定ながらそれなりに立て直しの方向に舵を向けつつある。
 父の薫陶によって手堅く商売をする気質で、まめな情報収集、分析、そしてコネクション利用で、手堅くやるほう。あまり博打に出る気質ではない。人付き合いもそつがなく、同業者のあいだで地味にそこそこのポジションをキープするバランス型。
 なのだが、実はふと思いつきでなんとなく手がけた事業がなぜか大当たりしがちという幸運スペック持ち。
(という設定にしとかないと、ゲームみたいに商会がとんとん拍子に大成功とかしそうにない、というメタな都合)

 提督と同じような能力パラメータが彼にもあるのだとすれば、友好度7、運8というところ。
 その最初の幸運が、1968年にペレスを提督に迎え、探査事業に金を出してみようかとふと思いついたところから始まる。
 商会の主力としては捉えていなかったこの探査事業がきっかけでゴメスも復帰し、そして王の勅令による貿易特権が転がり込んできた。さすがにデカいチャンスが降って湧いたということで珍しく博打を打ってみることにして、ジパング到達という大目標を掲げることになる。
 気質としては堅実で、総じて現実的な行動をとるが、知的好奇心はけっこう強く、内面には夢見がちで探究心あふれる部分もある。なので、実は新しもの好きで面白がり。ペレスを提督にしようとしたり、ジパング到達に乗り出すのはこのへんの気質から。交易でも新商品開発や儲かる航路開拓は得意なほう。

 家族は、母が健在で、商売の主要な助けをしてくれている。それから、上の妹、弟、下の妹がいる。
 上の妹はよそに嫁いだが、母、弟、下の妹とは自邸で同居している。(商会の建物とは別に自邸がリスボンにある)
 自邸では使用人数名も住み込みで同居。
 あと、父が健在の頃に取り付けてきた縁談があり、婚約者がいる。
 父の友人の織物商人の娘だが、8歳も年下で婚約成立時点では相手がまだ子供だったので、1469年段階では婚約だけ結んでいる状態。婚約者とは手紙のやりとりをしたり、お茶会的に会ったりすることもたまにあるが、親の決めた結婚なのでお互いにロマンチックな感情はほとんど持っていない。しかし結婚するとなればまじめに夫婦として添い遂げていく気はある。フェルナンドが30歳過ぎて、商会の事業がより安定してきた頃に結婚する設定。

 婚約者/妻は、二次創作の物語中に直接登場することはない。コロンボの「うちのかみさん」的に話題に出てきて、物語を転がすきっかけ要素となることはあるが、本人は出てこない。母や弟妹たちも同じ。なので名前や容姿の設定はしていない。
 フェルナンドは中肉中背フツメンという外見。ペレスと同じくらいか、少しだけ身長低めな感じ。髪はポルトガル人にありがちな黒寄りブラウンとかで、目の色もダークブラウンかな。髭は当初は生やしてないが、結婚するあたりから生やし始めたりするような気がする(当時の髭文化がよくわからんのだけど、貫禄が必要な立場や年齢になってくるとやっぱ髭生やすもんかなあというなんとなくのイメージ。あと軍人だと、男らしく見せるために髭を生やすらしいね)

 呼び名は、ミゲルからは「ご主人」「ご主人様」、提督たちからはおそらくセニョール・ソウザ、つまりソウザ氏とかソウザさんとか、そういう呼ばれ方をすることになるだろうか。ゴメスはもしかしたら、名前呼び捨てとか、ソウザ君とか呼ぶかもしれない。ソリスやロハスはわかんないけど、少なくともゴメスは跡継ぎとして商会で働き始めていたフェルナンドを少年時代から見知っているだろうから。あとバルディは身分差が結構あるのでセニョールなし、名字のソウザで呼び捨てかなあと思う。そういえばアブトゥも名字呼び捨てしそう(アブトゥは誰でも基本的に名字呼び捨てだと思う。マリアとミゲルだけ例外)。
 いちおう身内や親しい人からはフェルナンとかナンドとか短縮形で呼ばれていると思うけど、多分この呼び名で呼んでくる人は物語には登場しない。

 とりあえずこんなところ。

メモ,ネオアトラス 編集

 しかしなんで私は、読まれもしない文をたらたら書き続けているだろう、という疑問を今日も少し考えていたが、やはりぱきっとした答えを自分は持ち合わせてないなと思う。ただ、誰にも見られてないでただ一人でなんか好きに適当なことをしてて良いというのはとても気持ちが軽く、楽だ。
 記録として文字として記し、それを誰にも見れる場所に置いているからにはいつかに誰かが見ることもあるのかもしれないが、今のところ私の書くものに注意を払う人はいない。誰も見ていない場所で好きにものを書くというのは、下手な鼻歌をフンフン鳴らしながらいい気分でそこらを当てもなく気の済むまで一人で散歩してるのと似たようなことだ。風っていうか、空気みたいな感じだ。そのなんでもなさで気ままにはじめ、適当に切り上げる、そうできるというのはだいぶ心に抜けを作る。良い。

 とはいえ、自分なりの縛りで、やはり読み手を仮想はして、他人に伝わるようになけなしの努力はした文章を書こうという意識は持ちつつ書いている(その意識づけのために、書いたものをネットに置くことにしてある。まあ、公開することにはあまり意味はないだろう。私以外のだれかが読みたくなるような物事はほとんど書いてない、情報としては本当に価値の低い文字列だ)。
 そういう縛りもまた、自由だ。自由に自分に縛りをかけ、書き置いておこうと思ったことを(気が向いたら)書いておく。ただそうしたいからということだけが理由だ。まったく自分のために書いている。フフン、なるほどそりゃ気分がいいに決まってる。
(仕事なりなんなり、目的や目標のある書物は読み手にどう届くかに責任を持ってやらんといけないのでそこに思考も感受も費やすわけだが、読み手がいるかいないかしれんものとなると、誰か読む人いるかもしんないしいないかもしんない、くらいの仮定で書くので、なんらかの責任意識をだいぶ手離して書けるなあと。なんていえばいいんだろ、開放感というか、なんか広々した感じというか)

 取るに足りないものであることの、何の役にも立たないことの、誰を喜ばせる必要もなく誰かに必要ともされないことの、価値を持たないこと顧みられないこと、世の片隅にただあることの、身の軽さと自由と肯定。そう、これは自己を肯定することそのもの。

メモ 編集

 二次小説はともかく、雑記は、しかしなんで書いているのだろう。
 改めて考え出すと、なんだか不思議な気持ちもする。いいかげん誰にも読まれていないだろうと思いつつ、他人が読む前提で今もこの記事を書いているのだ。なんでだ、マジで。

 自分用のメモではある。
 ただ、メモのわりには、他人が読んだときというのを一応想定して書くことにはしている。読んでる人がいる保証はないのに、それでもだ(多分本当にこの雑記は、もはや私以外には読まれていない)。
 一個前の記事に書いたように、職場の小説書きの人に私の二次小説を読んでもらった。話が面白いかどうかはともかく、文章はそれなりにこなれてて、他人が読むことを想定した体裁の文章になってる、という評をもらった。
 自認としては、私はろくにフィクションを摂取しない人間なので小説書く基礎力にまるで自信がないのだが……という事を言うと、しかし人が読むことを常に脳裏において書いているタイプの文章ではあるよ、と指摘をもらった。そういえば私は説明文とか報告書とかは仕事でちょこちょこ書いているもんなあ、という話になった。(同部署なので、彼女は私が扱う業務内容を把握している)
 そして、物語文ではないが書きものをしているのはこの仕事でたまに書く文章類以外にもあって、それがこの雑記、ブログ的なものなのだ。こういうどうでもいいことをつらつら書く場所を、断続的にだがずっと書いてはきた。なんとなく人に読まれるものとしての文章を書き続けてはいることにはなる(しかし本当に、読者がいたことがほとんどないまま書き続けているのが常態で、それなのに虚空の読み手に向かって書き続けてるのだから考えてみると地味に狂気めいている)。
 雑記については、文章書きにとっての業務前のラジオ体操くらいのストレッチ機能はあるのかもしれないなと思う。筋トレというほどの強度ではないにせよ。たから誰に読まれなくとも、間がひどく空くときもあるけども、たまにでも、なんかしらは書くようにしたほうが良さそうかなと思っている。
 

メモ,日記 編集

 あまりにも怠惰なのでフィクション摂取もろくにしない人間なので、あまり映画を見ない。
 それで、アリ・アスター監督作品は『ヘレディタリー/継承』も『ミッドサマー』も見ていないという体たらくなんだけど、どうしてか『ボーはおそれている』ジャパンプレミアで監督が来日して、それはいいけど上映前イベントとしてヒット祈念の鏡割りをやったことと、そのときのかけ声が「ボーは」と司会が言うのに続いて会場みんなで「おそれている」と発声してた(させられてた)ということだけが、めちゃくちゃ記憶から消えない。

https://natalie.mu/eiga/news/553709

 あれ、夢とかじゃないよね?と不安になって調べたら、ちゃんと私が記憶してた通りの鏡割りだった。
 あと私の記憶から飛んでたけど、アリ・アスター監督、なんか特注のゴールデン法被も着ていた。味わいが突拍子なさすぎてやっぱ不思議がどんどんわいてくる。これを思いついた人も、このセンで実行しようね!って決めた人たちも、つきあったアリ・アスター監督もぶっ飛んでいるなあ(それが宣伝として効果的か、面白いネタだったと言えるのかも、まったく掴めなくてすごい)

 ここまで書いておいてなんだけど、多分『ボーはおそれている』を見ることはこれからもなさそうな気はする。(私が積極的に好むタイプの作品ではなさそうかなという判断。多分嫌いとかではないんだが)

メモ 編集

 スーパーマンの感想、今日もまとまって書けそうにはないけど、思いついたあたりで、分断についてとか、分断の向こうに手を伸ばす心意気についてとか、言葉が、対話が、その手立てなんだということとか、なんかそういう……あと、対話と対極にある、野生と粗暴もなんかそれはそれで居場所がある感じとか……

 でも、この作品の良さにについて、一生懸命に言葉をえらんで説明する必要があるかというとそういう作品ではない。
 単純明快に、見たら分かる。
 見る価値のある良い作品だ。
 見たら楽しい、すきっと晴れた気持ちになる。じんとする。ちょっと泣ける。だいぶ笑える。少し(だいぶ?)苦い。純朴マッチョの筋肉が良い。その筋肉がぼっさりスーツとダサ眼鏡に覆われてるのもまた良い。女子が軒並みキュートで良し。ツンデレインテリも良し、口悪ツンデレおっさんもまた良し。ヤンデレ(デレ?)悪役も良し、讃えよニコラス・ホルトの演技力。そして犬。とにかく犬。まあ犬が良い。片耳折れのジャック・ラッセル・テリアっぽくて雑種ぽい、赤マントつけたバカ犬、ごく普通のちょっとやんちゃなスーパードッグ、おもちゃで遊んでたら世界を救ってる暴れわんこ、愛してる。
 まあとにかく画面の情報量が多い作品でもあるので、場面の一つ一つが楽しかったり、愛おしかったりするので、私もひたすら、この場面好きィ!ここも好きィ!!見て!!この夏の推し映画だよ!!って場面を羅列すればそれでよろしかろうとも思うんだけど、しかし作品全体を通してこの作品から強く受ける印象というものを私なりに言葉でまとまったかたちで記述しておきたい気持ちもある。それで、いくらかちょっと時間を掛けて考えつつ、書いてみたいなあという感じ。

メモ,日記 編集

 ラスト、13曲目。
 大航海時代2のサントラから、古楽っぽい穏やかな曲でシメ。

●13:菅野よう子 / リュートの為の奇想曲

【演奏してみた】ルネサンス・リュートで菅野よう子『リュートの為の奇想曲』 (大航海時代Ⅱより) を弾いてみた

 アレンジサントラではクラシックギター演奏だったが、youtubeに実際にリュートで弾いてくれている動画があったので、それを貼ってみた。
 演奏してるぽっぷ古楽さんは他にもいろいろなゲーム音楽やポップスなどを古楽風に演奏してくれる。解説も詳しくて、古楽初心者の私にとってたいへんありがたいチャンネルである。

 大航海時代シリーズはオアトラスとおなじ大航海時代を舞台にした作品であり、私がネオアトラス1469を遊んだきっかけの一つでもあるから、大航海時代シリーズの曲からどれか一つは選びたかった。最終的にこの穏やかな曲をイメソンリストに入れてみた。
 元曲は、大航海時代2、ポルトガル出身主人公のジョアンのテーマ曲だ。ジョアンを主人公にして海を移動しているときはこの曲が流れている。
 リュート曲なのは、ジョアンがリュート演奏を趣味とする貴公子という設定だからだろう。ジョアンの父は前作主人公のレオンなのだが、前作エンディングでレオンは恋仲だったポルトガル王女を娶って公爵になったため、二人の間に生まれたジョアンは生まれついて公爵家の跡継ぎ、文字通りに貴族で公子、ガチのプリンスなのである。
 ちなみにレオンはポルトガル国の宰相だそうだから、バルディと同じだね!(てことはバルディは公爵くらいの身分なんだろうか。そっから一商会雇われの海の男に戻って海賊のアンジェラを嫁にしたのなら、だいぶ破天荒で良いね!)

 大航海時代1と2は菅野よう子氏が音楽を担当している。それはもう曲がいい。しかもアレンジサントラはアレンジや演奏に菅野氏本人が係わっており、はちゃめちゃ最高の名曲がより抜き勢揃いという神アルバムである。
 この「リュートの為の奇想曲」もアレンジアルバムに収録されている。ゲーム上ではジョアン主人公シナリオのときの航海中BGMで穏やかな曲だが、アレンジではさらにゆったりしたテンポになっていてノスタルジックさが増しているように思う。
 私はこの曲に、航海から戻ってきてリスボンで航海日誌をまとめたりしているような、ほっと息のつける日常の風景のイメージを持っている。季節で言うなら秋、爽やかに晴れた日の午後くらいのイメージだろうか。で、さらに勝手ながらこの曲を通して私は、ペレスとアブトゥがそうしてリスボンで穏やかに陸での日々を過ごしている姿を妄想している。
 書きものをしたり、荷物を片付けたり、本を読んだり、食事をしたり、庭の手入れをしたり。

 イメソンリスト全曲の「南エリアを歩く」でも書いたが、ペレスとアブトゥの二人には、ずっと一緒になんかわちゃわちゃやっててほしいなと思っている。
 科学だ神秘だと延々言い合いながら、二人で新しいなにかを見つけに旅をし、リスボンに帰ってきたらしばらくのんびり暮らし、また新しい研究テーマを見つけて船出する。そんな日々を送っていてくれたら……(図鑑エンドだとアブトゥは国に帰ってシャーマンに戻るみたいだけど、その場合でもペレスに悪態つきながらなんやかんやでたまに旅に同行したりしててほしい)。
 アマゾネスイベントの後も、100%に達して地図エンドを迎えたあとも、商会の提督をやめた後だって。両片思いのまんまでもいいし、気持ちを確かめ合ってもいいし、同棲でも結婚でも事実婚でも、子供ができてもできなくても、あるいは普段は遠く離れててもたまには一緒になって。まあなんでもいいからとにかく二人、末永く一緒にさ!……という願望を、この優しい曲に託しておきたいなと思う。

メモ,ネオアトラス 編集

12曲目。自作二次小説「鳥が歌うときには」の着想元の古楽。
音楽についてというより、「鳥が歌うときには」の説明ばかりになる。
しかも長い。ごめん。

●12:Christopher Page · Gothic Voices / Quando i oselli canta 《鳥たちが歌うとき》

Quando i oselli canta · Christopher Page · Gothic Voices
"A Song for Francesca: Music in Italy, 1330-1430”

 2024年の春先、仕事の年度末進行が終わって一息ついたところでふと勢いで二次小説を書くぞと思い立ち、春だから恋だね!って感じの浮かれたやつ書きてえ! そうだ、よく聞いてる古楽の曲からネタを取るか!と思いつきで選んだのが"Quando i oselli canta"だった。
 なお、私が古楽をよく聞いてるのは、NHK-FMの早朝番組「古楽の楽しみ」を聞いているからだ。もっぱらこのNHKのラジオ番組を通してしか古楽を聞いていないので、古楽そのものに対する体系的な知識は持っていないし、そもそも音楽にも歴史にも詳しいわけでもない。
 そういうわけで私には非常に乏しい知見しかないのではあるが、古楽をわりに聞くようにしているのは、ネオアトラス1469の同時代の音楽も古楽と呼ばれるジャンルに含まれているからだ。
 ただ、1469年頃、中世ヨーロッパからルネサンスに移行するこの年代は古楽というジャンルのなかでも早いほうの時期で、記録が残っている歌も教会で歌われる聖歌や宗教的な主題のものが多い。「古楽の楽しみ」でかかるこの時期の曲も聖歌が多いが、世俗の歌もないわけではなく、私の古楽プレイリストにも宗教的なテーマに依らない世俗歌がちょぼちょぼとだが入っていた。
 そして、世俗歌というのはたいてい恋歌なのである。
 自分のプレイリストにいくつか入ってる世俗歌のなかにだって、探せばなんかちょうどよく春っぽい歌詞で恋っぽい歌、一つ二つくらいはあるだろ!……といくつか候補をさらった中で、"Quando i oselli canta"が目に留まり、なんとなくこれ良いかも、となったわけである。
 ちなみに前に紹介した"Ay luna que reluzes"のようなビリャンシーコというジャンルをこのときはまだ知らなくて、知っていたらビリャンシーコの中から選んでいただろうが、その場合はまた少し違うタイトルや場面の話を書いていたと思う。

 "Quando i oselli canta"は中世マドリガーレと呼ばれる形式の歌で、このジャンルは北イタリア中心に14世紀のあいだだけ流行ってすぐに廃れたのだそう。しかし少なくとも1469年よりは前に存在しているはずの歌だから、ペレスが耳にした可能性はなくもない、と無理矢理決めつけた。
 タイトル(歌詞の第1節目のフレーズでもある)は訳すると「鳥たちが歌うとき」、つまり春のことだ。
 歌詞はそれほど長くはない、簡潔かつ典雅な表現が使われてはいるが、素朴な詩だ。内容をざっくりまとめてしまえば「鳥も鳴いて春だね~、牧場に羊飼いのかわいこちゃんも出てきて遊んでるね……ハァー! スウィートラブリィシーズン到来! 好きになっちゃった! ラブチュ!」っていう感じの歌だ。意訳しすぎだが、個人的にはこれくらい軽めな歌なんじゃないかと思っている。なお、最後の一行、歌だとメロディが変わるところは、歌い手の兄さんがラブチュ!と羊飼いガールに迫った結果、ガールに糸紡ぎ棒でしばかれたというオチの節である。
 現代の我々からすれば厳かにすら聞こえるコーラスだが、内容はこういう感じでかなりくだけた歌である。
 ペレスもなんでこんな民謡をきっちり覚えていたのかといえば、ぶっちゃけ単に話の都合だが、あえて理屈をつけるなら、ペレスは天才脳の持ち主なのでなんでもなんとなく記憶しちゃう癖でもあるんだろう、ということにしておこう。もちろん、まだ十代くらいの若いペレスの無意識に、恋愛というものへの興味関心がゼロではなかったのでこういうのがすっと頭に入ってしまっていた、のかもしれない。そういう設定にしておくのも美味しい。が、まあ多分、くだらない歌だと思いつつ、きれいな曲だなくらいの肯定的な評価はぼんやりあったのかもしれない。この歌のメロディ、きれいでいいよね。
 それにしてもペレスがこの歌を覚えていた経緯といい、その他もろもろ、いろいろの無理をなぎ倒して書いてしまったのが「鳥が歌うときには」ではあった。出たとこ勝負というか、自分都合でまともな実証や整合性など無視して書いた作品だった。
 このときの私は、仕事の年度末進行に圧迫されて控えていたオタ活動に取り組める余裕ができたので元気いっぱいで、そのままのノリで恋心を自覚しちゃった春先の浮かれペレスを書きたい一心だったのだ。なのでいつも以上に細かいことを気にせずノリで書きはしたが、そうは言っても歌の選択と歌詞概要を掴むのに数日、本文を書き上げるのに丸二日くらいを費やしたので、実際のところは全然勢い良くはなかった。
 ワンドロで2000字くらいのをぱっと書ける手練れの書き手になりたいな、なりたいけれどなれないな(遠い目標)。

 とはいえ、当社比較的にはスピード感ある進行で書いた作品ではあり、おかげでそれまであまり書いたことがなかったペレス、恋心をはっきり自覚してて告白するつもりまであるペレスをやっと書くことができた。自分が見たかったものを自分に供給してやれたのだ。二次創作書きの本懐をひとつ遂げたといってもいい。そういうわけで「鳥が歌うときには」は自作二次小説のなかでは気に入っている作品である。
 ありがとう"Quando i oselli canta"、名の知られぬその作り手と歌い手たち、写本を保存してくれた人びと、現代の世に復元演奏してくれた人びと、そうしたあれこれの情報をネットワークに公開してくれた人びとよ。この古い美しい歌の助けで、私の萌えがひとつ、かたちを得ることができた。とはいえ先人たちも、21世紀のオタクに身勝手な感謝をされたところで困惑しかないだろうが……。

 ところで、せっかくだから推しイメソンプレイリストにも二次小説の元ネタになったこの曲は入れておくかと思い、歌詞をちゃんと紹介したいね……と思って改めて調べていたら、ネットで確認できる歌詞の大元のリソースであるバチカン図書館のデータベースが複製禁止という規定になっていることに気付き、やっべえ!と慌てて、二次小説のほうの歌詞部分を修正したりした。
 気付いて良かったよぉ!
 そういうわけで残念ながらここでも歌詞を全訳で紹介するのは控えるが、上記の確認過程でオーストラリアのLa Trobe Universityという大学の図書館が中世音楽のデータベースを作ってくれているのを知った。このデータベースに"Quando i oselli canta"の詳しい情報も、原語歌詞も、そして英訳も載っているので、そちらから歌詞を確認してもらえばと思う。
◆La Trobe大学MMDB https://www.lib.latrobe.edu.au/MMDB/anon...

また、元資料である写本はバチカン図書館のアーカイブで画像で見ることができる。
「Codex Rossi(ロッシ写本)」の2vおよび3rとなっている画像の下の二行くらいが"Quando i oselli canta"の譜面と歌詞である。
◆バチカン図書館所蔵 Codex Rossi(Ross.215) https://digi.vatlib.it/view/MSS_Ross.215...

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 11曲目。ポケモンSVのサントラから。
 自作二次「幸運の星」を書いてるときずっと聞いてた曲。

●11:GAME FREAK / 「南エリアを歩く」

【ポケモンSV】南エリア ハープ演奏 Pokémon Scarlet & Violet : South Province Harp cover
Nana Harp

 youtubeでは元の音源は聞けないが、代わりに弾いてみたやってくださってる音源を見つけてきた。
 元曲はNintendo Musicで聞けるはずなので、聞ける人は良かったら聞いてみて。
 とはいえ、URL貼った弾いてみた演奏も、ハープがすごく雰囲気がぴったりで、美しくて最高だ。

 ポケモン・スカーレット/バイオレットを遊んでいて、一番好きな曲はこれ。
 SVはイベリア半島の風景を参考にしたフィールドグラフィックがえらい美しい。そのうえオープンワールドなのでその美しい風景を延々と歩いていけるし、ストーリーが進むと滑空して上空からひろびろと世界を眺め渡すことさえできる。ほんとゲーム内散歩が楽しかった。
 BGMも軒並み良くて、思わずCDでサントラ買っちゃったのだ。なかでも「南エリアを歩く」は、夜間の星空のもとでフィールドを歩くときにぴったりのピアノ曲で、水のような透明感のある音色とメロディがとにかく素晴らしい。SV遊んでたときは無駄に南エリアの夜時間に散歩しまくったし、CDを手に入れてからは作業用にもこの曲を聞きまくっていた。「西エリアを歩く」「東エリアを歩く」も同じように好きで、3曲合わせてなんとなく、夜に草原を歩くときの曲、と思って聞いている。
 ところで、自作二次小説「幸運の星」はのぐちさんと作った合同誌『ふたりはいつでも、今日も明日も、あさっても。』に書いたもので、夜に天体観測に赴くペレスとアブトゥという話なのだが、その話の舞台となる夜の草原の風景は、自分のなかではSVの南エリアあたりの夜間そのまんまのイメージだった。それで話を書きながら延々「南エリアを歩く」をヘビロテしていたのだが、おかげで「幸運の星」を読み返すとなんだか背後に「南エリアを歩く」が流れているような気がしてしまう。元曲は別に夜間だけの曲じゃないんだけどね。

 ペレスとアブトゥの二人について、私は二次小説では、なんとなく夜に会話している場面をよく書きがちだ。アブトゥが夜が似合うからっていうのはあるけど、なんだか二人で静かな夜にぽつぽつ会話しててほしいという欲がある。
 地図完成エンドで、ペレスが「実に切ない……この気持ちはいったい何か?」と言いながらも「彼女の主張は、私の思考を乱し、また同時に深く静めてくれるのだ。」のラスト一行でがらっとしっとり落ち着いた感じの言葉で締めたのがもうなんかめちゃくちゃツボで。ペレスも、無自覚の恋にどぎまぎしてるだけじゃなくて、アブトゥの存在を心根の深くで受け止めようとしている感じがある。だからなんとなく、ペレスは地図エンドの頃には、アブトゥの言葉をすごくじっくり聞くようになってるような気がするのだ。多分、アブトゥもまた。
 それで、ゾネスイベ後のペレスがアブトゥと会話するとき、二人で並んで、ぼそぼそぽつぽつ、ゆっくり会話しててほしいのである。もともと議論好きというか、対話が基本にある人たちっぽいし。そしてそういう対話の場面に似合うのは、夜の静けさと星明かりだと思っているのだ(このへんの感覚は指輪物語の影響もあるかもしれない。指輪物語だと、なにかと夜に星明かりのもとで、来たし方を静かに語りあうっていうような場面がちょいちょい出てくるんだよね)

 でもまあ、なにせこの二人なので、穏やかとはいえなにかと言い合い(言い合いの形を取ったいちゃつき)はしてる気もする。しててほしい。軽口たたき合いつつ、なにかと二人で一緒に取り組んじゃったりみたいな。そういう欲望がほとばしりまくったのが「幸運の星」という二次小説で、もしその関係性を音楽にするなら「南エリアを歩く」くらいの落ち着きと生き生きが同居する感じだし、晴れた夜の星空のイメージなのだ。

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 10曲目。古楽から。これも月の歌。「月の椀」と同様ペレス側の内面のイメージ。

●10:Dulces Exuviae / Ay luna que reluzes 《ああ、かがやく月よ》

◆Wikisourceスペイン語版 Ay luna que reluzes
https://es.wikisource.org/wiki/Ay_luna_q...

 "Cancionero de Upsala"と呼ばれる歌集に収められたビリャンシーコの一曲だ。
 ビリャンシーコは15世紀から18世紀、イベリア半島や新大陸で流行った世俗音楽のスタイルだそうだ。歌詞はおおかたスペイン語やその方言のようだが、ポルトガル語のビリャンシーコなどもあるらしい。
 wikipediaスペイン語版のページを貼っておく。
 ビリャンシーコ→ https://es.wikipedia.org/wiki/Villancico...
 "Cancionero de Upsala" → https://es.wikipedia.org/wiki/Cancionero...

 "Cancionero de Upsala"はバレンシアのカラブリア公家のクリスマスの宴用の曲をまとめた歌曲集だそうだ。1556年にヴェネツィアで出版されたそうだが、そのあと本の存在は忘れ去られ、ウプサラ大学の無数の蔵書に埋もれていたのを、20世紀初頭にスペインの音楽研究者が見いだしたのだとか。
 本には全部で70作品の歌曲が集録されているが、うち54曲がビリャンシーコである。聖母子や降誕を賛美し祝うクリスマス向けのビリャンシーコもあるが、宗教的な要素をまったく持たない恋愛などが主題のビリャンシーコも多数集録されている。

 Ay luna que reluzesは四声のビリャンシーコの項目に挙げられている。4声ということは4パート構成で演奏されるものということだろうが、URL貼った音源ではソロ歌唱で演奏しており、伴奏もリュート1本だけだ。別の動画では4人以上でパート分かれて歌っている動画とか、メインボーカル+楽器で4パート構成の演奏も見ることができる。そっちのほうが演奏の復元の本来としては近いのかもしれない。
 とりあえず歌詞のテキストがWikisourceにあったので全文ここで翻訳つきで挙げておく
(CC BY-SA 4.0の規定になっていた。出典は上に記したWikisourceのリンク先参照)。
 なお私は現代スペイン語も古スペイン語もノー知識なので、翻訳はgoogle翻訳先生と、gemini2.5pro先生にどうにかしてもらった。いちおう機械翻訳を土台に、少しだけ手を加えている。

  Ay luna que reluzes,
  Toda la noche m'alumbres.
  Ay luna tan bella
  Alumbresme a la sierra;
  Por do vaya y venga
  Ay luna que reluzes
  Toda la noche m'alumbres.

  ああ、かがやく月よ
  夜通し照らしておくれ
  ああ、いとうるわしき月よ
  山への道のりを照らしておくれ
  私が行き帰るところを
  ああ、かがやく月よ
  夜通し照らしておくれ

 夜の静かさと月の明るさ。
 メロディの美しさに似合う、シンプルで美しい歌詞だと思う。
 とはいえこの歌詞については、単純に月を歌った美しい情景歌と受け取るものか、それとも恋人への思いや信頼を静かに歌った恋愛歌なのか、はたまた仰ぎ見られる月は救い主のメタファーであり主への賛歌と見るべきなのか、知識のない私にはわからない。
 が、恋愛歌とみなして歌うと、なんだかオツな歌詞のように思う。
 ちなみに同じ本に載っている歌のうち、明らかに恋愛歌と思われる歌詞の他の歌と比べるとだいぶ物静かで落ち着いた歌詞ではあり、あまり恋愛歌っぽくはない(この歌曲集には人妻に言い寄るような歌も普通に載せられている)。
 そして、たまたまなんだけど、一個前に挙げたサカナクションの「月の椀」とは重なる部分がある。月はもちろんだが(これは私が「月」という言葉をフックに探していたところがあるから当たり前だ)が、山と旅のイメージが両方ともにあるのはなんとなく不思議だ。
 「月の椀」作詞の山口一郎氏は種田山頭火をテーマに作ったと述べていたそうだ。だからAy luna que reluzesとモチーフが重なっているのはまずもって偶然なのだが、古今東西、月は山と組み合わせるととても絵になるということなのかもしれない。そして月が、夜の孤独な旅に寄り添う柔らかな存在であることも。

 私の方は、月のイメージでフックする歌をなんとなく探し、ポップスからは「月の椀」、古楽からは"Ay luna que reluzes"を深い考えもなくそれぞれに拾ってきただけではある。そして、月の歌ってことで重複するから、イメソンリストに入れるならどっちか一つかな……などと思いつつ、いいや両方入れちゃおう!となった。どっちもだいぶ好きな曲なので。
 加えて、ペレスの心境に寄せるなら「月の椀」は無自覚片思い期っぽいけど、"Ay luna que reluzes"は気持ちを自覚している感じで、ちょっと心持ちが違うかも、とも思った。
 ぐらぐらと揺れる心を抱えてあてどなく夜を歩いているような「月の椀」に比べると、"Ay luna que reluzes"は曲調もしっとりしてて、月を旅の友として心に据えている感じがある。もし恋愛歌として見るなら、もうこの人だと心に定めてる人がいるよね、というのがこの歌の印象だったのだ。
 というわけで、アブトゥに対する気持ちをはっきり自覚しかけてる時期のペレスの歌(仮)、という気持ちでこの歌を挙げておく。(仮なのは、原作にはそんな時期なんてミリも描かれてないからっていうニュアンス)

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 9曲目。アマゾネスイベ後のペレスのイメージ。

●09:サカナクション / 月の椀

◆歌詞のオフィシャルの置き場所は見つからなかった。検索で見つけてくだされい。

 自作二次の「酔いどれと歌」のイメージからフックした。
(プラニスフェーリオには収録してない短編だけど)
 ずっとペレス単体のイメソンってのは挙げてこなかったんだけど、あえていえばこの曲かなあ。
 ほんとに、ペレスについてはイメソン全然思いつかなかった。
 ペレス、自他の感情に鈍感で、感受性がだいぶ死んでそうなド理系科学者で、ほぼ学問にしか興味が無い朴念仁だと。
 私にそう思われているせいで!
 とにかくペレスは文学的な情緒に欠けてるタイプとしか思われず、彼が自分の感情を内省的に振り返るようなイメージもまるでわかず、そうなるとなんらかの歌に思いを載せていくイメージも、んまーーーーーぜんっっっっぜん、思い浮かばなくて。
 世の若い者たちが嗜む音楽のなかでは、男子もいろいろ情動をほとばしらせている。
 なんでもなくても走り出したり……
 雨が顔を打ってだけど君が君だけがそばにいなかったり……
 防波堤で笑い合った日々だけがキラキラしてたり……
(※上記のフレーズは適当にそれっぽいのをでっち上げたものなので、具体的に実在する歌は参照してないよ。似たような歌詞の歌がもしあるとしてもそれはマジで偶然)
 そんな感じでどの歌でもなかなかリリカルに男子の心は叫んでる……
 しかしペレスの心には……そういう言語化が全然なさそうで……
 情動が動かないというよりも、とにかく文学的抒情性と自己表現の欲求が未発達すぎてそうで……

 ほんとなんも思いつかず、ペレスにあてるイメソン探しはすごい難航した。
 それでもさすがにゾネスイベの後、自分の中に湧く不思議な感情に気付きはしたペレスなら、叙情的な感覚もちょっとは、ちょっとは内面に持ち始めているかもしれない。
 そういう気持ちで絞り出すように選んだ曲がこれです。

 「月の椀」はどこか放浪のイメージがつきまとう歌だ。月に誘われて夕暮れを真夜中を、とぼとぼと長い時間かけて歩いていくような。
 月に誰かを重ねて〔気になりだす〕とサビがキマったところで、そういえばアブトゥには月のイメージあるんだよなと思っていたので、アブトゥのことを意識しはじめたペレスっぽいかなあ、などと勝手に思ったのである。そして、自作二次だとちょうど無自覚片思い期のペレスが酔っぱらってふわふわ街を歩いてる「酔いどれと歌」が月夜の晩の話だったので、「月の碗」の歌詞、ちょっとあてはまるぽいかなあと。

 とりま、ゾネスイベ後の、アブトゥのこと女性として強く意識しはじめてはいるもののそれが恋だってことに気付いてないペレスという存在、とても良いよね。滋味がある。無自覚片思い学術系男子……無限にしがんでいられる概念。

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 8曲目。これはアブトゥの、特にアマゾネスイベのときのイメージ。

●08:ADELE / Sweetest Devotion

◆歌詞のオフィシャルの置き場所は見つからなかった。検索で見つけてくだされ。

 Adeleも作業用によく聞いてて、特にアルバム"25”が好きなんだけど、そのアルバムの最後に入っている曲。
 歌詞……まあ英語力ないので断片的に単語しか聞き取れてないんだけど、なんか狂おしく深く愛してる、って感じの歌だなあと思って聞いていた。で、いちど、推しのイメージの曲ってなんかあるかなあとふと考えたときがあって、そのときに、アブトゥはあえていえばこの曲かなあとなんとなく思っていたのだ。
 作業用に聞いてたもんで、歌詞はたいして把握せずになんとなく聞いてきたので、よくよく歌詞見たら失恋の歌だったりして……そうだったらちょっと違うかなあ、と思って改めて歌詞を見直してみたけど、なんていうかとにかく一心不乱に愛情向けてて、あなたの存在で爆発したように世界が変わった、あなたが世界のすべて、と絶唱するような歌だ。でも見返りも求めてない感じの。まあサビが、"Sweetest devotion"だもんね。
 なんていうBIG LOVE。男にとっては重いかもだけど。
 私の中ではアブトゥは、こういうふうに、愛情をひとたび振り向けたら、かなり情け深く一人の男を愛するタイプなんじゃないかなって感覚でいるけど、しかしこれは世間一般の捉え方とはだいぶズレてるかもしれない。原作でのアブトゥはずっと冷静だし、あんまりこう情熱って感じでもないキャラで浮世離れしてるもんね。
 アマゾネスイベのおかげで、こんくらいの質量あるタイプの愛情持ちなんじゃないの?!って思ったんだけど、これは私の勝手な思い入れというか、二次創作的な勝手な人格拡張だね。
 とはいえ私にとってはとにかくこういう歌がアブトゥのイメージではあるのだ。
 そしてdevotionという単語もあって、イベントでいうなら、アマゾネスイベのときのイメージだなと思ったので、イメソンリストには絶対入れよ!と思っていたのだが、改めて歌詞を見直してみたりとしながら、この曲のバックグラウンドは結局どういう感じなんだろ、と思ってもう少し調べた。
 ら、Adele自身が説明することには、子を得て感じた気持ちを歌にした、らしく。

 ああああ、だから子供の笑い声が最初と最後に入ってたのかあ!!
 なーるほどぉ、お母さんソングでらしたの。そらBIG LOVEがにじみ出るわ。

 だけど、ええええ、いやその、アブトゥにペレスのお母さんしてもらうつもりはないよ……
 ないけど……
 まあ、なんかこう、恋っていうよりBIG LOVE、ていう意味ではあまり間違ってないかなあ。
 というわけで、一瞬迷ったけど、推しイメソンリストには予定通り入れておくことになった。
 まあアブトゥ、原作でもほんとペレスに対してはたいそう面倒見がいいと思うし……そしてこれは私の妄想だけど、実は人間全般に対して優しくて意外と面倒見良さそうなイメージもあるので、……アブトゥ、もともとの気質が実はちょっとおかんっぽいかもしれないと思っている。かも。かもね。ちょっとだけね。

メモ,ネオアトラス 編集

7曲目。これちょっと説明むずかしいけど、「ファラオの夢」の最後くらいのイメージ。
自作二次小説で言うなら「去来」の後半部分。

●07:Ffynnon / Llanw Chwant 《欲望の潮》

◆Ffynnon公式サイト歌詞ページ http://ffynnon.org/music_adar_04.php

 歌詞はウェールズ語?かな? これも歌詞の意味をわかってないまま作業用にずっと聞いてた曲だ。
 ウェールズのバンドの歌だが、私は"Rough guide to Celtic Music, vol.2"というコンピアルバムに入っていたものから接した。ケルティックというが、このアルバムの音楽はそんなにケルトケルトしたのばっかりではなく、Ffynnonというバンドも、ウェールズのフォークを中心に、ブルターニュやガリシアなど広い地域のフォークを取り入れた幅広いアレンジやオリジナル曲も手がけているグループのようだ。なお、このLlanw Chwantという歌については、おそらくオリジナル曲だと思う。
 美しいメロディではあるが、沈鬱で悲しみに満ちている印象があり、哀歌のような内容の歌なのかなと思っていた。今回、作業用の曲のなかから推しイメソンピックアップしてみるかと思ったときに、そういえばこの歌も気になるがわかんなかった歌詞の意味をちゃんと調べてみたらしっくり来るとこあるかも、と調べてたらオフィシャルサイトと歌詞を見つけたのである。
 で、オフィシャルサイトだとタイトルの横っちょに、英語で"Tide of Desire"という訳が書かれている。なんか別の翻訳あるのかなと思ったけど、いやどうやっても「欲望の潮」ですね。元のウェールズ語?のほうもgoogle翻訳先生に訳してもらったら「欲望の潮」と出る。
 もしかして、実はけっこうえっちな感じの歌詞なんでしたの???
 ……と思って歌詞を見たけど、え、ぜんぜん別にそんなにえっちなことはなかったです。
 途中の、〔トゥイマ、トゥイマ〕と繰り返すとことかかなりの情を感じて好きなんだけど、このトゥイマという語は英語訳だとwarm(命令系)らしい。こういうとこがもし隠喩なら、それなりにとても遠回しに、えっちなことの比喩を言ってますか、ひょっとして??? でも、もしそうだとしてもめちゃくちゃ上品な詩だし……英語訳の全体から見ても、別にそういうコトの隠喩ってニュアンスはなさそうだし……
 ただ、とにかく哀歌ではないことはわかった。たぶんだけど。
 とても上品でしっとり落ち着いた表現の、でもかなり熱量高い、正面突破タイプの恋愛詩だ。たぶんね。しかし私には英語力はないから、英語訳があってくれてもハイコンテクストなレトリックとかが使われてたら私にはまったくわからん。
 タイトルと歌詞内容を考え合わせるなら、触れないようにしていた恋心を自覚して、一直線な感じに燃え上がりはじめたという感じのだいぶラブい歌ということになる。それで、「ファラオの夢」のイメソンとした前曲「バイマイダーリン」に続いて置いてみたが、同じド直球恋愛ソングのはずなのに曲調のギャップがすげえ。
 そう、なにせ曲調がこれなので、自分にとってはあいかわらず、なにかを静かに悼んでいるような印象もすっかりは消えさらない。それで「ファラオの夢」の最後に、若いファラオの墓に赴く場面のイメージが、私のなかではなんとなくこの曲のイメージとつながってしまう。
 歌詞には、そうもの哀しい感じはないんだけどねえ。でもまあ、ファラオも長い間停滞していた恋を成就させたばっかりなんだから、こういう、熱く恋い焦がれる!っていう歌詞はぴったりかもしれない。
 あと、私の二次創作での話だと、「去来」の時期くらいには、アブトゥの心境がこの歌詞の感じくらいにガチめに深まってるんじゃないかなと思っている。ペレスがアブトゥの性別勘違いしたままだからアブトゥもなんも言わないしおくびにも出さないけど、アマゾネスイベで「かけがえのない人」とペレス相手に明言してしまうレベルに至っているのだから、「ファラオの夢」が終わるくらいの時期だとすでに、アブトゥももうだいぶ腹が決まってきてるんじゃないだろうか。

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り、6曲目。
 これはアブトゥやペレスではなく、「ファラオの夢」の人魚と若いファラオのイメージ。

●06:MAISONdes[feat. みきまりあ, ニト。] / バイマイダーリン


 2022年版アニメ『うる星やつら』のオープニングソング。といっても、これもアニメは見ていないんだけど、しかし「ダーリン」の連呼で、あっ『うる星やつら』のラムちゃんだなあ!となる歌だ。
 そんだけ作品との結びつきが強い歌なのに、全然関係ない私の推しイメソンリストに突っ込んでしまったのは、単純にこういうノリ良しでエモみ強めの歌が好きというのと、最後の転調してからのメロディと歌詞がめちゃくちゃ「ファラオの夢」終盤ぽかったから。
 転調による高揚感や、歌詞にある手を握るとか涙といった単語が、人魚と遭遇した場面と重なるなあ、と思って。
 そうなんだよ、1469では、「ファラオの夢」では、なんとペレスが。
 泣く。
 泣くのだ!!
 大の男が!!! あの頭でっかちが!!!!!!
 しかしその涙はおそらくペレス本人の感情によるものではなく、取り憑いているファラオのせいだ。ファラオ、享年20歳そこそこらしいし、なんせ片思い長かったから(数千年単位)しょうがないよね、好きピに会えたら泣くよそりゃ。
 歌詞は女の子側視点だと思うけど、「ファラオの夢」エピソードのイメージを重ねて見るなら、ファラオ側視点の歌ってことになるかなあ。でも人魚側もせめてファラオと似たようなくらい、ファラオのこと好きであってほしいなと思う。
 いやね、1469での「ファラオの夢」の人魚、正直なに考えてるかわからないっていうか……。
 ファラオは人魚好き好きかもしれないけど、人魚はファラオのこと愛しているとは明言してないんだよね。
 人魚のほうから「思いがあればいつかきっと会える」と言いはしたが、そのわりには人魚の方から会いに来るつもりはなさそうだし、実際にファラオの魂が来るまでずっと南の海にいるんだから、会いたいという思いを持っているのはファラオの側だけ、とも解釈できる。
 それでもファラオは惚れた弱みで、ド真面目に人魚の言葉を汲んで、会うために手を尽くした。しかし運つたなく、病を得て若くして儚くなってしまったのだが、人魚的には「ハァン?! 死んだごときで諦める程度なんかいな! ヌルいのう! ガチ惚れっちゅうなら死んでも来てみィ!」てハナシなのだろうか。めちゃくちゃド強い精神求めてくる。ファラオとはまったく別方向に強火加減だ。
 もう死んでるのに、こんな無茶振りにちゃんと応えたファラオはえらい。ペレスの健康が犠牲にはなったけど。そんなファラオのがんばり(とペレスとアブトゥの巻き込まれ)に応えて、人魚だってファラオにガチ惚れしてくれてたって良くないか。
 そう思うが、テキストを見る限りは、がんばった分の情はかけたる(青い宝玉ポイー)という感じで、人魚側からもファラオと両思いでたいへん嬉しい、ってなコメントは別にない。
 実は両思いではない可能性があるのでは……。
 でもそれじゃあ、ファラオがちょっとかわいそうすぎる!
 そういうわけで原作1469では人魚側のファラオへの感情は実ははっきりとはしてないのだが、二次創作的には、ファラオと人魚は出会ったときから双方一目惚れの両思いだったのだと思っておきたい。ファラオの夭折のために悲恋で終わりそうだったところ、ペレスを媒介に数千年越しで恋を成就できたのだ、と。
 とにかく、報われてくれよファラオ。
 ペレスが不眠症で頬コケ顔になるくらいには迷惑かけてくれたんだからさ。

 全然歌と関係ない話になっちゃったな。
 とりあえず、「ファラオの夢」は深掘りしたい要素いろいろあって面白いんだよねえ、てことを言いたかった。
 歌のほうは、こう、リズム刻んでてキャッチーでキュートでノリノリなのに、なんかキリキリとずっと切なくて、はー! ガールのコイゴコロって感じ! こういうの好き! 
 Bメロのハンドクラップ部分とかも好き好き、テンションアゲだけど浮つきすぎてなんかすれ違い、ってな感じする。キュンとくる~。
 あとやっぱ最後の、転調サビの突抜け感と開放感が最高に気持ちよい。これ聞きたくて何度もリピしちゃう。

メモ,ネオアトラス 編集

推しイメソン語り、5曲目。
アブトゥからペレスに向かう気持ちというか、自作二次だと「深潭」あたりのイメージ。

●05:Sian / Ach a Dhòmhnaill Òig Ghaolaich 《ああ、若く愛しいドナルドよ》

◆歌詞はこちら参照。 https://sianmusic.com/lyrics/#ach-a-dhom...

 スコットランドの民謡を元にした歌。日本の民謡っぽくも聞こえるなんとも懐かしいメロディだが、大西洋に向き合う地の果て、スコットランド西岸の辺境の島々、ヘブリディーズの作業歌を元にした歌だ。歌詞はスコットランド・ゲール語である。歌詞はミュージシャンのオフィシャルサイトにリンクを貼ったが、そこにある解説によれば元歌は南ウイスト島の詩人Donald MacIntyreによって聞き取りされたものだという。
 スコットランドの伝統文化音声資料アーカイブ https://www.tobarandualchais.co.uk/ でAch a Dhòmhnaill Òig Ghaolaichのタイトルで検索すると、元になっている民謡のほうも聞ける。
 https://www.tobarandualchais.co.uk/track...

 出航した船はもはや沖遠く、恋しい人の豊かな巻き毛(=若々しさと美しさ)も目の前に見ることはできない。せめてその人の船が順調に航海し、旅が成功するように、と祈る素朴な歌だ。素朴だが歌詞は美しい。最後の節でウイスト島、マル島、ノイダートと、ヘブリディーズ地域の島や地名が述べ立てられる。島々の個性を示す短い単語のなかに豊穣と美しさのイメージが込められているが、なにより、ヘブリディーズに生まれ育った娘が列挙する島々の名前は、彼女の知る世界すべてという意味合いだろう。世界の豊かさのなにもかもをあなたにあげたい、あげられたらいいのに、というまっすぐな感情がメロディとあいまってとても沁みる。
 また、この歌には、海に出た思い人を遠く陸から魂で見守っているような心境もあるように思う。思いを寄せる相手が旅の空で出会うあらゆる災害や危難を逃れてくれるよう、元気に帰還してくれるようにと願う心境は、古典的だけど恋心のど真ん中じゃないだろうか。
 原作1469の中では別にそんな心境がはっきりと描かれたりはしていないのだが、アブトゥにすでにそうした心持ちがあってこそ「アマゾネス」エピソードの展開に至るんじゃないかなあと思っている(ペレスがしょっちゅう危ないとこに突っ込んでいくので、もう手ぐすねひいて待ってられるか、ほっといたら死ぬわあいつ!となったのだろう、などと)。

 ちなみに元歌は作業歌だと書いたが、Waulkinng songという、織り上げたツイード生地を仕上げる作業で歌う歌だそうだ。女性たちが堅い木の机や板に向かい合って並び座り、みんなで洗剤をまぶした布地をびったんびったん叩いてこねくって、生地の目をつめてこなれさせる作業らしい。この作業を経て布を丈夫にし、断熱性を増し、肌触りも良くできるとのこと。
 みんなで呼吸を合わせて布をこねくり倒す作業に合わせたものなので歌も非常にシンプルなリズムなのだが、このシンプルなリズムとそれにあわせた人びとの一定の動作は波や船旅も連想させる。
(Waulking songを歌いながら作業する様子を再現した1941年撮影の動画 https://youtu.be/bOIZC16Jtz8?si=eEeEsWnl...

 ちなみに何度も繰り返される特徴的な「ヒーリリゥ」「ヒーリーリリーリョィ」「ホーレノホゥヒーリォゥ」という部分は囃子だ。言葉としての意味は持っていないが、この囃子のことばの音の響き、私はすごく好きだ。
 囃子部分がコーラス的な多重音声でアレンジされているのは、おそらく本来のWaulkinng songの様式を意識したもので、Waulkinng songではリードを取る歌い手が歌い始めると続いて他の人が歌い合わせていくものだそうだ。上述の1941年の動画でもリーダーの歌い出しに続いて、みんなで囃子の部分を斉唱している様子が見て取れる。

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今日の推しイメソン語り。
4曲目。
 
●04:ヨルシカ / アポリア

ヨルシカ - アポリア(OFFICIAL VIDEO)
◆歌詞は動画の説明参照。

 なんか最近の曲でこれって感じのあるかなあといくつか聞いたなかで、これこれ!したやつ。自作二次では「対話」「証明」あたりと印象がマッチするだろうか。
 アニメの『チ。』のエンディングテーマで、私はアニメは見ていないが、原作の漫画は読んだ。ユニークかつ物語も面白く、しかも熱い作品だ。そして、15世紀ヨーロッパが舞台、世界のかたちをめぐって知的に探求するストーリー、こういう要素はネオアトラスとめちゃくちゃ近接しているのだが、もちろん主題のありどころは全然違うし、『チ。』はかなり苛烈なストーリー展開なので、似ているとはまるで思えないのだった。空気の違いビシバシ感じるよ……。
 それでもイメソン探しとなったときには、まず『チ。』のOP「怪獣」なんかどうかなあと思って聞いてみた。ただ、「怪獣」はたいへん良い曲だったのだがあまりに『チ。』の作品内容とマッチしてて、もう『チ。』以外のイメソンとして聞くのムリだな!となる。ううん、EDはどうかなあ、と思って、ここで初めて「アポリア」を聞いたのだった。
 歌い出しの、ノスタルジックに謎めいた雰囲気も引き込まれるが、なんといってもピアノのピンとした音で導かれるサビの開放感。とにかく気持ち良い。
 歌詞も、サビで水平線とか地平とかのワードが出てきて、ここではない遠くに思いが向かう歌詞にBook of Daysとも通底する旅する魂の感覚がずっとあってたいへん好みだし、ネオアトラスの世界とも合う。
 しかし私は音楽わからんの民、とりわけリズム音痴なので全然わかってなかったけど、コメントとか見てたらどうやらだいぶ変わったリズムの曲のようだった。確かに、あわせて歌おうと思ったらなんかズレる。 んんん? ようわからんけど、どっか3拍子とかな感じ???? わから???ん?????と思ってたら、Aメロは7/8-8/8の繰り返しで進行しているらしい。これがサビに入ると8/8進行。やれやれ慣れた感じだ安心と歌ってると、急に1拍くらい挟まったり抜けてみたり。油断できない。歌いにくい!
 でも、そういうややこしい感じが全然表に出てなくて、気持ちよくすらっと伸びやかな印象なの、すごいな。こいうの好き! もちろんカラオケでちゃんと頭拍とか合わせて歌おうと思ったら大変だろけど、とりあえず自分も大きく声出して歌いたくなるメロディだよね。

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 今日の推しイメソン語り。
 2曲目と3曲目だが、どちらも中東ぽい曲なので2曲まとめて。
 ところで勝手推しイメソンを考えるにあたり、あまりにいろいろわからなくて四苦八苦した結果、自作の二次創作小説のイメージを手がかりで探すか……となった。
 クッソ痛い二次作オタク仕草でしかないが、なんかもうほんとに、推しのイメージってとこだけで考えてるとあまりにイメージがまとまらなかったのだ。
 具体的には『プラニスフェーリオ』収録の作品群が中心になる。なので選曲も、ペレスとアブトゥがからむエピソードのイメージと発生時系列に添っている。
 今日の2曲は「出会い」イベントで、ペレスが呪われてアブトゥに会いに行く下りのイメソンって感じで探した曲なので、中東っぽいのである。

●02:L'Antidote / Pomegranate (feat. Bijan Chemirani, Redi Hasa, Rami Khalife) 《ざくろ》

この曲はインストなので歌詞はない。

 2曲目"Pomegranate"。イメソンリスト作ろうとして中近東ぽい音楽をいろいろ聴いてみた中で、なんとなくシャーマンの館のイメージだなと思った曲だ。
 シャーマンの館は、2ではエジプトの南のほうの地域にあったと思うが、なんで1469でわざわざアラビア半島に移動されたのかはよくわからない。おかげでアブトゥは、エジプト出身のシャーマンではなく、アラビア半島出身のシャーマンということになってしまった。とりあえず1469でのシャーマンの館は、岩と砂だらけの荒涼とした土地にぽつんと一軒家というイメージがある。
 曲は、L'Antidoteというフランスやイタリアを拠点に活動するグループ。ウードやダラブッカといった中東の楽器がリードするオリエンタルなリズムとメロディが主体の、テクノ風味の音楽だが、全体に音が静謐で美しい。ジャジーに絡んでいくチェロやピアノもさりげなく、聞き慣れた西洋クラシックの味を加えてくれて、まろやかで聞きやすい。
 MVもある。どうも生成AIを使っている感じで、オシャレっぽい抽象的な映像だが正直好みではない(AI生成使ってるから嫌というわけではなく、抽象的な演出なのにわりと直裁的すぎるあたりが)。ともあれ、笑顔、愛、友情、魔法、ダンス……とことばが並べられ、それに応じた抽象的イメージが繰り出されるつくりの映像だ。その抽象的なイメージにちょいちょいざくろが組み入れられている。いろいろな人びとの生活や感情がつまった、人生を暗喩するPomegranate(ざくろ)ということだろうか。
 ざくろは、特にイランでよく生産されよく食べられている印象があるが、アラブ世界全体で愛好され、身近に親しまれている果物なようだ。日本では鬼子母神の逸話のおかげでやや血なまぐさいイメージもあるが、これ自体、豊穣や多産といった吉祥に繋がる説話から来るものであって、ざくろは本邦においてもめでたい果物であるはず。
 私もざくろは好きだ。甘酸っぱくて水気の多い果物、大好き。それで勝手に、アブトゥもざくろ好きなんじゃないかな!と設定していて、シャーマンの館にはざくろの1本くらいは植わってるだろうと思っているし、リスボンの商館の庭にもいつのまにかざくろ植えてそう。

●03:Kazdoura / Khayal خيال 《影》

◆歌詞はこちら https://kazdoura.bandcamp.com/track/khay...

 3曲目。自作の二次小説「覚醒」のイメソンとして選んだ。なんかアラビアっぽくて、幻想的で美しく、でも気怠くて、昼下がりの陽炎に空気が澱んでいるような曲。そうそう「出会い」エピソードでシャーマンの館に赴く一連の流れ、私の中ではなんとなくこういう感じなんよ。
 "Khayal"は、ググるといくつかの意味が出てきて、思考とかイデアとか幻想とか想像とか、そういう広汎な意味があるみたいだが、私は「影」と訳すのがいいかなあと思った。自分の後ろにずっとくっついてくる自分のかたどりだ。
 歌詞全体も、内面の声でもって自分自身のアイデンティティに、真の欲求はなにかを問いかけるというような内容。そしてこの歌詞は、曲いいなと思ってから後で調べたのだが、まんま「覚醒」で描いた若いファラオのさまよえる魂のイメージにもぴったりで、これこれ!となって聞きまくっている。
 ところでリンクを貼ったMVのほうは、なんとも妙だしこなれてない感じなのだが、味わいがあってだいぶ好きだ。いかにもアラブ地域らしい民家のたたずまい、大砂丘、雲一つない青い空、風景がとにかく美しい。そんな美しい風景のそこここでもっさりと踊っている覆面のお兄さん。ほんとにだいぶシュールで珍妙なのだが、なんか良い。ボーカルのお姉さんも登場するが、この人がチャーミングな外見かつ声が美しいので、お兄さんの存在に心がざわつきすぎてもほどよく中和してくれる。良い。

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