やどりぎ
のべつまくなし音楽が流れているショッピングモールというものが、ペレスは得意ではない。あっちの店から流れる音楽とこっちの店から流れる音楽とが、ぶつかりあってがなりあい、人の思考を邪魔するだけだ。なのに、資本主義だか商業主義だか、なにかしらないが金儲けの理屈は、世の中のあらゆる瞬間に演出を施し、商品の付加価値だか広告効果だかを無理やり生み出し続けようとし、それを経済活動だと言い張っている。
今、街に流れる音楽はだいたいが、ベルとオルゴール、エコーするクワイア、朗らかな長調で構成されている。いわゆるクリスマスソングだ。人々の足を浮き立たせ、財布の紐を緩ませるために、これらは十二月に入っての四六時中、軽薄に垂れ流されている。
ペレスは財布の紐なんか緩める気は一切ない。なのに、この現代社会が要求する盛大な消費の祭りに巻き込まれざるを得ない立場にあった。つまり、甥と姪にクリスマスプレゼントを用意してやらなければならないのだ。
ライブ動画つきのネット電話で、まだ3歳の姪は、アニメ映画のお姫様がつけているティアラが良い、と主張した。次に画面に現れた6歳の甥は、BMXが欲しいとのたまう。つい二か月ほど前まで、姪はふわふわしたぬいぐるみのくまちゃん、甥はサッカーのナショナルチームのエースが履いてるのと同じメーカーの靴が欲しいなどと言っていたはずである。脈絡がない。あまりにもその場限りの、計画性のない、目先の欲望しかないではないか。
画面には映っていないが兄の声が、お前だって昔は大人からあれこれもらっただろ、と言った。
まあ確かにそうなのだ。そうだが、自分はもう少し、自分自身にとって役に立つものを求めたと思っている。百科事典、顕微鏡、望遠鏡に、タブレット。それを使ってどれだけ学びを広げたことか。そしてその結果が、今の……今の、非正規雇用のポスドクの身分である。
そう、ペレスは非正規雇用の、季節ボーナスなど支給されない立場である。だから、彼らの要求するようなぜいたく品はやれない、と宣言した。
姪はギャン泣きし、甥は、おじさん貧乏だからね、と諦観をにじませた笑顔で肩をすくめた。
なんて生意気な連中だろうか。
見切れながらもやっと画面に写り込んだ兄は笑っていて、お前が良いと思うものならなんでも結構だけども、とだけコメントしてきたが、もはや意味もなく泣きわめき続ける姪……イヤイヤ期をまだ抜けていないらしい……をあやすのに忙しく、すぐ画面からフェイドアウトした。
いろいろと腹に据えかねながら、とはいえ大人としては子供にクリスマスプレゼントの一つも贈らないというわけにもいかず、じゃあなにを用意すればいいのかと考えに行き詰って、相談した相手はアブトゥだった。
「私は一人っ子だし、親族にも今は小さい子がある家庭はないから、今時の子供の喜ぶものなどわからないぞ」
アブトゥは困惑したように言った。ペレスだってそれは知っている。そうだけども、他に聞ける相手もいなかったのだ。
「マリアに聞けばいいのに」
「早めに帰省してしまったからなあ」
クリスマス休暇が始まるや早々に、マリアは実家の商売の手伝いがあると言って帰省してしまっていた。こんなしょうもないことで、年末商戦に忙しいマリアに連絡を取るわけにもいかない。
「ギリギリになるまで放っておくからだ」
「あいつら、すぐ気が変わるんだ」
子供というものは移り気で理不尽な生き物だとペレスは認識している。先週言っていたことがまるであてにならない。
「とりあえず、ショッピングモールのおもちゃ売り場にでも様子を見に行ってみたらどうだ。なにかしら子供に人気のものが置いてあるだろう」
「まあ、そうだな……」
しかし、ペレス自身はおもちゃをねだったことがないので、そんな場所に行ってもなにを買ったらいいのか皆目わからない。そもそもただでさえ行きつけないショッピングモールの、入ったこともないおもちゃ売り場なんて、そこに行くというだけで相当にハードルが高い。
ぶっちゃけ一人で行くのはかなり気後れがした。アドバイスもなにもなくてもいいから、ただ一緒に来てくれる人がほしい。
買い物に付き合ってくれるか、という一言を出しあぐねていたら、一瞬アブトゥと目があった。
軽くため息をついて、アブトゥは呟いた。
「付き合ってやろうか」
そういうわけでペレスは、買い物客でごったがえす土曜日の昼下がりのショッピングモールの入り口を、人の波にもまれながらなんとか店内に入ったところだった。
アブトゥとはモール入り口の広場で待ち合わせをしていた。例年、大きなクリスマスツリーが飾られているスペースだ。
辟易としながら人ごみをかいくぐって広場を目の前にしてみると、今年も何メートルもの高さの巨大クリスマスツリーがそびえていた。雪降りしきる北国のイメージなのか、霜をかぶったように全体に白いペイントが施されていた。ツリーの枝枝にはみっしりと、きらきらしい金色、銀色のテープやボールが飾られている。
今年はそのツリーの少し手前に天井から吊り下げられているものがあった。
大きな緑色の玉だ。植物の葉を丸い形に束ねたような……
ヤドリギの一種だ、とペレスは気づいた。
どこか北の島国の風習で、クリスマスにはヤドリギを飾るんだったか。
あれ、なんでこんなことを知ってるんだ?
ペレスは自分でも不思議に思った。基本的にペレスは人間社会のこと、いわゆる人文系分野には興味関心が薄い。合理的でも科学的でもないことが多いからだ。それなのによその国の他愛もない風習が、科学的知識と思考とが詰まってて隙間の少ない脳にわざわざ記憶されているとは。どこで聞いた話だったっけ。
記憶をたどってみたがちょっと思い出せなかった。なんにせよたいしたことではない、のだけは確信できた。
ヤドリギの飾りの下はちょうどツリーの前で待ち合わせ場所に良いのか、たくさんの人が人待ち顔に立ち並んでいた。
その人々の輪のはずれに、細身の、長めの黒いコートをきっちり着込んだ人影があった。背筋を伸ばしてすっと姿勢よく立ち、片手は顎に添えながら、手にした文庫本にじっと目を落としている。
ペレスが近づいていくときにちょうど、黒いコートの人物は本から目を上げ、ペレスの姿を見つけた。本を下ろし、コートの深いポケットに突っ込んだ。
「悪い、待たせた」
ペレスが声をかけると、いや、と彼女は首を振った。
寒いのか、アブトゥは首にマフラーをきっちり巻いていた。おかげで括った髪の毛はマフラーにすっかり埋没していて、一見するとショートヘアのように見えた。周囲の人間は彼女が女性だとはおそらく気づいていない。多分、モデルかなんかだと思われている。それも若い男性の。実際、近くに立っている若い二人組の女性が、アブトゥのほうにちらちらと目をやって、なにか囁き合っている。多分、かっこいいとかすてきとかなんとか、そんなことを言っているのだ。
それにしてもなんだか、周りには妙に若い女性が多いのだった。それと若いカップルも。
ちょうどペレスのすぐ隣に立っていた若い女性は近づいてきた若い男性に手を振ったと思うと、思い切り抱きしめあって熱烈なキスを交わしていた。
すぐそばにいたもので思わず目線をやってしまったが、他人のプライベートのことなので、どうこう意見もない。最近の若い者はずいぶん大胆なんだな、と年寄りじみた思考が頭をよぎる。
アブトゥを見ると、彼女はじっと上に下がっているヤドリギの飾りを見上げていた。ペレスの視線に気づいて、小さく笑う。
「やどりぎといえば、金枝篇だな」
「きん、え、なに?」
「金枝篇」
ポケットを叩く。さっき手にしていた本を指しているらしい。
「古い本だが、文化人類学や宗教学では最も有名な本のひとつだ。古代、ある小さな湖のそばにある森に、聖なるやどりぎが生えていて、それを信仰する人々の話があってな」
アブトゥは再び、ヤドリギを見上げた。
「タイトルの金枝とはこの神聖なやどりぎのことなんだ。やどりぎの枝を折ったものは森の王と呼ばれ、森の女神の司祭の地位を得る。だが、それにはもうひとつ条件があって、森の王を殺した者でなければならない。森の王は王であると同時に供物として神に捧げられ、やどりぎの聖なる力に縛りつけられた命なのだ」
「おどろおどろしい話だな」
「ともあれ、やどりぎの枝に呪力を見る古い信仰は、ずいぶんと形を変えたものの今に生き残っているというわけだ」
そう言ってなんとなく皮肉めいた笑みを浮かべる。
「ふーん……しかし、このヤドリギの飾りはもともとうちの国にはない風習だろう」
「知らないのか」
ん?と眉を寄せたペレスに、アブトゥが言う。
「最近やたら流行ってる恋愛映画で、やどりぎの飾りが出てくるんだそうだ。外国の映画で、人気のある若い俳優が出ているらしいが……クリスマスのやどりぎ飾りの下では、男は好きに女にキスをねだっていいんだとか。女はキスを断ると次の年は結婚ができないんだとか。その風習を巡った行き違いでどたばたして、最後には一件落着という、よくあるラブコメディだな」
へっ、とペレスは間の抜けた声を上げた。それでなのか。やたらにあの場所に若者が群がっていたのは。
思い出した。確か超研でも、冬休みに入る前にこの映画のことがいくらか話題に上がっていたような気がする。まったく興味がなかったので話の内容はほとんど忘れていたのだが、ヤドリギの飾りのことを知っていたのは、そのときぼんやりと頭に入れた断片的な知識のためだったのだ。それにしてもアブトゥは、なぜその映画の内容まで知っているんだろう。
「君、映画、見に行ったのか」
「いや。まったく興味が湧かなかったからな。マリアからあらすじを聞いただけだ。金枝篇の話に触れるような箇所でもあるかと思って聞いてみたんだが、そんなことはなかった」
そりゃそうだ。ラブコメディ映画の筋立てに、文化人類学の大著だとか、古代の血みどろの風習といった話を絡める必然性が全くない。
それにしてもこれだから風習というやつは油断がならない。伝統でございとかいう顔をして、非合理的で非科学的な謎の行動を人々にとらせてしまう。眉間の皺をだいぶ深めているペレスを見て、アブトゥはにやりと笑った。
「そうしかつめらしく考えるな。今時、真剣にやどりぎ飾りに魔力がこもっているなどと考えている者はいない。皆、流行っているロマンチックな映画に自分たちの夢を仮託して、気持ちを盛り上げて楽しんでいるだけだ。大衆による物語の消費の一形態だな」
「なんだかわからんが……いや、まあ、いいや」
フィクションを楽しむということをあまり習慣にしていないペレスにとっては、この文系的な発想がどうにもぴんとこない。考えてもわかりようのない範疇のことは、思考の無駄なので考えないことにした。
気が付くと周りでは、若い男同士で連れ立ったのが、若い女性に声をかけたりなぞもしている。
これは、どうも、ナンパスポットにもなってるのか……
よくよく見たら、広場の片隅に、件の映画のタイトルやらヤドリギの飾りの由来やらが説明書きがあって、むやみに流麗なフォントで「やどりぎのキスを、あなたにも」とかいう謎のキャッチコピーが書いてある。なんだそれ。今ここにいる人間の大半が、去年のクリスマスにはそんな風習のことはご存じでもなんでもなかったはずだ。ちょっと流行った映画に出てくるからって、当たり前みたいにそんなムーブメントに乗ろうという連中の気が知れない。
ふと、アブトゥをちらりと横目に見た。雑踏に向けられた視線は見るともなしという感じで、この広場の浮かれた空気になんの興味関心もないのがありありとにじみ出ていた。
わかりきっていたことだが、なんとなくほっとした。
自分だけが、ついていけないという気分を抱えているわけではないんだ……。
「浮かれ騒ぎはいいが、人に迷惑をかけない程度にしてほしい」
ぼそりと、マフラーに口元をうずめてアブトゥが呟く。え、と目を合わせると、アブトゥは広場の、やどりぎの真下あたりにちらりと横目をやった。
「最初はあっちに立っていたんだ。気づかないで。そうしたら、ナンパされてな」
ナンパ。
ナンパ?
(やどりぎ飾りの下では、男は好きにキスをねだっていいんだとか……)
さきほどのアブトゥの説明が脳内で繰り返されて、どうしてかペレスは、血の気が引くような気持ちがした。ペレスの感情には唐突に小さな嵐が渦巻き始めていたが、アブトゥは気づいた様子もなかった。
「……キスをしろと迫られてな。断ってもしつこくて」
ペレスの心の中の嵐が風速を増していく。どういう、どういう、それは……。どんな男だか知らないが、よくも、そんなことを。
なぜか、ものすごく、腹が立つ。
自分のなかに沸き上がった感情の激流に折り合いがつかず、言葉を失っているペレスの横で、ため息をついてアブトゥは続けた。
「女だからといくら説明しても、女でもいいとか抜かすんだ。酔っ払ってたんじゃないかと思う。若い娘が、こんな真昼間からどうかと思うんだが……それにしてもどうしてこう毎回……」
ここでアブトゥはペレスのほうを見て、一瞬、大きく瞬きした。
「なんだ、えらい険しい顔して」
言われて、ペレスは眉間にだいぶ皺寄せている自分の表情に気づき、慌てて取り繕った。
「や、いや、うん。その、流行に乗ってだかなんだかしらないが、そんな軽薄なノリで迷惑かけてくるの、困るよな」
アブトゥをナンパしたのは、つまり、女性か。
そう、そうだよな……いつもそうだった。端正な顔立ちで、上背もあり、細身でしゅっとしている。無駄なく落ち着き払った挙措動作もあいまって、全身から「かっこいい美形」オーラが放たれているアブトゥは、女性にこそよくナンパされるんだった。
いや、相手が同性であれなんであれ、アブトゥは無理やりキスを迫られたのだ。立派なセクシャルハラスメント事案である。しかしどうも、ペレスの中の感情の嵐は、先ほどの瞬間的な沸騰ほどには動かないのだった。
なんでほっとしてるのか、自分でもよくわからない。
「えっと、とりあえず、行こう」
言いながら、ペレスは大股に歩きだす。どうしてか、この場所を一刻も早く立ち去りたかった。
ああ、とうなずいて、アブトゥはちらっとペレスを見た。目が少しだけきゅっと細められた。
「中学生でもあるまいし、照れることないだろ。そこらでカップルがいちゃついてるからって」
笑いをにじませたアブトゥの声に、うっ、と感情の波がまた、なんだかざわめいた。いや、別に、そんな、他の男女がどうこうとか、そんなことはどうでもいいんだ。それじゃなくて、君が……
心の中で急にペレスは、全ての思考と動揺を横押しにぐいと脇に寄せた。わからないことはむやみやたらに考えない。考えないんだ。
歩きながら、ペレスは小さく息を吐いて、ちらりと隣を歩くアブトゥに目をやった。
アブトゥはペレスと肩を並べて歩いている。普段からわりと速足な彼女は、いつもより少し急ぎ足のペレスにも当たり前のようにペースを合わせて歩いている。いつものとおり、まっすぐな姿勢で。その鼻筋の通った横顔がいつにもまして心のどこかを突いて、ペレスは慌てて視線を外した。
答えを出すには、情報が足りないんだ。今はまだ。今は……多分。
それが詭弁であることをどこかでうっすら気づいていたが、ペレスはそのうっすらした自覚にすら情報不足のタグをつけ、脳内倉庫の奥深くに押し込むと、とりあえずは目の前の課題……おもちゃ売り場という未知の領域に向かう心構えを作ろうと、深呼吸を繰り返したのだった。