鳥が歌うときには
日射しの色が濃い蜜の黄色からオレンジの色へと移りゆく頃合いに、ペレスは街路を歩いていた。
久しぶりの外出だった。冬の間はもっぱら自邸の書庫に籠もって研究に没頭していたからだ。
気が付いてみると寒さはすっかりゆるみ、今日はよく晴れて温かい。
ペレスは昔からの知り合いの貴族の家に顔を出してきたのだった。
この学術好みの貴族は、ペレスの自邸からそう遠くはないところに屋敷を構えていた。早くからペレスの学才を認めて肩入れしてくれていたこともあり、勉学や研究でなにかと便宜を図ってもらったこともある。今はペレスも忙しい身となり、ゆっくり邸宅を訪ねる機会を作れていなかったが、以前からその家の若い子弟にちょっとした講義をしてほしいと頼まれてはいて、今日やっとその頼みを果たしたのだった。
それも無事に終わり、家まで送り届けるという申し出も断って、ペレスはなんとなく街を一人で歩いていた。この散歩日和の陽気に気持ちが誘われたのだ。
急ぐでもなく道を歩いているとまさに春を目の前にしているということが全身に感じとれる。
頬に当たる風は温かく柔らかく、幻のように思えるほどかすかに花の香りが混じっている。木々の枝にはもうとっくに新芽が萌え出ていて、若い緑色が強い西日を受けて明るく輝いていた。そのエメラルド色に燃える葉叢のただ中に、小鳥が一羽、飛んできた。
小鳥が止まった枝の端にはもう一羽、同じ種の小鳥がいた。後から止まった一羽は先客のほうにちょんちょんと小刻みな足取りで近づく。先客の一羽はそれを横目に見ながらささっと羽をつくろい、わずかに首を傾げた。後からきたほうがあいさつするかのようにおずおずと短いさえずりを上げる。
よく見かける鳥だが、この時期には雄の頭頂部が赤く色づき、またよく鳴くようになるので目に止まる。今いるうちの一羽、後から来た方もその鮮やかな赤い頭を持っていた。しかし先にいたほうの頭頂はやや黄色っぽい色をしていた。おそらく繁殖期を迎えた雄と雌のつがいではないかとペレスは推測した。頭が赤いほうが雄だ。
学問のために故国を出て他地域を廻ったときもこの鳥はよく目にした。ヨーロッパではどこにでもいる見慣れた親しみ深い鳥だった。しかしそれはヨーロッパの中だけのことだ。世界はペレスが知識として知っていたよりもずっと広大だった。行く先々の土地は気候風土が様々に異なり、もちろん鳥たちも異なる姿や生態を持っていて、よく馴染んだこの鳥と似た小鳥を見かけたと思っても、よくよく観察すればまったく違う種だとわかった。羽色や模様や鳴き声や行動や食べるもの、どこかしらが違う。
よその土地の風物がヨーロッパで生まれ育った自分にとってなにかと物珍しいのと同様に、よその者たちから見ればヨーロッパで普通なものが珍奇に見えているだろう。
船に乗って世界中を旅するようになってからペレスは実見した事物について記録を取り、博物誌を書き綴ろうとしている。けれども、ペレスが普通と思うものごと、いつもどおりの日々のあれこれも書き記しておくべきなのかもしれない。それは世界のどこかの誰かにとっては奇妙で新しく、興味深いものごとかもしれないのだから。
そんなことをつらつら思考していたらふいに小鳥の高い長い囀りが耳に飛び込んできた。学術的思考に浸っていたはずの脳裏に唐突に学生時代に聞いた歌が蘇った。
鳥たちが歌うとき
そは甘やかな季節
春の歌だよ、と学友の誰かが言っていたような、ぼんやりとした記憶が立ち上がる。
歌詞に使われているのはラテン語ではなくイタリアの言葉だった。ペレスもある程度理解できる言語ではあったが、不慣れな言葉だったから耳で聞いただけでは大意しか掴めなかった。ただ、春に寄せて恋について歌う、よくあるような俗謡だということはわかった。
くだらない、単調で薄っぺらな歌だとそのときは思ったものだったが、そうしたどうということのない歌がなぜか記憶の隅に眠っていて、ふと飛び出てきたのだ。
鳥たちが歌うとき
牧場娘らは野辺に出る
鳥たちが歌うとき
娘らは牧草もて冠を編む
そはたおやかな甘い季節
鳥の声に足を止め、立ち尽くしてなんとなし空に目をやると、ほの甘く香る大気は海のほうに向かって、髪をわずかにゆるがしながら櫛で梳くように優しく吹き抜けていった。耳には長く続く小鳥たちの高く細やかな囀りが聞こえ続けていた。
これこそ春、だった。
そわそわと浮かれ弾む喜びがそこらじゅうに満ち、全身の五感をくすぐる。
その浮き足立つ空気に戸惑い、むずがゆいような居心地の悪さを感じ、それなのになにかが痛いほど胸に突き刺さるような気がした。
ペレスは枝の小鳥たちを再び見つめた。
二羽はぴったり寄り添い、早口に囀り交わしていた。一方が長く次第に熱を上げていく囀りを聞かせる間、もう一方はじっとそれを聞いている。囀りが終わると一拍おいて、今度は聞いていたほうの一羽が囀り始める。初めは小さく、それからだんだんに早く力強く、高く鋭い一声でふいに切れる。そしてまた応える囀りがはじまる……二羽はなにかを熱心に言い交わしているように見えた。
たったそれだけの光景がどうしてか、身の奥につきささるように思えるのだった。
ときどきこうした気持ちが起こる。ふいに、なんということのない普段の光景の一瞬に、どこから湧いてくるのか知れない強い思いに囚われることが。
井戸端で水を汲む黒髪の娘たちが笑いながら水を汲むのを見かけた一瞬に、その手から飛び散るしぶきが陽にきらめくのを見た瞬間に、その手つきに、彼女が水を汲む静かなたたずまいを思い出したりしたことが。
岸壁でペレスの出港を見送って佇む彼女の服の裾が浜風にたなびき、手を振るように長く長くはためいていたのを、見えなくなるまでずっと見つめた思い出が。
冬の風が冷たく鳴り、色暗い雲を集めるのを見てふと、時化る海上を木の葉のように漂う船を、その船上を、甲板に立って強まる風に静かに眼差しを向け、すっと背筋を伸ばして空を見上げる彼女の姿を夢想した、その気持ちが。
感情が乱されるこんなふいの一瞬をこの冬の間にいくつも積み重ねて、さすがにペレスも気付いている。自分がなにに囚われているか、奇妙なくらいに激しく切ない強い感情を脈絡もなく心に興すものがなんであるのかを、気付きはじめている。
鳴き交わしていた鳥たちがぱっと枝を飛び立っていった。
二羽はじゃれつくように空のただなかに互いに上がり下がりしながら、どこかへ羽ばたいていった。
春が来ている。地も水も風も、生きている者たちも、なにもかもがこぞって浮き立つ満ち足りの季節がもう来ている。鳥たちが鳴き交わすように、花がつぼんでゆるやかに開きみつばちがせっせと蜜を集めるように、世界のかしこは活力に満ち、あふれ出す生気が人びとの心をも押して動かす。そんな季節のただ中に放り込まれている。
自分もその空気に押されて踏み出すべきときなのか。浮かれる空気に乗って、ふわふわと頼りない足で一歩か、それとも二歩……いや半歩だけ、でも。
脳のどこかにそんな思いが唐突に瞬いて、そのこと自体に自分で動揺し、途方に暮れるような気分になった。
理性はありったけの力でこの脈絡のない思考を点検し、批判し、ことごとくに否の印をつけようとするのだが、そうしたすべてを感情が押し流した。あらゆる理屈を超えてただ、心がそのひとに向かっていた。
あのすらりとした手を取るためだけに、ただそんなことのために自分の手を伸ばしたい。合理的な理由がひとつも見つからないというのにそうしたいのだ。
どうしたものか。途方に暮れる気持ちとむずがゆさに叫び出したい気持ちと、その他諸々、心に渦巻く混沌を深いため息として吐き出すことでどうにかやりすごす。
春が来ているということは彼女がこの街に戻ってくる頃合いということでもある。商会から任された何ヶ月かに及ぶ長旅を終え、彼女は春になる頃に帰ってくるはずだった。もしかしたら今日にでも。
ペレスが冬の間、商会にはあまり出向かず自分の研究作業にのめりこんだのも、ことにここ半月ほどは部屋に籠もりがちに作業に没頭したのも、それなのに今日は用事を見つけて外に出てみたのも、すべて、心のどこかで彼女の旅程を意識していたからだった。
商会を訪れて彼女からの知らせが届いていないか尋ねたい。港に行き、帆を下ろす船のなかに彼女の船が紛れ込んでいないか見に行きたい。だが、そんな子供じみた愚かさを自分に許すことができず、ペレスは半ば無意識に外出を避けていた。
そして、今、ついに気持ちに負けて外に出てしまった。知り合いの家に顔を出すとかなんとか、そんな急ぎでもない用事をひねりだしてしまった。用事はもう済んでそのまま家に帰ればいいはずなのに、今ぶらぶらとあてどなく歩いているこの通りは港に向かう道だった。家に向かうのとは別の道だ。
いまさら自分に言い訳してもしょうがない。わかっていた。港に行きたくて外に出たのだ、本音では。
ため息をもう一つつき、情けないような頼りないようなくしゃくしゃな気持ちでペレスは港に向かう道を再び歩き出した。
夕方、港に着いたときにはまだ日があったが、船がちゃんと係留され、いくらかの積み下ろし作業も終えてアブトゥが下船できるようになる頃にはもうほとんど沈みきっていた。それでもまだ残照が明るく残り、空は澄んで勿忘草の色をしていた。明るい穏やかな夕暮れは、曇天の灰色と意地の悪い高波と冷たい風とに彩られていた冬の船旅を遠い過去のことのように感じさせた。
明るいとはいえ次第に暮れていく今は、昼の日射しではくっきりと縁取られていた角がなくなり、そこらにあるすべてのものの輪郭は柔らかに優しく見えた。街の建物の窓や扉や角にちらちらと明かりが灯され始め、夕べの冷えていく空気に温かみを差している。
妙に懐かしさと安らぎを覚えた。
ようやく安全な港に入ったという安心感だけではない。世界の他のどの港でも感じない、家に帰ってきた安堵と親しみを、アブトゥはいつのまにかこの港の風景に感じるようになっている。不思議なものだと自分でも思う。
商会に出向き、航海の報告をしなければならないが、もう日が暮れて夜になるから明日にしても良いはずだった。もちろん腹も減っているし、船旅の疲れもある。ロハスの酒場に顔を出してみるかという気になる。飢えも渇きも両方癒やすことができるし、運良くミゲルや商会主が顔を出しているかもしれない。そう、もしかしたら彼もそこにいるかもしれない。
彼に話してやれる土産話はそれなりにあった。だが、アブトゥは自分が話すのではなく、冬の間に彼がどうしていたか、それを聞くつもりでいた。
声を聞きたかった。少し早口のあの声の響きを聞きたかった。酒を一杯おごって話を聞きたいと水を向けたらきっといくらでも喋るだろう。そうやって彼の声を聞いているのが好きだった。
そう思いながら船から下りる渡し板に足をかけたとたん、視線の先に桟橋を歩いてくる金色の髪をした人物が見えた。まだ少し距離があったが、目が合った。今の空と似た明るい青い色。
偶然ということはなさそうだった。わざわざ迎えに現れたのだ。
驚く気持ちもあったが、心のどこかは納得していたし、素直に嬉しかった。そうあってほしいとどこかで自分は願っていた。他の誰でもなくただ彼ひとりに真っ先に会いたかったのだ。それがこうも当然のようにその通りになるとは、まるで予期していなかったが。
ああ、そうか。
この港の風景を懐かしく感じるのは、彼がきっとこの街のどこかにいると、私が心のどこかでそう信じ切っていたからか。
ふいにそう悟って、アブトゥは自分の口元に笑みが上るのを感じた。おかしかった。彼が戻ってきた自分を真っ先に出迎えてくれることをなんとなく望んでいたことも、どうしてか本当に港にまで現れた彼がいるということも、なんとなく愉快だった。
渡り板を慣れた足つきで渡り終えるとき、ペレスは右手を差し出してきた。アブトゥはその手につかまり、支えにして危なげなく陸地に降り立った。
「おかえり」
低く、呟くようなペレスの声が耳に届いた。まだアブトゥの手はペレスの手のひらに包まれていた。海風と宵の陰りにさらされた指先の冷えをペレスの手のひらの温みがゆっくり取り去っていく。帰ってきたのだ、とアブトゥは思い、こちらも呟くように挨拶を返した。
「ただいま」
ペレスはほっとしたような顔をして一瞬アブトゥと目を合わせたが、ふいと目をそらした。アブトゥの手を支えていた手のひらもどこか慌ただしく離れていった。しかしペレスの横顔にはものを言いたげな気配が濃くただよっていた。
アブトゥはふと深くあたりの空気を吸った。
港の空気には潮の香りだけでなく、街の、丘の上から漂うさまざまな陸の匂いが入り交じっていた。その奥の方にすっとした香りが漂っているのをアブトゥは感じ取った。
「ああ、花の香りがするな。そうか、アーモンドが花盛りの頃か」
今までにたかだか数回見ただけのこの土地の春だったが、満開のアーモンドの花の色もその匂いも体に深く馴染んだものとして感じられた。
「陸の話を聞かせてくれ、ペレス」
ああ、うん、とペレスは頷いたが目はそらされたままだった。ペレスはぼそぼそ呟いた。
「旅に出ていた君のほうが話はたくさんあるだろう」
「それはあとで話す。今はお前の話が聞きたい」
困惑の表情でアブトゥの顔に目を向けたものの、ペレスは続く言葉は継げずにいるらしかった。アブトゥは囁くように言った。
「お前の声を聞きたかったのだ」
え、と口を半開きにしたペレスの表情に、アブトゥは声を上げて笑いだしそうになったが、からかいたくて言った言葉ではなかった。気持ちがそのまま出ただけだったのだ。多分、久しぶりの陸の、春の甘い空気に酔っている。だがそういう季節がもう来ているのなら、そのまま従うべきなのだ。
「なにか、話したいこともあるんだろう」
アブトゥが静かに言うと、ペレスは大きく息をついてかすかにうなずき、もう一度、アブトゥの手を取って言った。
「そうなんだ。冬のあいだ、いろいろ考えてね」
そう長い話ではないと思うが、とペレスは呟きながらそっとアブトゥの手を引いて歩き始めた。