覚醒

 台所の片隅に腰の高さを越えるほどの大きな茶色い瓶が据わっていた。瓶の水はたっぷりと縁の近くまであり、柄杓を差し入れると手のすぐそばで水面がゆたゆたと揺れた。一杯、二杯、三杯。真鍮でできた細長いやかんに水を注ぐ。
 まもなく客が来る予定だった。湯を沸かして茶を入れておかねばならない。枯れた川すじをたどってこの館にたどり着く者はたいてい喉が渇いている。香も焚く必要がある。客の訴えを聞くときには香の匂いが部屋を満たしていなければならない。精霊と魂の声をよりよく聞くために香がもたらす心の静けさがほしいのだ。戸棚から香のかけらをいくつか取り、祈りの間に向かう。
 祈りの間は朝夕の祈りに使うほか、来客があれば応接の部屋としても用いていた。広くはないが天井が高く、丸いドームをなしていた。そのドームの真下で、私と、私に先立つ代々のシャーマンたちが朝夕に祈祷を捧げ、瞑想をし、時に悩める魂を抱えた客を迎えてきた。館はそのためにこそ建てられた館だった。
 はるか昔、今は滅びた王国が瑞々しく栄えていた若い時代、さる高名なシャーマンが谷に館をしつらえた。その頃、谷には水量豊かに川が流れ、緑が茂り、谷筋には商人や巡礼者が数多く行き交う道が通って、館には引きも切らず客人が訪れた。魂を見通す目や、星を読み運命を知る知恵や、優れた医学の知識と手の技によって彼らは解決や治癒を得た。返礼に、無垢の金や宝石、その他あらゆる豪奢な品々が届けられ、館の倉庫に積み上げられた。
 時が過ぎ、谷の緑は枯れ、王国は滅んだ。館は古びてかしぎ、部屋部屋を満たした財宝は壊れ、盗まれた。残っているのは過去の栄光の残骸に過ぎなかった。しかしいつの時代も館には祈りの声と焚かれる香とが絶えたことはない。館には今も祈りの間があり、シャーマンがいる。一族の誇りとともに館は永の年月を生き続けていた。

 祈りの間はドーム型の天井にいくつかの明かり取りの窓を備えていたが、建物の真ん中にあるので昼でも暗かった。小さなランプを灯すと、天井からわずかに差す日射しの白い光とランプの黄色い灯とが部屋の四隅の小さな香炉にも届く。すべての香炉に香を入れて火をくべると部屋はゆっくりと香炉から立ち上る香りに満たされていった。
 ふと気配がした。館の外に人の気配がある。次いで遠慮がちに扉をたたく音がした。
 祈りの間から玄関は扉を二つくぐればすぐだった。玄関に立つと分厚い木の扉の向こうから少年の声がか細く聞こえた。
「シャーマンさま、旅人を案内してきました」
 近くに住む一族の少年だった。その家では何頭もの羊を飼っていて、少年は毎日羊たちを追って館のある谷を通り過ぎていくのだが、そのついでに館のこまごました用事や使いを頼まれてくれるのだった。
 彼はおそらく草場を変えようと羊たちを追っている途中に客人と遭遇したのだろう。日々の雑用に比べてまれなことではあったが、今までも何度か客人を案内することがあったから、少年は一族の者としては珍しくよその人間というものに少しは慣れていた。
 扉を開けると少年は細っこい体を落ち着かなげに揺らしていた。私の姿を認めると少年は唇をぺろりと舐め、背筋を伸ばし、声を張り上げた。
「だいぶ遠くから来た人みたいなんです」
 私がうなずき、行ってよいと告げると少年はもじもじとした。羊追いの帰りに寄るように、と付け加えてやっと少年は満足げな笑顔を見せ、元気よくうなずいた。駄賃になにがしかの食べ物やお守りをもらうか、珍しい話を聞くことを彼は期待しているのだ。
 少年はくるりと後ろを向き、早足に去りがてら、横にいた人物にぎこちなく会釈のような挨拶を送った。それが案内してきた客人だった。客人が少年の挨拶に返礼として挙げた手は白い肌をしていた。その旅装もこのあたりの衣装とはだいぶ異なる。仲介に立ったアレクサンドリアの商人から遠いところからの依頼だとは聞いていた。海を越えて、ヨーロッパの西の果てからの客だと。
 扉を大きく開きながら手振りで館に入るように促すと客人は躊躇する様子もなく玄関をくぐった。館に入りながら客はかぶっていた日よけの布を取った。現れた髪の毛は金色で、顔も手と同様に白い肌をしていた。青年と言えるほどの若さだったが態度は落ち着いていた。館の重々しさに動じた風もなく、ただ物珍しげに視線をあちらこちらに送っている。その目の色は薄く、空のような青い色だった。背後から指す強い日射しを浴びて男の金色の髪だけが明るく浮かび上がり、暗い室内に男と共に日の光が入ってきたような気がした。
 見慣れない風体の異人ではあった。案内してきた少年がいつもより少しばかり緊張と興奮の気配を見せていたのはこの変わった見た目のせいもあるだろう。遠い国の気配を男はふんだんに伴っていた。
 祈りの間に案内し、部屋の真ん中に据えた椅子に座るよう促すと、男はやはりあちらこちらに、ややぶしつけなくらいに目をやりながらもおとなしく椅子にかけた。
 その明るい色の髪の毛は祈りの間ではもっと暗く、赤っぽい色に見えた。真昼の日射しのようだった髪が今は沈む入り日を思わせた。その色がふいに純度の高い黄金めいた妙な重たさを持っているように感じられた。影のようなもの、なにか気配の重みのようなものが、男の後ろにあるような。
 思わず目を細めて男を見つめた。
 砂の匂いがした。灼けた砂の匂い。そして、古びた、石と土の香り。
 とてつもなく古い時代の残像が心をよぎった。
 石造りの壮麗な王宮、その内奥の穏やかな庭園、緑したたる木陰。柔らかい木漏れ日に満たされたその空間には寝椅子が据えられ、若者がじっと横たわっている。少年に近いほどの若々しい顔立ち、皺も染みもないなめらかな褐色の肌。身にはきらきらしい黄金と輝くような白い亜麻布の豪華な衣装をまとう若い王だった。身体は日の輝きに飾られて、それなのに彼の生命は癒える望みのない重い病によって活力を失い、その魂は今まさに力尽きて地上の世界から離脱しようとしていた。付き従う者たちが口々に呼びかけても王の目はひとひらの輝きも示さず、ただかすかに開いた口から、暗い洞窟のようなのどの奥から、わずかな最後の息を、吐いて、吸って……
 はっとなった。大きく瞬くと幻視はあとかたもなく消えた。見慣れた、薄暗い祈りの間に自分は立っているのだった。目の前には、死に瀕したファラオとは似ても似つかぬ白い肌で金色の髪の男が、怪訝そうな顔をして座っていた。思わず大きく息をついた。あの若い王の末期の息を、代わりに吸って吐きでもするかのような気持ちがした。
 男が口を開いた。
「私はフランシスコ・ペレスという者だ。リスボンにある商会が企画する探検船団の提督をまかされている。この館について、またシャーマンというものについて、少しばかり調査をさせてもらいたいのだが……」
 男の言葉は少しも頭に入ってこなかった。男が言葉を発するたびにその魂に張りつくようにして感じられる影の重さがたゆたい、男の言葉は意味をなさないわんわんとした響きに聞こえ、私の精神を攪乱させた。めまいを覚え、思わず手ぶりで男の言葉を遮った。どちらにせよ、もはや話を聞くまでもなかった。
「……お前の魂には古い魂の影が映りこんでいる。いにしえのエジプトの、若くして死んだファラオの魂の影だ。はるか昔に世を去った魂だが思い残しがある。その妄執が呪いとなってお前の魂にまつわっている」
 男は眉間に深いしわを寄せた。身じろぎをし、口を開きながら立ち上がりかけたが、私が手で制すると、じっとこちらを見据えて座りなおした。
「呪いはお前の魂を損ない、病ませている。ほどいてやろう」
 男に近づき、その薄い色をした目のあたりを覆うように手をかざすと、男は反射的に目をつぶった。
 深く、香の匂いを吸いこむ。酔うような心地になりながら朝夕の祈りのことばに似た古い古いまじないの言葉を唱えた。
 言葉そのものにも歌うような抑揚にも、どちらにも古く強い魔力が潜んでいて、自分の舌が、声が、どんどん力を帯びていくのを感じたが、しかし相手どる影はまじないよりもさらに古いもので、気配は強くそこにあるのに捉えがたかった。それでもやがてまじないの力に絡めとられて、影の色はよりくっきり感じられるようになっていった。眉間に険しく皺寄せていた男の体全体から力が抜け、くったりと椅子に沈みこんだ。今は顔にはどんな表情もなく、ただ、遠くをさまようように視線の合わない目だけがゆっくりと開き、瞬いたが、それはどこともない虚空にだけ向けられていた。
 この世には響かない声で、私は王の魂に呼びかけた。
「王よ。あなたははるかいにしえに生きて死に、地下の王国に眠って久しいはずのお方だ。御身が日の昇るこの地上におわした頃に御身が統べていた王国ははるか遠くに過ぎ去っていってしまった。あなたがすがるこの生き身の魂も、なんの関わりもない遠方より来て、行き過ぎてゆくだけのものだ。すべてを手放し、心静かに眠られよ。今までそうであったごとくに安らかな眠りにまどろまれよ。王よ、御身が息づいていた頃の望みのすべてはもはやはるかに遠いのだから」
 遠く、という言葉が発せられると、影は震えたようだった。
 遠くへ。ずっと遠くへ。風の向こうからかすかに聞こえるようにそんな思念が響いた。
 ゆるゆると震えながら男の白い手が持ち上げられた。なにかに届かせたいと言うように指がわずかに先へ伸ばされるが、その指先が触れるのはただの空だった。
 なにを追っているのかはわからなかった。ただ届かない悲しさが伝わってきた。
 そうするのが自然であるように思えて、白い手を取った。乾いて、冷たくも暖かくもない手のひらを両手で包むと、影の思念が私の心にも響きわたるように感じられた。そこにあるのは、慕ったものをただただ追っていこうとする幼子のような切望だった。
「あなたはかつて届くことのなかった遠い場所に届くことを、それだけをずっと願っている」
 答えはなかった。了解とも否定ともない無言だけが漂った。ただ影から絶え間なく湧き上がる切望だけが伝わってきて、飲まれそうになる。だが、それはただの思いでしかなかった。私になんの影響も及ぼすことはできなかった。
 思わずついた息はため息となった。だが、悲しみと切望に括られたこの影にこれ以上現世の者に関わらせることはできない。死者と生者の魂はこうも近々とふれあうべきものではなかった。
「それでも王よ、今は眠らねばならない。時至るまで、さだめの実が熟す季節に至るまで。今は眠らねばならない」
 眠らねばならない、と繰り返しそれだけを影に語りかける。寒さと恐怖にうち震える子猫を撫でているような気分がした。ゆっくり、安心できるまで、眠りにつくまで、何度でも穏やかに……。
 やがて、ぼんやりと影の気配は薄れていった。
 我に返ると、目の前の客人は深々と椅子にかけたまま、安らかな寝息を立てていた。うつろに遠くへ向けていたはずの目は閉じ、首はがっくりとうなだれて、ただすやすやと眠っているのだった。彼の魂に沿っていた影は気配がすっかり消えていた。
 さきほど虚空に伸ばされていた手のひらも、今は深い眠りのために力を失っていた。現世の重みが戻ってきたように、両手に包みこんでいた男の手はずっしり重く感じた。
 手を眠る男の膝にそっと戻してやり、私自身も小さなスツールに腰をかけ、深く息をついた。全身がひどく重たく、くたびれ果てていた。
 しばらくしてようやく立ち上がるだけの気力が戻ってきて、やっと腰を上げた。
 台所だ。台所に行ってお湯を沸かさねばならない、茶を淹れなくては、男の分も、私の分も。喉がからからだった。

 薬効のある植物を煮出すと湯気とともに爽やかな香りが立ち上り、死者の影の色合いに影響されて重たく沈む気分に占められていた心もだんだん平常に戻っていった。茶を数口、ゆっくりと飲み下していくにつれ、乾きと疲労も癒えた。
 客人にも飲ませておかなくてはならない。彼の魂もまた、死者の魂の影を伴っていた影響で疲弊しているはずだった。やかんとカップ一つを手に祈りの間に戻り、まだすやすや眠っている男を揺り動かした。
 男はかすかにうめき声を上げながら目を覚ましたが、起き抜けで混乱しているのか、自分がどこにいてなにをしているのか、掴みきれていない様子だった。背を起こしはしたものの、椅子にかけたまま、少し背を丸くしてきょとんと目をしばたかせている姿は朝日を浴びるふくろうのようだった。
「飲むがいい」
 私が差し出したカップを男は素直に受け取り、くんと匂いを嗅いでかすかに首をかしげながらも少しづつ飲んでいった。飲んでいくうちにはっきり目が覚めていった様子だった。
 私は男と向かい合うスツールに掛け、説明をしようと口を開いた。
「お前はファラオの呪いにむしばまれていた。それをほどくため、お前の魂にぴったり寄り添っていたファラオの魂に呼びかけたのだが、その影響でお前は少しのあいだ意識を失っていたのだ……」
 のろい、と口にするときになんとなく舌が滞った。あれは呪詛なのだろうか。妄執といえばそうではあったが、悪意はなかった。ただ、渇望のようなあの強い希求は、影が一時のまどろみに戻ったところで到底消えることはないように思えた。
 王の魂の影がどんな因果でこの異国の青年の魂を選んだのか、私には感知できなかった。、いちど括られた命運は未だほどかれてはいないように思えた。さほど時をおかず、王の魂の影は再び切望に突き動かされて地上をさまよい始め、またもこの男の魂に吹き寄せられるのではないか。今は男にまつわっていた影の気配は消え失せていたが、すっきりとはしない気持ちが私のうちにわだかまっていた。
 私が言葉を滞らせているうちに男は中身を飲みきったらしく、カップを膝においた。
「ああ、どうも、面目ない。疲れていたので眠りこんでしまったようだ」
 意識を失っていたという私の説明を、男は聞き逃したのだろうか。少し目を細めて見つめる私に、男は言った。
「しかし、その、調査に来たと先ほどは言ったが……どうやら的外れであったように思われる。私の研究はあくまで事象の実証的な観察で進められるものであって、呪いなどという主観的な迷信は私にとっては調査対象とする価値がない」
 迷信? 価値がない?
 なにを言っているのかわからず、私はじっと男を見つめた。男はひるむ様子もなく、腕組みをして、独り言のようにとうとうと呟きはじめた。
「呪い、まじないなどというものは錯覚と誤解によって形作られるものだ。歴史的に、人間は自分たちの心に生み出した夢や幻をもとに神話や伝説を組み上げ、その物語に依って世界を理解してきたが、実際にはこの世界のあらゆる事象は科学的に説明の可能な自然現象なのだ。すべては法則だっていて合理的な説明がつく。かつて我々の祖先は、理解の及ばないさまざまな事象を神だとか魔術だとか呪いだとか、そうした言葉で説明してきたかもしれない。だが、そのように曖昧で不合理な言葉によって世界の実像を歪めて認識するのは、もはや現在の人間たちが依って立つべき足場ではない」
 早口のせいだけでもなく、男の言っていることがほとんどなにも理解できなかった。男も、私が彼の言っていることを理解すると思ってしゃべってはいないのだろうと思えた。
 学者だと聞いていた。学者という者には、エジプトに赴いたときに二、三人ほど会ったことがあるだけだが、皆、己の学問というものに耽溺しており、その狭い世界でしか通じない言葉を弄する傾向があった。それにしても、彼らとてこうまであけすけに自分の学問の世界の外にある者を頭ごなしに否定する者はなかった。
「なにを言っているのか理解できぬな。とにかくお前は、お前自身がファラオの呪いによって心身を害していたことを認めないということか」
 私の言葉に男はうなずいた。
「そうとも。私に呪いがかかっていただって? 確かにいささか体調は良くなかった。はっきりした原因は不明だが、少し前、ピラミッドの調査をしていたときに暑さに負けたことがある。その後遺症が尾を引いてしまったというのが蓋然性の高い推測だ。私は呪いなどというものの存在を認めない。再現ができ、理論に従って客観的に証明が可能となるような実証性を持たないからな。それに私は君が言うファラオだとかもなんの関わりもない。ファラオの墓と言われるピラミッドは調査したが、遠く外側から測量を入れた程度で、墓荒らしをしたわけでもない。勝手にありもしないおとぎ話を作られては困る」
 確かにファラオの魂の影と彼とのあいだになんの関わりがあるのか、私にはまるで見えていない。ただ、手をのばしたあの影から伝わってきた望みのことは強く思い起こされた。痛いほどの切望を抱えたあの影を伴ってこの部屋に入ってきたくせに、目の前のこの男はその一切を感知せず、あの影の存在そのものを否定すると言うのだ。
 男を見据えて言葉を返す。
「お前がどのように感じ、考えようと、お前の魂にいにしえの影がまつわっていたのは事実だ。それがなぜか、どのような意味合いを持つのかは私にもわからぬ。しかしまったくの偶然とは思えぬ。そのように定まっていたと考えるべきだろう。運命がお前を呼んだのだ。お前にはなにかしら果たすべき役割がある。お前が従うべきそのさだめの行く末はそう時が経たぬうちに明らかになるだろう」
 男は小さく鼻を鳴らした。
「話にならないな」
 男は腕組みを解くと心持ち身を乗り出し、説得しようとでもいうような口調で続けた。
「君が……君たちの一族が、未だにそんな非科学的なことをそこまで深く信奉している集団だとは予想しなかった。いいかね、君たちにとっては受け入れがたいかもしれないが、この世界に呪いだの、魂だの、そういった曖昧で不合理なものは存在しない。すべてはこれまでの人間の無知が生み出した野放図な空想だ。空想は空想、まやかしにすぎない。事象のすべては科学によって合理的に説明しうるし、我々はそのような世界の理をよく学び、正しい知識と理解によって世界の実像を解き明かしていかねばならない。こんなに人里離れたところでは致し方ないことかもしれないが、たとえ世界の隅であれ、科学はもっと理解され、迷妄と偏見の闇が遠ざけられているべきだ。私の調査はそうしたことの実践であるし、啓蒙活動でもあるので……」
 我に返ったように男は顔をあげた。
「いや、その、君にとっても貴重な時間であったろうに、浪費させてしまって申し訳なかった。私もまたここで無駄に時間を使っている場合ではない。おいとますることにしよう」
 男は立ち上がった。
「調査に応じてもらった謝礼については、アレクサンドリアに我が商会の支部があるのでそちらに言付けてくれ。今は手付けのぶんだけを持ってきたんだが、この文書と併せてアレクサンドリアに君の望む額を言って頂ければ、追って商会のほうから全額をお支払いすることを約束する」
 男はベルトに挟んだ袋から小さな巾着と折りたたまれた紙片とを取り出し、茶が入っていたカップに添えて差し出してきた。受け取ると、片方の手のひらにちょんと載るほどの小さな巾着はみっしりと詰まっていて、大きさに比べてずいぶん重みがあり、中からは金属がふれあう音がした。
 男は手放したばかりのカップに目をやりながら言った。
「しかしこの……薬草かなにかだろうか。このお茶は興味ぶかいな。変わった味だが、心安らぐ。ごちそうになった」
 男はかすかに笑顔を見せたが、私のほうは表情を変えなかった。無言で男の差し出したものを受け取ると、男は軽く会釈をし、ありきたりな礼の言葉を一言二言述べたかと思うとすたすた早足に部屋を出ていった。
 様々なことが頭を駆け巡り、しかし、あまりに魂も身体も精神もくたびれていたので、しばらくはスツールにかけたまま思考を野放しにしておいた。
 心の中には怒りと呼ぶべき感情が沸き返っているのだが、私はそれから距離を置いて、考えた。
 この谷の外の世界ではよくあることだ。依頼でエジプトの大きな街に出たときなどは、男と似たようなことを言う者に遭遇することもしばしばだった。もちろん、わざわざこの館にまで訪れておいて、かくも無礼に目に見えぬ諸力を嘲る者など普通はいない。しかし、一族の土地を出ると、己の目に見えるものでしか世界を理解しようとせぬ、浅薄で傲慢な輩が山ほどいる。そのことは私にもよくわかっていた。
 男は調査で来たと言った。仲介の商人の話では、西の果て、アンダルスの地にあるリスボンとかいう港を拠点とするさる商会からの依頼だということだった。自分たちの傭人が原因不明の体調不良に苦しんでいるので治癒を求めている、と聞いていたのだが。しかし、本人の弁では、彼自身は治癒を求めたつもりはなく、あくまでこの館のことを調べる仕事で来たと考えていたようだった。
 ピラミッドの調査もしたと言っていた。測量とかなんとか。この館や我々のことも、そのように調べて、紙切れにでも書き付けるつもりだったのか。
 冷たい笑いが浮かんだ。今しがた出ていった男は外で、この建物の寸法を測ってでもいるのだろうか。そうして、そんなどうでもいいことどもを仰々しく紙に書き付けてヨーロッパの学者たちに見せ、彼らだけにしか伝わらないうなずきあいのなかで我々のことをすっかりわかったつもりになるのだ。寂れた田舎住まいの、迷信に惑わされる無知な異民族、と。
 長い年月を経てきたこの建物の、核であるこの祈りの間に、あの痛ましい影を伴って現れ、我々一族の伝統がつないできた技と力とによって治癒を得ておきながら。
 ファラオの魂の影からは怒りの感情はまったく感じなかったが、あの男がさきほど見せた傲慢をピラミッドの調査でも発揮したのだとしたら呪われるのも当然ではないか。
 どっと息を吐き、息と一緒に波立つ感情を吐き出して、心を静めた。
 シャーマンのつとめは治癒されなければならない魂を癒やすこと。ひとまずそのつとめは果たした。もっとも、男と影のあいだにできたきずなを完全にときほぐせたわけではなく、そのことは気に掛かりはしたが、今のところこれ以上の解決の手だては思いつかない。
 運命が呼ぶならば、またあの男のもとに影が再びまとわりつくことがあるかもしれない。そのとき、あの男は再びこの館を訪れることになるだろう。
 あの男は、そんな再訪であっても相変わらずあの傲慢をそのままに保っているのだろうか。男の様子から考えるに大いにありそうなことだった。とんでもなく頭の固い頑固者。なにがあっても自分の信条を曲げそうにない。いつになるかはわからないが、あの頑ななものわかりの悪さに再び対峙しなくてはならないのかもしれない。うんざりするような気持ちも湧いたが、それがさだめであるならば従うほかはない。
 ふと、手にもっていた巾着の重さが意識されて、中身を確かめなくてはと思った。予想したとおり中に詰まっていたのは貨幣だったが、銀貨がたっぷり二十枚余り、さらに金貨が五枚もまぎれていた。謝礼としては十分すぎる額だった。
 紙片のほうも開いてみると、男が言った通り、商会の名前、アレクサンドリアにある邸宅の場所の説明、そしてこの書き付けを持つ者の請求権を保証する旨が書かれていた。
 面倒なのでアレクサンドリアにある商会の支所だという場所に行くつもりはなかった。とはいえ、商会の名においてこの文書を持つ者を証する、などと書かれた書き付けをそこらにうち捨てるわけにもいかない。やっかいなものを渡されたと思いながら紙片を畳み直し、金の入った巾着袋ともども、大事なものをしまっておく小箱に潜ませて棚の奥に押しこんだ。

 日が暮れかかった頃、羊飼いの少年が再び館に現れた。約束の駄賃を求めてきたのだろうと思ったが、少年はそれどころではなく、緊張と興奮が混じったような様子で、やってくるなり堰を切ったようにしゃべり出した。
「あの異人のひとにまた会ったんです。そうしたら、なんだか、いろんなことを言われました。迷信がよくないとか、なんとか……神さまとか精霊のことを話したら、それは間違いだって」
 子供になにを吹きこんでいったのか、あの男は。
 思わずため息をついてしまったので、少年はびっくりしたように私を見つめた。一族の者の前でため息をついてみせたことなど、今までほとんどなかったのだ。あの男に関わることではどうもあれこれ調子が狂う。少年は、私をなだめるかのような表情を浮かべながら、おずおずと続けた。
「なんだか全然意味がわからなかったけど、ひとしきりしゃべったら満足したみたいで、行ってしまいました。多分、来た道を戻っていったんです。少し急いでいるみたいでした。もうここらにはいないと思います」
 それから少年は、心配そうに彼の家のあるほうを振り返った。
「うちの大人にその話をしたら、みんななんだか心配になったみたいです。悪いものがついているんじゃないかって。いくら異人でもそんなおかしなことを言う人は、狂いの神にとりつかれてるんじゃないかって。女の人たちがとても恐がるから、父さんは大おじさんのところに相談に行きました」
 どうも少し面倒なことになりかけている気がした。

 予感の通り、もう日が落ちて暗くなってから、近在の一族の男たち数人が館にやってきた。当然ながら彼らは、昼に館にやってきたあの異人について私の見解を尋ねたくてやってきたのだった。それでも普段はよほどの事でなければ、彼らが日も暮れてから館を訪れることなどない。彼ら自身、慣れない行動に落ち着かない様子だった。
 館に招き入れ、絨毯を引いた上に全員を座らせて茶をふるまうと少し落ち着いたようだったが、彼らの表情は一様に不安げなままだった。やがて、一番年長の男がためらいがちに口を開いた。
「うちの孫が館の客人に遇って道案内したと言うのですが、客人があんまり奇妙な男だったというから、なにか悪いことでもなかったかと」
 少年の祖父である男の言葉が切れると男たちは押し黙って私の回答を待った。
「案ずることはない。あの男は、エジプトにいる一族の係累の商人からのつながりで、ヨーロッパの果て遠くから魂の治療を求めてやってきた。無礼で傲慢ではあったが、邪悪な者ではなかったし、なにか悪しきものを引き連れてきたりもしていない」
 彼にまとわりついていた影のことは伏せた。彼にとって害のあるものであったにせよ、この地と住民達にはあのファラオの魂はなんの関わりもなく、目の前にいるこの一族の人々に対してなにかの危険をもたらすようなものでないことは確かだった。
「でも、とても不信心でひどい言葉を孫に言っていたようで……まじないとか精霊とか、そういうものを信心する一族は愚かでもの知らずだとか、不埒な言葉を吐いていったそうです」
 少年が夕方に来たとき、困惑はしていたものの、怯えた様子はなかった。あの男が子供に悪意を向けたり危害を加えたりしたわけではなかろうと判断していたが、男と直接話したわけでもない一族の者たちには少年が話した断片的な言動しか伝わっていないので、彼らがよそ者の男のふるまいに悪意を見、敵意を抱くのも当然ではあった。
「気にする必要はない。この世界には数多くの不思議があり、人知のおよばぬものが関わっている。見えぬ諸力などないと思いこもうとすることこそ愚か者の所業だが、異人にはそうした分別を欠く者が多いのだ。だが、大いなるさだめの主は、世界の隅の異人たちのささいな愚かさにいちいち拘泥はしない」
 男たちはそわそわと、指先をひねり、尻の据わりを直したりしている。私の説明だけでは不安が晴れないのだった。考えてみると、たまたま少年が男から話を聞き、それによって一族の者たちが夜にもなって訪れたこと自体、なにかのきざしかもしれないと思い直した。
「今晩、このことについて星の声を聞いてみよう。悪い予兆であるなら星々は警告を告げるであろうし、そうでないならば心配することはないとわかるだろう。……それと、もし異人が吐いた言葉のけがれが気になるのなら、明日にでもあの子を連れてきてくれ。清めのまじないをしておくから」
 男たちはやっと少し安心したようで、小さくうなずき合った。少年の祖父が、かすかに口元を和らげ、深々うなずいた。
「そうしていただけると安心できます。おかしな風体のよそ者が、嫌な色の目であちこち見て回って、慎みのない言葉まで吐いて谷の空気を汚していったというのは、ずいぶん気味が悪いですから」
 少年の祖父は、自分の肩を左、右と打ち、わずかに頭を下げると手のひらで目を覆った。精霊への敬意を示す仕草だった。他の男たちもそれに倣うように同じ仕草をした。不遜な男が吐きこぼしていった言葉は自分とは隔てられたものであり、精霊の怒りを買うのは自分ではないこと、災いを及ぼされる者は自分ではないことを示す仕草だった。

 男たちが帰ったあと、私はランプを一つ手に、寒さ避けの大きなマントをまとって外に出た。館の裏手には庭があった。はるか昔は噴水があり、木々が植えられていたというのだが、水も木もとうに干上がっていた。ここらでは掘り出されない珍しい青っぽい硬い石でできた盤の残骸が、一山の瓦礫となって積み上がっているのだけが過ぎ去った時代の名残りをかろうじて伝えていた。しかし私は噴水の残骸ではなく、庭の隅の細い木が生えている場所を選び、根元に座して天を見上げた。
 半月が顔を出していて、夜空の色はやや明るく、白っぽく見える。それでも星々は溢れるように輝いていた。
 あぐらで座っていると大地に自分の骨を据えたような気分がする。大地の揺るがない堅さを背骨に通し、背骨から頭蓋骨の頂に通し、そしてそこから天へ。静かに、呼吸を整えて、意識を澄ませていった。そうして夜空を見上げつづけると、どこまで遠いのかしれぬ天に魂だけが浮かび上がっていくような気がした。
 暗い空の盤から数え切れないほどの距離を経て地に降ってくる星の光は、なんとなくよそよそしく、どれも奇妙にざわめいているようだった。天高く昇った大鳥の尾の星はいつにもまして冷たく青くまばゆく感じられ、南の空では魚の口に光る宝石がちかちかと、暗夜に漁る小舟の舳先に掲げられたランプのように揺れながら光る。
 遠くへ。
 ふと昼間の、あの若い王の切望が、天の声にまぎれて聞こえたような気がした。
 吹き渡る風のように、とおくへ、とささやく音が星々を揺らしているような気がした。
 さざ波だ。たくさんの水、揺れる水面、とどまらぬ流れ。大河の岸辺、いや、もっと大きく、せわしなく、たくさんの水と風が延々とざわめく場所。
 とおくへ。海へ。
 は、と息をついて、瞑想から意識を戻した。
 影の気配は感じない。あの影が戻ってきたわけではない。だが、あのとき感じた遠くという望みは、海を渡るほどのずっと遠くを指していたのかとなんとなく悟る。
 どういうことだろう。星々の声にあの死者の魂の名残が見えるというのは。
 星々はどこか気もそぞろに、まるで渚に寄せる波のようにあの死者の声を繰り返しているのだった。とはいえそこに厄災のきざしはなかった。今晩のあいだこそ星々は落ち着かなくざわめいているだろうが、石を落として波立った水面がすぐに穏やかになるように、明日にはずっと落ち着いているだろうと思えた。
 あの異人が影をともなってここに現れたことがその小石であることは疑いない。あの男はなにか大きなさだめに巻き取られつつあって、彼自身、運命の触媒の一つとなっているのだが、とはいえその運命の動きはこの谷や一族とはかけはなれた、もっとずっと遠く、もっと広いどこか遠くに向かうものだった。
 海の向こう。
 異人は海を越えてやってきた。これからもたくさん海を越えていくのだろう。あの若い王の影が彼をそこまで連れていくのだろうか。星々の声は異人と影との行く末を噂しているのだろうか。
 やはり、影はあの異人の魂に惹かれ、再び目覚めて現世にさまよい戻るだろう。それがどのような運命をもたらすのかは未だ判然としなかったが、星々にこだまするほどの大きな流れとなるような運命が動き始めているならば、私にあの影をほどききることができなかったのも理解できる。
 木によりかかってしばらく考えこんだ。
 自分の手に負えない大きな流れに遭遇したのかもしれないとはいえ、あの異人の魂を私は治癒しきっていないことになる。この館を訪れた者を、あのように中途半端なかたちで返してしまったのは悔やまれた。あのとき、あの影の願いが星々をこのようにざわめかせるようなものとは気づかなかった。もう少しきざしがあってもよさそうなものだった。
 考えられるとすれば、このさだめの流れが私自身の運命にも強く結びついている可能性だった。私自身の行く末に深く関わる事象についてはきざしも星々の示唆もほとんど感知できない。目に見えない霊性への感覚をほとんど持たないただ人のごとくに、読み取れていない空白がそこにあるのかどうかすらわからない。そのことを可能性として考えることはできても、それでなんらかの指針を立てることすらおぼつかない。
 地面を見つめ、考えこんでいると、目線の先で砂が微風に押されてわずかに動いた。天の星の光を浴びる無数の砂の粒は、地上でほんの小さな星々となって揺れているように見えた。
 考えても仕方がないのかもしれない。いずれ運命はあの男を再びこの地に寄越すだろう。それを待つしかない。
 体が冷えてきた。瞑想を始めて結構な時間が経っていた。立ち上がり、館に戻りながら、ほっと息をついた。不可解なことはいくつもあるが、星々は危険のきざしは見せていない。少なくともあの不安げな顔で訪れた男たちと彼らの家族に対して、この地と一族に不安を招くような害悪や悪運は起きないと、いい知らせを伝えることはできそうだった。

 次の日、昼近くになって館に訪れたのは、孫を連れた祖父ではなかった。歩いて数時間のところに住んでいる、首長の一家の者だった。
 昨日、たまたま谷に訪れていた首長の一家の者が、少年と異人の噂話を聞きつけ、夜を徹して一族の長老たちのもとに戻ってその顛末を伝えたということだった。そして、私のもとに急いで使いが寄越されたのだった。
 使いはすぐに一緒に来てくれという。今出ると到着は夜になりそうだったが、使いはそのまますぐにでも発ちたい様子だったので、身支度をしてすぐに出た。
 半日かけ、日がすっかり落ちた頃に首長の館にたどりつき、大広間に案内されてみると、そこにはすでに首長と長老たち数名が集まっていて、柔らかく重ねられた絨毯の決まった座にそれぞれついていた。広間にはランプがいくつも下げられていたが、部屋の隅には影がたまり、男たちの顔に刻まれた皺の深さも強められてみえた。そもそも全員が厳めしい渋い顔をしていて、隣り合った者と深刻げに小さな声で囁き交わしているのだった。
 私もシャーマンに決められた席に腰を下ろし、目を手で覆う挨拶をした。
「急ぎのお呼びと伺いました」
 首長が口を開いた。
「お前の館に訪れたよそ者が谷の人々に呪いの言葉を吐いていったとか」
 噂というものは必ず大げさに歪められていくものだ。あの男の分別を知らないふるまいは、とうとう呪いということにまでなってしまった。
「いいえ。あの男は精霊への信仰を持たない異人でしたが、異人によくある不遜をあらわにしていただけで、一族に呪いをかけたわけではありません。彼は呪いなどというものはまやかしだと言っていましたから、呪いのかけ方など知りもしないでしょう」
「いかに呪いをかけるつもりもないとしても、不信心の言葉で一族の土地を汚すとはけしからん。それに一族を侮辱したというではないか」
 それについては擁護しようもなかった。私とて腹は立ったのだから。
「一族を侮辱していたのは確かです」
「その場で咎め、言葉を取り替えさせるべきだった」
「ヨーロッパから来る者にたまにおりますが、議論と称して自分の言いたいことばかりを述べ立てる輩のようでした。彼らは己のことを学者だとか言うのですが、我々のようには深くものごとを知らないのです。我らの信仰に対して敬意と慎みの態度を示すよう諭したところで彼らは理解しません。侮辱のことばをさらに浴びせてくるだけと思われました」
 長老たちはぶつぶつと文句を言った。首長が、渋い顔ながら、なだめるように座にある面々を見渡したが、長老たちのなかでも最も年かさの老人が憤懣をあらわにして口を開いた。
「異人ごときが、我らの栄誉にいささかの敬意も持たぬどころか、一族を愚弄して回るなど断じて許しがたい。それに、濁った石の目をしていたというぞ。邪な目で我が一族の者を見て汚したのなら、すでに災いをふりまいていったではないか」
 一族には、色のついた石のような目を持つ者は生まれついて邪悪な力があって、人を見つめるだけで呪うことができるという言い伝えがはるか昔からあった。ヨーロッパのほうでは薄い色の瞳の持ち主はそれほど珍しくもない、ということは老人たちとて知ってはいたが、土地をあまり離れたことのない彼らはそうした異人たちを見慣れてはいなかった。老人たちにとって、生まれついて邪悪な目を持つものがうようよいるような外の世界というのは野蛮と邪悪に満ちた場所であって、そういう場所から来る者もまた、卑しく愚かな無法者であり、ともすればたやすく悪事を働くごろつきなのだった。
 そもそも、一族の栄光を知らず、仰ぎ見るそぶりもしないよそ者が一族の住むところに突然現れ、一族の者と関わりを持ったということ自体、この老人たちにとって我慢ならないできごとだった。彼らは一族がわずかに生き延びるこの砂ばかりの土地で、過ぎ去った王国の栄光の記憶と、その王国の末裔であるという誇りとを守り続けることをなによりも大事にしていた。
「男は顔隠しの布を目深にかぶっておりました。案内した少年と私以外には彼の目を見た者はおりません。少年も、おそらくまっすぐ目をあわせはしなかったでしょう。躾の行き届いた敬虔な子です。私の見る限りでは災いが彼に降りかかった様子もありませんでした」
 男は日射しを避けようとして布をかぶっていただけだろうし、少年も、まめで気の利く子供ではあったがごく普通の少年にすぎず、男と言葉を交わしていながら目を合わせないでいられるほど注意深かったとはとうてい思われない。そもそも少年からの話の伝え聞きで長老たちは男が石の色の目の持ち主だと知ったのだ。それでも、シャーマンとしての私がとりなし、事態を穏便にとらえ、伝え直すことで、老人たちは体面を失わずに怒りをひっこめることができる。
 老人たちは不満を抑えきれずにぶつぶつつぶやき続け、囁き交わした。彼らを納得させる落としどころをどう見いだせばいいのか、考えながら、私は言葉を続けた。
「私は異人と言葉を交わしました。彼の魂は病んでおり、治癒を求めて我が館を訪ねたのです。その身元は一族の裔であるアレクサンドリアの商人が保証しました。彼らと取引のあるヨーロッパの商人だと聞いています」
 あの影のことをどう話すべきか、一瞬迷ったが隠さず話すことにした。
「男の魂は死者の影にとりつかれていました。いにしえにエジプトで生まれ、若くして死んだ高貴な魂の影でした。男はここを訪れる前にエジプトにいたと言っていたので、エジプトでこの影に見いだされたのでしょう。私は影に冥界の眠りに戻るよう呼びかけ、影は眠りに戻り、男の魂から去りました。影は男の魂を弱らせる力を持ってはいたものの、世に怨みを抱く悪霊ではありませんでした。遺念にゆさぶられてさまよう死者の思い残しに過ぎません。男も、影にまとわりつかれていたことを除けばただ人にすぎませんでした。彼が不遜であったのは彼がものを知らないがゆえの話で、邪悪な霊にそそのかされて穢れた言葉を吐いたのではありません。異人も影も、我ら一族と一族の土地に災いをなす者ではありません」
 首長も長老達も、険しい顔をして私を見つめた。男がなにか害をもたらす影を連れてこの土地にやってきたことが明らかにされたので思案しているのだ。
 私もまた、彼らとはまったく別の思案をしながら、切りだした。
「それでも、男がなにかの影を伴って我が館に現れたことは事実です。昨晩、谷の者たちも不安がって私のところにやってきました。私は穢れをはらい、また、厄のきざしが現れていないか、星を読んで確かめました」
 星に向かって瞑想したときに聞こえたざわめきが、驚くほど鮮明に脳裏に蘇った。
 遠くへ、遠くへ。海へ。海のずっと向こうへ。
 しゃべりながら私は、自分が、星々がざわめきながら見つめていたあの大きなさだめの流れに捉えられているのだという気がした。自分の意思であるはずだが、どこか体の奥底から泉が湧き上がるように言葉が湧いて出てくる。
「星々は死者の影に共鳴してか、夜通しざわめいていました。遠くへ、遠くへと、星々はそれだけを示すのです。死者が残した思いとなんらか関わりのあることのようですが、これ以上のことは私にはわかりません」
 一瞬だけ目をつぶった。勝手につるつると出てくるような言葉がこれから先になにをもたらすか、自分でもわからなかったが、これが正しいのだとはなぜか信じているのだった。
「異人が私を訪ね、私は彼の引き連れてきた影の声を聞きました。星々からも同じ声を聞きました。天を満たすほどの星々が、昨夜一晩とはいえ、地上をさまよう哀れな魂一つと響き合い、揺れていました。なにか大きな運命の流れが動き、さだめにいささかの変調が生じているように思われます。私は影が残した執着をすっかりほどくことができていません。影はおそらく、また眠りから覚め、異人の魂にまとわりはじめるでしょう」
 いぶかしげな顔になった首長と長老たちに向かって言葉はなめらかに紡がれていった。
「私がこうした出来事に立ち会ったことは偶然と思っていましたが、あるいは私自身もさだめの主に呼び出されているのかもしれません。さだめがそのように下ったのであれば、私はシャーマンとして役目を負わなくてはなりません。さだめの変調の行く末を見届け、また、果たし終えていない治癒を終え、すべてがあるべき状態になるまで見守らねばならない」
 口を開けかけた首長と、しわくちゃの顔をさらにしかめ始めた長老たちに向かって、私は宣言するように言った。
「私は旅に出ることにいたします」
 目を見開いた男たちに向かって、追い打ちのような言葉が、これは私自身の声として飛び出した。
「異人が我らの一族を愚弄したことも見過ごすわけにはまいりませんから。彼からその誤った言葉を去らせ、正しい言葉を取り戻してまいります」

 私が旅に出ると告げた顛末は、首長の館から戻る私の後ろを影となってぴったり追ってきたかのように、谷の人々にもたちまち噂となって響き渡った。あいかわらず噂には闊達な足が生えていて、谷の人々のあいだを縦横無尽に駆け回り、そうするうちにそれは大仰なおとぎ話めいた物語に姿を変えていた。私が長老たちに旅立ちを告げた途端に快晴の星空から急に雷鳴が鳴りひびいて岩を割っただとか、星が降ってきて羊に怪我をさせただとか、長老のひとりが動転して卒中を起こしただとか……。
 いちいちを訂正するのは面倒だったが、旅立ちの準備をする傍ら、私に会うたびに噂を確かめたそうな気配でもじもじしている谷の人々にしつこいくらいに同じ話をした。噂はでたらめで、首長の館の人々はすべて、年かさの長老たちも飼っている羊たちも皆元気で、誰ひとり具合を悪くしてはいないと。
 確かに、私が旅立つと告げると首長と長老たちは狼狽し、反対を述べ立てて小一時間は騒然となったのだが、結局、さだめに呼び出されているというシャーマンの言葉は託宣として受け取られ、場にいた全員が最後には首肯して、私は一族の長たちから旅に出る赦しを得た。そこに至るまでには普通の話し合いがあっただけで、いかなる天変地異も起きてはいない。
 旅の準備そのものについては、これまでもしばしばエジプトに赴くときに一月、二月ほどは館を空けることがあったから、谷の人々の誤解を解き、長い説明と説得を繰り返す以外のことはいつもの慣れた手順で進んだ。私が不在のあいだの館の手入れを頼み、話しそびれていた星読みの結果を伝え、穢れをはらう祈祷をおこない、人々の健康や耕地の豊穣やその他諸々の幸運を祈るまじないを谷のあちこちに施して。しかし谷の人々は、平穏な星読みの結果にも大盤振る舞いのまじないにも安心するどころではなく、ただただ面食らっていた。
 今までと異なるのは、私がずっと遠いところに向かい、いつ帰るかわからないことだった。とりあえずは地中海の果てまで行ってあの男を見いだし、若い王の影が再び目覚めるのを確かめ、きちんとほどく。それまで一年か二年か、あるいは……。
 谷の人々は、当然のことながら自分たちの治癒や祭祀を担うシャーマンがそんな長旅に出ることを歓迎はしていなかった。はっきりとは言わないものの表情に不服さをにじませる谷の人々の心を宥め、私を旅に送り出す心の準備を整えてもらうほうが、首長や頑固な長老たちを説得するときよりもよほど苦心したかもしれなかった。それでも忙しい数日を過ごしたあとには支度はいつのまにかすっかり終わっていた。なせる仕事はすべて片付け、谷の人々のなんとなくの同意とはなむけを受け取り、旅の荷物もすっかり詰めた。
 旅立つ前夜、わずかな旅装の替えと旅に必要な諸々の小さな道具、そして祈祷に用いるお守りや星読み盤といった必要なものが荷物に入っていることを検めて、最後に棚の奥にしまった小箱から異人の男から受け取った巾着と書き付けを取りだした。
 この金を路銀に使うことになるとは、受けとったときには考えもしなかったことだ。不思議な気持ちがふいに心を満たした。さだめに突き動かされる自分をどこか遠くから眺めているような気がした。なにもない開けた茫漠とした天地に突然にぽつんと孤独に放りだされているのに、自分は目の前の小さな一つ一つの作業であくせくして、目の前の広がりに気づいてもいない。滑稽なようなそら恐ろしいような、そんな気分だった。
 いや、さだめが呼んでいるという確信はある。谷やエジプトで星見や治癒を施してきた日々も、目当ての見えない旅に出る明日も、ひとつづきの同じ地平にある。どこにいようがさだめの流れに従い、しかあるべきようにあり続けるだけのこと。今は旅の道に身を置くことが私のなすべきこと、あるべき姿であるにすぎない。そう考えながら、手にした巾着を目立たないが取り出しやすい場所に収めようとしたら、中の金貨銀貨が触れあって小さな鈴のようにちりちり鳴った。珍しくもない音なのに耳慣れない、ひどく新鮮な音に聞こえた。早朝にさえずり始める小鳥の声のような、新しい日の始まりを告げるような。
 どこに身を置くにせよ、さだめに従っているのだからなにも変わらないと考えたばかりなのに、なぜか私はなにもかもが新しく生まれ変わった朝を連想しているのだった。妙な気持ちを覚えながら、巾着を荷物の片隅にしっかりとしまいこんだ。