万能薬

 寝床にしんねりと横たわり、泥沼のようにぺったり動かないでいると思っていたら、忘れた頃にふうと大きく息をついて寝返りを打つ。
 うとうとと眠り続けるアブトゥの横でペレスは、長椅子にくつろいだ姿勢でかけて本を読んでいたが、そうしながらもアブトゥの様子を目の端でなんとなく気にかけていた。

 朝、いつもだったら早くに起きて、商館の中庭にいつのまにか勝手にこさえていた薬草園を一巡りし、水やりや手入れなどしているアブトゥが、日がだいぶ高くなってもまだ中庭に姿を見せていないと気付き、ペレスが彼女の部屋を訪れてみたらもうこういう状態だった。
 アブトゥ曰く、波長の合わない力の強い霊と「行き会ってしまう」とこういうふうに具合が悪くなることがあるのだという。体中に溜まる熱、割れるような頭痛、どうしようもない気怠さ、指の先までどこもかしこも重苦しい身体、鬱々と沈んでいく心。珍しくアブトゥは(しんどさでだいぶ気が弱っていたのかもしれない。あのアブトゥが!)そうした自分の症状をペレスにぽつぽつと説明したのだった。
 魂の乱れが落ち着くまで、ひたすら寝てこの嵐が過ぎるのを待つしかない、とアブトゥは言ったが、ペレスも同意見だった。ペレスから見れば症状の全てはよくある感冒を示唆している。そして、感冒の症状を劇的に軽くするような良い薬はない。水と栄養は可能なかぎり補給し、他の劇的な症状につながらないかには気をつけつつ、おとなしく横になっているしかない。
 しかしあまりにアブトゥがどんよりとしんどそうに寝床に伸びているので、ペレスは感冒について持っている知識を披露することも、妥当な対処法について説くこともしなかった。ただ水を汲んできてアブトゥに飲ませ、よく寝るようにと上掛けを直してやったのだった。
 ペレスは他人の看病というものをしたことがほとんどない。船に乗ってから初めて、調子が悪い人間は誰かがまめに気にかけてやらねばならないということを認識したくらいだ。
 航海中、水夫の誰かが病気や怪我で弱ることは必ずあった。もちろんまずは船医が引っ張り出されるのだが、それとは別に必ず面倒見の良い人間が二人、三人と現れることにペレスは気付いた。彼らは病人がほんの少しでも苦痛を和らげられるよう、よく身体を休め栄養を取れるよう、身の回りの世話になにくれと細やかに心を配り、病人を励ますのだった。ペレスはそれを実際に何度か見かけ、また自分自身も調子の悪いときに人の厄介になったりして、行き届いた看護が病人をどれだけ力づけるものかをやっと理解したのだった。
 ペレスがしたのはそのほんの猿まねのようなものだった。なにせ看護を自分がしなければならない場面があると考えたこともなかったから、自分がされた世話を、こういうふうだったろうかなどと思い出しながらたどたどしく真似るくらいしかできない。目で見て手順を知ったつもりでも、実際に自分が手を動かしてその役割を務めるとなるとまるで勝手が違う。今もって、なにをどうすればアブトゥの病状をやわらげたことになるのかまったく勘はつかなかった。せいぜい一般的な知識として、静かな環境でよく眠ることが体力の維持と回復に役立つのでは、ということは考えた。
 それで、ペレスはなんとなく立ったり座ったりしながらその場にいたのだが、ふいに自分がいるとアブトゥの睡眠の邪魔だということに思い至った。アブトゥが言うように、感冒から回復するにはひたすら眠るくらいしかできる対処もないのだから、せめて睡眠を妨げないよう配慮すべきだ。できるだけ静かに部屋を出ようとしたペレスに、アブトゥは重たげにまぶたを上げながら言った。
「ペレス。額に手を置いてくれ」
 唐突にそんなことを呟く。わけがわからないが、ペレスはアブトゥの言うとおりにした。そうするとアブトゥは目を閉じて、ふうっと息をついた。
「三回、指で、額の真ん中を軽く叩いて」
 とんとんとん。
 ペレスが言われたとおりにすると、アブトゥはかすかに笑った。安心したかのような、おかしがるような、ぼんやりとぼけたふうの、どこか子供めいた笑みだった。
「まじないなんだ。こんなときの、魂の調子がおかしいときの」
 まじない。
 だまし討ちだ。ペレスの眉間には皺が寄りかけたが、遺憾の意を込めたかすかなため息で止めた。置いた手のひらの下でアブトゥの額はぽっぽと、熾火の残った暖炉のような重たい熱をはらんでいた。ひどい高熱というわけではないが、微熱というには高い。いちばん身体がしんどくなる熱さかもしれない。
 しかし、まじないなどを素直に肯定する気にもなれないから、ペレスは額から手をはずし、水を張った小さな金たらいに手ぬぐいを浸して絞り、アブトゥの額に乗せてやった。
「こっちのほうが冷たくていいだろう」
 すぐに手ぬぐいはぬるくなってしまうのだろうが、一時でも頭の熱が下がると少し楽になるはずだ。しかしアブトゥは小さく首を振った。
「いやだ」
 駄々っ子のようだし、意味がわからない。あきらかにそれは甘えだった。普段はそんな態度をかけらも見せはしないのに。
「小さい頃」
 どこかぼんやりと霞むような声音でアブトゥは呟いた。
「とても小さい頃、こんなふうに魂の調子が崩れたときは、耐えるしかないとわかっていてもしんどい。そんなときこのまじないをしてもらうと少しだけ楽になる。楽になる気がする。もうすぐ良くなると思える。安心するんだ」
 ふ、とアブトゥは息をついた。
「誰かがそばにいてくれるのは安心する。そこにいてくれ」
 そんなわけでペレスは、眠りに落ちたアブトゥの横にいて、他にすることもないので延々と本を読んでいるのだった。
 回復するまでずっと彼女につきそっている必要はおそらくない。深い眠りに入ったときを見計らって静かに部屋を出るべきだ。調子を戻したアブトゥならば、寝ぼけて頼んだことが守られていないことなど気にも留めないはずだ。状況をそのように分析したにもかかわらず、なんとなくアブトゥと約束を交わしたような気分があって、ペレスはその約束を破れずにいた。とりあえず、手元にある論文を読み切ってしまって、それからアブトゥの様子を見てまた考えよう……。
 ぺらり。最近手に入れた論文をめくっていると、静かに時間が過ぎていく。
 その論文がテーマとしている問題に興味はあったが、論文そのものはいろいろと言葉足らずで、実証の精度も高くないように思えた。
 ぺらり。またぺらり。
 やはり、ここで述べられた理論を説明するにはあまりに実地の調査が欠けているのではないか。実証、あるいは観察記録、確かな数値。実際の事象の観察から組み立てられる揺るぎない理論。理論と実証は、双方が不可測無く同じ程度にそろって作用する両輪だ。どちらも同じ程度に揃っていなくては、まっすぐ正しい道を進まない。論文が示しているのは確かに面白い視点ではあったが、それを下支えするに足るデータ、必要な実験、観測の手順は他にもっとあるはずだ。もっともっと、実際に手を動かして、確かめてみることがたくさん……

 気付くと渚にいて、水平線を見つめて、ペレスはアブトゥにそんな文句を縷々述べたてていた。
 ペレスが、どう思う、とアブトゥのほうを向くとアブトゥはつと目をそらした。横顔の半分以上は髪に覆われ、彼女の表情は見えなくなった。アブトゥは呟いた。
「ペレス。こちらをあまり見てはいけない。私は今はまだ境目にいる。お前はお前の側から踏み出してはいけない」
 よくわからない。しかしなんとなく、アブトゥに言われたとおりにペレスは目を外し、また水平線を見つめなおした。
 灰色の海だった。凪というでもなく緩く風は吹いていて、しかし波は高くなかった。空も薄い灰色だった。夜ではなく、真昼間というでもない。どっちつかずの光が空も海も染めていて、なにもかものっぺりとしている。
「そばにいてくれているのだな」
 ぽつり、アブトゥの呟きが、どこか遠く聞こえる潮騒に紛れて聞こえた。
 そう、約束だから。約束? なんだったろう。わからないが、なんとなく言葉が落ちた。
「放っておけないからな、あれだけ調子が悪そうだと」
 ああ、そうだ、アブトゥは感冒で伏せっていたんだ。そして子供のように駄々をこねたりしたのだ。
「君の具合があんまり悪いとこっちもなんだか調子が狂う。早いとこ良くなってくれ」
 そんな文句が口をついて出た。いや、本旨は最後の一言にだけあった。あんなしんどそうにしているのを見るとどうにも落ち着かなかったのだ。気に掛かってしょうがないからただそこに居続けたというだけだった。どうも余計な言葉が出てしまう。これは照れ隠しなんだと、ペレスとて薄々気付いている。そうではなくて、そうではなく……
 アブトゥはふとペレスに顔を向けた。微笑みが浮かんでいた。花がほころんだような、見たことのない柔らかい笑顔だった。
「そうしよう」

 は、とペレスは顔を上げた。風を入れるために窓は少し開けていて、さっきまで外光がよく入ってきていたはずなのに、部屋には夕闇が忍び入りつつあって、薄暗かった。わずかな残照が部屋にあるもののかたちを影として縁取り、開いていた本のページの白さだけが浮き上がって見えたが、そこに書かれている文字はとっくに読めなくなっていた。
 居眠りしてしまったのか。いや、居眠りと言うにはいささか長すぎる時間、ペレスも眠ってしまっていたらしい。なにか夢を見たような気はしたが、ふわふわと心の隅に漂う霧のようなその気配はあっというまに散り消えていった。
 明るさが足りず、ペレスにはアブトゥの様子はよく見えていなかった。しかし、ペレスが本を閉じて立ち上がる物音で目が覚めたのか、寝床からもさもさと音が聞こえた。
「アブトゥ? 目が覚めたのか」
「……ああ」
 寝床の上に半身を起こしたらしいアブトゥは、しっかりした声で言った。
「だいぶ良くなった。水と、食事を取りに行く」
 静かなのによく通る、揺らがない声音だった。いつものアブトゥだった。
 起き上がっても大丈夫なのか、水も食事もここに持ってこようか。そう声をかけようとして、しかしなんとなくペレスは、もうそれが必要なくなったのだという気がして黙っていた。
 アブトゥはペレスのほうに顔を向けているようだった。ただでさえ減じていく残照の青暗い光は逆光で彼女の表情はまったく見えなかったが、その声音には、面白がるような響きがあった。
「まじないがよく効いた」
 ぐ、とペレスは口を結んだ。調子が戻った途端にこれだ。誰のせいでそんな意に反したふざけたことをさせられたと思ってるんだ。からかうのはやめてほしい。そう言おうと口を開きかけたとき、ペレスの言葉より一歩はやく、青い闇の向こうからもう一つ呟きがこぼれてきた。
「いちばんよく効く薬だ」
 声の響きはふいに柔らかく、ふとペレスは、アブトゥが微笑んでいるような気がした。声と同じ、柔らかい、花のつぼみがゆっくり開いていくような笑みを、顔中で……
 横隔膜のあたりから、酒をあおったときのような熱さがかっと胸腔を駆け上ってきたような気分がして、ペレスは狼狽えた。なんだこれ。
 いや、そんなふうに微笑むアブトゥなんて見た記憶はないぞ。なんで今、そんな夢想を。そのうえ心に勝手に浮かべたアブトゥの笑みに、こんなに動揺して……
 唐突な狼狽は、しかしまったく物音を立てず、夕闇にとっぷり沈んでもいたので、ペレス以外には知れることもなかった。黙り込んで突っ立っているペレスの向こうで、わずかなあかりに象られたアブトゥのシルエットは、寝床の上で少しかがみ、また伸びた。ターバンを巻いているらしかった。次いで部屋履きのかすかな軽い音が床を擦った。それでアブトゥが寝床から立ち上がったのだけは捉えられた。
 足音は寝床を離れて廊下の側にすたすたと近づき、ドアが開けられた。隙間からろうそくの黄色い光が漏れ出てきた。商館の中ではもう明かりが灯されているのだった。
 廊下から差し込む光に照らされたアブトゥの顔は、いつもどおり、感情の読めない、静かなものだった。ペレスは、彼女が微笑んでいるのではないかとなんとなく期待していた自分に気付いたが、あわてて全ての思考を中止させた。今は部屋に明かりが差し込んでいる。動揺が露わになってしまっては困る。
 アブトゥはペレスをちらりと目線だけで振り返り、表情を変えないまま呟いた。
「看病に手間をとらせたな。だが、感謝する」
 また少し、ペレスは照れるような、心が揺らぐような気持ちを味わった。それをとりつくろってペレスはことさらいつもの調子で言った。
「感冒にいちばん効くのはよく寝て身体を休めることだ。私はなにも、病に効くような助けはしていない。ましてまじないなどは気休め以外になんの効果もないぞ。君がなにをどう信じようと勝手だが、事実は、君自身の身体の回復能力が十分に機能したというだけのことだ」
 ふ、とアブトゥは小さく笑ったが、それはいつもの笑みで、おかしがっているようにも、呆れているようにも、皮肉をはらんでいるようにも、さまざまに捉えられた。
「なるほど」
 それ以上の反論はなかった。まだ本調子ではないのかもしれない。とはいえ、今のアブトゥにはいつもの、あの厳然としてどこか近寄りがたい空気が戻っていて、ペレスはなんとなくほっとした。甘えてみたり、微笑んだり……いやちがう、微笑んだのは唐突な自分の夢想にすぎない……いつもとなんだか距離の違うアブトゥに、自分は一番動揺していたのだ。ペレスはなんとなくそう悟ったが、たかがそれだけのことでこんなに感情が乱れなくてもいいじゃないかと、心の中で自分自身に対して批判的な指摘を繰り返していた。
 かくして思考するのに忙しかったペレスは、先に立って廊下を歩き始めたアブトゥの口元がひっそりと、いつもと比べてだいぶ柔らかくほころんでいたのに気付くことはなかった。