雑記

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 ちょっと前に書いた100歳越えて逝去した大叔父さんだが、今日、母と電話して聞いたら、なんか去年まで工場で働いていたらしい。100歳過ぎても働いてたの!? とんでもねえ現役おじいちゃんだった……。すごいなあ。なんていうか、かくあれたら、と思っても真似とかできる気がしないけど、しかし尊敬というか、なんだ、すごいなあ。
 施設に入ったのはやはり今年に入ってからのことで、本人の状態に問題があったのではなく、同居して生活の面倒を見ていた息子のおじさん(父の従弟)が怪我で長期入院になったため、一時的に大叔父さんに施設で暮らしてもらっていたという経緯らしい。
 いやあ……なんと強靱な人生だったことか。そして、本人は病気とかで苦しんだというのはほとんどなく、安らかな顔をしていたというので良かった。お葬式も身内でまったりで、いいお葬式だったよと母は言っていた。大叔父さんがもういないのかってのはやっぱり寂しいけど、ほんと元気な長寿で最期まで貫いた人生だったの、なんか良かったな。

日記 編集

 スーパーマンの感想、今日もまとまって書けそうにはないけど、思いついたあたりで、分断についてとか、分断の向こうに手を伸ばす心意気についてとか、言葉が、対話が、その手立てなんだということとか、なんかそういう……あと、対話と対極にある、野生と粗暴もなんかそれはそれで居場所がある感じとか……

 でも、この作品の良さにについて、一生懸命に言葉をえらんで説明する必要があるかというとそういう作品ではない。
 単純明快に、見たら分かる。
 見る価値のある良い作品だ。
 見たら楽しい、すきっと晴れた気持ちになる。じんとする。ちょっと泣ける。だいぶ笑える。少し(だいぶ?)苦い。純朴マッチョの筋肉が良い。その筋肉がぼっさりスーツとダサ眼鏡に覆われてるのもまた良い。女子が軒並みキュートで良し。ツンデレインテリも良し、口悪ツンデレおっさんもまた良し。ヤンデレ(デレ?)悪役も良し、讃えよニコラス・ホルトの演技力。そして犬。とにかく犬。まあ犬が良い。片耳折れのジャック・ラッセル・テリアっぽくて雑種ぽい、赤マントつけたバカ犬、ごく普通のちょっとやんちゃなスーパードッグ、おもちゃで遊んでたら世界を救ってる暴れわんこ、愛してる。
 まあとにかく画面の情報量が多い作品でもあるので、場面の一つ一つが楽しかったり、愛おしかったりするので、私もひたすら、この場面好きィ!ここも好きィ!!見て!!この夏の推し映画だよ!!って場面を羅列すればそれでよろしかろうとも思うんだけど、しかし作品全体を通してこの作品から強く受ける印象というものを私なりに言葉でまとまったかたちで記述しておきたい気持ちもある。それで、いくらかちょっと時間を掛けて考えつつ、書いてみたいなあという感じ。

メモ,日記 編集

 スーパーマンを見てきて、だいぶ気に入ったので吹き替え版もおかわりしてきたので感想書きたいけど、明らかに長文になるのでまた今度、気が向いたら。

 今日は、母から、父方の大叔父さんが亡くなったと連絡があったので、大叔父さんのことを書いておこう。
 不幸の知らせではあるが、なにせ100歳を越えてのことなので大往生であり、おじさん立派に生きたなあという感慨がある。
 大叔父さんは父方祖母の三つほど年下の弟で、父の叔父にあたる。祖母は六人兄弟だったと聞いているが、五番目が祖母、六番目の末っ子がこの叔父さんである。祖母の旧姓は鈴木(仮名)といい、大叔父さんは鈴木という名字だったので、私や私の実家の面々からは「鈴木のおじさん」と呼ばれていた。
 小柄で痩せていて、線の細い見た目の人だったが、非常に頑健で、確かほとんど病気らしい病気はしたことはなかったんじゃないだろうか。祖母の兄弟は、祖母もおじさんも含めてみな長寿で、だいたい90歳を越えてからしか亡くなっていない。昔、祖母が元気だった頃に、兄弟の長男にあたる大伯父も100歳越えても矍鑠としているという話を聞いた。鈴木のおじさんも同じように長生きをしたことになる。
 しかし祖母には細身で温厚な鈴木のおじさんはか弱く見えていたのか、よく「しょうちゃんは優しい子だからねえ、体も小さいからねえ、よくいじめられてねえ、昔は泣きべそでねえ……」みたいなことを言ってた記憶がある。ただし祖母はなにごともやや大げさに言う人だったので、鈴木のおじさんが、祖母が言うようなひ弱ないじめられキャラだったかはわからない。確かにおじさんはごく温厚な人ではあったが、なにせ自営業者であり、職人であり、黙々と働き続けた人なので、根性は座ってるタイプじゃなかったかと思う。
 なお、大叔父の名前を今は正確に思い出せないが、たしか「しょう」がついていたんじゃなかったろうか、それで祖母は大叔父をしょうちゃんと呼んでいた気がするが、間違っているかもしれない。

 ともかく鈴木のおじさんは、戦前に、長野に生まれ、小学校を出た後で東京に出て、工場で働いたようだ。のちに金属加工の零細町工場を持って自立したらしい。
 私が生まれた頃にはすでにおじさんは東京郊外の宅地の一隅に、1階が工場で2階が住居、という町工場兼自宅を構えていて、妻であるおばさん(数年前に亡くなったが、この人も長寿であった)と、私の父からはいとこにあたる息子と住んで、三人で工場を運営していた。もしかしたら一人、二人くらいは雇っている人がいたような気もするが、私はごく幼かったので細かいことはわからないし、覚えていない。工場が稼働している平日にはほとんどここを訪れたことがなかったのだ。
 以前にも書いたが私と父母の三人は小さな賃貸アパートに住んでいたが、鈴木のおじさんの工場兼自宅はそこからほんの50mほどのところにあった。それでときどき鈴木のおじさんとこに飲みに行く親に連れられてお邪魔したのである。おじさんの住まいは、1階にある工場の入り口をくぐり、よこっちょの狭い階段をとんとん上って辿りつく2階だった。建物の広さは普通の一軒家程度の間口しかないから、ちょっと狭い感じもあったようには思うが、私は自分の体が小さかったこともあり、むしろそのちょっと手狭な居心地の良さは好きだった。ただ、1階の工場部分は、訪問がいつも休日か夜なのでなにも動いておらず、しんとした暗がりに鉄の重々しい機械がでんと沈黙しているだけで、それがどう動き、なにをどういうふうにするものなのか、子供にはなにもわからなかった。ただ階段をのぼるとき、工場の暗がりからは、油と鉄の匂いと静けさがひんやり流れてきて、子供の私には薄気味悪くて怖くて未知の、でも同時にたいそう秘密のこもった魅力的な異空間だった。
 私が三歳の頃、我々一家はアパートを引き払ってよそに移ったが、それでも引っ越し先は隣町くらいの場所だったので、親はちょくちょく鈴木のおじさんのところに飲みに行き(サザエさんでいう、ノリスケおじさん一家の立ち位置である)、そのときは私も連れて行かれて、おばさんの出してくれるごはんやら酒のおつまみやらのご相伴をいただいたものだった。
 平成の初め頃、鈴木のおじさんは工場ごと別の場所に引っ越した。これまた私の実家があるのと同じ県内ではあったが、路線の都合などで行きにくい場所だったのと、私が大学以降は沖縄に移ってしまったため、私は鈴木のおじさんの新しい家&工場には行ったことがない。
 しかし鈴木のおじさんはその工場でずっとがんばっていたと聞く。かなり高齢になるまで工場の経営を自ら担い、さすがに平成の後半には息子である父のいとこのおじさんに経営を譲ったのだがその後も毎日工場に出勤し、旋盤や清掃などの作業をしていたらしい。それはほんの数年前……つまりおじさんが90代半ばを超えたあたりのことで、「こないだお中元のお礼で電話したら、鈴木のおじさんまだ工場に立ってるんだって!」と母から聞いたのだった。なにかの折々に鈴木のおじさんがあいかわらず元気であるという話はちょくちょく聞いたが、それにしてもこの歳まであまりに頑健ご長寿の行動ばかりなので、身内ながら毎度びっくりしていた。
 去年も、おじさんの100歳のお祝いということで父母は鈴木のおじさんちにお祝いに行ってきたのだそうだが、そのときはまったく元気だったという。ボケてもいないし、ほとんど介護もなしで自分でおおかたの生活を自立してできていたそうだ。
 訃報と同時に得た情報では、施設に入っていてそこで亡くなった、と母は聞いたらしいが、施設に入っていたことは父も母も聞き及んでいなかったというから、今年くらいに施設に移ったばかりだったのだろうか。施設ではどういう状態だったかはまだくわしく聞いていないが、長患いをしたようでもないので、ほんとに最後まで元気だったんだろうなあ、と思うとなんとなくほっとする。

 考えたら、おじさん、ギリギリ大正末の生まれだったかなと思う。祖母が確か大正10年くらいの生まれだったので……。私も若い頃、沖縄で聞き取りとかやっていて、高齢の人に方言や生活誌を聞くことがたくさんあったが、考えたらこのときの聞き取りに協力してくれた世代の人はだいたい大正生まれで、おじさんと同世代か、少しだけ上くらいの世代だ。最近はその年代の人びとに聞き取りできることはほとんどなくなっていた。そのことに気付く度、自然の時間の流れとは言え、少し、いやだいぶ、寂しいところはあった。だからおじさんがついに亡くなったとなったとき、大正の生まれの人が本当にもういなくなってっちゃうんだなあという意味でもだいぶ寂しい気持ちがある。
 しかし鈴木のおじさんの生涯についていえば、その長い生をほぼずっと現役で過ごし、黙々働き続けた。このおじさんの存在は、なんとなく私にとっては心に灯となる感じがある。私自身にはあまり長生きをしようという意識がなく、60そこそこであんまり苦しまずに死ねたらいいんだけど~、なんてことを無責任にお気楽に考えたりもするが、しかしおじさんのように毎日ちゃんとちゃんと日々の仕事を続けて、生き続ける、暮らし続けることって大事だなとも思う。いつ死ぬかなんてわからないけど、まあ病気になったり障害を負ったりもありえるんだけど、生きてる限りはまあ日々を黙々やっていきましょう、という気持ちも湧いている。
 戦前から高度経済成長まで、そして現在にいたるまでも、おじさんのような人びとが日本の産業を支えてきた。おじさんはそういう無名の働き者のひとりだった。生涯通して働き者だった。彼の成した仕事は、おそらく今どきらしいスマートさとか高い生産性とかコスパとかいう言葉とはかけはなれているのだが、百年に近い黙々とした活動の日々を、無駄で非効率だなどと蔑むのは愚か者の弁にすぎないと思う。とても立派な年月を成し遂げて、おじさんは去っていった。ただ深く敬意が向かうばかりだ。

日記 編集

 ラスト、13曲目。
 大航海時代2のサントラから、古楽っぽい穏やかな曲でシメ。

●13:菅野よう子 / リュートの為の奇想曲

【演奏してみた】ルネサンス・リュートで菅野よう子『リュートの為の奇想曲』 (大航海時代Ⅱより) を弾いてみた

 アレンジサントラではクラシックギター演奏だったが、youtubeに実際にリュートで弾いてくれている動画があったので、それを貼ってみた。
 演奏してるぽっぷ古楽さんは他にもいろいろなゲーム音楽やポップスなどを古楽風に演奏してくれる。解説も詳しくて、古楽初心者の私にとってたいへんありがたいチャンネルである。

 大航海時代シリーズはオアトラスとおなじ大航海時代を舞台にした作品であり、私がネオアトラス1469を遊んだきっかけの一つでもあるから、大航海時代シリーズの曲からどれか一つは選びたかった。最終的にこの穏やかな曲をイメソンリストに入れてみた。
 元曲は、大航海時代2、ポルトガル出身主人公のジョアンのテーマ曲だ。ジョアンを主人公にして海を移動しているときはこの曲が流れている。
 リュート曲なのは、ジョアンがリュート演奏を趣味とする貴公子という設定だからだろう。ジョアンの父は前作主人公のレオンなのだが、前作エンディングでレオンは恋仲だったポルトガル王女を娶って公爵になったため、二人の間に生まれたジョアンは生まれついて公爵家の跡継ぎ、文字通りに貴族で公子、ガチのプリンスなのである。
 ちなみにレオンはポルトガル国の宰相だそうだから、バルディと同じだね!(てことはバルディは公爵くらいの身分なんだろうか。そっから一商会雇われの海の男に戻って海賊のアンジェラを嫁にしたのなら、だいぶ破天荒で良いね!)

 大航海時代1と2は菅野よう子氏が音楽を担当している。それはもう曲がいい。しかもアレンジサントラはアレンジや演奏に菅野氏本人が係わっており、はちゃめちゃ最高の名曲がより抜き勢揃いという神アルバムである。
 この「リュートの為の奇想曲」もアレンジアルバムに収録されている。ゲーム上ではジョアン主人公シナリオのときの航海中BGMで穏やかな曲だが、アレンジではさらにゆったりしたテンポになっていてノスタルジックさが増しているように思う。
 私はこの曲に、航海から戻ってきてリスボンで航海日誌をまとめたりしているような、ほっと息のつける日常の風景のイメージを持っている。季節で言うなら秋、爽やかに晴れた日の午後くらいのイメージだろうか。で、さらに勝手ながらこの曲を通して私は、ペレスとアブトゥがそうしてリスボンで穏やかに陸での日々を過ごしている姿を妄想している。
 書きものをしたり、荷物を片付けたり、本を読んだり、食事をしたり、庭の手入れをしたり。

 イメソンリスト全曲の「南エリアを歩く」でも書いたが、ペレスとアブトゥの二人には、ずっと一緒になんかわちゃわちゃやっててほしいなと思っている。
 科学だ神秘だと延々言い合いながら、二人で新しいなにかを見つけに旅をし、リスボンに帰ってきたらしばらくのんびり暮らし、また新しい研究テーマを見つけて船出する。そんな日々を送っていてくれたら……(図鑑エンドだとアブトゥは国に帰ってシャーマンに戻るみたいだけど、その場合でもペレスに悪態つきながらなんやかんやでたまに旅に同行したりしててほしい)。
 アマゾネスイベントの後も、100%に達して地図エンドを迎えたあとも、商会の提督をやめた後だって。両片思いのまんまでもいいし、気持ちを確かめ合ってもいいし、同棲でも結婚でも事実婚でも、子供ができてもできなくても、あるいは普段は遠く離れててもたまには一緒になって。まあなんでもいいからとにかく二人、末永く一緒にさ!……という願望を、この優しい曲に託しておきたいなと思う。

メモ,ネオアトラス 編集

12曲目。自作二次小説「鳥が歌うときには」の着想元の古楽。
音楽についてというより、「鳥が歌うときには」の説明ばかりになる。
しかも長い。ごめん。

●12:Christopher Page · Gothic Voices / Quando i oselli canta 《鳥たちが歌うとき》

Quando i oselli canta · Christopher Page · Gothic Voices
"A Song for Francesca: Music in Italy, 1330-1430”

 2024年の春先、仕事の年度末進行が終わって一息ついたところでふと勢いで二次小説を書くぞと思い立ち、春だから恋だね!って感じの浮かれたやつ書きてえ! そうだ、よく聞いてる古楽の曲からネタを取るか!と思いつきで選んだのが"Quando i oselli canta"だった。
 なお、私が古楽をよく聞いてるのは、NHK-FMの早朝番組「古楽の楽しみ」を聞いているからだ。もっぱらこのNHKのラジオ番組を通してしか古楽を聞いていないので、古楽そのものに対する体系的な知識は持っていないし、そもそも音楽にも歴史にも詳しいわけでもない。
 そういうわけで私には非常に乏しい知見しかないのではあるが、古楽をわりに聞くようにしているのは、ネオアトラス1469の同時代の音楽も古楽と呼ばれるジャンルに含まれているからだ。
 ただ、1469年頃、中世ヨーロッパからルネサンスに移行するこの年代は古楽というジャンルのなかでも早いほうの時期で、記録が残っている歌も教会で歌われる聖歌や宗教的な主題のものが多い。「古楽の楽しみ」でかかるこの時期の曲も聖歌が多いが、世俗の歌もないわけではなく、私の古楽プレイリストにも宗教的なテーマに依らない世俗歌がちょぼちょぼとだが入っていた。
 そして、世俗歌というのはたいてい恋歌なのである。
 自分のプレイリストにいくつか入ってる世俗歌のなかにだって、探せばなんかちょうどよく春っぽい歌詞で恋っぽい歌、一つ二つくらいはあるだろ!……といくつか候補をさらった中で、"Quando i oselli canta"が目に留まり、なんとなくこれ良いかも、となったわけである。
 ちなみに前に紹介した"Ay luna que reluzes"のようなビリャンシーコというジャンルをこのときはまだ知らなくて、知っていたらビリャンシーコの中から選んでいただろうが、その場合はまた少し違うタイトルや場面の話を書いていたと思う。

 "Quando i oselli canta"は中世マドリガーレと呼ばれる形式の歌で、このジャンルは北イタリア中心に14世紀のあいだだけ流行ってすぐに廃れたのだそう。しかし少なくとも1469年よりは前に存在しているはずの歌だから、ペレスが耳にした可能性はなくもない、と無理矢理決めつけた。
 タイトル(歌詞の第1節目のフレーズでもある)は訳すると「鳥たちが歌うとき」、つまり春のことだ。
 歌詞はそれほど長くはない、簡潔かつ典雅な表現が使われてはいるが、素朴な詩だ。内容をざっくりまとめてしまえば「鳥も鳴いて春だね~、牧場に羊飼いのかわいこちゃんも出てきて遊んでるね……ハァー! スウィートラブリィシーズン到来! 好きになっちゃった! ラブチュ!」っていう感じの歌だ。意訳しすぎだが、個人的にはこれくらい軽めな歌なんじゃないかと思っている。なお、最後の一行、歌だとメロディが変わるところは、歌い手の兄さんがラブチュ!と羊飼いガールに迫った結果、ガールに糸紡ぎ棒でしばかれたというオチの節である。
 現代の我々からすれば厳かにすら聞こえるコーラスだが、内容はこういう感じでかなりくだけた歌である。
 ペレスもなんでこんな民謡をきっちり覚えていたのかといえば、ぶっちゃけ単に話の都合だが、あえて理屈をつけるなら、ペレスは天才脳の持ち主なのでなんでもなんとなく記憶しちゃう癖でもあるんだろう、ということにしておこう。もちろん、まだ十代くらいの若いペレスの無意識に、恋愛というものへの興味関心がゼロではなかったのでこういうのがすっと頭に入ってしまっていた、のかもしれない。そういう設定にしておくのも美味しい。が、まあ多分、くだらない歌だと思いつつ、きれいな曲だなくらいの肯定的な評価はぼんやりあったのかもしれない。この歌のメロディ、きれいでいいよね。
 それにしてもペレスがこの歌を覚えていた経緯といい、その他もろもろ、いろいろの無理をなぎ倒して書いてしまったのが「鳥が歌うときには」ではあった。出たとこ勝負というか、自分都合でまともな実証や整合性など無視して書いた作品だった。
 このときの私は、仕事の年度末進行に圧迫されて控えていたオタ活動に取り組める余裕ができたので元気いっぱいで、そのままのノリで恋心を自覚しちゃった春先の浮かれペレスを書きたい一心だったのだ。なのでいつも以上に細かいことを気にせずノリで書きはしたが、そうは言っても歌の選択と歌詞概要を掴むのに数日、本文を書き上げるのに丸二日くらいを費やしたので、実際のところは全然勢い良くはなかった。
 ワンドロで2000字くらいのをぱっと書ける手練れの書き手になりたいな、なりたいけれどなれないな(遠い目標)。

 とはいえ、当社比較的にはスピード感ある進行で書いた作品ではあり、おかげでそれまであまり書いたことがなかったペレス、恋心をはっきり自覚してて告白するつもりまであるペレスをやっと書くことができた。自分が見たかったものを自分に供給してやれたのだ。二次創作書きの本懐をひとつ遂げたといってもいい。そういうわけで「鳥が歌うときには」は自作二次小説のなかでは気に入っている作品である。
 ありがとう"Quando i oselli canta"、名の知られぬその作り手と歌い手たち、写本を保存してくれた人びと、現代の世に復元演奏してくれた人びと、そうしたあれこれの情報をネットワークに公開してくれた人びとよ。この古い美しい歌の助けで、私の萌えがひとつ、かたちを得ることができた。とはいえ先人たちも、21世紀のオタクに身勝手な感謝をされたところで困惑しかないだろうが……。

 ところで、せっかくだから推しイメソンプレイリストにも二次小説の元ネタになったこの曲は入れておくかと思い、歌詞をちゃんと紹介したいね……と思って改めて調べていたら、ネットで確認できる歌詞の大元のリソースであるバチカン図書館のデータベースが複製禁止という規定になっていることに気付き、やっべえ!と慌てて、二次小説のほうの歌詞部分を修正したりした。
 気付いて良かったよぉ!
 そういうわけで残念ながらここでも歌詞を全訳で紹介するのは控えるが、上記の確認過程でオーストラリアのLa Trobe Universityという大学の図書館が中世音楽のデータベースを作ってくれているのを知った。このデータベースに"Quando i oselli canta"の詳しい情報も、原語歌詞も、そして英訳も載っているので、そちらから歌詞を確認してもらえばと思う。
◆La Trobe大学MMDB https://www.lib.latrobe.edu.au/MMDB/anon...

また、元資料である写本はバチカン図書館のアーカイブで画像で見ることができる。
「Codex Rossi(ロッシ写本)」の2vおよび3rとなっている画像の下の二行くらいが"Quando i oselli canta"の譜面と歌詞である。
◆バチカン図書館所蔵 Codex Rossi(Ross.215) https://digi.vatlib.it/view/MSS_Ross.215...

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 11曲目。ポケモンSVのサントラから。
 自作二次「幸運の星」を書いてるときずっと聞いてた曲。

●11:GAME FREAK / 「南エリアを歩く」

【ポケモンSV】南エリア ハープ演奏 Pokémon Scarlet & Violet : South Province Harp cover
Nana Harp

 youtubeでは元の音源は聞けないが、代わりに弾いてみたやってくださってる音源を見つけてきた。
 元曲はNintendo Musicで聞けるはずなので、聞ける人は良かったら聞いてみて。
 とはいえ、URL貼った弾いてみた演奏も、ハープがすごく雰囲気がぴったりで、美しくて最高だ。

 ポケモン・スカーレット/バイオレットを遊んでいて、一番好きな曲はこれ。
 SVはイベリア半島の風景を参考にしたフィールドグラフィックがえらい美しい。そのうえオープンワールドなのでその美しい風景を延々と歩いていけるし、ストーリーが進むと滑空して上空からひろびろと世界を眺め渡すことさえできる。ほんとゲーム内散歩が楽しかった。
 BGMも軒並み良くて、思わずCDでサントラ買っちゃったのだ。なかでも「南エリアを歩く」は、夜間の星空のもとでフィールドを歩くときにぴったりのピアノ曲で、水のような透明感のある音色とメロディがとにかく素晴らしい。SV遊んでたときは無駄に南エリアの夜時間に散歩しまくったし、CDを手に入れてからは作業用にもこの曲を聞きまくっていた。「西エリアを歩く」「東エリアを歩く」も同じように好きで、3曲合わせてなんとなく、夜に草原を歩くときの曲、と思って聞いている。
 ところで、自作二次小説「幸運の星」はのぐちさんと作った合同誌『ふたりはいつでも、今日も明日も、あさっても。』に書いたもので、夜に天体観測に赴くペレスとアブトゥという話なのだが、その話の舞台となる夜の草原の風景は、自分のなかではSVの南エリアあたりの夜間そのまんまのイメージだった。それで話を書きながら延々「南エリアを歩く」をヘビロテしていたのだが、おかげで「幸運の星」を読み返すとなんだか背後に「南エリアを歩く」が流れているような気がしてしまう。元曲は別に夜間だけの曲じゃないんだけどね。

 ペレスとアブトゥの二人について、私は二次小説では、なんとなく夜に会話している場面をよく書きがちだ。アブトゥが夜が似合うからっていうのはあるけど、なんだか二人で静かな夜にぽつぽつ会話しててほしいという欲がある。
 地図完成エンドで、ペレスが「実に切ない……この気持ちはいったい何か?」と言いながらも「彼女の主張は、私の思考を乱し、また同時に深く静めてくれるのだ。」のラスト一行でがらっとしっとり落ち着いた感じの言葉で締めたのがもうなんかめちゃくちゃツボで。ペレスも、無自覚の恋にどぎまぎしてるだけじゃなくて、アブトゥの存在を心根の深くで受け止めようとしている感じがある。だからなんとなく、ペレスは地図エンドの頃には、アブトゥの言葉をすごくじっくり聞くようになってるような気がするのだ。多分、アブトゥもまた。
 それで、ゾネスイベ後のペレスがアブトゥと会話するとき、二人で並んで、ぼそぼそぽつぽつ、ゆっくり会話しててほしいのである。もともと議論好きというか、対話が基本にある人たちっぽいし。そしてそういう対話の場面に似合うのは、夜の静けさと星明かりだと思っているのだ(このへんの感覚は指輪物語の影響もあるかもしれない。指輪物語だと、なにかと夜に星明かりのもとで、来たし方を静かに語りあうっていうような場面がちょいちょい出てくるんだよね)

 でもまあ、なにせこの二人なので、穏やかとはいえなにかと言い合い(言い合いの形を取ったいちゃつき)はしてる気もする。しててほしい。軽口たたき合いつつ、なにかと二人で一緒に取り組んじゃったりみたいな。そういう欲望がほとばしりまくったのが「幸運の星」という二次小説で、もしその関係性を音楽にするなら「南エリアを歩く」くらいの落ち着きと生き生きが同居する感じだし、晴れた夜の星空のイメージなのだ。

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 10曲目。古楽から。これも月の歌。「月の椀」と同様ペレス側の内面のイメージ。

●10:Dulces Exuviae / Ay luna que reluzes 《ああ、かがやく月よ》

◆Wikisourceスペイン語版 Ay luna que reluzes
https://es.wikisource.org/wiki/Ay_luna_q...

 "Cancionero de Upsala"と呼ばれる歌集に収められたビリャンシーコの一曲だ。
 ビリャンシーコは15世紀から18世紀、イベリア半島や新大陸で流行った世俗音楽のスタイルだそうだ。歌詞はおおかたスペイン語やその方言のようだが、ポルトガル語のビリャンシーコなどもあるらしい。
 wikipediaスペイン語版のページを貼っておく。
 ビリャンシーコ→ https://es.wikipedia.org/wiki/Villancico...
 "Cancionero de Upsala" → https://es.wikipedia.org/wiki/Cancionero...

 "Cancionero de Upsala"はバレンシアのカラブリア公家のクリスマスの宴用の曲をまとめた歌曲集だそうだ。1556年にヴェネツィアで出版されたそうだが、そのあと本の存在は忘れ去られ、ウプサラ大学の無数の蔵書に埋もれていたのを、20世紀初頭にスペインの音楽研究者が見いだしたのだとか。
 本には全部で70作品の歌曲が集録されているが、うち54曲がビリャンシーコである。聖母子や降誕を賛美し祝うクリスマス向けのビリャンシーコもあるが、宗教的な要素をまったく持たない恋愛などが主題のビリャンシーコも多数集録されている。

 Ay luna que reluzesは四声のビリャンシーコの項目に挙げられている。4声ということは4パート構成で演奏されるものということだろうが、URL貼った音源ではソロ歌唱で演奏しており、伴奏もリュート1本だけだ。別の動画では4人以上でパート分かれて歌っている動画とか、メインボーカル+楽器で4パート構成の演奏も見ることができる。そっちのほうが演奏の復元の本来としては近いのかもしれない。
 とりあえず歌詞のテキストがWikisourceにあったので全文ここで翻訳つきで挙げておく
(CC BY-SA 4.0の規定になっていた。出典は上に記したWikisourceのリンク先参照)。
 なお私は現代スペイン語も古スペイン語もノー知識なので、翻訳はgoogle翻訳先生と、gemini2.5pro先生にどうにかしてもらった。いちおう機械翻訳を土台に、少しだけ手を加えている。

  Ay luna que reluzes,
  Toda la noche m'alumbres.
  Ay luna tan bella
  Alumbresme a la sierra;
  Por do vaya y venga
  Ay luna que reluzes
  Toda la noche m'alumbres.

  ああ、かがやく月よ
  夜通し照らしておくれ
  ああ、いとうるわしき月よ
  山への道のりを照らしておくれ
  私が行き帰るところを
  ああ、かがやく月よ
  夜通し照らしておくれ

 夜の静かさと月の明るさ。
 メロディの美しさに似合う、シンプルで美しい歌詞だと思う。
 とはいえこの歌詞については、単純に月を歌った美しい情景歌と受け取るものか、それとも恋人への思いや信頼を静かに歌った恋愛歌なのか、はたまた仰ぎ見られる月は救い主のメタファーであり主への賛歌と見るべきなのか、知識のない私にはわからない。
 が、恋愛歌とみなして歌うと、なんだかオツな歌詞のように思う。
 ちなみに同じ本に載っている歌のうち、明らかに恋愛歌と思われる歌詞の他の歌と比べるとだいぶ物静かで落ち着いた歌詞ではあり、あまり恋愛歌っぽくはない(この歌曲集には人妻に言い寄るような歌も普通に載せられている)。
 そして、たまたまなんだけど、一個前に挙げたサカナクションの「月の椀」とは重なる部分がある。月はもちろんだが(これは私が「月」という言葉をフックに探していたところがあるから当たり前だ)が、山と旅のイメージが両方ともにあるのはなんとなく不思議だ。
 「月の椀」作詞の山口一郎氏は種田山頭火をテーマに作ったと述べていたそうだ。だからAy luna que reluzesとモチーフが重なっているのはまずもって偶然なのだが、古今東西、月は山と組み合わせるととても絵になるということなのかもしれない。そして月が、夜の孤独な旅に寄り添う柔らかな存在であることも。

 私の方は、月のイメージでフックする歌をなんとなく探し、ポップスからは「月の椀」、古楽からは"Ay luna que reluzes"を深い考えもなくそれぞれに拾ってきただけではある。そして、月の歌ってことで重複するから、イメソンリストに入れるならどっちか一つかな……などと思いつつ、いいや両方入れちゃおう!となった。どっちもだいぶ好きな曲なので。
 加えて、ペレスの心境に寄せるなら「月の椀」は無自覚片思い期っぽいけど、"Ay luna que reluzes"は気持ちを自覚している感じで、ちょっと心持ちが違うかも、とも思った。
 ぐらぐらと揺れる心を抱えてあてどなく夜を歩いているような「月の椀」に比べると、"Ay luna que reluzes"は曲調もしっとりしてて、月を旅の友として心に据えている感じがある。もし恋愛歌として見るなら、もうこの人だと心に定めてる人がいるよね、というのがこの歌の印象だったのだ。
 というわけで、アブトゥに対する気持ちをはっきり自覚しかけてる時期のペレスの歌(仮)、という気持ちでこの歌を挙げておく。(仮なのは、原作にはそんな時期なんてミリも描かれてないからっていうニュアンス)

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 9曲目。アマゾネスイベ後のペレスのイメージ。

●09:サカナクション / 月の椀

◆歌詞のオフィシャルの置き場所は見つからなかった。検索で見つけてくだされい。

 自作二次の「酔いどれと歌」のイメージからフックした。
(プラニスフェーリオには収録してない短編だけど)
 ずっとペレス単体のイメソンってのは挙げてこなかったんだけど、あえていえばこの曲かなあ。
 ほんとに、ペレスについてはイメソン全然思いつかなかった。
 ペレス、自他の感情に鈍感で、感受性がだいぶ死んでそうなド理系科学者で、ほぼ学問にしか興味が無い朴念仁だと。
 私にそう思われているせいで!
 とにかくペレスは文学的な情緒に欠けてるタイプとしか思われず、彼が自分の感情を内省的に振り返るようなイメージもまるでわかず、そうなるとなんらかの歌に思いを載せていくイメージも、んまーーーーーぜんっっっっぜん、思い浮かばなくて。
 世の若い者たちが嗜む音楽のなかでは、男子もいろいろ情動をほとばしらせている。
 なんでもなくても走り出したり……
 雨が顔を打ってだけど君が君だけがそばにいなかったり……
 防波堤で笑い合った日々だけがキラキラしてたり……
(※上記のフレーズは適当にそれっぽいのをでっち上げたものなので、具体的に実在する歌は参照してないよ。似たような歌詞の歌がもしあるとしてもそれはマジで偶然)
 そんな感じでどの歌でもなかなかリリカルに男子の心は叫んでる……
 しかしペレスの心には……そういう言語化が全然なさそうで……
 情動が動かないというよりも、とにかく文学的抒情性と自己表現の欲求が未発達すぎてそうで……

 ほんとなんも思いつかず、ペレスにあてるイメソン探しはすごい難航した。
 それでもさすがにゾネスイベの後、自分の中に湧く不思議な感情に気付きはしたペレスなら、叙情的な感覚もちょっとは、ちょっとは内面に持ち始めているかもしれない。
 そういう気持ちで絞り出すように選んだ曲がこれです。

 「月の椀」はどこか放浪のイメージがつきまとう歌だ。月に誘われて夕暮れを真夜中を、とぼとぼと長い時間かけて歩いていくような。
 月に誰かを重ねて〔気になりだす〕とサビがキマったところで、そういえばアブトゥには月のイメージあるんだよなと思っていたので、アブトゥのことを意識しはじめたペレスっぽいかなあ、などと勝手に思ったのである。そして、自作二次だとちょうど無自覚片思い期のペレスが酔っぱらってふわふわ街を歩いてる「酔いどれと歌」が月夜の晩の話だったので、「月の碗」の歌詞、ちょっとあてはまるぽいかなあと。

 とりま、ゾネスイベ後の、アブトゥのこと女性として強く意識しはじめてはいるもののそれが恋だってことに気付いてないペレスという存在、とても良いよね。滋味がある。無自覚片思い学術系男子……無限にしがんでいられる概念。

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り。
 8曲目。これはアブトゥの、特にアマゾネスイベのときのイメージ。

●08:ADELE / Sweetest Devotion

◆歌詞のオフィシャルの置き場所は見つからなかった。検索で見つけてくだされ。

 Adeleも作業用によく聞いてて、特にアルバム"25”が好きなんだけど、そのアルバムの最後に入っている曲。
 歌詞……まあ英語力ないので断片的に単語しか聞き取れてないんだけど、なんか狂おしく深く愛してる、って感じの歌だなあと思って聞いていた。で、いちど、推しのイメージの曲ってなんかあるかなあとふと考えたときがあって、そのときに、アブトゥはあえていえばこの曲かなあとなんとなく思っていたのだ。
 作業用に聞いてたもんで、歌詞はたいして把握せずになんとなく聞いてきたので、よくよく歌詞見たら失恋の歌だったりして……そうだったらちょっと違うかなあ、と思って改めて歌詞を見直してみたけど、なんていうかとにかく一心不乱に愛情向けてて、あなたの存在で爆発したように世界が変わった、あなたが世界のすべて、と絶唱するような歌だ。でも見返りも求めてない感じの。まあサビが、"Sweetest devotion"だもんね。
 なんていうBIG LOVE。男にとっては重いかもだけど。
 私の中ではアブトゥは、こういうふうに、愛情をひとたび振り向けたら、かなり情け深く一人の男を愛するタイプなんじゃないかなって感覚でいるけど、しかしこれは世間一般の捉え方とはだいぶズレてるかもしれない。原作でのアブトゥはずっと冷静だし、あんまりこう情熱って感じでもないキャラで浮世離れしてるもんね。
 アマゾネスイベのおかげで、こんくらいの質量あるタイプの愛情持ちなんじゃないの?!って思ったんだけど、これは私の勝手な思い入れというか、二次創作的な勝手な人格拡張だね。
 とはいえ私にとってはとにかくこういう歌がアブトゥのイメージではあるのだ。
 そしてdevotionという単語もあって、イベントでいうなら、アマゾネスイベのときのイメージだなと思ったので、イメソンリストには絶対入れよ!と思っていたのだが、改めて歌詞を見直してみたりとしながら、この曲のバックグラウンドは結局どういう感じなんだろ、と思ってもう少し調べた。
 ら、Adele自身が説明することには、子を得て感じた気持ちを歌にした、らしく。

 ああああ、だから子供の笑い声が最初と最後に入ってたのかあ!!
 なーるほどぉ、お母さんソングでらしたの。そらBIG LOVEがにじみ出るわ。

 だけど、ええええ、いやその、アブトゥにペレスのお母さんしてもらうつもりはないよ……
 ないけど……
 まあ、なんかこう、恋っていうよりBIG LOVE、ていう意味ではあまり間違ってないかなあ。
 というわけで、一瞬迷ったけど、推しイメソンリストには予定通り入れておくことになった。
 まあアブトゥ、原作でもほんとペレスに対してはたいそう面倒見がいいと思うし……そしてこれは私の妄想だけど、実は人間全般に対して優しくて意外と面倒見良さそうなイメージもあるので、……アブトゥ、もともとの気質が実はちょっとおかんっぽいかもしれないと思っている。かも。かもね。ちょっとだけね。

メモ,ネオアトラス 編集

7曲目。これちょっと説明むずかしいけど、「ファラオの夢」の最後くらいのイメージ。
自作二次小説で言うなら「去来」の後半部分。

●07:Ffynnon / Llanw Chwant 《欲望の潮》

◆Ffynnon公式サイト歌詞ページ http://ffynnon.org/music_adar_04.php

 歌詞はウェールズ語?かな? これも歌詞の意味をわかってないまま作業用にずっと聞いてた曲だ。
 ウェールズのバンドの歌だが、私は"Rough guide to Celtic Music, vol.2"というコンピアルバムに入っていたものから接した。ケルティックというが、このアルバムの音楽はそんなにケルトケルトしたのばっかりではなく、Ffynnonというバンドも、ウェールズのフォークを中心に、ブルターニュやガリシアなど広い地域のフォークを取り入れた幅広いアレンジやオリジナル曲も手がけているグループのようだ。なお、このLlanw Chwantという歌については、おそらくオリジナル曲だと思う。
 美しいメロディではあるが、沈鬱で悲しみに満ちている印象があり、哀歌のような内容の歌なのかなと思っていた。今回、作業用の曲のなかから推しイメソンピックアップしてみるかと思ったときに、そういえばこの歌も気になるがわかんなかった歌詞の意味をちゃんと調べてみたらしっくり来るとこあるかも、と調べてたらオフィシャルサイトと歌詞を見つけたのである。
 で、オフィシャルサイトだとタイトルの横っちょに、英語で"Tide of Desire"という訳が書かれている。なんか別の翻訳あるのかなと思ったけど、いやどうやっても「欲望の潮」ですね。元のウェールズ語?のほうもgoogle翻訳先生に訳してもらったら「欲望の潮」と出る。
 もしかして、実はけっこうえっちな感じの歌詞なんでしたの???
 ……と思って歌詞を見たけど、え、ぜんぜん別にそんなにえっちなことはなかったです。
 途中の、〔トゥイマ、トゥイマ〕と繰り返すとことかかなりの情を感じて好きなんだけど、このトゥイマという語は英語訳だとwarm(命令系)らしい。こういうとこがもし隠喩なら、それなりにとても遠回しに、えっちなことの比喩を言ってますか、ひょっとして??? でも、もしそうだとしてもめちゃくちゃ上品な詩だし……英語訳の全体から見ても、別にそういうコトの隠喩ってニュアンスはなさそうだし……
 ただ、とにかく哀歌ではないことはわかった。たぶんだけど。
 とても上品でしっとり落ち着いた表現の、でもかなり熱量高い、正面突破タイプの恋愛詩だ。たぶんね。しかし私には英語力はないから、英語訳があってくれてもハイコンテクストなレトリックとかが使われてたら私にはまったくわからん。
 タイトルと歌詞内容を考え合わせるなら、触れないようにしていた恋心を自覚して、一直線な感じに燃え上がりはじめたという感じのだいぶラブい歌ということになる。それで、「ファラオの夢」のイメソンとした前曲「バイマイダーリン」に続いて置いてみたが、同じド直球恋愛ソングのはずなのに曲調のギャップがすげえ。
 そう、なにせ曲調がこれなので、自分にとってはあいかわらず、なにかを静かに悼んでいるような印象もすっかりは消えさらない。それで「ファラオの夢」の最後に、若いファラオの墓に赴く場面のイメージが、私のなかではなんとなくこの曲のイメージとつながってしまう。
 歌詞には、そうもの哀しい感じはないんだけどねえ。でもまあ、ファラオも長い間停滞していた恋を成就させたばっかりなんだから、こういう、熱く恋い焦がれる!っていう歌詞はぴったりかもしれない。
 あと、私の二次創作での話だと、「去来」の時期くらいには、アブトゥの心境がこの歌詞の感じくらいにガチめに深まってるんじゃないかなと思っている。ペレスがアブトゥの性別勘違いしたままだからアブトゥもなんも言わないしおくびにも出さないけど、アマゾネスイベで「かけがえのない人」とペレス相手に明言してしまうレベルに至っているのだから、「ファラオの夢」が終わるくらいの時期だとすでに、アブトゥももうだいぶ腹が決まってきてるんじゃないだろうか。

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソン語り、6曲目。
 これはアブトゥやペレスではなく、「ファラオの夢」の人魚と若いファラオのイメージ。

●06:MAISONdes[feat. みきまりあ, ニト。] / バイマイダーリン


 2022年版アニメ『うる星やつら』のオープニングソング。といっても、これもアニメは見ていないんだけど、しかし「ダーリン」の連呼で、あっ『うる星やつら』のラムちゃんだなあ!となる歌だ。
 そんだけ作品との結びつきが強い歌なのに、全然関係ない私の推しイメソンリストに突っ込んでしまったのは、単純にこういうノリ良しでエモみ強めの歌が好きというのと、最後の転調してからのメロディと歌詞がめちゃくちゃ「ファラオの夢」終盤ぽかったから。
 転調による高揚感や、歌詞にある手を握るとか涙といった単語が、人魚と遭遇した場面と重なるなあ、と思って。
 そうなんだよ、1469では、「ファラオの夢」では、なんとペレスが。
 泣く。
 泣くのだ!!
 大の男が!!! あの頭でっかちが!!!!!!
 しかしその涙はおそらくペレス本人の感情によるものではなく、取り憑いているファラオのせいだ。ファラオ、享年20歳そこそこらしいし、なんせ片思い長かったから(数千年単位)しょうがないよね、好きピに会えたら泣くよそりゃ。
 歌詞は女の子側視点だと思うけど、「ファラオの夢」エピソードのイメージを重ねて見るなら、ファラオ側視点の歌ってことになるかなあ。でも人魚側もせめてファラオと似たようなくらい、ファラオのこと好きであってほしいなと思う。
 いやね、1469での「ファラオの夢」の人魚、正直なに考えてるかわからないっていうか……。
 ファラオは人魚好き好きかもしれないけど、人魚はファラオのこと愛しているとは明言してないんだよね。
 人魚のほうから「思いがあればいつかきっと会える」と言いはしたが、そのわりには人魚の方から会いに来るつもりはなさそうだし、実際にファラオの魂が来るまでずっと南の海にいるんだから、会いたいという思いを持っているのはファラオの側だけ、とも解釈できる。
 それでもファラオは惚れた弱みで、ド真面目に人魚の言葉を汲んで、会うために手を尽くした。しかし運つたなく、病を得て若くして儚くなってしまったのだが、人魚的には「ハァン?! 死んだごときで諦める程度なんかいな! ヌルいのう! ガチ惚れっちゅうなら死んでも来てみィ!」てハナシなのだろうか。めちゃくちゃド強い精神求めてくる。ファラオとはまったく別方向に強火加減だ。
 もう死んでるのに、こんな無茶振りにちゃんと応えたファラオはえらい。ペレスの健康が犠牲にはなったけど。そんなファラオのがんばり(とペレスとアブトゥの巻き込まれ)に応えて、人魚だってファラオにガチ惚れしてくれてたって良くないか。
 そう思うが、テキストを見る限りは、がんばった分の情はかけたる(青い宝玉ポイー)という感じで、人魚側からもファラオと両思いでたいへん嬉しい、ってなコメントは別にない。
 実は両思いではない可能性があるのでは……。
 でもそれじゃあ、ファラオがちょっとかわいそうすぎる!
 そういうわけで原作1469では人魚側のファラオへの感情は実ははっきりとはしてないのだが、二次創作的には、ファラオと人魚は出会ったときから双方一目惚れの両思いだったのだと思っておきたい。ファラオの夭折のために悲恋で終わりそうだったところ、ペレスを媒介に数千年越しで恋を成就できたのだ、と。
 とにかく、報われてくれよファラオ。
 ペレスが不眠症で頬コケ顔になるくらいには迷惑かけてくれたんだからさ。

 全然歌と関係ない話になっちゃったな。
 とりあえず、「ファラオの夢」は深掘りしたい要素いろいろあって面白いんだよねえ、てことを言いたかった。
 歌のほうは、こう、リズム刻んでてキャッチーでキュートでノリノリなのに、なんかキリキリとずっと切なくて、はー! ガールのコイゴコロって感じ! こういうの好き! 
 Bメロのハンドクラップ部分とかも好き好き、テンションアゲだけど浮つきすぎてなんかすれ違い、ってな感じする。キュンとくる~。
 あとやっぱ最後の、転調サビの突抜け感と開放感が最高に気持ちよい。これ聞きたくて何度もリピしちゃう。

メモ,ネオアトラス 編集

推しイメソン語り、5曲目。
アブトゥからペレスに向かう気持ちというか、自作二次だと「深潭」あたりのイメージ。

●05:Sian / Ach a Dhòmhnaill Òig Ghaolaich 《ああ、若く愛しいドナルドよ》

◆歌詞はこちら参照。 https://sianmusic.com/lyrics/#ach-a-dhom...

 スコットランドの民謡を元にした歌。日本の民謡っぽくも聞こえるなんとも懐かしいメロディだが、大西洋に向き合う地の果て、スコットランド西岸の辺境の島々、ヘブリディーズの作業歌を元にした歌だ。歌詞はスコットランド・ゲール語である。歌詞はミュージシャンのオフィシャルサイトにリンクを貼ったが、そこにある解説によれば元歌は南ウイスト島の詩人Donald MacIntyreによって聞き取りされたものだという。
 スコットランドの伝統文化音声資料アーカイブ https://www.tobarandualchais.co.uk/ でAch a Dhòmhnaill Òig Ghaolaichのタイトルで検索すると、元になっている民謡のほうも聞ける。
 https://www.tobarandualchais.co.uk/track...

 出航した船はもはや沖遠く、恋しい人の豊かな巻き毛(=若々しさと美しさ)も目の前に見ることはできない。せめてその人の船が順調に航海し、旅が成功するように、と祈る素朴な歌だ。素朴だが歌詞は美しい。最後の節でウイスト島、マル島、ノイダートと、ヘブリディーズ地域の島や地名が述べ立てられる。島々の個性を示す短い単語のなかに豊穣と美しさのイメージが込められているが、なにより、ヘブリディーズに生まれ育った娘が列挙する島々の名前は、彼女の知る世界すべてという意味合いだろう。世界の豊かさのなにもかもをあなたにあげたい、あげられたらいいのに、というまっすぐな感情がメロディとあいまってとても沁みる。
 また、この歌には、海に出た思い人を遠く陸から魂で見守っているような心境もあるように思う。思いを寄せる相手が旅の空で出会うあらゆる災害や危難を逃れてくれるよう、元気に帰還してくれるようにと願う心境は、古典的だけど恋心のど真ん中じゃないだろうか。
 原作1469の中では別にそんな心境がはっきりと描かれたりはしていないのだが、アブトゥにすでにそうした心持ちがあってこそ「アマゾネス」エピソードの展開に至るんじゃないかなあと思っている(ペレスがしょっちゅう危ないとこに突っ込んでいくので、もう手ぐすねひいて待ってられるか、ほっといたら死ぬわあいつ!となったのだろう、などと)。

 ちなみに元歌は作業歌だと書いたが、Waulkinng songという、織り上げたツイード生地を仕上げる作業で歌う歌だそうだ。女性たちが堅い木の机や板に向かい合って並び座り、みんなで洗剤をまぶした布地をびったんびったん叩いてこねくって、生地の目をつめてこなれさせる作業らしい。この作業を経て布を丈夫にし、断熱性を増し、肌触りも良くできるとのこと。
 みんなで呼吸を合わせて布をこねくり倒す作業に合わせたものなので歌も非常にシンプルなリズムなのだが、このシンプルなリズムとそれにあわせた人びとの一定の動作は波や船旅も連想させる。
(Waulking songを歌いながら作業する様子を再現した1941年撮影の動画 https://youtu.be/bOIZC16Jtz8?si=eEeEsWnl...

 ちなみに何度も繰り返される特徴的な「ヒーリリゥ」「ヒーリーリリーリョィ」「ホーレノホゥヒーリォゥ」という部分は囃子だ。言葉としての意味は持っていないが、この囃子のことばの音の響き、私はすごく好きだ。
 囃子部分がコーラス的な多重音声でアレンジされているのは、おそらく本来のWaulkinng songの様式を意識したもので、Waulkinng songではリードを取る歌い手が歌い始めると続いて他の人が歌い合わせていくものだそうだ。上述の1941年の動画でもリーダーの歌い出しに続いて、みんなで囃子の部分を斉唱している様子が見て取れる。

メモ,ネオアトラス 編集

今日の推しイメソン語り。
4曲目。
 
●04:ヨルシカ / アポリア

ヨルシカ - アポリア(OFFICIAL VIDEO)
◆歌詞は動画の説明参照。

 なんか最近の曲でこれって感じのあるかなあといくつか聞いたなかで、これこれ!したやつ。自作二次では「対話」「証明」あたりと印象がマッチするだろうか。
 アニメの『チ。』のエンディングテーマで、私はアニメは見ていないが、原作の漫画は読んだ。ユニークかつ物語も面白く、しかも熱い作品だ。そして、15世紀ヨーロッパが舞台、世界のかたちをめぐって知的に探求するストーリー、こういう要素はネオアトラスとめちゃくちゃ近接しているのだが、もちろん主題のありどころは全然違うし、『チ。』はかなり苛烈なストーリー展開なので、似ているとはまるで思えないのだった。空気の違いビシバシ感じるよ……。
 それでもイメソン探しとなったときには、まず『チ。』のOP「怪獣」なんかどうかなあと思って聞いてみた。ただ、「怪獣」はたいへん良い曲だったのだがあまりに『チ。』の作品内容とマッチしてて、もう『チ。』以外のイメソンとして聞くのムリだな!となる。ううん、EDはどうかなあ、と思って、ここで初めて「アポリア」を聞いたのだった。
 歌い出しの、ノスタルジックに謎めいた雰囲気も引き込まれるが、なんといってもピアノのピンとした音で導かれるサビの開放感。とにかく気持ち良い。
 歌詞も、サビで水平線とか地平とかのワードが出てきて、ここではない遠くに思いが向かう歌詞にBook of Daysとも通底する旅する魂の感覚がずっとあってたいへん好みだし、ネオアトラスの世界とも合う。
 しかし私は音楽わからんの民、とりわけリズム音痴なので全然わかってなかったけど、コメントとか見てたらどうやらだいぶ変わったリズムの曲のようだった。確かに、あわせて歌おうと思ったらなんかズレる。 んんん? ようわからんけど、どっか3拍子とかな感じ???? わから???ん?????と思ってたら、Aメロは7/8-8/8の繰り返しで進行しているらしい。これがサビに入ると8/8進行。やれやれ慣れた感じだ安心と歌ってると、急に1拍くらい挟まったり抜けてみたり。油断できない。歌いにくい!
 でも、そういうややこしい感じが全然表に出てなくて、気持ちよくすらっと伸びやかな印象なの、すごいな。こいうの好き! もちろんカラオケでちゃんと頭拍とか合わせて歌おうと思ったら大変だろけど、とりあえず自分も大きく声出して歌いたくなるメロディだよね。

メモ,ネオアトラス 編集

 今日の推しイメソン語り。
 2曲目と3曲目だが、どちらも中東ぽい曲なので2曲まとめて。
 ところで勝手推しイメソンを考えるにあたり、あまりにいろいろわからなくて四苦八苦した結果、自作の二次創作小説のイメージを手がかりで探すか……となった。
 クッソ痛い二次作オタク仕草でしかないが、なんかもうほんとに、推しのイメージってとこだけで考えてるとあまりにイメージがまとまらなかったのだ。
 具体的には『プラニスフェーリオ』収録の作品群が中心になる。なので選曲も、ペレスとアブトゥがからむエピソードのイメージと発生時系列に添っている。
 今日の2曲は「出会い」イベントで、ペレスが呪われてアブトゥに会いに行く下りのイメソンって感じで探した曲なので、中東っぽいのである。

●02:L'Antidote / Pomegranate (feat. Bijan Chemirani, Redi Hasa, Rami Khalife) 《ざくろ》

この曲はインストなので歌詞はない。

 2曲目"Pomegranate"。イメソンリスト作ろうとして中近東ぽい音楽をいろいろ聴いてみた中で、なんとなくシャーマンの館のイメージだなと思った曲だ。
 シャーマンの館は、2ではエジプトの南のほうの地域にあったと思うが、なんで1469でわざわざアラビア半島に移動されたのかはよくわからない。おかげでアブトゥは、エジプト出身のシャーマンではなく、アラビア半島出身のシャーマンということになってしまった。とりあえず1469でのシャーマンの館は、岩と砂だらけの荒涼とした土地にぽつんと一軒家というイメージがある。
 曲は、L'Antidoteというフランスやイタリアを拠点に活動するグループ。ウードやダラブッカといった中東の楽器がリードするオリエンタルなリズムとメロディが主体の、テクノ風味の音楽だが、全体に音が静謐で美しい。ジャジーに絡んでいくチェロやピアノもさりげなく、聞き慣れた西洋クラシックの味を加えてくれて、まろやかで聞きやすい。
 MVもある。どうも生成AIを使っている感じで、オシャレっぽい抽象的な映像だが正直好みではない(AI生成使ってるから嫌というわけではなく、抽象的な演出なのにわりと直裁的すぎるあたりが)。ともあれ、笑顔、愛、友情、魔法、ダンス……とことばが並べられ、それに応じた抽象的イメージが繰り出されるつくりの映像だ。その抽象的なイメージにちょいちょいざくろが組み入れられている。いろいろな人びとの生活や感情がつまった、人生を暗喩するPomegranate(ざくろ)ということだろうか。
 ざくろは、特にイランでよく生産されよく食べられている印象があるが、アラブ世界全体で愛好され、身近に親しまれている果物なようだ。日本では鬼子母神の逸話のおかげでやや血なまぐさいイメージもあるが、これ自体、豊穣や多産といった吉祥に繋がる説話から来るものであって、ざくろは本邦においてもめでたい果物であるはず。
 私もざくろは好きだ。甘酸っぱくて水気の多い果物、大好き。それで勝手に、アブトゥもざくろ好きなんじゃないかな!と設定していて、シャーマンの館にはざくろの1本くらいは植わってるだろうと思っているし、リスボンの商館の庭にもいつのまにかざくろ植えてそう。

●03:Kazdoura / Khayal خيال 《影》

◆歌詞はこちら https://kazdoura.bandcamp.com/track/khay...

 3曲目。自作の二次小説「覚醒」のイメソンとして選んだ。なんかアラビアっぽくて、幻想的で美しく、でも気怠くて、昼下がりの陽炎に空気が澱んでいるような曲。そうそう「出会い」エピソードでシャーマンの館に赴く一連の流れ、私の中ではなんとなくこういう感じなんよ。
 "Khayal"は、ググるといくつかの意味が出てきて、思考とかイデアとか幻想とか想像とか、そういう広汎な意味があるみたいだが、私は「影」と訳すのがいいかなあと思った。自分の後ろにずっとくっついてくる自分のかたどりだ。
 歌詞全体も、内面の声でもって自分自身のアイデンティティに、真の欲求はなにかを問いかけるというような内容。そしてこの歌詞は、曲いいなと思ってから後で調べたのだが、まんま「覚醒」で描いた若いファラオのさまよえる魂のイメージにもぴったりで、これこれ!となって聞きまくっている。
 ところでリンクを貼ったMVのほうは、なんとも妙だしこなれてない感じなのだが、味わいがあってだいぶ好きだ。いかにもアラブ地域らしい民家のたたずまい、大砂丘、雲一つない青い空、風景がとにかく美しい。そんな美しい風景のそこここでもっさりと踊っている覆面のお兄さん。ほんとにだいぶシュールで珍妙なのだが、なんか良い。ボーカルのお姉さんも登場するが、この人がチャーミングな外見かつ声が美しいので、お兄さんの存在に心がざわつきすぎてもほどよく中和してくれる。良い。

メモ,ネオアトラス 編集

というわけで、さっそく、イメソン語り1曲目をはじめる。

●01:Enya / Book of Days

歌詞は動画の説明テキスト参照。

 ペレスとアブトゥの二人のキャラクタと、船で旅をするイメージとに合うなと思った歌。
 エンヤの曲のなかでも結婚式で使われがちナンバーワンかも。
 初出は1991年、エンヤのキャリアでもだいぶ初期、古い曲だ。
 それにしても1990年代からこのかた、エンヤの音楽は散々ヒーリング系BGMとして使われまくっているから、もはや安っぽいイメージがつきまとう気はする。でもやっぱ好きサウンドなんよねえ。
 特に、旅や航海の雰囲気がとても強いOrinoco Flow、Carribean Blue、そしてBook of Day の3曲がお気に入りだ。
 Orinoco Flowなんか、いろんな地名が並べられたあとにSail away,Sail awayと波のようにリフレインされるとこがめちゃくちゃ大航海だし、曲調も明るく伸びやかで、ネオアトラスという作品にはぴったりだと思う。なんだけど、ペレス、アブトゥのキャラについて言うなら、選ぶのはBook of Daysなのだった。
 Book of Daysは直訳すれば「日々の書」で、日記ってことかなとも思うが、音の響きと歌詞を合わせて個人的にはなんとなくDomesday Bookという単語を連想した。なので、読み物としてのbookというよりも些末なこともなんもかんもが書きとどめられ綴られる記録簿としてのbookのイメージを持った。
 しかし、この重々しいタイトルに比べて、曲全体は鳥が空を渡っていくような、遠くに向かって力強く羽ばたいていくような軽やかさと爽快さの強い音楽で、これは私が持っているペレスのイメージになかなかぴったりなのだった。
 歌詞も、全体につまづいても挫けても、ひたむきに夢みたものに向けて歩み続けよう、というものである。とはいえ、がむしゃらに頑張ってれば夢は叶うよ、と脳天気に言うものでもない。歌詞が語るのは、歩み続けて進んだ道のりが人生そのものになるのだから最後の瞬間にはどこか遠いところへ辿りついているだろう。その道のり、旅の過程すべてが私という日々の書そのものだ、と言う言葉であり、わりと内省的な歌だと思う。
 そう、1469では特に(航海日誌エピとかで)若さ/未熟さが強調されていると思うんだけど、ペレスは学者としては優秀でも、船やら人やら俗世の生活においてはだいぶ不慣れで不器用なところもあるキャラクターだ(だよね?)。そんなペレスが、航海を通して少しづつ経験を重ね、旅先で出会うできごとで少しだけ変容していく。そういう若さの部分や内面的な密やかな変化のストーリーも、Book of Daysの曲や歌詞にマッチするかなあと思っている。
 一方アブトゥだが、彼女は常に端然とした動じないキャラクタとして設定されていて、ペレスのような強い希求も成長の物語もありそうには見えない。けれども、これはまったく私個人の勝手な願望ではあるが、アブトゥもまた心の内で(本人も無意識に)世界を知ること、遠く旅することにどこか憧れているんじゃないかな、そうだといいなあと、そう思っている。ペレスのノンデリ発言に腹を立てたからとか、なんか運命感じちゃったとかだけでもなく、彼女自身のうちに、海の旅につい踏み出してしまった心性と欲求があっていて欲しいなあ、とか、彼女にも航海の日々を経てのなんらかの内面的変容があってほしいなあ、などと。
 あとは、Book of Days の"Days"の部分、巡る昼と夜、一歩一歩の積み重ね、過ごした時間が一冊の書に積み上がっていくという詞の紡ぐイメージにもアブトゥっぽさを感じている。アブトゥ、毎日こつこつペース崩さず地道に生活していきそうな人っていう感じあるから……。

 私には――総じてひどく勝手な願望で、妄想甚だしい話ではあるのだが――ペレスもアブトゥ、ふたりとも旅する魂を持っている人たちなのではないか、そうであってほしいという気持ちがある。そして、二人がお互いをなんとなく意識する底には、旅心という内面の共通項が共鳴してたりするんじゃないかなあ、と。
 で、そうした、旅を求める魂を音楽にするなら、Book of Daysみたいな曲かなあ、とそう思っている。

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソンプレイリスト作ってみたので一覧を下に書いときます。
 別に誰にも求められてないけど私が書きたいので、しばらく1曲づつイメソン語りしてくね。
 この記事は曲一覧てことでしばらくトップに固定しときます。
 Youtubeのリストも限定公開しときます、こちら。
●01:Enya / Book of Days   
●02:L'Antidote / Pomegranate   《ざくろ》
●03:Kazdoura / Khayal خيال  《影》
●04:ヨルシカ / アポリア
●05:Sian / Ach a Dhòmhnaill Òig Ghaolaich 《ああ、若く愛しいドナルドよ》
●06:MAISONdes feat. みきまりあ, ニト。 / バイマイダーリン
●07:Ffynnon / Llanw Chwant 《欲望の潮》
●08:ADELE / Sweetest Devotion
●09:サカナクション / 月の椀
●10:Dulces Exuviae / Ay luna que reluzes 《ああ、かがやく月よ》
●11:GAME FREAK / 南エリアを歩く
●12:Christopher Page · Gothic Voices / Quando i oselli canta 《鳥たちが歌うとき》
●13:菅野よう子 / リュートの為の奇想曲

メモ,ネオアトラス 編集

 推しイメソンプレイリスト、挫けそうになりながらやっとアルバム1個分弱くらいの分数(40分くらい、曲数でいうと13曲)にまとまってきた。

 多分私は、推しイメソンの探し方をなんかすごく間違っていたのだと思う。
 ぜんぜん、推しイメージだ!と思う曲を思いつけない。
 今日になって今更、「そうかネットには推しイメソンを選ぶヒントや指南があるに違いない!」と気付いて検索したら、ちゃんとそういうページがいっぱいあったわ。
 そんで、もちろん私は、ぜんぜん推奨されるやり方に沿ってなかった。めちゃくちゃ効率悪かった。
 そもそも半分くらい日本語でないし英語ですらない歌を選んでいた。
 その歌詞の内容を確認するための翻訳とか情報探しでめちゃくちゃ時間取られてたのだ。
 でもおかげで、15世紀のイベリア半島の音楽について少しだけ勉強できたし、世俗曲は特にしっかり聞いてみたいと思う曲がいろいろあったから、アルバムごといくつか買っちゃった。
 こういうきっかけになったのはとても良かった。
 なお歌詞の翻訳では、今月だけ無料でお試しで使えてるGeminiにすごく世話になった。
 ありがとうGemini。課金更新はしないけど、本当にとても助かったわ。
 逐語訳出してもらったり、ニュアンスや文化的背景について質問できるのほんと便利だね。
 しかし月額が1500円なら課金してもよかったけど、3000円は趣味に使うにはちょっと高いので継続課金は厳しいな……。仕事で使うんだったらアリだけど、仕事場では使いどころがあんまりない(しセキュリティ上も制約がある)。
 
 そして、探してるうちに出会ったこの曲が!
 すごく気に入ったので!! youtubeのアドレス貼っとくね!
 シリアとレバノン出身のデュオによるアラビアンハウスだよ!

 Kazdoura - Khayal خيال  アルバム"Ghoyoum" 2024年
 https://youtu.be/xA1TJrx5ZI8?si=SKtQxPRg...

 めっちゃくちゃ良い……。好き……。
 MVがちょっと妙なんだけどそこも含めて愛せる……。
 とりいそぎ自PCのiTuneでいっぱい聞けるようにこの1曲だけ買ったけど、もうアルバムごと買っちゃおうかな。

 推しイメソンリスト作りの顛末は、のぐちさんとこのアンソロ向け原稿としてまとめてみようかなと思っている。
 イメソンリストとその説明自体はネットに置くのがいいと思ってるけど(リンクですぐ曲聞いてもらえるからね)、私が推したちに抱くイメージをいかにソングスセレクトに落とし込んでいくかの一連の苦闘は、オタ活ド下手人間がやりそうなバカバカしい迷走に満ちていて、わりと読み物にしてもおもしろそうかもと思っている。

メモ,日記 編集

 以前、職場のオタの人に推し活のヒントを求めたとき、「推しのイメソンプレイリストを作って、それで短い話とか書いてyoutubeのURL付きでページ数少なめの軽い本を一冊作るってのはどうか」とアイデアをもらっていた。
 本作るかはともかく、推しのイメージにあう音楽を集めてリストにするってのは面白そうだなと思ったのだが、いかんせん、私は音楽に疎いしセンスもない。推しの人格や、背負う物語を表現するのに良さげな音楽を見つけ出すことが全然できない。
 ので、なんとなく頓挫している。

 そもそも、私はそれほど音楽に熱心じゃない。気に入って耳に馴染んでる曲をなんぼでも回し続けるので、新しい曲を全然開拓できない……。なんか未だにTMとか坂本眞綾とかの、学生時代に聞いてたものを延々、聞いてたりするし……。作業用に聞く曲、半分くらい古楽だし……。
 古楽についてもべつに詳しいわけでもない。NHKのラジオ番組の「古楽の楽しみ」の配信をPCで録音しながら聞いて、いいなと思った曲を後で切り取って、mp3ファイルにしてプレイリストに入れるという、なんていうかみみっちいことをしているだけだ。体系的な、音楽や古楽ジャンルについての知識と理解はほとんど持っていないのだ。

 しかし職場のオタの人も、先週なんとなしに気になっていたのか、「そういえば推しソングプレイリスト、やらないんですか」と水を向けてくれたが、しょせん私が音楽わからんの民なのでぜんぜん選曲できない……という話をしたら、「まあ、推しイメソン作るの、才能とセンス要りますよね……」と優しく言ってくれた。
 推しイメソン作成の道は果てしない……深い沼が、ここにあるぜ……。

日記 編集

 ジークアクス語り。
 多分ジークアクス語りはこれで最後になると思うが(感想は書いたし、二次創作的な妄想はそれほどいっぱいするつもりがないので)なにせミハルの名前が出てきたので……。

 劇場版再上映の舞台挨拶で、鶴巻監督や脚本の榎戸さんからいろいろ制作段階の話が出たらしく。
 そこで、地球でマチュがカイとミハルに出会う案もあったという話が!!
 マジでーーー??!! しかも夫婦!!!
 竹カイ見れる可能性があった……どころか竹ミハル登場の可能性すら……あったんか……!

 とはいえこれは、プロットの初期案にすぎない。
 設定はされているけど物語に出てこなかったエピソードではない。
 なので今も、ジークアクス世界でのカイとミハルがどこでどうしていいるのかはやっぱりわからない。
 個人的に、カイやミハルではなくララァが登場することになった今のジークアクスの物語のほうがより良いものになっているのではないか、と思う。
 でも、カイとミハルが登場するかもしれなかった、しかも出会ってて結婚までしてる仲っていう可能性が示されたのは単純に嬉しかったなあ。

 ガンダムほぼミリしらの私だが、ミハルには思い入れがある。私が人生において記憶する最初期の推しカプがカイとミハルだからだ。
 保育園の夕方、たまにテレビで夕方の再放送アニメを流してたのだが、私はそこで飛び飛びにファーストガンダム(再放送)を見ていた。見ていたとはいえこの状況なので全体の話の筋はほとんどろくに頭に入っていないのだが、ミハルのエピソードだけはすごく強烈に印象に残っていて、この部分だけわりとしっかり物語を把握していた。ちょっとひねくれてていじわるっぽい(と幼児はそう認識していた)カイのキャラクタをあまり好きではなかったのだが、ここで一気にギャップ萌えと言える気持ちも味わった。なにより、ミハルがけなげながら明るく、普通の女の子で、でもなんか幸薄い感じで……そんなミハルが、ちょっと斜に構えてるけど根が優しいカイと戦場の片隅で密やかに惹かれ合い、ミハルはスパイ行為をやめてカイと共闘するところまでいくのに、結局あっけなく死んでしまう。そんな物語に飲み込まれたのだった。幼児心に、ミハルはなんとか助かれなかったのかなあ、戦争終わったあとにカイと仲良くできる物語にはならないのかなあ、と何度も悲しく思い返したものだった。オタクの魂は三歳にして成り、死ぬまで変わらないのだ。
 さて、ジークアクス世界では、最終回までセイラさん以外の正史ホワイトベースクルーメンバーの去就は出てこなかったから、彼らの運命も不明なままだった。つまりこれは好きに考えろってことだな!と受け取って、私もここぞとばかり、カイもミハルも民間人として戦争を生き延び、どこかで出会ってるかも!いや出会ってる!出会ってることにしよ!そんで、つきあってるんじゃないかな!そう思うことにするわ!……という二次創作オタ思考を当たり前のようにしていた。
 ただ、上記で話の出たプロット案ではミハルはジオン軍においてスパイとして出世しており、シャリア・ブルと連絡を取り合っている立場ということだった。うわあミハルたち出てこなくて良かった、その設定が確定しなくてよかったなあ~、と思ったのが正直なところだ。
 もしミハル生存世界線だとしても、戦争や軍隊やスパイなんてものとはあまり関係を持たずに、民間人として生きのびていてほしい。幼児の記憶だから間違っているかもしれないが、正史でのミハルは、なにせ当座しのぎの生活資金を手にするためにやってたスパイ行為なので素人臭くて、危なっかしかったような記憶がある。その危なっかしさの帰結が最期に繋がっているように認識もしていたので、もし熟練のスパイ夫婦としてのミハルとカイが登場してたら「そんな、ミハルがスパイ行為に熟達してるだなんて、そんなの解釈違いだよ!」って気持ちになっていた可能性が高い。
 まあ、そうは言っても、話が面白かったら、これはこれでアリだな!とか言い出してる可能性もあったけど。

 というわけで、カイとミハル夫婦設定の可能性に滾ったけど、それはさておき、プロットの変遷の話としてすごく興味深い話だった。そしてなにより、ジークアクスは女の子であるマチュを主人公とした成長の物語というのが最初から軸にあった、その物語を作っていく過程での変遷だったというのがコメントされていたみたいなので、それはすごく嬉しかった。マチュが物語の軸なんだねえ、やっぱり。

日記 編集

 ファミマで売ってるしろくまメロンソーダがうまいのよ。
 しろくま特有の混じっている大きめ氷片が炭酸氷で、がりがり噛んでるとなかなかパチパチシュワチュワ来る。うまい。
 しろくまなのでだいぶ甘め味でちょっと量が多いのだが、まあパチチュワを楽しんでると食べきっちゃう感じ。
 キウイソースとかも入ってて、甘酸っぱテイストでとても夏向けの味。
 カンカン照りの暑い日の帰りにこれ食ったらめちゃくちゃ美味いと思う。
 多分、ICEBOXグレープフルーツ味にキンキンに冷えたコーラぶち込んで飲むのと同じくらい美味い(最大限の賛辞)。
 10月くらいまでこれ売っててほしいな! 沖縄ファミマだけ10月まで売り続けてくれないだろうか。沖縄だとその頃までずっと暑いからさあ。

日記 編集

 ジークアクス、もうちょっと長々しく感想書くか……ネタバレまくりで……と思ったので、fusetterに書いといた。

>ジークアクス最終回まで見ての感想まとめとこ、と思ったらすげえ長文になった。自サイトのブログに置いておきたかったが、ネタバレも全開なので、伏せったーに書いておく。 https://fse.tw/fbXnBb0i

メモ,日記 編集

 最終回見たよ!

 見ながらずっとほろほろ泣けてた、なんだろう……こう……
 子供であること、大人になること、大人であること、生きること、生き延びること
 ……みたいな物語が、ニュータイプと名付けられた人びとを通して、交錯して、触れあって炸裂し続ける、ような最終回だった。
 あとは、不透明で、悲惨しかないかもしれない世の中に、世界に、それでも、と言い続けるような……

 これはぼんやりとしたものだけど、今現在の現実の世界が、物語のずっとうっすら後ろにあるなと言う感じを……これは私の気のせいではなくそうであってくれるといいなと思っていたのだけど、たぶん、そのうっすらとした影は確かにあるだろうと思えた。今の世界に生きていくことから、まったく遊離した物語ではないと。(まあ、とはいえ、現実の社会や世界の問題に深く切り込んでいる物語とは言えないのだけど。でも、物語にとっては現実などはまるで無関係でどうでもいいものだとして作られた作品ではないと思えただけで、少し救われたような気持ちがある。)

 マチュはやっぱり主人公だったな。
 そうだ、すべてお前が、お前こそがその手のひらでつかみ取るもの。
 この物語は、自由を自分をみずから選んでつかみ取る、娘の物語だった。
(そう、自分の足で新しい地へ進んでいく女たちの物語ということで、やっぱちょっとウテナだよねこれさ!)

 最終回、不満な人もけっこういそうな気がするけど、私は、とてもなんていうか、良かったなあとしみじみしている。ジークアクスは大人になることとか生きることの物語だといいなと思ってて、そのうえ、性的なニュアンスなしで女の子が大人になっていくには、っていうジュブナイルだったらいいなと思ってた。最終回で、やっぱそういう物語だなと思えたので良かったよ。(9話の、シャリア・ブルの木星での顛末あたりからずっとそう思ってたんだよね。あのシャリア・ブルの述懐は、私にとってはゲド戦記3巻の最後のほうで、生と死の境、絶望の先に到達したレバンネンが苦しみの山の小石を握りしめて、ぱっとしない勝利に泣き笑ったあの瞬間と重なっていた。あのときシャリア・ブルがマチュに語り伝えたのは、生きると言うことは自分の命を自分がたった一人で抱えて生きていくということ、誰かに何かに守られる者じゃなくて自分の足で歩き、進んでいき、その歩みで以てときには他の誰かを助ける責を負う、そうして一人の人間として熟するということだったと思っているので……マチュは最終回で、本当はこうだろ!こうじゃないといけないだろ!ってのを世界に突きつけることで、そういう歩みをひとつ成し遂げたと思うんだ)

追記:あっ、性的なニュアンスなしで、って言い切っちゃったけど、これは単純に「女の子がオトナになる」みたいなフレーズ使うと、性愛的な経験(それが恋愛感情を抱くだけのことだとしても)を経由してこそ女として成熟する、みたいに聞こえちゃうので、いやそういうポンコツなハナシはしてねーんだわ、っていう意味で言ってる。ただ、マチュがシュウジに恋愛的な意味で惹かれているのは事実だし、その点は物語でも重要な要素だったので、そういう意味では正確には性愛の側面はゼロではない。ただ、やはりジークアクスはマチュの恋心だけで駆動している物語ではなくて、マチュがいろいろな人の心に触れて、少しづつ知り、わかっていって、少しづつ大人に、強く生きる人になっていくってのがジークアクスの物語のコアにあるのだと思っている。

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 ジークアクス最終話直前なんだけど、先週のアニポケ100話を(父母たちの運転手をしていた関係で)見逃していたので見た。

 オリオ~!!
 うわああんオリオ~~~!!!

 歩き出してくれて、ありがとう……!
 リコロイドットに、新しい翼を、新しいライジングボルテッカーズを与えてくれてありがとう……!!

 泣かし、かつ熱い展開だった……。
 前回、リコロイドットたちがオリオに再会したときの拒絶感を見れば、立ち止まっちゃった大人たちの中でもオリオがいちばん傷が深かっただろう、ってのは確かに思ったけど、今回の話でオリオがどれだけフリードのことで挫けていたか、深く傷を抱いていたのかがさらにわかったし、なおそれでもフリードのこともあの旅のことも、心の底で信じていたし希望を捨ててなかったこともわかって、オ、オリオ~~……!!って涙目にならざるを得ない。

 フリードの願いに応えて彼に翼をもたらしたのはオリオで、でもその希望の翼でもって旅した果てにフリードは、オリオが仕立てた翼からこぼれ落ちていった。レックウザライジング編のラスト「冒険の先で見た最後の景色」とリコが言う場面、そのとき大人組のなかではオリオだけがリコロイドットたちの後ろに、一緒に、その場にいた。フリードが落ちていくのを、冒険の夢が崩れ落ちていくのを見ながら、叫ぶことしかできず。
 けれども「最後の景色」に続く場面は1年後のリコに移ったので、あの景色の直後のオリオの感情はリコロイドットたちと再会するまでは描かれていなかった、それだけに。
 再び冒険の夢への希望が生まれたときに、オリオがあんなに泣いているのが……。
 フリードのことを、やっぱり立ち止まらないヤツだって言うオリオ……。

 っていうかフリードはほんとに!!
 戻ってきたらマジでオリオに一発ぶたれたって文句は言えないんじゃないかな!
 あとは泣かせた責任を取って、オリオとずっと一緒に居てやれよ!って思った。つまり結婚しろ。
 っていっても、オリオとフリードのあいだにあるのは恋愛っていうよりも、友情というか、幼なじみで同志の絆というかなので、別に恋愛で発展しなくてもいいっちゃいいんだけど……でもオリオ、あんだけフリードにいろいろ差し出してくれてんだから、フリードもいろいろ差し出せや、ってなるし、そうなるとまあやっぱ先の人生ずっと一緒にいる約束くらいはしてやってもいいんじゃねえのって気にはなる。
 少なくともオリオはフリードのこともフリードの夢のことも、たいへん大事にしてくれている。だからブレイブアサギ号を作ったし、船を動かし続けるためにエンジニアとしてフリードの旅に同行し続けていた。
 なのでフリードも、オリオが愛する船と技術を、エンジニア魂を、理解して大事にしてやってほしいなあという気がする。もちろん、フリードはブレイブアサギ号に愛着や信頼を持っているし、それを運用してくれているオリオにも強い信頼や敬意を抱いているとは思うけど、それをさらに上回って、オリオ自身の熱さ、エンジニア魂、彼女の望みや夢をちゃんと大事にしてやれよっていうね。
 だってオリオはフリード自身とその夢とをわかっていて、めちゃくちゃ尊重してくれて、腕を振るいつづけて、その結果が挫折に至ったことで深く自責に苦しんだのだから。そういう絆や道筋を作ったのはフリードなのだから、フリードもオリオに相応の、特別という尊重を向けてしかるべきじゃないか。オリオはフリードにとって、幼なじみで親友で頼れる仲間で……だからこそ、オリオの腕前やフリードに向ける信頼と尊重を、一方的に利用している関係性じゃないなら、オリオにちゃんとありがとうしてくれよなって思った。

 アニポケリコロイ編は、こういう細やかな心の機微を、さらっとながらわりとしっかり描く作品だと思っているので、いつかフリードはオリオの差し出したものに相応のものを返すことがありそうな気はしている。そうであってほしいなあ。別に結婚とか愛の告白とかじゃ無くてもぜんぜんいいから。ただオリオのがんばりとか熱さとか誠実とか、そのためにこそ受けた苦しさに対する報いの言葉を、フリードが言わなきゃ誰もそこに報いることはできないからね。

 そして、オリオが復帰してくれて、よし、こっから来週はマードックやモリーを拾いに行くのかな!と思ったら、手際よくオリオ自身が連絡しててくれて、速攻みんな集まってくれた。そしてスマホロトム持ってないから連絡できないってのになぜか集合してここにいる、ランドウのじっちゃんとヌオーとシャリタチーズ。エンジニアは仕事が早い、おかげで話の進みも早い、じっちゃんは永遠に謎の存在。良い(脚本の整理の良さよ)

 来週はいったんパルデアに戻って、ボタンや校長やオモダカさんも再登場するみたいなので嬉しい。
 それにしてもやっぱライジングボルテッカーズは、大人組もいてこそなんだよなあ。ここにフリードが戻ってきてくれたら完璧。
 あとアメジオどこいったんだ。絶対出てくるとは思うけど、早くこう、気配をね、匂わせでもいいから……。アメジオもたいへん良いキャラなので、早く復活してほしいな。

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 この週末は、運転手して観光地回ってきた。
 父母が沖縄に来る、のは親戚関係の用事でよくあることだが、今回は父母の友人たちも連れてくる、つまり主目的は観光。
 私も、運転手するにしてもいつもなら親戚の用事がらみでのルートなのだが、今回は久々に観光特化のドライブしてきた。
 しかし天気良かったのはいいけど、外歩くとめちゃくちゃ暑かったし、日焼けしまくりだった。
 あと目にダメージ食らう……沖縄で夏のよく晴れた日に長時間の運転してると、道路の白っぽさとか雲の白さとか空の明るさで目が灼かれるんよな。絶対、目に良くない。普段、あまり長い時間の運転はしないから、運転用のサングラスとか調光レンズを持ってなくて、失敗したなあと思った。

 とりあえず思い出に写真を置いておこう。
 いやあ、夏だね。

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 ジークアクス最終回に関して思いつき突然のうわごと。

 竹デザインのアムロ、見たくないわけないじゃん見たいわ見せろ見せてくださいお願い!!!!

 というわけで白いアイツに乗ってきるのはアムロであってほしい、竹デザインの。

 でもアムロを今どき風にするとふんわり天パのメカクレになりそうかなと思ってたけど、メカクレ男子自体はシロウズさんで先にやられちゃってるな。
 あの毛先くるくる栗毛ヘアに、坊っちゃんみのある正統派ハンサム少年の顔つき、思春期のひねくれと内向の強い表情……こう要素の多い組み合わせを現代風にするって、どうなるんよ……うーーーマジで竹デザインアムロ、どんなんか見てみたい。(ひょっとするとシュウジがアムロの現代風デザインかもしんないんだけど、さすがに要素が色々違うじゃない?とは思っており……)

(追記……竹カイとかだって見たいですよそりゃあ。でもホワイトベースクルーについては、ジークアクス世界においてはどこかでなんとか生きてのびて、それぞれがそこそこ暮らしてるっていう妄想の余地を残しておきたい、からむしろ出てこないでほしい……それにしてもブライトとか、ジークアクス世界ではほんと、どこでどうしてるんだろうね)

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 ジークアクス11話、見たよ。
 あいかわずぶっとんだ展開だったよ。
 個人的には、マチュが舞台上に顔面から落下してくるとこほんと爆笑した。ガンダムあるあるの、ご意見を台詞でぶつけ合いましょうバトルに、突然空からカットインしてくる狂ポメJK。最高だった。
 そうだ、いけ、やってやれマチュ。
 このアニメはオールドガンダムのパロディでも二次創作でもない。マチュの宇宙、マチュの物語、マチュのガンダムだ。
 おまえの舞台だ、元気いっぱい暴れ回れ、ぶっ壊せ!
 と、つい心の中で応援の声が上がっちゃう。

 ところで謎のメカクレイケメンが、ついにやっと正体現した。
 なんだと、逆シャアバージョンかよ、金髪オールバックかよ。
 金髪オールバックといえば私の推し学者、フランシスコ・ペレスさんですよ。
 実は前から、ペレスをらくがきするときにうっすらと、なんとなく逆シャアのときのシャアに類似なんだよな記号的には……とは思っていた。なにせ金髪碧眼オールバックなので。
 ただ、記号は同じなんだけど、別に全然似てないとも思っている。
 シャアってカリスマオーラ漂いまくりの、明らか堂々とした美形なんだけど、ペレスは美形っていうわけじゃない(と思って描いている)からなあ。いやね、ちゃんとイケメン枠に入る顔だとは思っているのだが、カリスマ美形ってことはないと思ってるんだよね。
 あと、シャア目つきが鋭いっていうか、顔つきキツめだから……。
 あとなんかナチュラルに偉そうな面構えだから……。
 ペレス、ドヤ顔はしそうだし、科学的じゃないことに対しては頭から小馬鹿にしてる顔しそうだけど、偉そうってわけじゃないと思ってるからね。
 あと1469ペレスは目がデカいと思ってる。
 描くときも、目、特に瞳を大きめに描こうって意識してる。
 一方でシャアは、すごく切れ長で涼しげな目元なんだよね。
 ジークアクスでもかなり切れ長だった。美形の美形らしさの最大の記号。これはペレスにはない表現なのでねえ。
 しかしジークアクスシャアは、だるそうメカクレも新鮮でかっこいいだけど、オールバックもそれはそれで色気イケメンだったので、やっぱすげーキャラだ。美形キャラとしての立ち位置が図抜けてる。

 まあ、真面目なこというと、GQシャアが正史シャアと違う考え方を持っていたとこ、ちょっとグッときた。シャリア・ブルとMAVだったことが影響してるなら、いいな……。
 ヒゲマンも死なないでほしい。もちろんエグザベ君もだ。ニャアンもコモリも、みんなさ。
 当たり前に殺したり殺されたり、そんなことのない新しい世界にGQのキャラみんな辿りついてよ。まあキシリア様はちょっと難しいだろうけど……あれだけ自分の手を血で汚す覚悟が決まっちゃってるとさすがにねえ。キャラとしては筋通ってて嫌いじゃないけど、あまりに苛烈すぎる考え方だ。この物語はたぶんキシリアの考え方を大否定している。おそらくだけど、薔薇は排除されるべきだと考えるシャアのことも。
 一方的に取り除くのではなく、対話を重ねたうえでしっかりお互いが腹に落ちる落とし前つけてけというのがこの物語な気がして……わかり合えないにしても、いっこも話も聞かずに最初っから排除ってのはねーだろ!っていう義が核にあるんだよね。マチュの行動見てると特に。あの任侠心に溢れたキャラ立てを見てると、この物語は排除や疎外を肯定しないと思う。急に解説役になっちゃったコモリも、なぜか「ニュータイプはそんなことしないよ」って断言してたしな、あの台詞良かったんだ、なんか。

 それと、あの曲、あれは……
 あれはさ。なにせ私、NETWORK時代にTMファンだったからさ……
 といっても友達からCD貸してもらってテープにダビングとかさしてもらって聞いてた人間だから、ちゃんとしたファンとはとても名乗れないんだけど、でもだいたいのアルバムは聞いてて、中学生の頃は特にTM聞きまくってたんだよね。
 だから……実はジークアクス、ウテナっぽいなと同時に、わりと早い時期から(シャリア・ブルがシャアの影を追ってるというあたりからすでに)このお話、まんまBEYOND THE TIMEが当てはまるじゃん、絶対どっかで流すでしょ!って思ってた。言っておけば良かった、予言者ヅラできたのに。
 今から言っても、後から尻馬に乗ってるダサさにしかならんけど、それでもあえて言っておく。私、BEYOND THE TIME、昔から好きだし今でもわりとたまに聞くくらいだからさ。
 ジークアクスの物語、なんだったら名曲BEYOND THE TIMEにインスパイアされてこういうかたちになったくらいは、穿ってもいいんじゃないかくらい思ってるよ! TMファンとして!!! そんくらいの曲だと思ってる。曲もだしウツの歌声もだけど、なんといっても小室みつ子の歌詞がさ、歌詞が……あの物語の立て方、添い方……ガンダムの名曲である前に、私にとってはほんとど真ん中に、TM全盛期の歌なんだよね。だからジークアクスにちゃんと使われてくれて、たいへん嬉しかった。

日記 編集

 pixiv、絵のほうは、以前に公開してたのの公開を再開しただけで、追加はしてないけど、どうしようかな。1年間分とかづつまとめてうpればいいから小説よりは面倒じゃないと思うけど、面倒は面倒なんで、放置しとこうかなと思っている。気が向いたら、まとめてうpるかもしれない。

 あと、昨日、一気に小説18個も追加してしまい、ネオアトラスタグで検索して小説タグ覗くと延々私の名前ばっかり続いちゃう状態になっちゃってて、うわちょっとキモ!ってなったし、なにより、他の人の作品までのアクセスを普通に塞いでしまっており、その点については、あああああなんも考えてんかった、やべえ!って軽く頭を抱えている。
 pixivの仕様上、そしてネオアトラスタグで作品を投稿する人があまりにも少ない現状では、新規投稿すると私の作品ばかりが積み重なりがちで、その状態をどうにもさせられないのはしょうがない話(課金勢除く。課金勢なら人気順表示が使えるから)なんだが、しかしちょっと、なんだ、どうしようもないけどどうにかならんかな。ならんな。
 いちおう、うpったのはシリーズにまとめてる作品も多いので、シリーズ表示させるとちょっとはマシなんだよな……と自分に言い訳をしている。

 そもそも、うpってから24時間近く経つ現段階で、ビュー数が1とか2とかだし、なんだったら0のやつもある。マジで誰にも見られてない。まあネオアトラスの二次を探してpixivを検索する存在が、そうそう毎日、数人とかレベルでもいるはずがないので当然の結果だ。
 ごくまれに、ふと思い立って、ネオアトラスって二次創作とかあんのかな……ってやり出す人がいるかもしれない可能性に賭けて、そんなことがもし万が一あったら、のためだけにpixivに置いてある(永遠にそういう人は現れないかもしれないが)。なので、ビュー数がこの状態なのは別にかまわない。
 たまにビュー数を見に行って、ちょっぴり増えてたら、あっ、もしかしてふとネオアトで検索した人がいたっぽい!?と残り香を感じ取れるだろう。あったらいいな、そんなこと。
 一週間にいっぺんくらい、ダッシュボードの様子見にいってみよ(すぐ飽きそう)。

日記,ネオアトラス 編集

 pixivでの作品公開を再開した。
 pixivという会社に対しては今も思うところはある。
 非公開にしていたのは2022年5月にあったPixiv従業員セクハラ裁判事件が理由だった。pixivアカウントを消すことも考えたが、Boothを利用したかったという都合があって、とりあえずアカウントは保持したまま、作品は非公開にして放置していた。
 pixivを使わないことにした代わり、自作のネオアト1469の二次創作の置き場としてはこの自分のサイトを構築した。それであまり困りもしなかったのでpixivは休眠状態のまま3年も放置していたのだが、しかし、オタクが急に沼にハマったときにまず検索する場所は今でもPixivが最大手だろう、そういう場所で検索したときにとりあえず数があるぞと思ってもらえたいというのはずっと頭の片隅にあって気になっていた。
 私自身、唐突にネオアトラス1469に沼ったときには、慌ててpixivでファンアートやファンフィクションを探したのだ。そして、うおお結構あるぞ?!と喜び踊った経験をしている。そういう、オタク的にいえば「命が救われた」の経験をしているから、pixivみたいな目に付きやすい場所にとにかく数を置いておきたいんだよなあ……というのがあったのだ。
 そういうわけで公開再開してみたのだが、それが良い判断といえるものなのか、今も、なんともわからない気持ちだ。
 いまだpixiv社のサービスを利用することについての逡巡も持っているし、そもそもネオアトラスの二次創作なんて求める人がどれだけいるんだろう、という気持ちも結構ある。細々と、自サイトに載っけておけばそれでいいんじゃないだろうか。
 それでも、もしもというのを考えて、いくらかはネオアト二次を求める人が目に付きやすいところに置いておくかというのが、今の自分の判断である。
 それにしても、なにせ3年も前に非公開にしたまま放置してたから、追加で増えた話が結構あり、追加作品を投稿しなおすだの既存作品を直したりだのしてしたら、思っていたよりもだいぶ時間を取ってしまった。
 2022年の時点でpixivに公開してた二次小説は9作品だった。思ってたより少なかった。そのあと同人誌を出すためにまとめて作品を書いたりしたので、、追加は18作品もあった。
 でも、もうちょっとがんばって作品数増やしたいよね。
 私自身はペレスとアブトゥ最推しなので二次書くときもついこの二人のいちゃいちゃ話を書いてしまうが、本当はネオアトラスという作品自体も推したいし、二次創作としての需要も、キャラ萌えよりは、原作ゲームに描かれた世界や作品の雰囲気を伝えるようなもののほうが喜ばれるだろうなあと思っている。なので、『四方の風』に書いたみたいな、オールキャラ傾向のものを増やして、pixivとかに置いておきたいなあと思っているのだが、しかしやっぱりオタクとしての欲望が勝っちゃう。なんか書こう/描こう、ってなると、ついペレスとアブトゥばっかりになっちゃうな……。

日記,ネオアトラス 編集

 ジクアクス。
 ツイート見てて、他人の感想で、そう、そこなあ、とか、それかもなあ、などと、共感したり理解の輪郭が少し固まったり。
 なにものかであれと強いられることを疎んじて、くらげ、と進路希望に書いたマチュ。
 巨大さで圧倒してくる木星を前に、人間はちっぽけで、そのささいさの故に、本当になにものでもなく自由なのだ、と理解したヒゲマンおじさん。
 まるで立場も経験も違う二人が、どこか、なにか、同じ問いを生きている。これがほんのちょっとの言葉や行動でわりとさりげなく語られてるの、沁みるやねえ、ウンウン、てなってる。

メモ 編集

 ジークアクス、楽しく見ている。
 9話、10話、もうあいかわらず、スピードが、スピードが、テンポが、とんでもないすごい。
 でも風呂敷が……コトが広がる速さと距離もものすごくて、「これほんとにあと2話で畳めるの?!」って思うけど、あまりに情報整理、情報量の捌きっぷりがミクロン単位の精度かつ超スピードすぎるので、まあ畳むんだろうな、ていう信頼感がすごい。

 ガンダムシリーズのネタももりだくさんだけど、それがほとんどわからない私は、基本的にマチュとニャアン、それからシャリア(と彼が追うシャアの影?)と、彼らが駆け巡るSF的宇宙の、新しい物語として楽しんでいる。加えて、このジークアクスの宇宙世紀に住む、いろんなキャラの、画面に映っている人と映ってはいない人類たちの、物語として。

 いちおう、シャアとかアムロとかララァとか、アルテイシアとかギレンとかキシリアとか、そういうごく基本的な情報は仄聞はしている状態なので、脚本を本当にミリしらで見たらどういう印象を受けるかはわからないけど、なんも知らないで見ても魅力的じゃないかなあと思う。絵も、物語も。

 絵は、とにかく竹デザインがきれいに動くって、それだけでほんと魅力的だなってのがまずある。
 そして動きと言えばMSと呼ばれるいわば巨大ロボットも皆、魅力的。
 ちょっとした関節の動き、見えないところで動いているだろうアクチュエーターの存在の気配や重量感。そしてもちろんこの巨大なMSや、MA、宇宙艦船まで入り乱れる宇宙戦の目まぐるしさと規模のクソデカさも。
 それから宇宙空間、低重力環境、あるいはコロニー内、いろんな宇宙点景の魅力がカットバック的にどんどん目にはいってくるこの感じ。無重力でふわっしながら、廊下のグリップに捕まって動くちょっとした仕草とかも、すごい良い。Zの劇場版とか、UCでもこの宇宙しぐさと言うべき動きは目に入って、それぞれ好きだったけど、ジークアクスでの描写のさりげなさ、めちゃくちゃ好み。あたりまえにそれを使ってる感じがとても良い。
 そういうわけで、今までのガンダムのネタを見つけたりして遊ぶ要素を抜いてみたって、このアニメ見てたら、うわあSF楽しいなあ!って気持ちになれるんじゃないかなあと思う。
 ガンダム興味ないや、って人でも、もし例えばアンディ・ウィアー作品が好みとか、インターステラーの宇宙や次元って感じの絵の迫力が好きって人には、見て見て欲しいなあと思うアニメだな。

日記 編集

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