去来
狭い船室の一隅を頑丈な木のチェストが占めている。ペレスは中身を見つめながら、不服の気持ちをこめてこつこつとチェストの縁を叩いた。
収められているのは、甲虫を象ったスカラベと呼ばれる護符、毒蛇の姿をしたウラエウスと呼ばれる小さな神像、そしてアヌビスの天秤と名付いている天秤だった。いずれも古代エジプトの貴重な遺物で、繊細な金細工や宝石細工が施されていたから、しっかりした箱に収めて厳重に管理する必要があるのはわかる。しかしペレスにはそもそもこれらの品を船に積まなければならない理由がわかっていない。南極近くの海域の探査に向かうというのになぜこのエジプトの古い遺物を携えなければならないのか。しかし商会からはこの三つの品を必ず持っていけと指示が出ている。
いや、本当は気づいている。商会からの指示の後ろにはペレスにははっきり伝えられていない別の目的がある。
以前にペレスは、スフィンクスから語りかけられるという奇妙な夢を見て、それを何の気なしにミゲルにこぼしたのだが、おしゃべりのミゲルはそれをアブトゥに話したらしいのだ。そしてアブトゥはその他愛もない夢の話を予知だかお告げだかに仕立てたらしい。
おそらくそのせいで、商会は一時期、古代エジプトに関する遺物や伝説の調査を熱心に行なっていた。商会の指示に従ってペレスもエジプトの神話やら伝承やらの歴史記録を探し求めるはめになった。おかげで今持たされているこの三つの品が古代エジプトの神々にまつわる造形物であり、古代のエジプト人の死生観を表現したものであることはペレス自身が詳しく知っていた。
そういう品をなぜ南の果ての海に向かうのに持たせようとするのか。
以前アブトゥが見いだしたパピルス書と呼ばれる古文書は、若くして没した王の年代記の断簡だったが、そこにはウラエウスとスカラベとアヌビスの天秤が大きな船に載せられている絵が描かれていた。横に書かれた象形文字のなかにも海や船出について言及していると読み取れなくもない箇所があった。しかしその船の行く先はどこなのか、なんの目的で船出するのかといったことはパピルス書には記されていなかった。
ところがミゲルが言うには、はるか昔、このパピルス書に記された年若いファラオは海で難破し、人魚に助けられたのだという。ファラオは彼女に再会することを願って南海に船出を企んだが、望みを果たせぬまま病を得て死んだのだと。どこから拾ってきた伝説かおとぎ話なのかと思えば、アブトゥがパピルス書を見てそんなことを感じとったのだと言う。
ばかばかしい話だった。アブトゥはこうした彼の独特な感性によって生み出された空想を真実だと信じこんでいる。だがペレスは学者だ。思いつきに逐一つきあってはいられない。
事実としてペレスが把握しているのは、スカラベはエジプトのはるか真東のジパング、ウラエウスははるか真西のカリブ海の小島と、それぞれかけはなれた遠方で発見されたということだ。アヌビスの天秤もまた、一度失われた後に再び北欧で発見された。
東と西、それから北。残っているのは南。そう考えることはできるだろうが、それとてあまりに恣意的と思えた。
そういうわけで、本当のところペレスは、南の極海の探査に貴重な遺物を三つも携えていく根拠が乏しいことにまるで納得がいってなかった。まして、これらを管理するために船室の貴重な空間が奪われて、資料や書き物を置いておく隙間がより減らされるとあっては。とはいえ船はすっかり出航の準備ができている。こんな段階に至ってもなおぐずぐず言いつのるつもりはない。諦めてチェストの蓋を閉め、錠をかちりとかけたところで、部屋のドアがノックされた。出てみると水夫が、アブトゥ提督がお見えです、と言った。
アブトゥは静かにやってきて、空気のようにすっと部屋に入ってきた。いつものように観察するかのようにペレスを見つめる。感情の読めない整った顔で、深い黒色の瞳で無言で見つめられるとどうも居ずまいが悪い気分になるのだが、毎回のことなので慣れてきていた。しかし、アブトゥが出航直前にわざわざペレスの船を訪れるのは初めてだった。ペレスは、アブトゥはあのエジプトの遺物についてまたなにかしらくだらない妄想をしゃべりにきたのではないかと心密かに警戒した。
しばらく見つめた後でアブトゥはやっと口をひらいた。
「十分に気をつけていけ。お前の向かう南の極海は、北の極海と同じく、冷たい大気と海水に満ちた場所だ。極海の冷気は人間の存在を拒む。ちょっとしたことが命取りになる」
予想とは違うことを言われてペレスは言葉につまった。なんとなく調子を狂わされたような気がして、ぼそぼそと返す。
「ああ、まあ、もちろんだ。北の極海については、そう、君のレポートを読ませてもらった。君がいろいろ書いてくれていたように、極海が危険の多い海域であることは念頭に置いている。寒冷地の航海に慣れている船員を何名か雇い入れて、彼らの意見も聞きながら探査計画を組んだ」
アブトゥは小さくうなずいた。
「それがいい。寒さに馴染んで生活している者たちの意見は、極海の航海では重要だ」
アブトゥは船窓に目をやった。分厚いガラスのはまった小さな丸窓の外は明るい日射しが満ちていて、船室をほの明るく照らしていた。
「なにより、長旅になる。身体に気をつけろ。必ず無事に戻れ」
アブトゥは船窓から目を戻し、またペレスをじっと見つめた。常のごとくペレスには彼の意図も感情も読み取れなかった。誰に対してもそういうふうなのだが、アブトゥはなにかを見通すようなまなざしを無言でひたと向けてくる。彼の視線の圧にはいくらか慣れたはずだったが、やはりどうも人の心を落ち着かなくさせるところのある人物だと思った。
とはいえ、アブトゥが裏表のある人間ではないことはよくわかっているのだから、素直に受け取っておくべきではないか。ペレスはそう考え直した。極海の航海を知るアブトゥがこうしてわざわざ警告したということは、気を緩ませるなということなのだろう。
「助言に感謝する。備えたとはいえ、自分でその場に立ってみないと危険への鋭い感覚はなかなか身につかない。極海に入ったら慎重な航海を心がけることにしよう」
アブトゥはうなずき、くるりと背を向けた。
「では、またな」
背中越しに声がしたと思うと、アブトゥは風が抜けていくようにすっと部屋を出ていった。
本当に気をつけろと言いにきただけだったのか。てっきり、あのエジプトの遺物のことやら、ファラオの霊やら、スフィンクスのお告げやらの話を持ち出されるのかと思ったのだが。
ペレスは拍子抜けした気分で、おもわず椅子にすとんとかけてしまった。しかしアブトゥがわざわざ助言しに来てくれたことには気持ちが和らぐのも感じていた。なにせ内面を伺わせない人間なので向こうがどう思っているのかはわからなかったが、ペレスはアブトゥに対して敬意と親近感を抱いている。己の空想に固執するところだけはひどい欠点ではあったが、空想に関わること以外では理知的で、アブトゥはいつも黙ってじっとものごとを見つめ、時宜を得たときにだけ慎重に語り、ことを為すのだった。
彼の空想も、内容こそくだらない作り話であっても、そこにはしばしば示唆に富んだ新しい視点が垣間見えることがあった。ペレスが学んできたものとはまったく別種の知恵の体系で、アブトゥは思考しているようだった。
興味深い人物だった。ペレスは、彼と対話することによって自分と異なる視野に触れることをどこか楽しんでいるのだった。
ほどなくして水夫長と航海士がやってきて出航の可否を尋ねられた。陸から沖に向かう風があるが海は穏やかで、よく晴れた、文句のない天候だった。すべての準備が整っていることを確かめてペレスが出航を告げると、鐘が打ち鳴らされ、水夫たちは持ち場に走り、忙しなく動き始めた。すぐにもやい綱が解かれ、帆が広げられる。
ペレスは甲板に出て、水夫たちが滞りなく動き回るのを確認しながら、船着き場が次第に離れていく様子に目をやった。すると、少し離れた岸壁にアブトゥが一人たたずんでいるのが見えた。岸壁とはもうかなり距離が開いていて、アブトゥの表情はわからなかったが、彼のまとう長いローブとターバンの端が吹く風にはためいているのがかろうじて確認できた。手を振るでもなく、アブトゥはただじっと立ってペレスの船を見送っていた。
航海は順調だった。リスボンを出たあと、船はほとんど寄り道もせず迅速にアフリカ西岸を南下し、喜望峰を超え、アフリカ最南端のアガラス岬を過ぎた。
アガラス岬の沖へとさらに南下していくと難しい海域に入った。海域には強い潮流があって思うように進めない。高緯度のこの地域は風も強く、帆や索具がすぐに傷むうえに、海には氷が浮いて船体を削っていくことすらあった。空気も、ポルトガルの夏とはまったくちがう冷涼な空気がずっと漂っていた。これでも南半球は夏の始めで、天候は一年のうちではもっとも穏やかな季節なのだった。
ペレスはだいたい自分の船室にいた。外が寒かったせいもあるが、揺れにもめげずに論文に取り組んでいたためだ。いつでも研究対象はたくさんあり、疑問点も考察も論理構成もたくさん浮かび上がってくるから、少しでも執筆を進めていきたかった。今は、せっかく集めたばかりの古代エジプトの資料の内容をまとめる作業にかかっているところだった。
だが、すぐに書き上がるだろうと思ってとりかかった執筆は難航していた。
古代エジプトの遺物の多くは墓として見いだされている。古代エジプトの人々は、高貴であればあるほど巨大な墳墓を築き、そのなかに多くの副葬品とミイラ化した遺骸とを収めることに熱心だった。このような埋葬の形態は、古代エジプト人の死生観に基づいて形作られたものと思われた。彼らは人間には魂があり、死後、その魂は生前の行いに基づいて裁かれ、神の試しを経たあとで肉体を取り戻して楽園に生まれ変わるのだと信じていた。死したあとも肉体を保たなければ楽園に暮らすことができないというのが彼らの考えであったらしく、墓から見つかるミイラや副葬品はそのためのものだった。資料を追いながら、ペレスは魂に関する概念に注目したが、古代エジプト人は魂について壮大で複雑な概念を持っていたようで、初めはなかなか理解がおいつかなかった。魂に関する記述を探して文献や調査報告を辿っているとき、しばしば目にとまったのは、アブトゥが書いたレポートのメモや考察だった。アブトゥの記述は具体的で生き生きとしていて、ペレスが古代エジプト人の観念を理解するのに大いに助けにはなったが、どれも出典資料の記載がなかった。どうやらアブトゥは出身の一族の伝承や本人の内省をもとに、古代エジプトの宗教感を考察しているようだった。
彼の一族の文化には古代エジプトの神話や信仰文化と共通する要素が多かった。古代エジプトの死生観がなんらかの形でアブトゥの一族に伝わり、未だに彼の一族の間では生きた信仰としてつながれているのかもしれない。すなわち、アブトゥ自身が持つ信仰や世界観の概念には古代エジプトの人びとと似た感性が生きている可能性があるということだ。
そう考えれば、アブトゥが一連のエジプトの調査に関わって残したコメントはすべて、当事者に近い視点として参照すべき情報なのかもしれない。だが、内容としてはやはり、あまりにも荒唐無稽としか言いようがなく、論文で扱いづらいことこのうえなかった。そもそも「星々に尋ねると」などというコメントが堂々と書いてあるのだ。こんな情報をどう扱ったら良いものか。ペレスは書きながら頭を悩ませ始めていた。
行き詰まって、ついにペレスは資料と紙とペンとを放り出した。判断に迷い始めているときは一度距離を置いてみた方がいい。それに、少し休憩も要る。
長いこと机にかじりついていたせいで固まった背骨を伸ばしながら、ペレスは部屋を出た。
夜遅い時間にさしかかっていて、星が空を満たしていた。よく晴れていたが空気は冷え切っていた。この地域はすでに夏に入っているのに、リスボンの晩秋よりも寒いくらいだった。
肌寒いとは言え、珍しいことに風は穏やかで、海は鏡のように凪いでいた。空気が澄み切っているせいか、星の光は冴え冴えとして、目に刺さるような鋭さできらめいていた。アブトゥのレポートの記述が思い出された。
(星々は天の高くから、地上の運命がどこに向かって流れようとしているのかを見つめている。夜ごとに音にならぬ声で、星々はその行く末のことを囁き交わしている。だから地上にあっても、その声を聞ける者にはいくらか運命の流れを読むことが可能なのだ)
なんでも星が見通したことだと言い切れるならば、ちまちまと資料を集めて論拠を取り出すような手間は一切不要で楽ではあるな。ペレスは皮肉めいてそう考えた。しかしペレスは主観によって事実を歪めて受け取ることをしたくないし、するつもりもなかった。そもそもペレスには星の声など聞こえない。聞こえないのだからペレスにとってはそんなものは存在しない。存在しないものを論拠に他人に説明できる事実などない。やはり、アブトゥの、典拠のよく分からない主観的なメモの記述は参照情報からは省くことにしよう……。
どん、と、船の脇腹のほうでなにか音がして、船がかすかに振動するような感触があった。見張りが大声で、注意!と叫ぶ。
血の気が引く。油断していた。流氷を見落としていたのか。思わず船縁に寄って海面を見るが、海氷がそこらに浮いている気配はなかった。船内でも音に気づいたのか、何人かの水夫が甲板に上がってきて、ペレスと同じように船縁にとりついたが、これといったものが見当たらず、首をかしげている。
他に可能性は、たとえば流木とか、鯨……
ペレスが、近くにいた水夫に向かってそう口にしようとしたところで、船はもう一回、今度は大きく突き上げるような衝撃に襲われた。なにか固形物に当たったというより、突然に大波が船腹にぶち当たってきたというような感触だった。凪だったはずの海が大きく盛り上がる。そのうねりに翻弄されて、船は木の葉が舞うように大きく左右に傾いだ。
ペレスは船縁にしがみついた。あまりに急なことで、それ以外のまともな対応が取れなかった。なにが起きているのか、どう対処すべきか。考えようとしたが情報が足りなすぎた。もう一度、船は波に捕まり、高みに持ち上げられ、落とされた。ペレスは船縁に両腕で必死にしがみついていたのに、巧みに腕を解かれたような感触を覚えた。支えがなくなったペレスの身体は船の揺れで頼りなく浮き、空中に放り出され、そのまま海に落下した。
身体が海面を打ち、深くまで沈みこむ。
前にもこんなことがあった、と思ったが、今回は極海なのだ。氷が浮くような冷たい海に落ちれば人の身体はすぐに熱と活力を失う。アブトゥのレポートに書かれていた、北海の漁師の経験を持つ船員への聞き取りが頭によぎった。ある漁師が落水し、船に引き上げるまで二十分ほどかかったが、その間に落水者は海の冷たさに意識を失い、引き上げても息を吹き返すことがなかったと……。
早く船に上がらなければ。
夜とは言え快晴で星明かりもあった。甲板にはたくさん水夫たちがいてペレスの落水を目にしたはずだ。海面に浮き上がりさえすればきっとすぐに見つけてもらえる。泳ぎは不得手なペレスだったが、一度落水を経験してからは、水夫たちに教わって、迅速に海面に浮き上がる身のこなし方を練習はしていた。
だが、強い潮の流れがペレスを下に下にと押しこんでいく。あの不可解な大波が続いているのか、なんの判断もつかないが、とにかく浮き上がることができない。周りは真っ暗闇だった。潮の流れに翻弄されて空間の認識が狂い、上下左右がわからなくなりかけている気がした。それでも力を抜き、背浮きの体勢になれば自然に浮いていくはずなのだが、身体がこわばってうまくいかない。焦って息を吸いそうになって、違う、と慌てて逆に吐き出す。口から空気が大きな泡となって吐き出された。焦るなと思うほど逆に焦る。絶望が急速に心を満たしていく。
だめだ、これでは。浮き上がらなくては。私はここで死ぬわけにはいかないんだ。無事に戻れと、そう言われたのだから。
どこかに手を伸ばそうともがいた。
そのとき、ふいに暗い水の帳の彼方から、ほんのり光るなにかがペレスに向かってくるのが見えた。
見えた?
真っ暗闇で、しかも水中だ。目を開けてもなにかがはっきり見えるはずはない。だが今、ペレスには、海の奥から昇ってくるなにものかの姿がはっきり見えているのだった。
それは人間より一回り大きいくらいの海獣の群れのように見えた。銀色に柔らかく光るものたちが十近くも、イルカのようなしなやかで力強い尾鰭を振って水中を駆け上ってくる。だがその上半身はいずれも人の姿をしていた。ほっそりした腕をペレスに向かって差し伸べるように広げ、長い薄い色の髪を海水にたなびかせ、穏やかなまなざしを向ける、それは皆、美しい乙女の姿をしていた。
ひとりがペレスに近づき、目をじっとのぞきこんだと思うと微笑んだ。
「来てくれたのですね、若き王よ、砂の国からはるか離れたこの春の海まで」
水中であるのにもかかわらず、ペレスの耳には娘の声がはっきりと響いた。
娘が手を差しのばしてペレスの頬にそっと触れた。娘の肌は真珠か雪を思わせて、内側から柔らかい光を放つように見えた。娘の指はひんやりとしていたがその感触は心地よかった。気がついてみると周囲の水は少しも冷たくはなかった。春の大気のような穏やかな暖かさにくるまれているのだった。
娘はペレスの頬に手を添え、ひたと顔を見つめた。
「若き王よ、ついにあなたの想いが届きました。長い時間をかけて、ここまで……」
そしてペレスの手を取り、なにかを包ませた。手のひらに収まる大きさの、海の色に透きとおる青い宝玉だった。
「私の想いを持っていってください。この石を私だと思って、ずっとずっと大事にしてください」
ペレスの心はふいに、今までに覚えたことのない感情でいっぱいになった。切望と歓喜と愛惜が入り交じる、名付けようのない強い感情だった。目から涙が溢れだすが、どうにもできなかった。まるで涙を拭うように、娘はもう一度ペレスの頬に軽く触れた。
「愛する人よ。想いがあるのならばいつかは必ず逢えるのです。魂が世界を巡るうちに、年月の巡る果てに、何度でも、また」
ペレスは、自分が手を伸ばし、娘が自分にしているのと同じように娘の頬にそっと触れているのに気づいた。そうしようと思ったわけではなかった。気がついたら手が動いていた。心のどこかで、自分ではないなにかが、ただ愛しさだけをこめて娘の顔をじっと見入った。
娘は微笑んでペレスの手に自分の手を重ね、愛しげに頬をすり寄せた。真珠の肌に曙光のような温みのある色が差していた。暖かい春の夜の、花のにおいに満ちた大気にどっと包まれたような気がした。
「ペレス船長! しっかりしてくだせえ!」
ペレスは目を開いた。まずランタンの明かり、それから周囲でペレスを取りかこむ何人もの水夫たちの姿が目に入った。ペレスの名を大声で呼んだのは、ペレスの間近にかがみこむ水夫長だった。
反射的に上半身を起こそうとする。船の甲板に横たわっていたのだ。ペレスが身動きすると、水夫たちから安堵のため息が上がった。
ペレスは上半身を起こすと、頭を小さく振り、目をしばたたかせた。髪は濡れ、目は海水でいっぱいだった。気がつくと全身ずぶ濡れなのだが、毛布が体中にぐるぐる巻かれていて、寒いという感じはなかった。なぜか右手を固く握りしめていた。開けてみると青く透きとおる丸い宝玉があった。
数秒、ペレスは押し黙って自分の記憶を反芻した。落水して、そして……なんだったんだ、あれは。人魚。人魚と言葉を交わしただと。そんなはずはない。そんなことがあるはずがない。なにかの見間違いだ、きっと溺れかけて見た幻覚に決まってる。だが、水中に落ちてからの記憶は確かで、現実の感触があった。人魚が語った言葉も、なぜか自分の心が別人のもののように動いたことも、なに一つ忘れていなかった。そして人魚が手に握らせた青い宝玉は今、実際にペレスの手のひらで硬くひんやりときらめいていた。
「大丈夫ですかい?」
水夫長が心配そうに尋ねてきた。ペレスはまだ困惑から抜けきっていなかったが、なんとか呟いた。
「ああ、いや……大丈夫だ」
思わずほっと大きな息をついた。水夫長が、口ごもるような、言い出しにくそうな感じで話しだした。
「あのう、お伝えしたほうがいいのかわかりませんが、その、船長が落水したあと、慌ててみんなで船長のことを探してたときに、変なものを見たんです」
ペレスが思わず顔を上げ、水夫長を見上げると、水夫長はぐっと続く言葉を詰まらせた。
「変なものとはなにかね。続けてくれ」
「いやその、船長はきっとそういうものはお信じにならないでしょうけど、その……人みたいに見えたんで。イルカでも、アザラシでもない、きれいな白い腕が二本あって、長い髪の毛をなびかせて、若い娘っこにしか見えないのに腰から下は魚の尾っぽになってて……人魚、って言えばいいんですかね。それが海の中から船長を抱えて浮き上がってきたみたいに見えたんです。暗い海のなかで、そいつは少うし明るく光るようだったんで、みんな、船長をすぐに見つけることができて」
普段のペレスだったらたちまち水夫長の言葉を否定にかかっていたはずだった。しかしペレスは反論の言葉を叩きつける代わりに自分の手のひらに握りこんだ宝玉を見つめた。自分ひとりなら幻覚にすぎなかったかもしれない。だが客観的な証拠が複数あるのなら……。
いや、とペレスは頭を振った。落水し、意識を失って、そこから覚醒したばかりだ。今の自分は論理的に物事を考えられる状況にはない。
「……それについては……そうだな、後で聞かせてもらう。少なくとも大波のことは忘れずに航海日誌に記述しておいてくれ。とりあえず目先の行動としては、船に損傷がないか確認次第、予定の航海を続けることにしたい。航海が再開できるよう準備にかかってくれ」
へえ、と水夫長は拍子抜けしたような顔で答えた。
その後はなにごともなく予定の探査は完了した。リスボンまでの帰途もまったく順調で、帰りの船のなかでペレスはこの探査航海の報告書をまとめた。ペレスが落水したときに手に入れた宝玉以外にはこれといった発見もなく、ペレスや航海士たちがつけている航海日誌は淡々としたものになったが、落水時の記述についてだけは、ペレス自身が水夫達に聞き取ってかなり詳細に記した。あの海域であんな突然の大波がよく起こるようであるならば注意しなければならないからだ。
ペレスは大波の発生状況について船員たちに聞き取るついで、人魚の目撃情報についても聞き取り、律儀にすべてを記載した。あのとき甲板に出ていた水夫たちは全員が水夫長と同じようなことを証言した。加えて、ペレスを水から引き上げた者たち数名は、海水が風呂の湯のように温かかったと言った。しかし、突然の大波と、直後に観察されたいくつかの現象がどう結びついているのかはまったく推論が立たず、起きたことをそのまま記述するのがせいぜいだった。ペレスは航海日誌の最後にまとめとして、大波の原因及び詳細は一切不明であるが注意されるべし、と記すしかなかった。
リスボンまで戻ったペレスが調査報告書を提出すると、ミゲルはすぐさま目を通して喜んだ。彼は人魚に関する記述にいたく感興をおぼえたようだった。
「人魚たちは本当にいたんですね! 本物の人魚と会えたなんてうらやましい!」
興奮気味に話すミゲルにペレスは淡々と言った。
「暗い海での話だから、見間違いと考えるのが妥当だ」
「ええー! 教授ご自身も水中で人魚から宝玉を受け取ったと書かれているじゃないですか」
「その部分に関しては、低温の海中で溺れかけたために幻覚を見ていた可能性が限りなく高い、と注釈を入れておいたはずだ。見落としたのかね? しかし幻覚とはいえ自分がそんなおとぎ話のようなことを夢想したと考えると、正直、自分自身に落胆しているんだ」
ミゲルは訝しむような目線をペレスに向けた。
「どうなんですかねえ。私は人魚は実在するって信じますよ、青い宝玉が証拠じゃないですか。人魚の想いがこもった宝玉がペレス教授に託されただなんてすてきな話ですよ」
「君の好きなように考えたまえ。だが私はあくまで合理的に考えたいのだ。後から調べたらあの大波が起きた海域はかなり浅かった。この石も、溺れかけて海底近くに沈んだ私が、必死でもがいたりするうちにいつのまにかつかみ取ったのだと……」
続けようとして、ペレスは言葉を淀ませた。確かに海域は浅かったが、海底まで三十ブラサは深さがあった。そうでなければ大型の帆船で航行などできない。しかし、海に放り出された自分がそんな深さの海底まで沈んで、海底にあった宝玉をはずみでつかみとり、無事に海上まで浮上した、などと考えるのは無理がある。
「……いや。ちがう。私は、私自身がひねり出した理屈にまったく納得していない」
思わず呟いたが、小さな声だったのでミゲルは聞き落としたようだった。ミゲルは申し訳なさそうに切り出した。
「ところでペレス教授。お戻りになったばかりで申し訳ないんですが、また調査をお願いしたい案件がありまして……実はエジプトで、今まで知られていなかった埋もれたお墓が発見されたみたいなんですよ! ですので、ぜひ教授に調査していただきたいんです」
妙に熱意をこめて依頼してくるミゲルに違和感を覚えつつ、ペレスは返した。
「私でなくてはいけないのかね? 他の提督でも立派に調査ができると思うのだが……調査地がエジプトならアブトゥも詳しいはずだ」
「いえ、ペレス教授には以前、古代エジプトやファラオの墓についていろいろ調べて頂きましたからね、うちの商会のなかではペレス教授が一番お詳しいと思うんです。ぜひ専門家の目線で観察していただきたいと!」
ミゲルはどこか目を泳がせながらも熱心に言いつのる。ペレスはミゲルの言葉の白々しさに気づいてはいたが、調査対象が古代エジプトの王墓ということならば自分かアブトゥあたりが調査に行くのが妥当だろうと判断はついた。そして、アブトゥが調査に行くと、またぞろ死者の魂とかそんな胡乱なことをレポートに書くに決まっているのだから、ここは自分が行かなくてはならない。
「まあ、私が調査を引き受けることに異論はない。エジプト関連調査の締めくくりとして」
ミゲルはあからさまにほっとしたようだったが、さらに言いにくそうに言葉を続けた。
「それで、その……ミゲル、もしかしたらそのお墓に葬られているのは、パピルス書に出てきた、若くで亡くなった王様なんじゃないかって思うんですよね。だからペレス教授、そのう……報告にあった青い宝玉をお墓に一緒に持っていってほしいんです。ただの、その、記念に、っていうか……」
ミゲルの言葉はだいぶしどろもどろだった。彼の説得力のない物言いにはアブトゥの影を感じた。この調査に関する指示は、ほとんどアブトゥがミゲルに言わせていることなのだろうとペレスは密かに考えた。癪に障りはしたが、どういうわけか本気で腹が立つような気分にはならなかった。ミゲルもアブトゥも困ったものだと思いはしたものの、彼らを非難する気にはならないのだった。
「……わかった、わかった。宝玉を持っていくことにはなんの意義も見いだせないが……」
ペレスは再び言葉を淀ませた。私は嘘をついている。もしその墓がパピルス書の王のものであるなら、必ずこの宝玉を携えていかねばならないと、私自身がそう感じている。
ペレスが把握している情報を突き合わせて構築される論理からすれば、パピルス書の王と南の極海で手に入れた宝玉とを結びつけるものはなにもない。この二つを結びつける情報はごく曖昧な物語しかなかった。ミゲルが語った王と人魚の物語、おそらくはアブトゥがこしらえたのであろう妄想と、ペレスが宝玉を入手したタイミングで見た幻覚、これだけだ。そこに客観性と言えるものはなにひとつなかった。それなのにペレスは心のどこかで、自分に青い宝玉を渡した人魚の存在と彼女の言葉を信じているのだった。
いや、いや。なにを考えているんだ。自分の知性の一部があまりに雑然と散らかっていることに嘆きのため息をつきたい気持ちを押さえて、ペレスはミゲルに告げた。
「まあ、宝玉についてはしばらく手元に置かせてもらって暇があるときに分析するつもりでいるから、王の墓の調査に行くときも携えていくことになるだろう。だが、目的はあくまで古代エジプトの墓の調査だ。君のロマンチシズムを満足させるようなおとぎ話みたいなことはなにも起きるはずがない。おかしな期待はしないように」
釘を刺されているというのに、ミゲルは安心したように、嬉しそうににこにこうなずくのだった。
ペレスが向かったのは、カイロの街からナイル川を一週間かけて遡ったところにある谷間だった。谷間自体も風の音だけが吹き抜けるような寂寞とした土地だったが、そんな谷の片隅にぽっかり暗い口を開けた墓は、ひっそりと静かで、時が止まっているように思えた。
案内人には外で待ってもらい、ペレスはひとり墓の入り口をくぐった。それほど長くはない玄道を進んで二、三の室を過ぎると、もう墓の再奥の玄室にたどり着いていた。
玄室には副葬品が所狭しと並べられていた。貴金属や宝石で飾られた財宝から、王の死後の生活に必要と考えられていた生活用品、乾ききった弔いの花束すらあった。すべてがせいぜい数ヶ月前に置かれたかのように見えたが、もはや数千年を経ているはずだった。静かに降り積もった埃と砂の厚さだけがその年月の証だったのだが、先行隊によって積もっていた埃は丁寧に払われていたので、ランプを動かすたびにその弱い光を受けて、暗がりに金や宝石が浮かび上がり、鈍く重い輝きをはじき返した。
玄室の真ん中には見事な細工の施された棺が鎮座していた。棺は何重にもなっていたが、これも先行隊の作業によって、最後の棺、黄金の仮面をかぶった人の形の棺があらわになるところまで開封されていた。
棺にかがみこんで間近に黄金の仮面を見た途端、ペレスは妙な既視感のあるめまいに襲われた。見たことがある。なぜかそう思ったが、どこで見たのかは思い出せなかった。集めた資料のなかに、この仮面の外見を記録した絵でもあったろうか……。
気を取り直してペレスは慎重に棺や仮面を調べはじめた。仮面は金とラピスラズリで飾られたこのうえもなく豪華な代物で、少年といえるほどの若々しい男の顔を象っていた。棺の蓋に古代エジプトの文字で王の名を刻んだ箇所が見つかった。その象形文字のかたちはパピルス書に記された王の名とぴったり一致していた。
そうか、やはりあの王なのか。彼の亡骸が、今、目の前にあるのか。
妙な感慨が湧いた。ずいぶん長いことこの王にまつわる事物の調査を行なってきたのだと思った。ペレスがおかしな夢を見たことでアヌビスの天秤というキーワードが浮かび上がり、古代エジプトの資料の調査をする羽目になり、やがてパピルス書の発見があって、若い王の年代記が明らかになり……いや、もっと遡れば、商会で提督として雇われ始めた頃にピラミッドの測量調査を行なったのが、エジプトに関する調査の始まりだったかもしれない。ピラミッド調査でペレスは熱中症にかかり、ミゲルが呪いなどと騒ぎだして、ペレスはシャーマンの館に向かわされた。
そうだった、アブトゥと出会ったのはそんなきっかけだった。考えてみると、アブトゥが遠く海にまで出ることになったのもこの若いファラオがきっかけと言えるかもしれない。アブトゥの弁によれば、ペレスの体調不良は「若くして死んだファラオの妄執が呪いとなって魂を病ませている」ということだったのだから。そしてペレスにその言葉を否定されて腹を立てたあまりに、ペレスを追ってリスボンまでやってきたのだから。
妄執か。ふとペレスは、携えてきていた青い宝玉のことを思い出した。
鞄の奥深くにしまっておいた宝玉を取り出す。
どうするつもりなのか?
ペレスは自問自答した。この宝玉をどうしようというつもりで取り出したのだろう。だが、そうするのが当たり前のように手が動いて、黄金の仮面をかぶって横たわる王の胸元に、宝玉をそっと置いた。
石のかすかな重みと硬い感触が指先を離れると不思議な感覚があった。蓮の花びらの一枚が落ちたような、大きなひとひらが身体からはらりとはがれ落ちたような感覚だった。なにかが終わったような、責任を下ろしたような、寂しさと安堵とが胸にじんわりと湧いてきた。ペレスは不思議な感覚に囚われたまま、しばらく王の遺骸の収められた棺を見つめた。それからふと我に返った。
なんだ、この感傷は。私はただエジプト関連調査の一環でこの墓を調べにきただけだ。特別に感傷を抱くようなことはなにもないじゃないか。そう思考すると同時に記憶が蘇る。春のように暖かい海で、恋慕う娘の顔を間近に見つめ、その手を取り、互いの頬に触れあった記憶が。
いや、あれは幻覚だ。自分は幻覚の人魚に恋なんかしない。あれは自分の感情ではない。
では一体、誰の感情だというのか?
ペレスは眉間に皺を寄せて小さく頭を振った。なにを考えているんだ。幻覚や妄想に理性をこうまで乱されるとは。冷静にならなくては。
王の遺骸から宝玉を取り、丁重に鞄にしまいこむと、ペレスはさっさと気分を切り替えて棺と墓室内の遺物の調査とにかかった。
王墓の調査を終えたペレスは、さすがに自分がかなり疲弊していることに気づいた。リスボンから南の果てまで行って帰ってきて、そのあと間髪入れず地中海の奥地に向かい、王墓の調査活動にいそしんだのだ。しばらく骨休めをしてもいいのではないか。ミゲルからはさしあたり仕事を頼む予定はないと聞かされてもいたので、ペレスはアレクサンドリアにある商会の支所にしばらく滞在して、自分自身の研究活動に没頭することにした。
そこに唐突にアブトゥが現れた。
ペレスが滞在している邸宅はアレクサンドリアの商人の別宅を商会が借り上げたもので、いくつも部屋がある大きな屋敷だった。商会の支部としてだけでなく提督の宿舎としても利用されていたので、商会からエジプトやアラビア方面の仕事を任されたのなら、アブトゥが邸宅に滞在するのも不思議はない。しかし彼は十日ばかり経ってもこれといった仕事をしている気配がなく、街に出かけたり自室で薬作りをしたりとのんびり過ごしていた。
ペレスも自分の研究活動に勤しんでいる身だから文句が言えた義理ではなかったが、勤勉なアブトゥにしては珍しいように思えた。どうもおかしいという感覚はここ一連のエジプト調査でずっと感じさせられてきたことだ。エジプト関連調査についてはすでに報告書をまとめ上げてすっかり片がついたと思っていたのに、アブトゥはまだなにか企んでいるのか。
エジプトの調査にまつわるアブトゥの行動や態度についてあれこれ聞き出したいと思いながらも、なんとなく癪な気分もあり、ペレスは自分からはなにも触れずにいた。すると、アブトゥのほうからペレスに声をかけてきたのだった。
午後も半ば、日射しがはかなげな黄金色になる頃合い、ペレスが部屋で資料に目を通していると突然に戸が叩かれた。
「茶飲み話につきあわないか」
扉を開けたところに立っていたアブトゥはずいぶん唐突にそんなことを言い出した。は、と驚いた顔のまま思わず固まったペレスに、アブトゥはじっと視線を投げ、言った。
「お前に話しておかねばならないことがある。お前も聞きたいことがあるだろう」
ここ数日気にしていたことを言い当てられたようで、この男は本当に心の中を見透かしてるんじゃないかとぎょっとしたが、すぐに脳が否定した。そんなはずはない。ペレスがアブトゥに聞きたいことがあることなど予測されてしかるべきだ。世界の端から端まで行かされるような調査を商会に命じられたことの背後にアブトゥがいるのは確かなのだから。その理由を明らかにしてもらう権利が自分にはあるはずだ。
アブトゥは口元にかすかに笑みを浮かべながら言った。
「構えるな。お前がだいぶ疲労しているようだったから、体調について聞きたかったのだ。それに、王の墓の調査についても」
アブトゥはさっと背を向けた。
「ついてくるがいい」
ペレスがついてくるのを確信しているように、アブトゥはさっさとした足さばきで歩いていった。
アブトゥが向かったのは中庭に面した柱廊のテラスだった。中庭側には壁がなく、柱だけが並ぶ開放的な空間で、庭を眺めながらくつろげるように椅子と卓が据えられていた。その卓にはすでに茶道具と菓子の載った皿が並べてあった。
断ったらどうする気だったのかとひねたことを考えつつもペレスはおとなしく椅子にかけ、アブトゥが茶を入れる手つきを見守った。アブトゥが手早く、淀みない仕草で真鍮のやかんを傾けてカップに茶を注ぐたび、芳香が漂ってきた。
茶の注がれたカップをペレスに渡して、アブトゥは言った。
「王の墓に関するお前の報告を読んだ。あれから体調がおかしくなったりはしていないな」
渡された茶をすすりながら、ペレスは眉を寄せた。
「もちろんだ。体調が崩れるようなことはなにもしていないからな。君はまた呪いだとかなんとか言いたいんだろうが」
「いや。ただ、念のために確かめたかった」
アブトゥも茶をすすり、ふ、とカップに揺れる茶のおもてに息を吐いた。
「どうだった、王の墓は」
「どう、と言われても。報告書を読んだんだろう。副葬品も、王の棺や遺骸も、おそらく埋葬された当時のまま残っていた。棺に刻まれた名前は君が見つけてきたパピルス書の記載と一致していたから、被葬者がパピルス書に記された王本人であることは間違いない。目を見張るべき成果だ」
アブトゥは心を見透かすような黒い瞳でじっとペレスを見つめた。
「青い宝玉を王に見せたか」
渋々、ペレスは口を開いた。
「ああ、まあ、宝玉を携えては行ったよ。ミゲルの……君の意図はまったく理解できないがね。花を手向けるようなものと理解した。古代遺跡の調査といえど、死者にはふさわしい追悼と敬意を向けるべきことは私とて心得ている」
「ならば良かった。お前が宝玉を王に示したことで、王の影はお前の魂から完全に離れた。もうお前がファラオの願いに振り回されることはないだろう」
ペレスが眉間に皺をよせるのを、アブトゥはどこかおかしがるように横目に見、言った。
「くだらない話、と否定したい顔だな。だが、お前は春の海で確かに人魚と出会ったはずだ。人魚が与えた宝玉は人魚の存在の証としてもお前の手に残ったのだから」
ペレスは黙りこんだ。確かに、もはや人魚の存在を否定することはできなかった。あらゆる状況をつきあわせても人魚などいなかったとするほうが無理がある。
「今ならば、お前は私に見えたものを……お前が言うところの妄想を、少しばかりは聞く気があるだろう。お前にとっては退屈なおとぎ話にすぎないだろうが、私に見えていた王の物語を、聞いておいてもらいたい」
アブトゥは深々と椅子にかけなおし、ゆっくりと話し始めた。
「お前が私の館に現れたとき、私は、死したファラオの魂が影となってお前の魂に沿っているのを見た。その時点では王がどのような由で影となって地上をさすらっているのか、私にはなにもわからなかった。ただお前の魂が疲弊していること、王の影が遠くへ向かおうとする強い願いに突き動かされていることだけがわかった。あのときは影を眠らせ、お前の魂から一度は離すことができはしたが、影はいずれお前の魂に戻ってくると思われた。王はお前の船乗りの魂を求めていたからだ」
「船乗りの魂? 私はあの頃はまだ提督として海に出てそれほど間がなかった。ひよっこ、とすら言いがたかったと思う。君の認識はまったく的外れなように思うのだが」
「いいや。お前は世界の真の姿を求めて海をどこまでも越えていく強い意欲と意思を持っている。欲するものを求めて遠くへ向かう心、旅人の魂とでも呼ぶべきもの、それはお前の本質の一部だ。王の影はそれに惹かれた。……再びお前のもとに王の影が戻ったとき、そのときにはもはや、王の影はお前の魂の影そのもののように溶けこんでいた。王が望みを達するにはお前自身が南の果てへ赴かなければならなくなっていたのだ。王の願いの器として」
アブトゥは小さくため息のような息を落とした。
「人ならざる者に触れるのは危険なことだ。彼らは人間とは異なる尺度とまなざしを持っている。人の肉体は脆く、現世の様々な限りに縛られていることが彼らにはもはや見えない。人魚たちもそうだ。彼女らは魂しか見ていない。願いの強さ、魂の光輝、それだけを見ている。だから王の魂は、人魚への想いが続き、再会を願う心の灯火が消えぬうちは人魚の試しに応じてさすらい続けるしかなかった。その切望のなかで王はお前の魂を見いだし、己を連れて行く船のようにとらえたのかもしれないが、生き身の人間は死者の願いを受け止め続ける器ではいられない。生き身の魂にはその限られた命のなかで、それ自身の望みや意思があり、なすべきことがあるのだから」
ペレスに目をやり、アブトゥは呟くように言った。
「ともあれお前は人魚のもとへたどり着いた。人魚と王の想いは満たされ、お前の魂は王と人魚のさだめから解かれた。そうなってくれて良かった。王の影のためにも、お前の生き身の魂のためにも」
ペレスは返す言葉を見いだせず、アブトゥがその深い色のまなざしを静かにペレスに向けてくることにも耐えられず、顔をそらした。反論すべきであると理性は訴えていたが、心のどこかで感情が複雑にざわめき、思考をかき乱していた。
アブトゥは穏やかに言葉を続けた。
「信じなくとも良い。だがお前は物事の起こりや成り行きに注意を払い、因果を知りたいと考える人間だ。私の行動には当然に疑問を持っていただろう。私にはお前が納得するような答えを返すことはできぬが、私の行動の根になにがあったのかを話しておきたかったのだ」
こんなでたらめは受け入れられないと思いながらも、ペレスはアブトゥが、あのシャーマンの館で初めて会ったときから今の今まで、王の魂の影やペレスの魂のことに心を砕いていたのだということを考えていた。なんの根拠もない思いこみのために、今まで。非科学的で、非合理的にすぎる。だが……。
押し黙っているペレスを前に、ふ、とアブトゥは微笑んだようだった。
「お前はシャーマンのなすことを、まやかしやかりそめのなぐさめを与えるだけのペテンと考えているかもしれないが、我々のつとめは修復し、癒やし、整えることなのだ。もつれた運命を解き、結び直し、ほころびを繕い、歪んで傾いたものを整える。あるべきものがあるべきところに落ち着き、穏やかで平らかであるようにする。それが我々の仕事だ。お前が館にやってきたとき、私はお前の治癒をなしえなかった。そして、お前の魂にひっそりと寄り添っていた王の影の、癒やされるべき乾きを知った。あるべきものをあるべきようにあらしめるために、私は王の影とお前の魂のたどり着く果てを見届けなければならないし、手助けもしなければならぬと考えたのだ」
それからアブトゥは、短く小さく、しかしはっきりと声を出して笑った。
「ちょうどお前が、お前の信じる科学で人々の無知と無思考の闇を照らそうとすることをつとめと思っているようにな」
私の科学的合理性を君の妄想と一緒にしないでくれ。普段だったらペレスはそう反論するところだったが、口に出す気にまるでなれなかった。どうにもアブトゥの言葉が正しいように思えるのだった。論理的な部分などなにひとつ見当たらないのにも関わらず。
言うべき言葉をことごとく見失いながら、それでもペレスはなにかしら抵抗したいような気持ちで、ぼそぼそと言った。
「その、君が言うことはまったく受け入れられはしないんだが、仮に君の言葉を真実だと仮定したとしてもどうにも腑に落ちないというか……古代のエジプト王国を統べる若い王が、ただ一度会っただけで多くの言葉を交わしたわけでもない者を想い続けたというのは……」
「想いとはそういうものだ。お前が世界の真実を希求してやまないのと同じことだ。どうしてもそうでなければならない理由などなくても、人間の魂はただ願いはじめる。そして魂は自分や他人の願いや想いによってさらに揺らぎ、動き、振り回されもする」
アブトゥの言葉に、ペレスは人魚と遭遇したときに湧き上がった激しい感情の動きを思い出した。あんな感情に見舞われたことが今まであったろうか。だが、あのとき、どこか遠くから眺めているような不思議な感覚もあった。泣いているのも、人魚に視線を向けその手を取ったのも、自分ではないような。あれが王の魂が抱えていた感情だとするなら……いや。死者の魂の感情を自分が感じ取るなど、そんな非科学的なことがあるはずがない。ペレスはますます落ち着かない気持ちになり、こめかみをもんで髪を乱しながら呟いた。
「そういう君は、実感として理解できるのか? 君は、君自身の義務感というものが行動の動機なのだと言った。それは理解できる。君のその義務への誠実さを私の探究心と並べたこともだ。だが、恋心というものが、これらと同じように人の行動を動かすほど揺らがぬ願いや望みであると位置づけるのはどうも……」
アブトゥは一瞬目を伏せ、再びまぶたを上げると、中庭にある池のほうに目をやった。池には睡蓮の葉が青々としげり、池の縁には小鳥が二羽、寄ってきて鳴き交わしていた。
「あれほどの想いの強さというのはわからないが、王や人魚に共感はある。誰かを想ったことがある者ならば、多かれ少なかれ恋い慕う魂の激しさを理解するところはあるだろう」
ペレスは思わずアブトゥの顔をまじまじと見つめた。この青年が、自分の感情を表に出すことがほとんどなく、もはや激しい心の動きなど消し去って生きているのではないかと思えるような人間が、恋愛感情を持つことがあり得るというのはまったく想像できなかった。
ペレスが学生だった頃、学友のなかには、惚れたの腫れたの言い出して下手な恋歌をひねり出し、しまいに恋破れたと泣いてわめいて酒を飲んで騒ぎ散らしてばかりいるような連中がいた。しかしペレス自身は、恋愛などという、理性を見失うばかりの厄介な感情を抱えたいと思ったことがない。学究に費やすべき貴重な時間をそんなことに費す彼らの感情も行動もまったく理解できなかった。
アブトゥがそうした種類の人間と同じような気持ちを抱くことがあるというのが、あまりにも自分の思考の外にあって、ペレスはえらく動揺した。動揺のあまり、益体もない疑問が口をついて出る。
「君は、その……誰かそういう人を君のふるさとに残しているのか」
「まさか。そうであったなら、いくら運命に呼ばれているといっても、やすやすと谷を出はしなかった」
アブトゥはどこか面白がるような空気を漂わせていたが、ごく真面目な顔つきだった。ペレスは困惑しきってアブトゥを見つめ、せわしなく考えた。恋愛感情に理解は示して、ということは恋愛の経験が少なくとも過去に一度はあったのだろう。想いを寄せた相手とはどうなったのか、想いは実らなかったのか。もしかしたら死別でもしたのだろうか。あるいは彼は過去ではなく今現在、どこかに恋を言い交わす相手を持っている可能性だってある。アブトゥの容貌ならば言いよる娘が複数いてもおかしくはない……。
さまざまに推測を並べ、好奇心のままつい確かめそうになって、ペレスはすんでのところで言葉を飲みこんだ。人の色恋沙汰の噂で何時間でも井戸端会議に花を咲かせるような浮つきがちな娘たちでも、精神修養の足りない若い学生たちでもないのだ。
「そ、そうか。まあ、その……君の生活のごく個人的な部分を問いただそうというつもりはないんだ。愚にもつかないことを聞いてすまなかった」
ペレスは咳払いをし、心中の大きな動揺をどうにかまぎらわそうと茶を口に運んだ。爽やかな芳香が喉奥に立ち上り、深い渋みと柔らかい温かさとが喉を下っていって、心を少しだけ落ち着かせた。
アブトゥは再び中庭に目をやった。先ほど鳴き交わしていた小鳥たちが今は庭に生えている木の枝先に寄り添って止まっている。アブトゥはその鳥たちのほうを見つめながら思考を巡らしているようだった。やがてアブトゥはいつになく、なにかに思いを馳せるような色を浮かばせて、独り言のように呟いた。
「いや。わからぬことだ。私には、私自身のことは……」
謎めいた言葉にペレスは戸惑い、その言葉と表情の意味をとらえようと必死に頭を働かせたが、アブトゥはすぐにいつもの冷静で揺らがない表情に戻った。ただその口元には皮肉めいたような笑みがわずかに浮かんでいた。