深潭
甲板に出てみると空は重々しく、夜明けとは思えない濃い灰色の薄明かりがのっぺりと広がっていた。雨こそ降っていないものの、頭上に低く厚い雲の重なりが垂れこめている。暗い空を映す海は空よりもさらに黒く、うねる海面には強風に蹴立てられた無数の波頭が延々と列をなしていた。すでに昨日から波は高く、船は夜中通して揺れていた。
体はもう揺れに慣れきっていた。ふらついているのは徹夜で本を繰って調べ物に熱中していたからだ。十数時間、飲まず食わずで眠りもせずにそんなことを続けたあとに立ち上がってみたら、手足が萎えて関節ががくがくしている。頭も重い。めまいなのか揺れなのかもはやわからないが、くらくらと周りが回るような感じがし、鈍い痛みもあった。
あと少し、あと少しのところなんだが。しかしさすがに体が保たない。新鮮な空気を吸おうと考えてなんとなく甲板に出てみたところでこの悪天候だった。船縁になんとなく寄ったが気分を切り替えるどころではない。部屋に戻ろうと身を返しかけたところで、どっと体を打つ強風にバランスを崩した。船縁の手すりにつかまろうとしてあてが外れる。姿勢が崩れたところに船の大きな揺れが同期し、己の体がまるで巨大な手に放り投げられたかのように弧を描いて船縁を越えた。
見張りの水夫か誰かの叫び声。全身を打つ痛み、どぷんと大きな水音。その音自体がすぐさま大量の水に覆われる。耳の周りは激しく動く水流のくぐもった轟音と、ごぼごぼと湯が沸くような音だけになった。ああ、これは呼吸か。私の息が泡になって水面目指して上に昇っていくんだな。空気は水より軽いから、吐き出した泡はぐんぐんと離れていく。体の方は泡のように浮き上がることはできない。寄せる波の重さに押さえつけられ、下へ下へと押しこまれていく。
泳ぎは苦手、どころかほぼ泳げないと言ってよかった。水夫たちが力強い腕で抜き手を切り、海をのびやかに動き回るのはよく見かけていたが、見ていただけだ。今になって真似ようとしたところで、あのように力強く水を掻き、水面に浮かび上がって船の方へ進んでいくことはできない。彼らのように手足を動かせるよう、自分も訓練しておくべきだったかもしれない。
そもそも今、自分がどこを向いているのだかわからない。仰向けなんだか、うつぶせなんだか。水面が遠ざかっていくのはなんとなくわかる。沈んでいく。深いところへ。ずっと深いところ、もっと暗いところへ。
まいったな。この先の予定がすべて台無しだ。予定地での調査も、探索も。調べ物の続きも、書きかけていた論文も。全部中途半端だ。考えたところで、圧倒的な現実がそこにあってはどうしようもない。体が沈んでいく、深いところ、人の生きる場所でないところへ。
ここで終わりか。ため息をつきそうになって、その息もほとんど残っていなかった。
ふと、彼の顔が思い浮かんだ。目の前に見ているような気がするほどはっきりと想像できた。暗い色の、深い奥行きの瞳がじっとこちらを見つめる。量るように。
残念だな。次に君に会うときには、それこそ命について聞いてみようと思っていたんだ。肉体とは別に魂というものがあると、そんなことを言っていたんだったか。肉体が死しても魂はすぐには死を迎えるわけではないだとか……それならば君にとって、生きている者と死んでいる者の違いはどのように区別されているのか。いろいろと聞きたいことはあった。
私が死んだらアブトゥは、私の死んだばかりの魂を見たと言い張るだろうか。すでにそれは予知していたなどと言い張るのだろうか。想像して、思わずにやりと笑みが浮かんだ。なんて非科学的なでたらめだ。私の魂が死者の魂としてアブトゥに話しかけることなんて起こりえない。まして、私の突発的な事故死なんて予知できるはずもない。もしアブトゥが事故を予見したなどと言うなら、私の魂の存在に言及し、死んだ私の魂の声を聞いたなどと言うとしたら……ばかばかしい。まったくお話にならない。勘弁してくれ。
さて、どうするだろうな、君は。私が死んだと聞いたら。その答えを知ることも、私自身がその件について反論を君にぶつけることができないのも、かえすがえすも残念だ。別れを告げることもできないのも。
暗い重い水のなか、深みにゆっくり落ちていく自分に向かって、ほんの少し上から、アブトゥが水夫たちのように……いや、ずっと素早くイルカのように滑らかに水中を進んできて、こちらに手を伸ばす。その手のひらが私の手のひらをつかまえ、次には腕をがっちりつかみ、体を引き寄せ、抱き留める。私の名を呼ぶ彼の静かな声が聞こえた。水中なのに。
アブトゥは私を連れて上昇していく。大海の潮の、途方もない重さと厚さをかきわけて。
昇っていく上のほうはほの明るく、天井はゆらゆらと揺れていて、そこに月や星と思われる光がいくつかちらちらと踊っている。陽炎に満ちた大気をすかして春の空を見るようだ。いや、違うな。あれは水面か。水面に近づいているんだ。アブトゥのほうをふと見たが、水の流れに従って黒髪が広がり、顔を押し隠していて、その表情は見えなかった。
なんだろうな。変な夢だ、変な幻覚だ。
アブトゥは暗闇で、がばと体を起こした。どっと息を吐く。半身を起こしたまま、しばらく荒い呼吸を吸って吐いた。心臓が痛かった。手足にはまだひどい震えが走っている。指先は冷え切っていた。堅く拳を握り、また開いて、血を通わせようとする。少しづつ呼吸が落ち着いてきた頃、アブトゥは音がするほど大きく深いため息をついてうつむいた。
「……ペレスめ」
思わず罵りが漏れそうになる。
夢の中でアブトゥは、海深くに向かって落ちていくペレスを見つめていた。彼は、投げた小石がおとなしく沈んでいくように、ほとんど抵抗を見せず淵の底に向かっていた。アブトゥは自分の魂に呼びかけた。駆けろ、彼の魂が沈んでいくより速く、駆けろ。拍車をかけ、鞭を打つような気分で、自分の魂を彼に向かってまっすぐに走らせた。伸ばした指先がかろうじてペレスの指を捕まえる。
手を、のばせ、もっと。
自分に、彼に、両方に向かって叫ぶような気持ちがほとばしったとき、手のひらが触れた。ペレスの手を思い切りつかむと、やっと彼は向かうべき方向を思い出したようだった。握り返す彼の手のひらにその力が感じられた。
そうだ、そう。上に。深いところにではなく、もっと上へ。
彼の魂を引っ張って、引っ張り上げて、ひたすら上を目指す。浅い方へ、明るい方へ、命の方角へ。あとほんのひとかきで水面に出ると思ったところで目が覚めたのだった。
ほーっと息を吐きながら、アブトゥはぼんやりと周りを見回した。深更と思えた。夜明けはまだまだ遠い。暗がりで手に触れる夜具の感触だけがやけに意識された。布のけばをなで、その柔らかい暖かい感触で少しづつ自分を取り戻した。寝床はしっかりしていて、揺れもしていないし、周りを包む暴力的な大量の水もない。今、アブトゥの身の回りには涼やかに軽やかな夜の空気だけがあり、部屋はしんと静かだった。
アブトゥは何度目か深く息を吸い、吐いた。それでもまだ震えが体の芯に残っていた。
いや、大丈夫だ、きっと大丈夫。
自分で自分の腕を抱え、なだめるように心の中に繰り返す。
多分、船員たちはペレスが落水したことにすぐ気づいていた。水中から見上げた水面に星月のように瞬いて見えた光は、きっと船の上からペレスを探す船員たちが手にしていた灯りだ。誰かが飛びこんだり、浮き輪を投げたり、手を伸ばしたり……そんな光景がちらっと見えたような気がする。すぐに誰かがペレスを船上に引っ張り上げたはずだ。
どっと力を抜き、アブトゥは再び寝床に横たわった。体も心も魂もぐったりと疲れていた。
数日前からなんとなく嫌な感覚があって、毎晩眠りが落ち着かなかった。この突発的事故を無意識の部分で予感していたのだろう。
意図的に自分の魂を遠くにやって誰かの魂に働きかけることはまずしない。それはとても危険な行為だった。しかし、無意識に遠くの人の魂に働きかけてしまうことはあった。アブトゥの魂が、力が、自分の意思とは無関係に呼ばれてしまうのだ。そういうときは決まってとんでもない疲労に襲われる。
まあしかし、それで危難を逃れることができたのなら……疲労よりもなによりも心には安堵が広がっていた。彼を失わずに済んだのなら。夢でも魂の領域でもなく、本当に帰ってきた顔をまた見ることができるのなら。意味はあったのだ。ふと深みに引きこまれてしまう彼の魂を支えるのが私の役割だ、そのために自分はいる、おそらくは。そういう運命なのだ。
ふと、自嘲のような笑みが口の端に小さく上った。
どうだろうな。
星が、運命が指し示すことは、いつもとても深く、遠く、広大で、簡単にわかったなどといえるものではない。大いなる運命の運行にあってこんなちっぽけなひとつひとつの出来事には意味もなにもたいしてないのかもしれない。自分の存在もペレスの魂も砂粒よりもちっぽけで、たまたまここにあり、たまたま消えなかった。ただそれだけのことだった。
今のところ運命はどうやらペレスを死なせる方向には向かっていないようだった。彼は航海を終え、無事に帰ってくる。そしてそれが次のなんらかの運命につながっていくのだろう。ささいな一つ一つのしずくが集まり、流れ、やがて渦巻いて潮流となるように。しかし運命がどうであるかはともかく今はただ、アブトゥ自身が、ペレスの命をつなぎ止めたことに安堵しているのだった。
そんな自分自身に気づいて、あきれ半分でため息をついて、アブトゥは寝返りを打った。とりあえずこれで、少なくとも安眠を取り戻すことはできそうだ。ペレスの船団が戻ってきたらなにかしら文句の一つも言ってやりたい気がしたが、そんなことをしてみてもきっと彼は鼻で笑って、アブトゥの言葉を妄言として退けるのだ。いつものように。
そもそも帰ってきたペレスはこの事件をどう話すものやら。うっかり船から落ちて死にかけたなどと素直に話すだろうか。彼に口を割らせるためにどうやって水を向けてやろう。そんなことをつらつら考えているうちに、アブトゥはすとんと眠りに落ちた。