繋縛

 視界の上半分は空の青、下半分は砂の色に占められている。雲は一片もなく、歩いていると日射しにじりじりと炙られた。乾いた風もまた肌を焼くような熱を孕んでいた。
 日陰に入るべきだとは思いながら、ピラミッドの壮観から目を離せず、砂の上に足跡を残しながらどこへともなく歩む。この記念碑はいったいどれだけの膨大な知識と思惟、技術と労力とに支えられてできあがったのか。巨大な石をこの高さに積みあげるには高度な技術と計算能力、確かな計画と積算、そして動員力がなければならなかったはずだ。それがはるかいにしえに実行され、こうして数千年を経て残っている。驚嘆すべき建造物だった。
 過去の遺物でありながら現代を凌駕するこの遺跡を見つめていると時間という概念が喪失していくような不思議な感覚に陥る。このピラミッドが建造された当時と私が歩いているこの砂の上とは隔てのないひとつづき、同じ地平にあるという錯覚。いにしえという言葉が示す遠い過去が、今、目の前にある。
 理知を見失っている、と自嘲したが、心打たれているのは否めない。実際に目にして初めて理解できる、言語にしがたい感覚があるものだ。
 思考に沈みながら歩を移してふと気がつくと、スフィンクスのそばまで歩んでいた。つま先がなにか硬いものに触れた。砂になにかが埋もれている。石かと思ったが、鈍い、金属様の光沢がちらりと見て取れた。意外に思い、膝をついて表面の砂を軽く払う。
 棒のような、なにかの道具だった。さらに砂を払うと皿や鎖が現れ、これが天秤であることがわかった。部材のはしばしにあらわれる光沢は濃い黄金色のきらめきを発している。
 黄金の天秤。なぜこんな砂漠の中に。手に載せるとゆらりゆらりとバランスをとって天秤の皿が揺れる。意匠なども含めて相当に古びて見えるのだが、それがこんな地表近くに完品の状態で見つかるのは違和感があった。細部を確認しようと目を細めて見つめると、手元を動かすにつれ、はしばしに表れている黄金の光沢が日光をはじき、光がちかちかと目に飛びこむ。水面を眺めているような、と連想する。いつのことだったか、ゆるく流れる水路の水面がまどろむように柔らかく揺れるのを見つめていたときの……
 くらり、揺れるような感覚を覚えて思わず頭を振った。ちらつく光に誘われたのか。天秤から目を離そうと顔を上げると視界はスフィンクスの巨大な貌に占められた。
 このピラミッドが築かれるのと同じ頃にこの異形の神像も築かれたのだろうか。爾来、神像はその知恵と思惟を示すまなざしを虚空に向けてきた。はるか古代のエジプト、私が見たことのない遠い地から今ここに至るまで数千年の時間の積層を、日に照らされ、微風に吹かれてゆるゆると古びながら……あたかも自分もその数千年を味わったような錯覚を覚えた。再び、身体も知覚も崩れ、この砂漠と一体になっていくような不思議な感覚に見舞われる。昔と今とスフィンクスと私と、すべてが溶け崩れるようなめまいの感覚。ふっと目の前が暗くなり、なにものかの声が聞こえたような気がした。こちらをじっと見つめる、整っているがどこかさみしい、かつて若かったなにものかのまなざし……
 いや、幻聴だ。聞こえるのは風と、風に砂が流されるかすかな音だけだ。
 見上げているのはただの巨大な石像の貌だった。かつて大勢が集められ、せっせと刻み、営々と築き上げた建造物の巨大な意匠。人々もとうに去り、今は砂の海に取り残されて崩れかけた遠い過去の繁栄の面影に過ぎない。それをさみしげだと見るのは、どうも自分らしくない感傷だ。
 頭を振り、感傷を追いやる。疲れてうとうとしていたのか? 意識を失いかけていたような気がする。それとも熱中症になりかけているのかもしれない。軽い頭痛がして、体も重く、熱がこもっている。もたもたと立ち上がった。調査隊の詰め所に戻って休まなければ。
 一瞬、なんという理由もないが、再びスフィンクスを見上げた。巨大で、重々しく、日射しと風のなかに屹立している。しかし先ほど覚えた溶けるような不思議な感覚はもう消えていた。そこにあるのは時間を経た石像にすぎなかった。ふう、と息を吐いて私は再び砂漠を歩き出した。