猛獣
水夫長は困惑していた。
人びとが次々訴えてくる話を聞くに、重大な脅威が街の周囲の森に潜んでいることは確からしいのだが、どうも捉えどころがない。
伝説的な航海者ゴメスが寄港したと知って遠慮がちに訪ねてきた男は、街の後背に広がる深い密林には猛獣がいて、危険であるということを警告してくれた。牛よりも大きく、強い毛をもじゃもじゃにはやしたそいつは鋭い爪で木々を引き裂き森の奥で咆吼を挙げるのだと、男は説明した。
次には宿のかみさんが、食事の支度をしながら愚痴めいてこぼした。森の奥にいるあいつは冷たい肌をしているんだってよ。蛇のように鱗が生えているらしいんだ。そして金具を擦り合わせたときみたいな金切り声を上げるんだって。いつか里にあいつがなだれ込んできたら、私らどうしたらいいんだろうね。
宿に併設の酒場に来ていた農夫たちは農作物の心配をしていた。森の奥で、連中は数え切れないほどの群れに増えているらしい。増えすぎて飢えた連中はなんでも食らい尽くすだろう。もし里に現れたら畑が壊滅してしまう。
そして今、密林のほうへ続く小径の途中で行き会った老爺は、ゴメスたちが密林の奥を目指していると聞くや、震えながら言ったのだった。
「おお、おお。森へはお入りなさるな。奥深くに恐ろしい獣がおっての、毒の息を吐いて人の心をしびれさせ、惑わすのだという。森の奥へ行った者は気が狂うか、道に迷って森を抜け出せなくなってしまうそうじゃ」
「森の奥に猛獣がいるとは伺った。十分に気をつけていくつもりだ。ご老人は、その獣の姿をごらんになったり、声を聞いたりされたことはあるだろうか。どういう生き物か少しでも情報があれば、我々も気をつけやすくなると思うのだが」
ゴメスの言葉に老爺は首を振った。
「いや、あれは森の奥にしかおりませんで、わしらは森の奥には行きませんからのう。じゃが、昔、母方のばあさまから聞いた話では、小山のような大きさで、人間なんぞ一足で踏み潰せるくらいじゃとか」
ゴメスは礼を言い、一行もそれぞれ老人に会釈をして、再び歩き出した。
「要領を得ない。やはり、直接、姿を確認できなければなんともわからんな」
ゴメスの低い呟きに、水夫長はうなずいた。
商会の船団がこの海域にたどり着いてからまだそれほど経っていなかったので、商会の主は一帯の情報を集めたがっていた。交易の助けになるもの、逆に障害になるもの、また珍しいものごとや、目を引く特徴など。とにかく記すべきなにかしらの話があるなら調べてほしいと、そう言われて探索の旅に送り出されたのがゴメスの船団だった。それでゴメスは、立ち寄った街で盛んに口に上される猛獣の噂に目をとめたのだった。
街から西は木が密に茂る深い森になっていた。その奥深くに猛獣が生息していると、街の人びとは揃って口にする。しかしながら、猛獣の姿形や生態は語る人によって少しづつ違っていて、どうもはっきりしなかった。いったいどれほどの大きさなのか、なにを食べるのか、どうやって殖えるのか。仔を産むのか、卵を産むのか。尾はあるのか、角は生えているのか。地を駆けるのか、空を飛ぶのか。なにひとつ確定的な情報がない。
飛び交うのは噂ばかりで、猛獣の姿を直接に見たという者がいないことにゴメスは気付いた。ならば噂話を集めるよりも直に森に向かい、この目で確かめるべきだ。ゴメスは斥候隊を送る判断を下した。そして、ゴメス自身が隊を率いると宣言した。ゴメスの身の安全を案ずる水夫長と船員たちに、ゴメスはからからと笑って言った。
「なあに、猛獣退治をしようなどと考えているわけではない。ただ、もう少し確からしい情報を手に入れなくては、商会も我々をここに送った甲斐がないからな。とはいえ、噂の通りの危険が起こる可能性も考えられる。そんな場所に向かうなら、私自身が先頭に立たねば話が通らんだろう」
それで水夫長もそれ以上は反対せず、ゴメスについて斥候隊に加わったのだった。
誰も森へ入らない、と街の人が言うとおり、森には道らしい道はなかった。一行は、伸びた枝や絡まった根っこを伐採しつつ、少しづつ、切り開くように森の奥へ入っていくしかなかった。おかげで隊の進行は遅々として進まなかった。四苦八苦しているうちにじりじりと時間は過ぎ、太陽は西へと傾いていった。
そのうえ途中で、方位磁針が当てにならないということがわかった。地図に道のりを記そうとして腰の物入れからコンパスを取り出したゴメスが、水夫長に低い声で告げたのだ。
「磁場がおかしいようだ」
水夫長がのぞき込むと、コンパスの針はふらふらと頼りなく揺れていた。どれだけ盤を水平に保っても北をまっすぐ指さない。ゴメスは磁石の様子を確かめながらじっと考え込んでいたが、しばらくして水夫長に言った。
「この森は、どうも磁気異常があるようだ。方角が当てにならないなら、これまで記してきた地図はあくまで目安程度にしかならない。ここから先は慎重に進もう。道々、目印を丁寧につけて迷わないで帰れるようにしなくてはならない」
ゴメスの指示に従って、一行の進行速度はさらにゆっくりになった。
夕方近く、隊は小さな窪地の底にたどり着いた。その場所に出るまではわからなかったが、窪地はあたかも広場のような空き地になっていた。それまで通ってきた木と枝と葉の密な森と対照的に、空き地は木も草もまばらで、赤みが強い土がむき出しになっていて視界は広々としていた。ちょろちょろと水音がすると思ったら、空き地の片隅に湧き水がしみ出して、浅い泉を作っていた。
「野営にちょうど良さそうだな。ここで一晩過ごして、明日、周辺の様子を少し探ったら引き返すことにしよう」
ゴメスの言葉に水夫長は内心ほっとした。森に道を開きながらわずかずつ進む道のりはきつかったし、噂の猛獣と出くわすかもしれないという緊張感がずっとつきまとっていたし、その上、コンパスが狂うという不測の出来事に、だいぶ気持ちがくたびれていたからだ。
一行は日が落ちる前に早めの夕食を取り、見張り番以外の者は休息に入った。
空き地の周りに広がる木の下闇は触れられそうなほど深く厚く、暗い色をしていた。空き地は広々と焚き火で照らされても、周りを囲む木々の柱の向こうには焚き火も、ランプの明かりも届かない。暗がりの深さに皆怯えたが、ゴメスだけは動じている気配がなかった。
闇に包まれていても、森の中からは虫の声や、夜風に揺すられる梢や葉ずれといった音が穏やかに聞こえた。異変を感じさせる気配はない。空き地では、隅の湧き水からどこかへ少しづつ流れ出していく水の音が密やかに続いていた。水夫長は不安を感じながらも、毛布にくるまって絶え間ない水音を聞くうちに深い眠りに入っていった。
夜明け近く、見張りに立っていた若い水夫が、震え声でゴメスと水夫長を起こした。
「奇妙な音が聞こえるんです。なにか……悲鳴のような」
水夫長の隣でゴメスはすでに起き上がり、聞こえてくる音に耳を澄ませていた。うっすらと空に明るさが見え始めていて、それを背景に立つゴメスの影は黒々としていた。水夫長も同じように立ち上がり、周囲の音を聞こうとした。
夜更けまで熱心に鳴いていた虫の声は止まっていた。今は、夜明けの風が木々の葉と枝を揺らしながら通り抜けていく音がする。それに混じって別の音が聞こえた。
聞いたことのない音だった。なにかがこすれるような、金属的で少し高いかすれた音がしゅーっと何度も鳴る。刃を研ぐ音が連想されたが規則性はなく、しゅーっ、しゃあん、ざあーっ、しゃあしゃっ、という具合で、音はいくつも重なりあいながら波が寄せるように時に高まり、時に大人しくなりながら鳴り続けている。
音は少しづつ高く、大きく聞こえてくるような気がした。
近づいてきている?
そう思った瞬間、見張りの船員が叫び声を上げた。
明るみ始めた空の下、目の前の空き地の様子が一変していた。赤土がむき出しだったはずの空き地にざわざわとなにかがうごめいている。空き地の向こう半分はいつのまにか腰近くも高さのある草で埋まっていた。突然現れた草むらは風にわさわさと揺れ、剣と剣を擦り合わせるような、耳に突き刺さる甲高い音を立てた。
水夫長は目をこらした。いや、風じゃない。草原が自ら動いている。そう気付いたとたん、空き地を埋めるほどの大きな生き物が這いつくばって、森の奥からぞろりぞろりとこちらに向かってにじみ出てくるように思われた。
見張りの船員が、逃れようとこけつまろびつしながら再び大声で叫ぶ。
「敵襲だ! 攻撃だ! みんな起きろ!」
全員が飛び起き、なにがなにかわからないまま駆けだそうとして近くにいたものとぶつかり合い、膝をつき手足をばたつかせながら闇雲に逃げようとする。水夫長も、心臓が早鐘のように乱打し、呼吸が荒くなるのを感じた。しかし身体は金縛りにあったように動かない。黒い巨大ななにかが近づいてくる。水夫長も叫び出しそうになった。
「落ち着け! 全員、その場にしっかり足を付けて立て!」
大喝が響いた。ゴメスの声だった。ゴメスは浮き足立つこともなく堂々と立ち、ランプを掲げていた。そのランプを、ゴメスは空き地の中央に向けて振った。
「見ろ、これは……」
光の輪が捉えたのは、うごめく不気味な草、あるいは巨大な生物……などではなく、犬くらいの大きさの生き物の群れだった。
「ヤマアラシ、だ」
丸っこい身体と手足を持ち、つんつん逆立つ長い毛で覆われ、地面をもそもそ歩いているのはどう見てもヤマアラシだった。しかし、普通のヤマアラシと違い、その毛は草の葉のような幅広で薄い形をしていて、黒っぽい灰色をしていた。ヤマアラシたちが動くたびに毛は触れあい、甲高い音を立てた。そんな連中が、空き地を埋め尽くすほど無数に集まっているのだった。
船員の一人が近づくそぶりを見せると、ヤマアラシの一匹が尻を向け、尻尾を素早く振った。甲高い音がけたたましく鳴る。ずい、とヤマアラシは尻を突き出した。ヤマアラシが振り回す毛の先が一瞬、水夫の手にほんの軽く触れ、水夫は声を上げた。かすっただけなのに、手の甲には無数の切り傷ができていた。ゴメスが静かに言った。
「みんな、近づくな。手も出すな。じっとしていろ。ヤマアラシは気が強い。襲われると思ったら攻撃してくる気質がある。こいつらに攻撃されたらちょっとの怪我じゃすまんぞ」
一行が静かにしているとヤマアラシたちはすぐに落ち着きをとりもどし、おしあいへしあいしながらのそのそ空き地を動き回った。彼らは入れ替わり立ち替わり、湧き水の周りを巡っているようだった。明るくなっていく空の下、ヤマアラシたちが動くたびに、しゃーん、しゃーんと、金属を擦るような音が続いた。
「ここは連中の水飲み場らしいな」
ゴメスが呟いた。やがて、朝日の光の矢が空き地に何条か差し込む頃にはヤマアラシたちはみんな水を飲み終わり、次々と森の奥へと消えていった。。
明るくなってから一行は周辺を探索し、それでわかったのは、どうもあたりの土が鉄分を相当量含んでいるらしいということだった。ゴメスはあのヤマアラシたちを仮に鉄ヤマアラシと呼ぶことにしたが、彼らの棘は細い剣のような幅広の形をしていて、土壌の鉄分を身体に取り込んだものか、表面が硬い金属質になっていた。ゴメスは、ひょっとすると鉄ヤマアラシたちもこのあたりの磁気異常に影響を与えているかもしれないと言った。空き地で彼らを目の前にしているとき、コンパスの針がぐるぐると激しく回転していたのだという。
「不明なことだらけだが、土地にせよ鉄ヤマアラシにせよ、原因がなんであれこの森の奥では磁石が役に立たなくなるのは確かだな」
今はこれ以上の調査を行う準備がないとゴメスは言い、切り上げる判断をしたので、その日のうちに一行は無事に街へ戻った。森に入るにはさんざん苦労したが、出る分には、自分たちがつけた道を辿って戻れば良いだけだったからだ。
街に戻った一行は人びとに、「猛獣」の正体が鉄の刃を持つ新種のヤマアラシであることを説明した。ところが街の人びとは、鉄ヤマアラシの存在自体は認めたが、それはそれとしてやっぱり猛獣は森の奥にいるかもしれないだろう、と口を揃えて言った。
水夫長は説明を重ねて納得してもらおうとしたが、ゴメスに押しとどめられた。街を発ったあと、船上で水夫長が疑問を口にすると、ゴメスは苦笑した。
「俺にも理解はできんが、街の人びとにとって猛獣の存在は神様を信じるようなことなのかもしれないと思ってな。彼らにとって森の奥の猛獣は、いるかいないかを疑うようなことではない。街があって森があって、その奥には猛獣がいて気をつけて暮らす、それが彼らのしきたりなんだろう。不思議な考え方だが、彼らには彼らの生き方がある。まあ、あの森は磁石も利かないし、鉄ヤマアラシたちも危険がないわけではない。危ない場所にうかつに足を踏み入れない習慣があるというのは、結構な話じゃないか」
そう言ってゴメスは笑い、水夫長も、そんなもんですかねえ、と頭をかきながら、ともかく無事で良かったですよと笑ったのだった。
彼らの後ろで、斥候隊の荷物の間から、鉄ヤマアラシの子供がひょっこり顔を出していた。いつのまにか荷物に紛れ込んで密航を果たしていたこのちっちゃな生き物は、餌でもないかとふんふんあたりを嗅ぎ回りながら、船の羅針盤が据えてあるところに近づいていった。そして、なんのご馳走も見あたらないことにふてくされ、羅針盤の陰に小さく丸まって、はらぺこのまま寝入ってしまった。
すやすや眠る鉄ヤマアラシの仔と、すっかり狂ってしまった羅針盤が発見されたのは数時間後のことで、そのあとゴメスは何度目かの遭難を経験することになるが、それはまた別の話である。