世界図

 商会がポルトガル王国と契約を結び、未開地の探査事業を初めて以来、商会の一室は地図の部屋と呼ばれていた。部屋には広々とした卓が置かれ、書き込み用の大きな地図が常に広げられていたからだ。地図は提督たちの報告をまとめ、探査の進み具合を記すためのもので、提督たちが探査から戻ったあとに報告書を作成し、商会主がそれを是認すると地図に記述がつけ足されていくのだった。
 ペレスはここ一月余り地図の部屋にこもるようにして地図を描く作業に没頭していた。
 商会にとって、すなわちポルトガル王国にとっての既知の世界がヨーロッパとその近傍に限られ、地図が未知の空白領域だらけだった頃は、大地の大きさがどこまで広がるのか、そもそも果てが有るのかすらわからなかった。探査が進むにつれて地図の書き足し分は早々に紙幅の限界を超え、外側に無規則にべたべたと紙を貼り足す羽目になった。そういう具合に最初の地図はたちまち混沌の怪物となったので、苛立ったペレスがさっさと書き直しを行なった。それ以降、提督たちの探査の結果が書きこまれ、雑多なメモや修正が書き足されていくに従って地図が乱雑で見づらいものになっていくと、ときどきペレスが地図を見直し、情報を整理して、新しい地図として書き直しをしてきた。
 今や地図に残る空白地域は全体の一割程度だった。世界の大きさはかなり正確な数値として把握できており、探査完了地域の書き足し分もそうそう精度が狂わないようになっている。しかし今度は、球の形をなしている世界の姿を平面の地図に落としこむことで避けがたく発生する歪みをどのように補正するか、という新しい問題も発生しつつある。
 なんにせよ、そろそろ作業用ではなく世界全体を正確に描いた完成版の地図を作製する準備をしなくては、とペレスは考えていた。探査がすべて完了し、空白領域が提督たちの報告ですっかり埋められたら、それをもとに正確な世界地図を作製し、印刷物として出版するのだ。世間の人々が世界の実像に触れられる、正確で安価でわかりやすい地図。ペレスはそれにふさわしい地図を描く構想に取り組みはじめていた。
 ……という必然はもちろんあるのだが、ペレスはそれが名目にすぎないことを十分に自覚していた。地図の作業に没頭していたのは、それ以外のことをあまり考えずに済んだからだ。それと、なによりも彼女と顔を会わせないで済んだから。
 アマゾネスの調査から戻って以降、ペレスはアブトゥとまともに会話をしていない。
 アマゾネスについてのごく簡潔な調査報告を提出はしたものの、ペレスは未だに自分の言葉では体験をかみ砕けてはいなかった。言語化しようと考え始めると、複雑な感情と様々な想念で頭がいっぱいになり、それらが雑然と積み重なって、ペレスの感情を余計に揺さぶる。結局、なにも言葉にならなかったし、ただ記憶を想起するだけでこれだけ感情が不安定になるので、アブトゥと直に顔を合わせてまともに言葉を交わす自信がなかった。
 ペレスは彼女にどう接していいのかわからなくなっていた。
 ミゲルと商会主と提督たちにはアブトゥが女性である件が明らかにされたが、アブトゥ本人はこれまでとなにひとつ変わらず、今も男性に見える身なりで活動を続けている。もとよりアブトゥは最初から性別を偽っていたことはなく、これまでも今もずっと同じふるまいを続けているにすぎない。商会のメンバーはアブトゥが女性だということを他の人間に触れ回るようなことはしなかったから、アブトゥは今も世間では男性として受け止められている。
 なんの問題があるのか、とペレス自身の理性は言う。もちろんそうだ。女性の提督なら商会にはマリアもいるが、今まで女性だからと彼女に特別な接し方をしたことはない。アブトゥも同じことだ。提督仲間として今までと変わらず接すれば良い。他の提督がそうしているように。
 頭ではわかっているのに感情が追いつかない。追いつかないというより追い越している。どれだけ考えても、合理的に解釈もできず、言葉にすることさえできない未整理の情報と感情の揺れが延々と湧き続ける。ペレスはアブトゥの目の前で自分がこのわけのわからない状態に陥り、おかしな言動をしかねない気がして、こっそり彼女を避け続けているのだった。
 しばらく地図の作業に打ちこんでいれば不調も落ち着くだろうとペレスは思っていた。実際、書き込み用の地図を直すと同時に完成版の地図を構想するという作業は手も頭も存分に使わねばならなかったから、作業に没頭しているときはただひたすら熱中していて他のことはなにも考えなかった。しかし、ふと手をとめて地図から身を起こした瞬間、たとえば休憩して食事を取るとき、目と身体を休めようと長椅子に伸びているときなど、アマゾネス調査の記憶が頭をよぎる。そのたびに同じ感情の動揺に見舞われる。
 それなのに、ペレスは地図を描きながら折節、アブトゥの意見を聞きたいと考えているのだった。報告のあった事物を書きこむかどうかの取捨選択や、図像の描き方や、見落としている記述や考察の指摘……声をかけても、きっとアブトゥは興味がなさそうにするのはわかっていた。いつもそうだ。それでもなんだかんだで話を聞いていて、じっと考えこんだあとでペレスが思っていない角度から鋭い指摘をしてくる。その指摘が欲しかった。そもそもあの落ち着いた静かな声を聞きたいと思っているのだった。
 本心ではわかっていた。地図の作業もただ逃避にしかならず、問題を解決することにはならない。これからもアブトゥを避け続けることはできない。どこかできちんと話をしなくては。関係を構築し直さなければ。
 地図の作業をしながら、まだこの世に現れていないまったく新しい世界地図のことを考えながら、それ以上に心の中で自分の葛藤のことを考え続け、一ヶ月もかかってペレスはやっと腹をくくった。

 地図の部屋に来てほしいとアブトゥに伝えてくれるようミゲルに言付けをして、おそらくそろそろアブトゥにその言付けが届いただろうという頃には、ペレスは落ち着かなく部屋をうろうろし始めた。地図を眺め、言いたいことを頭にまとめ、しかしすぐにその言葉がなにか間違っているような気がして不安になり、部屋に据えた資料棚から本を取るが、本になんらかの答えが書いてあるはずもないことはわかっていて、本をそのまま棚に戻す。そして地図を眺めて、最初に戻る。
 何度かそんなふうにうろうろして、ふと、飲み物の用意くらいしたらどうかと考えつく。厨房で茶を淹れてもらってこよう。話が長くなるかもしれないし、喉が渇くかもしれないし、茶があれば自分も心が落ち着くかもしれないし、茶を飲んでいるとなにかと間を持たせられるかもしれない……
 部屋から出ようと扉を開けたら、目の前にアブトゥがいた。
 あれこれ考えていたことの全部がペレスの頭からこぼれおちていった。まず一言目のあいさつ、それから……そのあいさつになんと言おうと思っていたのか、それすら浮かばない。
 アブトゥは、おそらく急に扉が開いたのでひとつ大きな瞬きをしたものの、いつもどおりに平静だった。言葉を失っているペレスの前で、アブトゥは淡々と呟いた。
「ミゲルから聞いた。お前が私に話したいことがあると」
 黒い瞳がいつもどおりじっとペレスに向けられる。ペレスはその視線を真正面に受け止めることができず、顔をそらした。そのままくるりと部屋に向き直る。
「ああ、うん、そうなんだ。その……まあ、入ってくれ」
 部屋に入ったアブトゥは、まず、部屋の中央にある大きな卓にちらっと目をやった。もう昼下がりという時間も過ぎ、部屋に差し込む日射しの色は濃い黄金に変わりつつあった。卓にはいつもの地図、いろいろな人の筆跡でさまざまな事物がこちゃこちゃと書きこまれて隙間がほとんどなくなった古い地図が広げられていたが、ペレスはその古い地図のそこここに書き直しのための付箋を貼り、古い地図のすぐ隣に半ば重ねるように同じ大きさの新しい紙を置いて、古い地図と同じ内容の付箋を同じ位置にどっさり貼りつけていた。しかし、その付箋の内容ももう半分以上は新しい地図に書き写され、海岸線の清書もほぼ終えた地図は、もうすぐ新しい作業用の地図として使えるようになるはずだった。
 ペレスは地図の卓の脇に小さな机を据えて、雑多な紙質の紙の束を乱雑に積み重ねていた。小山をなしているこれらの紙片には新しい地図の構想があれこれと書き連ねてあった。構想の紙で生成された山脈の周囲は、物差しやコンパス、鈍く黄色に光る真鍮のアストロラーベ、そのほかさまざまな観測や測量や製図の道具に取り囲まれ、その一角だけはこの部屋のなかでも目につく混沌の空間に仕上がっていた。
 アブトゥは興味があるのかないのか、じっとそれらを見つめているが、ペレスはそれらの地図の話ではなく、最初に言わなければならないと思っていたことをなんとか口にのぼせた。
「その、君に謝らなければならないと思って」
「謝る?」
 アブトゥが振り返り、ペレスを見据える。目を合わせるのは無理で、ペレスは叱られて気まずい気持ちになっている子供のように少し横を向いて、ぼそぼそと言った。
「えっと、まずは、その……君に怪我をさせてしまったことだ」
「怪我?」
「いや、その、アマゾネスの調査のとき、君は手を怪我して……」
 アブトゥは重ねて言われてもまだ怪訝な顔をし、少し間を置いてやっと思い当たったようだった。ペレスの心のどこかにずっと鋭く突き刺さっていたことであるのに、アブトゥにはどうやら記憶に残らない程度のことであったらしい。もはやどう言葉を連ねていいのか、あらゆることが迷走していると感じながら、ペレスは口ごもりつつたどたどしく続けた。
「いや、そもそも、まず君に礼を言わねばならなかった。救出に来てくれて、その……ありがとう。助かった。君がいなければどうなっていたか」
「礼には及ばぬ。私はさだめの流れに従い、なすべきことをなしただけだ」
 アブトゥの感情はいつものように読めない。ただ量るようにペレスを見つめてくる。きちんと話をしなければとどうにかその顔に目を向けたはずなのに、アブトゥの端正な顔をちらっと目にしただけでどうにも心の奥がきりきりと締め上げられるような気分がして、ペレスはまた目をそらした。しかし、目をそらしたところで彼女がまだ深い夜のようなまなざしでこちらを見ているだろうことはわかっていたから、あまり意味はなかった。
 ペレスは緊張を緩めようとゆっくり息を吐いたがたいして役に立たなかった。汗ばんできた手を握りしめて絞り出すように言った。
「その、君が言う、さだめとか、運命というもののことなんだが」
 アブトゥのほうは見ていなかったが、彼女はおそらくひとつ大きくまばたきをしただろう。ペレスは心を決め、顔を上げ、アブトゥの顔を正面から見据えた。
「君に救ってもらって感謝している。だが、その……それが運命であるという君の言葉にはどうしても首肯できない」
 アブトゥが鋭い視線でペレスを見据える。よく切れるナイフで切り込んでくるかのようだった。かろうじてそれを正面から受け止めた。ペレスも譲れなかった。
「君の思想は尊重する。君には運命の流れを悟る力があるのだという、君たち一族の考え方を尊重する。だが、運命がそうであるからといってそのために危険に身を投じることを私は肯定しない。私の危険を察知したからといって、君自身が危険のなかに飛びこんでくるというのは……それで君が私の代わりに危険に陥ったとしたら意味がない」
 アブトゥはほんのわずかに首をかしげ、目を細めた。それはなんとなく、猫が獲物をじっと見つめ、距離を測る様子を思い出させる仕草だった。だがアブトゥは気配をゆるめ、どこかからかうような調子で言葉を返してきた。
「そう考えるのであればお前が無謀を冒さねばよい。お前が危険に踏みこみさえしなければ、私とてわざわざアマゾネスたちの聖地に足を踏み入れる気はなかったのだからな」
 ペレスはますます汗がにじんできた手のひらに自分の爪が、跡をつけるほどに食いこんでいるのを感じていた。どう言ったら伝わるのか。そもそも伝えたいことがなんなのかすら頭のなかで混沌と渦を巻いている。準備していた言葉などとっくに消し飛んでいて、素手で、草むらに潜むほっそりして動きの素早い猛獣に向き合っているような気分だった。
「違うんだ。私が言いたいのはつまり……運命になんでもかんでも従うといっても限度があるだろうということなんだ。君にだって、君の意思でやりたいことも、やりたくないこともあるはずだ。君自身の意思で選ぶことができるはずだ。そうと決まっているから従うと君は言うが、運命と君が呼ぶなにかに殉じて君自身を投げうつようなことをしてほしくない」
 アブトゥは再びじっとペレスを見据えたが、それは先ほどの鋭さではなく、水底の深さを測るかのような見通すまなざしだった。しかしアブトゥはすぐに視線をそらし、呟くように言った。
「さだめの流れに逆らうことはできぬのだ、ペレス。流れが押し寄せるとき、お前も、そしてこの私も、この地上に生きる人間は皆、否応なく流れに従わざるを得ない。運命は人間の命の数々をすべてあわせたよりもずっと大きく、広く、強いもので、我々はそれに揺すられては積もっていく砂にすぎない」
 アブトゥはペレスに向き直り、穏やかな口調で言葉を続けた。
「だが、お前の言うことはわからぬでもない。船に乗っている間、ずっと考えてきた。船は自然の力に、風に波に軽々となぶられ、たやすく沈んでしまうような脆いものだ。それなのにこの頼りない容れ物で船乗りたちははるか遠くへたどり着こうとする。なにかを願って、ただ意志の力で自分自身を遠い願いに引き寄せていく」
 アブトゥは背をわずかに伸ばした。そうすると、彼女の声は静かな落ち着いた声のままなのに、部屋中によく通った。
「私も船乗りとしていくらか学んできた。お前が言うほど、私は私の意思をうち捨てているわけではない。私はお前がなにを見ようとするのか、どこに到達しようとするのか、知りたいのだ。そして、お前が私を信じるまで、私のことを理解するまでは、お前を死なせるわけにもいかぬ。これらは私の意思だ。私の意思が、お前の危地を知ったときその場所に私を向かわせたのだ。このこと自体が大きな運命の流れの中のささやかな一筋だと私は信じている。私が、私の意思でお前を死なせまいと考えるようになったこと、それ自体がな」
 ペレスはアブトゥの言葉を一つ一つ飲みこみ、反芻して、その結果、返す言葉をすっかり失った。手首に触れていた手のひらのあの熱のことを思い出した。あの熱さでペレスを引き戻すために、アブトゥは闇の奥底に駆け下りてきた。それが自分自身の意思で、なおかつ運命だったと彼女は言う。ペレスの中でまた、じりじり炙られるような、切ないような、奇妙な感情が波立ち滾った。その動揺にせき立てられ、ほとんど言葉になっていないような、うわごとのような呟きがこぼれた。
「だが、それでも私は……アブトゥ、君に、怪我も、危ない目にも遭わないでほしいと思っただけなんだ。君はそんなふうに失われるべき人間ではない」
 アブトゥは再びからかうような声音で返してきた。
「その言葉をそっくりお前に返すぞ、ペレス。お前こそすぐにお前自身の命を危険にさらす。お前の目は遠くを見すぎて手近なものを置き去りにする」
 ペレスは言葉につまった。うつむきがちに目を落とすと、自分が作業を続けてきた地図が目に入った。古い地図と新しい地図、そしてまだ形になっていない地図の種がそこに散らばっていた。アブトゥの、きびきびとよく動く長い指先が、地図を見つめるペレスの視界に滑り込んできた。その指先は地図の、ほんのわずかに残った空白をよぎっていった。アブトゥの声が静かに続いた。
「渡り鳥たちは遠くへ向かう心に駆りたてられて、どれだけ身体が痛めつけられても飛ばずにおれないかのように羽ばたいていく。お前も時々、渡り鳥みたいだ。だが、お前はそうした魂を生まれ持っていて、お前自身にもどうにもできぬのかもしれぬな」
 ペレスは顔を上げてアブトゥのほうを見たが、アブトゥの視線は逆に考えに沈むように下方に向けられていた。目線の先には彼女の指が、その指が置かれた新しい地図の、まだなにも書き込みされていない空白領域があった。
「以前、お前と話していて、お前のものの考え方は地図を広げるようだと思ったことがある。お前は最初からはるかに遠いものを目指していて、大きく地図を広げ、定まった目当てに向かって空白を埋めるように進む。それは、私が広い天空に満ちる星の大きな運行を見定め、流れの向かうある一点を見いだそうとするのとどこか似ている。同じことを逆から辿ってでもいるようだ。お前も私も、あるべきものがどの位置にあるべきかを考えている……」
 ペレスはふいに、アブトゥの言葉で、アブトゥに説明したいと思っていたこと、言いたいと思っていたことを取り戻した。彼女に伝えなければいけないことと、頼まなければいけないことがある。新しい地図を構想するメモの山とその周囲に広がる混沌に目をやって、ペレスは話し出した。
「私はこの一か月のあいだ、地図を書きなおしながら、新しい地図の構想を考えていた。商会の探査事業が完了したら、世界図の完成版を作りたいんだ。だが、世界は球体であるから、平面の地図にあらわそうとすると必ずどこかに歪みが発生する。多くの人が理解しやすい、使いやすい地図を作るためには歪みを平面のどこにどのように集めるか考えなくてはならない……私はそれをプラニスフェリウムという書物を参照に組み立てることにした。これはかのアルマゲストを記した古代の大学者が残した書で、曲面にあるものをいかにして平面に書き写すか、その理論や計算方法が説明されている」
 その書の写しは、先ほどペレスが部屋をうろうろしていたときに手に取って棚に戻した本だった。ペレスは棚の本に一瞬目をやって、その本や類書をめくって考えてきたことを確かめるように思い返した。
「ヨーロッパではこの本の存在は忘れ去られていた。私が参照したラテン語版は、何人ものアラビアやヨーロッパの学者たちが今は失われたギリシャ語の原典から訳しつないだ結果、現在まで伝わったものだ。もっともアラビアの学者たちはこの本を、地図を描くためではなく天体を描くための参考文献として扱っている。アラビアでは占星術が重視されていて、天の半球に位置する星々を扱いやすい平面に置き換えて表現する良い理論が必要だったからだ」
 ペレスの目はアストロラーベに移った。星の高度を見たり、動きや時刻を早見できる円盤だ。その名前はアラビア語から来ていて、もともとアラビアの占星術師たちが星を読むのに使っていたものを、ヨーロッパの航海者たちも便利な道具として使っているのだった。
「古代の偉大な学者たちは世界をまるごと捉えようとして、地上だけではなく天体にも注意を向けた。目に見え、測ることのできるものだけではなく、目に見えないものがどう動いているのかを思考し続けた。私の科学的思考の基礎となっている古代から伝わる理論の積み上げは、占星術の根源と同じものに行き着く。私が数式という科学的理論にのっとって作ろうとするこの地図も、君が星の位置を読み天体の運行から地上の運命を読み取ろうとすることも、はるか昔に同じ一つの根から伸びた別の枝葉ではないか……私はそれぞれまったく別のものだと思ってきたが、本当はとても近々としたものなのではないかと、最近そう考えている」
 この一月、ずっと考え続けてきた言葉が、やっと流れとなって、口から駆け下っていくようだった。今まで振り回されてきた恐れや戸惑いを全部振り捨ててペレスは喋り続けた。
「私は、私の基盤である科学的な思考や手法を捨て去る気はない。世界の法則はもっと精緻に明らかになるべきだという考えは変わらないし、君が言う運命というものをそのまま丸呑みに信じるようなこともしない。だが、私のやり方や視点からだけでは見えないものが確かにある。私の視野は君が言うように狭かったのではないか。そして、私が知らない別の世界の見方を君たちの一族が伝えてきたのなら、私は、私に見えていないものを君に教えてもらう必要がある。もっと広いところが見えるように、もっと大きい地図の枠が見えるように。君の助けを借りたい。君の視点から見えるものを教えてほしいのだ」
 アブトゥはじっとペレスの言葉を聞いていた。ペレスが一息にしゃべったあとで呼吸が足りず、思わず大きく息を吸うのもじっと見つめていたが、ふいに声を立てて笑った。
「どちらかではなく両方を、世にあるなにもかもを知りたいというのか。お前は本当に、頑固で知りたがりで貪欲だな」
 アブトゥの笑い声は今まで以上に澄んで美しいように思えて、ペレスはまた心臓がぎゅっと縮むような気がした。この感覚だけは、まったくどうしてそんなふうに萎縮を感じるのか、未だによくわからない。自分のおかしな動揺に狼狽えて黙りこむペレスに、アブトゥは柔らかい口調で続けた。
「それで良い。貪欲さは意志の強さの表れだ。遠いところを指して飛ぶ渡り鳥の群れの、先頭にある者の翼は十分に強く、目はずっと先のほうに向けられていなければいけない。どれだけ強い風を浴びても歪まず、まっすぐ飛べるようにな」
 アブトゥはペレスがこさえた構想のメモの山に触れ、指先でとんとんと山を叩いた。愉快そうな笑みがその口元にはっきりのぼっていた。
「お前が望むなら、そうすることがさだめであるならば、私はお前に助力を与えよう。あるべきものがあるべきように落ち着くまでは。お前が私のことを理解するまではどうせお前から目を離すわけにはいかないのだから」
 もう一度、ふっと声に出して笑って、アブトゥはその美しい顔をペレスにまっすぐ向けた。黒曜石の瞳には窓から差す日光が映ってちかりと瞬き、深夜の星空を連想させた。またもペレスは胸のあたりを刺し通されたような気持ちがしてアブトゥから目をそらした。
「ありがとう。その……これからもいろいろとよろしく頼む」
 心の奥底に漂う動揺を押し隠しながらペレスがぎこちなく右手を差し出すと、アブトゥは一瞬ペレスの手を見つめ、それから右手を出した。握りあわせたアブトゥの手は指先が少しひんやりとしているように感じた。先ほどからの緊張のせいでペレスの手のひらの熱が通常よりもだいぶ高くなっていたからだ。それでもペレスは、洞窟で手首にずっと触れていた熱を思いだし、心のどこかがいくらかざわついた。だが話すべきことを話した今は、一人で記憶の混沌に向かい合っていたときより心はずっと落ち着いて穏やかだった。
 ほっとしてなにか言葉を続けようとして、ペレスはいきなり盛大にむせた。喉がからからだった。咳きこみながら、飲み物の準備をやっぱりしておけば良かった、と思い出す。
「君が、来る、げほ、来る前に、お茶でも、用意しておこうと思ってたんだが……」
 アブトゥはにやりと笑った。
「手際が悪いな。お前には学ぶべきことがたくさんあるようだぞ」
 そう言いながら、咳きこむペレスの顔をのぞきこんで付け加えた。
「そもそも栄養が足りていないのではないか。血色が悪い。作業に根を詰めすぎただろう。茶よりも食事だな、それか気付けの酒だ」
 アブトゥは歩き出そうと一歩踏み出し、足を止めてペレスを待つように佇んだ。
「ロハスの店に行くか。ちょうどお前とは飲みながらゆっくり話ができないかと考えていた」
「今からか?」
 日没まではまだ時間があった。そもそもロハスは気まぐれだからいつ店を開けているかに定まった法則はなかった。アブトゥはまた小さく声を立てて笑った。
「多分、もう開けている。そんな気がする」
 また適当なことを。ペレスは鼻白んだが、アブトゥがこういうふうにものを言うとき、大体は彼女の言うとおりになる。しかし認めたくはないし認めようとも思わない。
「開いてなかったら別の店で君に奢ってもらうからな」
「では、ロハスの店が開いていたらお前が私に奢るということで決まりだな」
 分の悪い賭けに乗ってしまった、と一瞬だけ考えた自分が許せなかった。アブトゥの直感など当てずっぽうで言っているに決まっている。行ってみたら店が閉まっていることだって確率的にはまったくあり得るはずだ。
「よし、じゃあ確かめに行こうじゃないか」
 当たり前のようにアブトゥと肩を並べて歩き出しながら、ペレスは目の端で、彼女が口元に余裕綽々の笑みを浮かべているのを見た。癪だと思いながらも、その笑みの美しさにまた心のどこかが突き刺されたような気がして、この意味のわからない動揺も早く落ち着けばよい、きっとすぐ落ち着くはずだ、きっとすぐに、と何度も自分に言い聞かせた。