霧の朝
窓を開けたペレスの目の前には、一面の白い不透明が広がっていて、お、と思わず声が出た。厚い霧が街路を満たし、向かいの家の輪郭さえはっきり見えない。
おとといまではよく晴れていて暖かかったのに、昨日の昼過ぎからふいに天気がぐずつきはじめていた。今朝、妙に冷えると思いながら起きてみたら、外は街ごと霧に飲まれていたのだった。
数秒、開け放った窓から呆然と外を眺めていたが、そうしていると冷たく重たい湿気の波が押し寄せてきて、家の中まで霧が忍びこんでくるような気がして、ペレスは急いで戸を閉めた。
夏が過ぎ、秋に入ったリスボンは次第に曇天の日が増えてきてはいたが、それでも晴れていれば日射しにも風にもまだまだ夏の残り香があった。それでも、こんなにふいに、じったりと冷たい湿気に取り巻かれると、冬の気配が急に忍び寄ってきて街ごと寒さと侘しさに閉じ込めにかかってきたような感じがして、なんとなく沈鬱な気持ちが湧いた。過ぎていった夏の匂い、日射しの明るさや温かさが恋しくなる。
しかしまた、それとは別に、肩透かしを食ったような気分になって、ペレスはなんとなく息を吐いた。午前中にアブトゥが家にやってくるはずだったのだ。しかし、あまりの霧のひどさだから、彼女もきっともう少し時間が経って太陽が高くなり、霧が消えるのを待つだろうと思えた。そうとなればだいぶ出足が遅くなるかもしれない。なんとなく朝早めの時間に来そうだと思って構えていたので、どこか残念なような気持ちがある。
いや、別に逸るような用事でもないじゃないか。そう思い直して、書斎にこもって霧が晴れるのを待つかと思った瞬間、閉めたばかりの窓の向こうに、外の街路に軽く響くかすかな足音が聞こえた。霧を通して柔らかく響く、きびきびした軽い足音。
ペレスは思わず窓を開けていた。
霧に包まれた角からぼんやりと人影が現れた。窓が開いたのに音で気付いたのか、人影はどうやらペレスが開けた窓のほうに、顔を向けつつ近づいてきたようだったが、その影はかなり近くなるまではっきりとは見えなかった。どうやら大きなマントをまとい、フードをかぶっているようではあるところまではとらえられたが、霧に霞んで顔は見分けられなかった。それでも、ペレスは軽く手を振った。声を上げるには街路がかなり静かだったので、ためらわれたのだ。彼女に見えただろうか。見えてはいなかっただろう。それでも、もうペレスの家まではほんの一軒、二軒分の距離まで近づいている。
窓を閉めると、街路を近づいてくる淀みない足音はかすかになったが、脳内で正確に刻むそのリズムに合わせるようにペレスは階段を早足に下りた。
「霧がすごい」
ペレスが出迎えると、アブトゥはフードつきのマントを外しながら呟いた。マントは小雨にあったのではないかというほど、湿気をすってじっとりとしているようだった。マントを受け取り、暖炉がある居間へと先立ちながらペレスは言った。
「霧が上がってから来るかと思ったんだが」
アブトゥは首を振った。
「朝、行くと言ったからな」
アブトゥは律儀な人間で、断りもなく約束を違えることはしないのだった。呼んだのは自分のほうで、都合のいい時間に来てくれればいいと伝えてあったのに。
「たいした用事じゃなかったんだ。いま書いている小論で、いくつか君の意見を参考に聞きたかったのと、葡萄が届いたので……」
「葡萄」
振り返るとアブトゥは目線でじっと問うている。唐突すぎて尋ねたくもなるだろうということにふと思い至って、ペレスはなんだかおかしくなり、口元に笑みが浮かぶのを感じた。
「この時期は、叔父がワインと葡萄を送ってくることがあってね。叔父の妻の氏族が住んでいる港町が……リスボンから一日もかからない場所なんだが、葡萄が有名で」
ワインの一樽は長兄の家に取られてしまったのだが、多少は分け前をと誰かが気を利かせてくれたのか、生のままの葡萄が何房か、手籠に収められてペレスのところにも分けられたのだった。その手籠は居間に運ばせてあって、暖炉の前に佇むペレスとアブトゥのすぐ傍らの小卓に、花束を飾るかのように置いてあった。幾房もの葡萄は籠いっぱいにこんもり盛られて、瑞々しく張り切った黄緑色の粒はほろほろと籠の縁からこぼれ落ちんばかりだった。
「生で食べても美味い葡萄でね。とはいえ、傷む前に食べきるには少し多かった。良かったらいくつか持っていってくれ」
ワインにする葡萄の収穫時期からは一月あまり経っていた。おそらく農家で、食べるようにと摘まずに残してあった葡萄の一群れの最後の分け前が、この籠に収められた葡萄たちなのだろう。熟れきっていて、すぐに食べないとどんどん腐っていってしまう。
「君にはワインのほうが良かったかもしれないが、今年の早仕込みのワインはもう少し先になるな」
「いや」
アブトゥは口の端にかすかに微笑みを浮かべた。
「立派な葡萄だな」
おや、とペレスは思った。なんとなく以前から思っていたのだが、アブトゥはもしかしたら、わりと甘いものが好きなのかもしれない。
「味見してみるか。だいぶ甘くなってるとは思うが」
籠を示すと、アブトゥはこぼれ落ちそうになっている一房から葡萄の粒を一つもぎとり、一瞬、目を細めて、宝石を鑑定でもするかのようにその一粒を持ち上げて見つめた。実際、アブトゥの長い指先で、葡萄の粒はあたかも大粒の琥珀のように、温かい柔らかい蜜色にきらめいた。夏のあいだ降り注ぎ続けた日射しがその一粒に煮詰められているかのようだった。
アブトゥはその粒を口に放り込み、小さくうなずいた。
「甘いな。香りもいい」
「そうだろう。その香りを味わえるのは、熟した実を食べられるこの時期だけだ」
自分が育てたわけでもない葡萄なのに、なんだか自慢げになってしまった。言いながら、ペレスも一粒、葡萄をつまんだ。蜜のような強い甘さが湧き水のような果汁と、花の香を思わせる軽やかな芳香とともに口中に満ちた。
秋の味だ、と思った。過ぎた春夏の熱をゆっくりと蓄えた豊穣と、近づいてくる冬の気配の先触れのような空気の清冽さとが同居している。そんな秋を思わせる味だ。
ふと見るとアブトゥは二粒目を口に運んでいた。気に入ったらしい。それを妙に喜んでいる自分自身に気付いて、ペレスはいきなり気恥ずかしくなり、そんな自分の不可解な心の動きをなんとなくごまかしたくて、葡萄を籠ごとアブトゥのほうに押しやった。
「気に入ったなら、そのまま全部持っていってくれていい」
アブトゥは瞬きをし、籠を見やった。
「一人でこんなには食べきらないぞ」
ペレスも、言った瞬間に、無茶を言ったなと思いはしたが、せっかくアブトゥが珍しく好んで食べているようだったから、持って行ってほしいと思ったのだった。だいたいペレス自身はそこまで食べ物にこだわりがないので、自分が食べる前に家の者か、立ち寄った客か誰かにいつのまにか食べられてしまうだけだった。継ぐ言葉を思いつかず逡巡していると、アブトゥが先に呟いた。
「商館に持っていくか。あそこなら食べたがる者もたくさんいるだろう」
そんな簡単なことすら思いつけなかったことに、ペレスは自分でも驚いた。どうしてか、この葡萄をアブトゥに食べさせることだけを考えていたのだった。
「あ、ああ、それがいいな」
再び謎の面映ゆさが心の奥に波立つ。最近はいつも、いや、わりと、ときどき、よくあることだった。アマゾネスの調査の一件で、危険を冒してまで救助に来てくれたアブトゥに対して、ペレスは無意識にずっと負い目を感じているようで、あれ以来なんだかアブトゥに妙な気遣いをしてしまう気がする。他では揺らぐことのない合理的な判断の針が、アブトゥに対してだけは、小さな別の磁石かなにかを知らずにそばに置いてしまった羅針盤のように、微妙に狂ってぶれるような、そんな気が。
しかし、そんなおかしな心境のことをアブトゥに悟られたくもない。平静なふりをして、ペレスは、なら容れ物を別にも用意しよう、などと呟く。
アブトゥはうなずき、それから、ふっと笑った。
「ペレス教授の今日の討論に付き合っているあいだに、外套も乾くだろうし、霧も晴れて歩きやすくなるだろうからな。そうしたら、商館に葡萄を運んでいくぞ」
「私も行くのか」
「もちろんだ。これだけの量の葡萄を私一人に運ばせる気か。私は葡萄売りではないぞ。そもそもお前の家の葡萄だ」
そんなつもりじゃ、と、狼狽えた声が出そうになるのを、喉の奥できゅうと締めた。にっと口角を上げているアブトゥに、同じように口角を上げて答える。
「私の、最先端の理論を最速で聞いた上に、極上の葡萄を好きなだけ持って帰れるんだぞ。値十分じゃないのかね」
まただ、また、ぶれる。心の中で加速していく焦りを、かみ殺して押し隠すので精一杯な気持ちになるが、声音は冗談を言うときの軽い調子をちゃんと保てていた。
はっ、とアブトゥは短く声を出して笑った。
「お前の長話につきあってやって、商館に葡萄を運び込むのを手伝ってやるのだから、美味い葡萄の幾房かぐらいは気前よく払ってほしいものだ」
「仕方ない。君に手伝ってもらって、商館に葡萄を積み上げに行かねばならないようだな」
ふん、とアブトゥは息をついたが、口元には笑みがくっきりしていた。軽口の応酬だ、いつもの。安心する一方で、どこかがよけいせき立てられるような、なんとなく……楽しいような、くすぐったいような。
いや、考えるまい。複雑に寄せる感情のさざなみを胸の奥に無理矢理たたみ込んで、ペレスはそれじゃあ早速聞いてもらおう、とアブトゥに椅子を勧める。アブトゥはゆったりした動きで椅子に深く掛け、組んだ手に軽く顎を乗せて目は伏せがちに、じっと暖炉の炎を見やる。
いつもの表情、いつもの姿勢。
何回も、こうしてアブトゥに話を聞かせ、意見を求め、議論を交わしてきた。もはやすっかり見慣れた光景で当たり前のものになっているが、ペレスはこのところ、なんだかこれが一瞬一瞬に過ぎていく夏の時間のように、くっきりしすぎて幻影めいているような気もして、突然に胸がつまるような、切ないような気持ちを覚えもするのだった。
しかしながら、今日はいつもと少しだけ違って、アブトゥは何気なく椅子から小卓に手を伸ばして、葡萄をまた一粒、もぎ取って口に運んでいるのだった。よっぽど気に入ったらしい。
やっぱり、アブトゥに最初に声をかけて良かったじゃないか。なんとなくそう思いながら、アブトゥにつられるように、ペレスももう一粒、葡萄を口に運んだ。
慣れ親しんだ、それでも毎年感心するほどの甘さが、ひんやり口の中に溶けていった。味の確かさ、感触の新鮮さが、霧を巻き上げる日射しのように、心に浮かんだ儚さの幻影を地面にしっかり縫い止めた。この時間は確かにここにあり、積もっていくのだと。
もしかしたら、日を浴びた葡萄が日に日に熟して甘さを蓄えていくように、その甘さをため込んだ葡萄が次には樽の中で少しづつ醸されて味を変えていくように、こうした一瞬で過ぎていく時間も幾度も繰り返して積もっていくそのうちに、少しづつ違うなにかに向かっているのだろうか。一瞬のきらめきを重ねて詰め込んで、そうして結晶していく、硬質ななにかに。
そんなイメージがなんとなく浮かんだが、ペレスは心の中でかぶりを振った。
なにを、おかしな、突拍子もないことを。それよりも、昨晩やっとまとまった考察についてアブトゥにきちんと説明しなくては。
ペレスも椅子に深々とかけ、くつろいだ姿勢で心の中に昨晩の思考のあれこれを蘇らせていった。その思考を言葉にし、淀みなく湧き出させていく間にも、それにじっと耳を傾けるアブトゥの存在を、ペレスは目の端でなんとなく確かめていた。そして、ぼんやりと嬉しいような、安らかなような、浮き立つような、いくつかの相反するような不思議な気持ちを心のどこか隅に感じているのだった。