面影
井戸から汲み上げたばかりの水は冷えていた。彼女は布を鉢に浸し、細い長い指と、広い手のひらとできっちりと絞り上げた。床に伏せる孫の寝汗を拭かなければならなかった。
客人としてこの街に招かれていた彼女と孫のために、家の主人が丁重に用意してくれた部屋は、そう広くはないが落ち着いて休め、不便を感じないように心配りがされていた。床は上等な毛織りの絨毯で覆われ、今はその上に孫の寝床である厚手のマットが敷かれていたが、さらに汗をよく吸うようにと柔らかい厚手の綿の敷き布も重ね敷かれてあった。その柔らかな寝床で、幼い子はうとうとと浅い眠りにあった。
彼女は寝床に半分腰掛けるように横座りになり、固く絞った布を手のひらの大きさに畳んだ。うっすら汗のにじむ小さな額から、顔全体、首や胸元と、拭っていった。作業が音もなく進むあいだ、子供は目を覚ましはしなかったが、時々、なにか寝言を言いそうにわずかに唇を動かした。表情はそれほど苦しげではなかった。三日前に急に高熱を発してくずおれたときよりはだいぶ穏やかになっていた。
子供の熱は、現世の病ではなく、魂の衰えによるものだった。
倒れてすぐ、熱に浮かされたうわごとのように孫はわけを話した。はじめて連れてこられたこの大きな街の雑踏で、生き霊を見かけた。遠い国の少年だった、魂だけでこの街に現れた生きた男の子の魂だった、と。孫は黄泉路に向かいかけていたその魂に語りかけ、自らの魂の力を使って、生き霊を現世に引き戻したのだという。
彼女は腹を立てていた。巫覡としてそのほんの初歩をやっと学び始めたばかりというのに、あれほど諭していたというのに、言いつけに背いて死にかけの魂をそばに近づけるとは。ましてその魂に呼びかけるために己の魂を無防備にさらすとは。それがどれほど危険なことか、幾度となく語り教えてきたというのに。
しかし苛立ちは表に噴出することはなかった。今の孫ほどの年齢の幼い頃から、彼女は数え切れない年月を巫覡として過ごし、現世と常世とを行き来するものたちを見てきた。魂はふとしたことで揺らぎ、弱るものだということを彼女はよく知っていた。心の激しい動きを抑え、覆い隠し、いかなる霊にも己の魂に作用させない護りの心構えを持っておくことは巫覡の倣いとして身に染みついていた。
それで孫も、祖母の内心の怒りを察することもなく眠り続けていた。まぶたをぴくつかせ、首の向きを変え、ときどきうっすらと目をさましかけているような表情を浮かべた。
その孫の姿が、彼女の心に昔の光景を浮かばせた。
小さな子供部屋の床は非常に長い年月を使われ続けつるつるになった板張りで、その黒ずんだ表には外からどのようにしても吹き込んでくる砂が散らばっていた。山羊の強い毛を荒く織った敷布を寝床に、小さい娘は熱を持った身体を横たえ、熱がもたらす息苦しさに眉をしかめながら転々と寝返りを打ったものだった。その脇に、彼女は鉢に張った水と絞った手ぬぐいとを置いて、今のように子供の身をぬぐってやったのだ。幾度となく。
娘は引っ込み思案でおとなしい気質だったが、歌を好み、よく歌い、たまに微笑んだ。娘の笑顔はさりげなくひそやかで、他人に見いだされることは少なかったが、気付いた者の心には後々まで残った。道ばたでふとつぼみを開こうとしている花や、こぼれ落ちて星明かりに光る小石のようだった。そうした内気な気質の者によくあるように、娘の魂は柔らかく、脆く、影響を受けやすかった。今の孫と同じほど幼かった頃の娘は、見えない霊と行き会っては魂を弱らせて幾度となく熱を発した。その脆さは大人になって子を産んでもなお、どこかに残っている気配があった。嬉しいことにも悲しいことにも揺さぶられ、見えないものを見てしまう目で見た常世のことを、深く心にとどめてしまって。
彼女はふと背筋をのばした。あの時間に戻ったような錯覚がして、浮かび上がるように我に返ったのだった。もう夕暮れで、旅先の豪華な部屋の窓から入る夕日は細く、赤く、孫の額に差しかかっていた。娘ではない、あの幼い子のものではない、しかし子供特有の丸っこい額のかたちはよく似ていた。
起きているときの孫は、顔立ちも気質も祖母である彼女によく似ていた。寡黙で、めったに笑うこともはしゃぐこともなかった。娘に比べると孫は、見たものに容易には動じない気質を備えていた。戒めや教えを乾いた砂のように吸い込み、よく聞き分けた。偉大な巫覡となるに足る優れた資質を持って生まれたのだと、彼女は孫のことをそう捉えていた。
それでも、そんなこの子でさえも、黄泉との境の側まであっさりと近づいてしまった。ほんの少し目を離した隙に小さい子が川にはまってしまうように、あっというまに、気付かぬうちに。
今、眠っている孫は、幼い頃の娘そっくりに見えた。丸い頬もなめらかな額も、小さな鼻も唇も。そこだけはもともと娘とよく似ていた孫の大きなまなこは、今はなめらかなまぶたにぴったりと覆われていた。長いまつげがわずかに部屋にさしこむ夕日をさえぎって頬近くまで長く細い影を落とした。この繊細な影のかたちを、つい最近も、何度も目にしてきたような気がした。あれはつい昨日、ついおとといほどのことだったのではないか。日がじりじりと動いていく長い時間、熱に浮かされる娘のまつげの影を見つめていた、あの静けさは。
ほんの瞬きほどのあいだに心をよぎる無数の想念に、しかし彼女は手を止めたりはしなかった。腹立ちも心配も追憶も、心の内から出て露わになることはなかった。静かに素早く手は動き、幼い子が楽になるように、濡らした布で手と足までを拭い、身体にこもる熱をほんのわずかに下げた。
孫の身を拭い終えた彼女は、長い細い指先を孫の額に置き、額の真ん中を柔らかく叩いた。それは古くからあるまじないだった。たいした力は持たないが、誰にでもできる簡単なものだから、一族の母親たちは気休めに病に伏せる子らにこのまじないを施してきた。それから彼女は、孫の丸い額にぴったり張り付いていた前髪をかき上げ、そのまま額に手を置いた。額はまだ熱をはらんでいたが、危険な熱さではなかった。わかっていながらもそれを確かめていた。
なんの夢を見ているのか、孫は口元をまた少し動かした。その口元はほんの少しほころび、そのまま、まどろみに漂う笑みになってとどまった。笑みは、微風に揺れる道ばたの花、気がついたら散り飛んでいるはかない小さな花びらのようだった。
彼女は一瞬だけ目を伏せ、心の奥底から突き上げてくる感情をこらえたが、思わず指先が孫娘の小さく丸い頬に伸びていた。触れると、幼子の頬の瑞々しい柔らかさは指の腹を軽く押し返し、その感触が彼女の心の内に幾重にもこだました。
ずっと昔、幼かったあの子の柔らかい頬。ゆっくりと育って年頃の娘となったときの美しい頬の曲線。その花盛りの頬が赤子の小さな頬にぴったり触れあわされ、美しいほほえみが咲きほころんでいた朝。なにもかもが柔らかだった青葉の日々。
すべては過ぎ去って、今はただ幼い孫の頬の温かさと口元にわずかに漂う笑みが、積もっては散り飛んでいったあらゆる時間を貫いてここにとどまっていた。
誰にも知られることのない一瞬の揺らぎはすぐに過ぎ去り、彼女は孫の顔から手を離した。なにごとにも、過去のどんな思い出にも心を揺らがさぬことが、巫覡として生きている彼女には欠かせぬ技であり、誇りでもあった。彼女は立ち上がり、音も立てずに部屋を出た。