一陽来復

〈総決算〉

 た、たたた、大変、大変ですよ。もう冬至を過ぎましたよ!
 もう、またなんでそんな呑気な顔なさってるんですか!
 年末ですよ! ね・ん・ま・つ!
 来ちゃいますよ、来ちゃいます……例のアレが。
 アレですよ。アレ。
 決算。そう・けっ・さん。
 ううう。ミゲルは提督の皆さんのお支払いの計算とお手続きをせねばなりません……
 ご主人、お覚悟はいいですか。
 ……だ、だだだ、大丈夫です! やりくり、なんとか……なん、とか、なる、はずですから……
 ひー、ふー、みーの、よーの……
 ご心配なく、ミゲルのへそくりは出さなくても大丈夫です、きっと……。
 え? アテにしてないですって! 私がせっかく……
 へ? なんですか、そんな笑って。
 帳簿をよく見てみろ、ですか?
 ………………
 な、なんですか、これは! ど、どどど、どういうことです?
 ま、まさか、ついに禁じ手のアレとかコレとかに手を!?
 ……違うって?
 ですから、帳簿はよく見てます、見てますってば!
 見てま……ここ? ふむ。ふむ、ふむふむ。
 黒真珠の指輪の開発……それに、新商品のホットカリーの取引……
 す、すごいです、先月の売り上げ、大、大、大黒字じゃないですか!
 やりましたね! これで提督の皆さんにお年俸をたっぷりはずめますよ。
 船の改修もできるし、それどころか新型船の新造だってできちゃいます。
 良かった~!
 これで今年も無事に年を越せますね、ご主人!

 ちん、と堅い音をさせて、にこにこ顔のミゲルが銀貨を指ではじく。窓辺に差し込む冬の日差しをきらきら素早く反射しながら、銀貨はくるくるとコマのように回転した。めぐる、丸い大地のように。

〈北の海から〉

 暗闇に息を吐くと、手元のランプの灯を受けて、白い靄が眼前に立ち上る。空気が冷たすぎるときはあまり大きく息をするなと北国生まれの航海士が言っていたことを思い出し、アブトゥは呼吸を整えた。
 寒かった。甲板に立っていると風が四方から当たる。わずかに露出している褐色の頬に切りつけ、襟巻に巻かれた喉元に忍び入ろうとするその風は、無数の小さな刃と思えるような鋭さで、北国の空に乱れ飛ぶ風の精霊たちの怜悧さそのものだった。
 砂漠も夜になると冷え込みが厳しいが、こうも人間を拒むような冷気に満ちた場所に立つのは初めてだった。
「提督、お寒いでしょう。船室にお入りになってください」
 船員の一人が声をかけてきた。過日、アブトゥに寒冷地でのアドバイスをくれた北国生まれの航海士だ。
 アブトゥはうなずくが、まだ空を見上げていた。
「珍しいですか」
「不思議な光景だな」
 晴れた夜空には大きく光が揺らめいている。黄緑色の光が、船上のはるか高くに薄い絹地を広げたかのようにゆったりと翻っていた。
「冬の、夜が長い時にはよく見かけますがね」
「あれは……なんだろう」
「さあ、わかりませんね。年寄りがするおとぎ話で、神のしもべの大狐の尻尾が光ってるんだとか聞いたことはありますが。提督にもおわかりにならないんでは我々にはさっぱりですよ」
 航海士は苦笑したようだったが口元は分厚い毛皮の襟巻に隠されていてはっきり見えなかった。アブトゥも苦笑を返したが、自分も同じように襟巻で顔の下半分を覆っているので、見えなかっただろう。
「風の精霊たちが大気に満ちているのは感じるが、あの高い空の光は、はじめて出会う気配だ。それに、あまりに遠くてよくわからない」
「雲よりも上にありますからね。まあ、あれのせいでこんなに寒いってわけでもなし、南の人は不気味だと怖がったりしますが、なんの害もないしろものですよ」
「そうだな。あれは、地上とはまるで無関係のようだ。まるで星のように遠くにある……だが、あの光は、星と同じように、どこか人の心を惹く」
「そうですかね? まあ、提督はあれをむやみに怖がったりなさらないのは、さすがです」
 アブトゥは微笑んだ。世界の果てを確かめる航海を成功させてからこちら、船員たちは結束が固くなり、アブトゥに大いに信頼を寄せてくれるようになった。だいたいにおいて士気は高く、統率も取りやすい。そうした彼らの信頼に、アブトゥも応えなくてはいけないと思っている。
「皆には悪いことをしたな。あなたがたヨーロッパの人びとは冬至過ぎには家族で過ごすものだと聞いたが、この寒空に働かせてしまうことになった」
「商会からの指示があったんじゃしょうがありませんや。まあ家族ったって、あれたちはあれたちで忙しくしてて、遠く海の上にいる私のことなんざそう気にかけちゃいませんよ。送ってくる便りも、年越しのための仕送りを寄越せってくらいのもんで」
 彼にどういう事情があってこの船に乗り込んでいるのか、アブトゥは知らない。船員たち一人一人の経歴の詳細を詮索したことはない。ただ、この航海士も、海に出るしかない、ありふれているけれどもやむかたないなんらかの事情をおそらく背負ってこの船にいるのだろう、とは思っている。とはいえ、この航海士にとって故郷が懐かしく誇らしいものであることは、北国についてあれこれ説明するこれまでの言動で感じ取れる。
 一年でもっとも暗いこの季節、陸では人びとは部屋を暖かくして明るく灯をともし、卓上に御馳走を並べるという。家にひきこもって肩を寄せ合う彼らを横目に見ながら、寒風と暗夜に取り巻かれた航海の途に身を置かねばならないというのはしんどいことだろうと、アブトゥは船員たちのことを考えている。
「そう遠からず次の港が見つかると思う。そこで年の明けまでしばらく休暇にしよう。どうせ海も荒れている時期だ、慎重な航海をしなければならないのだから、ゆっくり行こう」
 アブトゥがそう言うと、航海士は嬉しそうに目を細めた。

〈手紙〉

 親愛なるお母さま。
 毎日とても寒いけれど、お母さまも、ばあやも、元気にしていますか。
 私たちは元気にやっています。トーレスは寒い寒いと文句ばかり言っていますが、そんなこと言いながらも張り切って若い船員たちの指導をしています。船ではトーレスがいっとう年が上なのに誰よりも元気みたいです。どんな寒い日だってお父様は甲板に出ないということはなかったと、私にもそう言って、毎日ちゃんと船員たちと船を見回るようにと口を酸っぱくして言ってきます。
 でも、私にはこのあいだお母さまが贈ってくださった毛皮の帽子があるから、寒いのはへっちゃらよ。
 冬の晴れた日の航海は、海風が冷たくっても、やっぱりとっても気持ちがいいの。朝方、日が出たばかりのときに甲板に出たときなんか最高よ。水平線の向こうが眩しいけど、眩しければ眩しいほど、どこまでもまっすぐ行けるような気がするの。まだ空が暗い方向から、朝日の射すまぶしい方へ船が飛ぶように進んでいくようなときなんかは、朝の風が顔に爽やかにあたるときなんかは……なんて言ったらいいのかしら。言葉にできないの。お母さまやばあやにも見てもらえたらな。
 そのことをトーレスに話したら、お父様もそんなことをおっしゃっていたと言っていました。いつか私を船に乗せて、この朝日を見せてやるんだとおっしゃっていたそうだけど、お父様を追っかけて海に出た私がやっぱりその朝日を気に入っているんだから、これもお父様が下さったものの一つなのかもしれない。そう考えたら、朝日の時間がますます好きになりました。
 この手紙がお母さまのところに着くのは待降節も終わり頃でしょうね。
 戻れなくてごめんなさい。
 もしかしたら、もしかしたらだけど、お父様の船の情報を掴んだかもしれません。だから……
 帰れないかわりに、手紙と一緒にいろんなお土産をたくさん送ります。新大陸の果物、新鮮なうちに届くといいけれど。どれも美味しかったから、お母さまたちに喜んでいただけたら私も嬉しいな。そうそう、七面鳥という変わった鳥も一緒に送ってあるわ。鶏より大きいし、お肉も美味しいの。おなかに詰め物をして丸焼きにすると最高よ。二十四日のごちそうにいいと思うから、ばあや、がんばってさばいてちょうだい。
 お母さまとばあやと、二人ともどうかうんと暖かくして、たくさん美味しいものを食べてね。
 私たちは大丈夫。トーレスもいるし、船員たちもいるし、毎日とても賑やかで元気にやっているから。
 きっと年明けには、春になる前には帰ります。そのときには、お母さまにいい知らせを持って帰れるといいなと思っています。
 待っていてね。
  あなたを愛する娘、マリアより。

〈聖夜の祈り〉

 南へ、ずっと南へ。
 どんどん南に行くとどんどん暑くなるのかと思うが、赤道を越えてさらに南を指していけば、だんだん寒くなってくるはずだ。
 とはいえ、インドの港を出て島々を伝い、南へ探索を続けているゴメスの船では、このところ水夫たちは暑さに耐えかねて、毎日、帆を船の横に垂らして作った即席のプールで海水浴をしている。その海水とて日なた水のようにぬるい。向こうじゃ着こんで暖炉の火に当たってるんだろうなあ、などと誰かが呟いたが、想像するだけで暑くなる。
 暦ではもう冬至を過ぎていて、赤道を越えた北側では真冬なのだが、こちらは季節が反対なのだ。冬至は、こちらでは逆に夏至である。
 船はゆるい風に押されて南へ、南へ。毎日、うだるような昼が過ぎ、遅々とした歩みで日が水平線に沈み、満天の星が空を覆う真夜中にも涼しくはならない。そしてまた、眩しくぎらつく朝を迎える。
 暑気が船上を支配する、この緩み切った空気の中で、それでもゴメスは最低限の警戒は緩めていなかった。
 折り折りに自ら海上を見張る。以前、波間を漂うガラスびんを拾ってからは、努めて海上の様子に気を配るようにしていた。
 びんに詰められた短い手紙にはサンクティ・ソリスの署名があった。突然に商会を抜け、去っていったかつての友の名前。
 ゴメスはしばしばその手紙を取り出しては見つめた。何度も目で文字を追う。なんの事情か、手紙をまともな手段で商会に送ることができなかった様子で、どこか帰れないことを覚悟したような文面だった。
 だが、少なくともこの手紙を書いたとき、どういう状況にあるにせよ本人はおそらく元気でいたのだろう。東洋のどこかで。
 気は逸る。そもそも商会は、ジパングを見出せという国王の勅命を受けているのだ。東洋へ向かう必然がある。
 とはいえゴメスは慎重に、インドを過ぎた海域の海つ路を切り開いているところだった。商会の目下の目標はジパングへの到達とはいえ、それには資金も資材も人材も必要だった。商会をより大きくしっかりしたものに育てなくてはならず、積み上げていくべき別の探検や、交易路の開拓といった、なすべきことがたくさんあった。商会は一つの目的のためだけに動いているわけではない。いつでもたくさんの人が、たくさんの仕事に関わって回っている。
 ソリス。やるべきことがあると、ある日ふいに商会を辞めていった友。そう、自分だけの目的で動くのは提督のすべきことじゃないんだ。関わるたくさんの人間を、その人々がつながりあう輪を背負わなければならない。そう思って提督家業を続け、様々な不運も乗り越えて、またこうして商会の船団を率いて大事業に携わっている。だからこそ私は、自分の気が逸るままに、すぐ君を助けに向かうことすらできない。
 はるか昔に別れたきりの友に、心の中で昔のままの調子でそう呼びかけて、ゴメスは自分のその内心の呟きにはっとした。
 首を振って、海上に再び目をやる。
 日が赤々と燃えながら、水平線に沈んでいくところだった。
 空と海は色をだんだんと落とし、夕暮れの暗い波間には沈む日の赤い色が乱反射していた。
 ふと、ゴメスは船からそう遠くない波間の一点を注視した。そこだけ妙に波が大きく立っている。
 ゴメスと同時に見張りも気づいて、警戒の声を上げていた。見張りの指さす方向を見るべく、船員たちは船べりに取りついた。ゴメスも見つめるうちに、波は大きくうねり、湧きかえるように盛り上がる。夕日を背に、ぬっと黒い影が長く伸びた。三角の高い帽子をかぶったような、船のマストほどにも大きな影が、船に覆いかぶさる。
「海の司教だ!」
 恐れおののいた声が船の方々から口々に上がる。黒々とした影に、船上の誰もが怯えて浮足立った。
 ただ一人、ゴメスを除いて。
 ゴメスだけは、船べりをしっかりつかみ、険しい顔ながらしっかり真正面から黒い影に向かい合った。
「海の司教か」
 ゴメスは甲板に振り返り、大音声で船員たちに向かって言った。
「おい。怯えるようなことか。晩の祈りの時間だ」
 不敵な笑みを浮かべてみせた。
「今日は二十四日だ。聖夜なんだぞ」
 ぽかんと口を開ける船員たちの前で、ゴメスは呵々大笑した。
「聖夜の祈祷のために、司教さま直々においでくださったというわけだ」
 顔を見合わせた船員たちは、ゴメスの笑いにつられて、口の端に笑みを浮かべ始めた。ゴメスは海上の影を見据え、そして笑い飛ばした。
「司教たるものが、我々の道行きを邪魔立てするはずもない。そうだろう。むしろ航海の安全でもプレゼントしてもらおうじゃないか」
 船員たちも声を上げてはやし始めた。まったく、悪乗りだけは得意な連中だと、ゴメスは純粋に声を上げて笑った。
 せりあがる影が、氷塊が溶けくずれるかのように萎れた。海の底からでも響くような、長く長く、呻くような、低い太い声が、影から立ち上ってくる。
 さすがに船員たちはびくっと身を震わせたが、ゴメスはそれでも動じなかった。どっしりと四肢を張り、影をじっと見据えると、見る見るうちに大きかった影はしゅるしゅると萎んで小さくなり、うめくような長い声も消えていった。海深くに沈んだかのように、気がつけば影は跡形もなく姿を消していた。ゴメスはもう一息、笑った。
「さてさて。我々は祈祷も無事に済ませたわけだ。信心深い子羊たちの公現日の祝いには、新しい素敵な港町の発見でも願いたいところだな……とりあえず今晩はこの船で、盛大に聖夜を祝おうじゃないか」
 ゴメスの言葉にわっと船員たちは沸きかえって、陽気な笑い声と、浮かれたはやし声を立てた。
 微笑んで、すでに浮かれ始めた部下たちを見つめながら、ゴメスは口中に、声にはせず呟いた。
 懐かしい顔との再会も、贈ってもらえたらいいんだがな。

〈パーティ〉

 陽気だが乱暴なフィドルが途切れることなく鳴り続けている。
 どんどんテンポを上げていく速弾きに、海上の荒くれたちといえどもなかなかついてはいけない。
 そもそも酔っ払って足元が覚束ない者だらけだった。大の男たちが足をもつれさせて転げては、ひいひい笑い声を立てる。
 この狂乱は日が落ちる前から始まっていた。海賊くずれと、現役の海賊と、これから海賊になってもおかしくないような連中とが、今晩、この孤島には何百と集っていて、海賊しか知らないようなバカ騒ぎの年越しの宴を繰り広げている。
 バルディは騒ぎからはずっと引いた場所、酒場の奥まった一隅で、ひっそりと杯を空けていた。海賊のあいだでは知らない者のない目立つ顔だが、この宴席では誰もバルディを見咎めない。宴の主人の、名を明かされない賓客の一人として招かれていたからだ。
 宴の主人は海賊トッドだった。派手好き、ぜいたく好きの彼は、毎年、年越しの宴だといって莫大な金を費やしている。遊び好きで気まぐれなトッド。今年はどこにどう気が向いたのか、唐突にバルディに招待状を送りつけてきたのだった。
 別にこの誘いに乗る義理もなかったが、彼の主宰する宴ということならば、たとえ建前でもバルディは匿名の客として扱われることになっているし、秘密は守られるだろう。寝首を掻かれる心配もない。
 せっかく宰相などという堅苦しい衣を脱ぎ捨てて海の男に戻ったのだ。今さら海賊として振る舞う気は毛頭ないが、陽の当たる陸の暮らしでは伝わってこない海の狼どもの情勢を肌で確かめるにはちょうど良い機会だと、バルディは考えた。
 代わりにバルディも義理を立てなければならない。トッドはトッドなりの公正と秩序を保つ男で、彼の差配する場には、いかなる諍いも対立も起こしてはならないというルールがあった。だからバルディは、ポルトガルの沿岸でうろつく小うるさいチンピラはもちろん、ポルトガルの国益を損なうような派手な活動をしている海賊であってさえも、この場で姿を見かけても、咎めることも捕まえることもできない。探りを入れることさえできない。宴席の空気を壊すからだ。そうしたことをすべて飲み込み済みで、バルディはこの場所に座って、ただ海賊たちの、景気いかん、情勢いかんを、また嘘だか本当だか見当のつかない虚実入り乱れる噂の数々を、酒とともに身体にじんわりしみこませていた。
 傾けている杯にそそがれているのはなかなか良いワインだった。二十年ばかり前の当たり年のものではないだろうか。口に含むと鼻に薫り高い風味がふわり抜けていく。トッドは美食も愛して止まない。この宴でも海賊にはもったいないくらいの上等な料理と上等な酒が途切れもせず繰り出されていた。王宮でもなかなかない大盤振る舞いだぞ、とバルディは苦笑した。いったいこの年越しの宴のために、トッドは集めた財宝をどれだけ費やしているのだろう。
 ふと、人ごみが割れた。口笛、はやす声。それらをまるで受け流し、バルディにだけ向かって放たれたのは、聞き慣れた声だった。
「ルイス! こんなとこにひっこもっちゃってさ」
 バルディは小さくため息をついた。うるさいのが来たぞ。
 アンジェラは満面に笑みをたたえていた。豊かな赤い髪をなびかせながら身をひるがえし、手を伸ばしてくる有象無象の手をあるいは交わし、あるいはぴしゃりと打ち据えながら、バルディの隣に滑り込んだかと思うと、そこらの椅子を引き寄せてすとんと座り込んだ。
「久々に会えたんだ。笑顔の一つもくれたっていいんじゃない」
 バルディが、へん、と鼻を鳴らすと、アンジェラは唇を尖らせた。
「なーにさ。冷たいんだから」
 若い娘みたいな態度だ。妙にはしゃいでいる。もうだいぶ酒が入っているらしかった。いつもは動きやすさを優先した海賊らしい実用的な服を身に着けるアンジェラだが、今日はドレスで着飾っていた。黙って立っていれば貴族のご婦人で通るかもしれない。が、大ぶりなきびきびした挙措動作も、海賊どもの軽口に応じて繰りだされる威勢良い啖呵も、慎み深い貴婦人というものからはほど遠かった。
「どーお。ルイスに会えると思って、ちょっといいやつ、誂えたんだから」
 小さく肩をすくめ、しなをつくるような格好をする。やっぱり酔っているらしい。日に焼けてはいてもなめらかな頬には、ほんのり朱が上っている。
「馬子にも衣裳、って言っておいてやるよ」
 だるそうにそう返すと、む、とアンジェラは眉間に大きく皺を寄せたが、けらけら笑って、勝手にバルディの腕をとり、自分の腕を絡ませて、肩を預けてきた。うっとうしい、とバルディは呟きながらも好きにさせておいた。アンジェラは頭をバルディの肩に預け、しなだれかかっているといった風情で顔を寄せると、バルディだけに聞こえる低い声でそっと囁いた。
(モーガンがね)
 海賊の間ですらそれは不吉な名前だった。トッドでさえもモーガンとは一切関わりを持っていない。話の通じる相手ではないからだ。一瞬、バルディはアンジェラの目を見た。応えるようにアンジェラが瞬きし、きらりと瞳に光がひらめいたが、それも一瞬で、アンジェラはとろんと酔ったような目をしてくつくつと忍び笑いをしている。そのへらへらした笑顔のまま、声だけは静かに素早く囁き続けた。
(もう半年、全然噂も聞こえてこないし、姿を見た者もいない)
 バルディは気だるく、うんざりという顔をしたまま生返事を返す。酔っぱらいのとりとめのない口説き文句に、気のない返事を返しているとでもいうように。密やかにアンジェラの声が囁き続ける。
(これだけきれいに姿を隠してるの、なんか変だ。大きいこと企んでるかも)
 へえ、とバルディは生返事を続ける。アンジェラは突然嬌声を上げ、笑い転げた。なにがおかしいのかわからない、という顔をして、バルディは大げさにため息を吐いてみせた。
「気をつけて」
 耳元に、静かにアンジェラのかすれた囁き声が落ちた。ああ、ああ、わかったよ。酔っぱらいをなだめでもするかのように軽く肩をたたくと、アンジェラは口元に一瞬だけ満足げな笑みを浮かべ、それからふいにバルディの口元近くにキスを落とした。
(これくらいのお代はもらわなくちゃね)
 声を出さずに唇だけで、アンジェラは囁いた。くすりと笑っている。バルディは頭を掻き、一瞬だけアンジェラの手を握った。
(ありがとな)
 口の端で呟いたのを、アンジェラはちゃんと悟っているに違いなかった。

〈葡萄酒〉

 吐く息が白い。
 昼下がりだというのに、街路は曇天とちらつく雪に包まれて色を失い、石の壁たちはいっそう寒々しく見えた。雪はいつから降り始めたものか、地面にはすでに薄い幕をかけたように積もっている。このサラマンカで積もるほどの雪が降るのは珍しかった。
 冷えるはずだと考えたところで、ペレスは自分自身の体も芯まで冷え切っていることに今更ながら気づいた。
 タペストリもかけられていない質素な部屋は、できるかぎりの厚着をしていても、床から壁から立ち上る冷気が骨身に沁みこんでくる。書庫は本と古文書のための部屋であり、人間の居心地のためには作られていないのだ。そんな場所でペレスは昼前から長い時間、文書と向き合ってきたところだった。束ねられた羊皮紙たちを慎重に開き、丸まったその隅に文鎮を置きながら、何度かじかむ指をすり合わせたかわからない。
 慣れてはいた。学生の頃から冬場はこんなふうに資料と向き合い、メモや筆写を行なってきたのだ。一続きの資料を確認する間くらいの集中は保つことができる。とはいえ、一度書物とのにらみ合いから解放されてみると、自分には脳だけではなく手足や胃袋なんてものがついているのだということを思い知らされる。
 手指やつま先は凍えてうまく動かず、腹も空いている。ふと、祖国の北の方でよく作られている甘い葡萄酒が飲みたい、などと思った。できるなら蜜も足して、熱々に燗を付けたやつなんかを。書を繰っている間にはまるで意識しなかったのに、一度意識してしまうと、寒い、ひもじいという認識で思考がうめつくされた。なにか暖かいもの、体を温め、腹を満たしてくれるものを身体が求めている。自然と足は、学生時代からの馴染みの食堂に向かっていた。
 食堂は、あまりの寒さに窓も締め、昼間にもかかわらず明かりが灯してあった。なかなかの人出で、学生らしい若い者の姿も多かったが、ペレスの知った顔はいなかった。ペレスが入ってきたのと同時に外の冷気が吹きこんできたので、扉近くの席に座る若い学生たちはむっとした目線を向けてきたが、どうもペレスが研究者の卵か教授かなにからしいとは見てとったらしく、文句は言わずに自分たちの会話に戻っていった。
 ペレスは人の隙間を縫って奥の方に進んでいった。
 食堂のおやじは学生時代からの馴染みで、ペレスを見ると声を上げた。
「やあ、リスボンの先生。しばらくぶりじゃないか」
 このおやじは忙しすぎるので、顔は確かに覚えるのだが名前はあまり覚えようとしない。勝手にあだ名をつけて呼んでくる。ペレスとしては昔から特段それに文句もない。どんな名前で呼んでこようが腹を満たしてくれるものを素早く出してくれるのだから。
 ペレスは挨拶を返しながら銅貨を数枚、おやじに渡した。
「温かくて腹にたまるものがないかな、なんでもいいんだが」
「はっ、今日はみんながおんなじご注文だ」
おやじは笑って、後ろを向き、湯気の立つ鍋にかがみこむようにして碗になにかよそいかけた。そして急に振り返った。
「そうだ、昨日な、知り合いづてでポルトのワインがね、たまたま手に入ったんだ。ただのワインよりかちょっとだけ値が張るが、どうだい、食前酒に。あんたのふるさとの酒だろう、好きなんじゃないかね」
 幸運だ、と思わず心の中に呟いた。先ほど思い描いていた、まさにそれだ。果実そのもののように甘い、ポルトの葡萄酒。
「ああ、それがいい。温めて、蜜も足してもらえたらなおいいな」
「いやあ、先生。いい酒飲める身分になったんだね」
 思わず笑ってしまった。おやじは悪い意味で言っているのではなかった。純粋な感嘆として言っている。彼はペレスも含め学生をあまた見てきていて、ペレスが学生の頃、ペレスや同じ年ごろの学生たちがどんなふうだったかを逐一よく覚えているのだった。確かに学生のときはこんな選択肢はなかった。一番安いビタ銭数枚で出してもらえるものを、味も好みも問わずに流しこむように腹に詰めこんでいた。いっぱしにあれやこれやと注文をつけるのはうまく学問で身を立てられた一部の者だけだ。
 かすかに笑いながら、ペレスは銅貨を数枚、追加でおやじにわたした。
「しかし正確なことを言えば、ポルトは私のふるさとではないんだが……」
「なんだい、リスボンだろうがポルトだろうが、ポルトガルの王様の土地なんだろう、おんなじ王様の土地で育ったってんなら、このびんにつまった葡萄もあんたも、言ってみたらふるさとのよしみがあるってやつだ」
 学者先生はこまけえなあとぼやく間にもおやじの手はてきぱき動いていて、気がつけば小鍋にはもうそのポルトのワインが温められ、おやじは素焼きのカップにぴったり一杯分を器用にそそぐと、ほいとペレスに渡してきた。
 ペレスは凍えた両手にカップを包みこんで、じっと数秒、温かさに癒された。ざらついた素焼きの手触りの奥からじんわりと熱さが伝わり、指先に沁みこんでいく。カップからは湯気とともに酒と甘い葡萄の匂いとが立ち上ってくる。火傷しないように慎重に啜ると、甘さと熱さが喉を駆け下り、腹に落ちていった。ほっと思わず息をつく。
 やっと人心地がついた。
 どうせ資料を探すならアレクサンドリアあたりにでも行っておけばよかった。向こうはこうまで寒くはないだろう。他の調べもののついでに古巣のサラマンカに足を延ばしてみたものの、ここでは探している情報に直接につながるような資料には行き当たらなかった。
 パピルス書。アヌビスの天秤。聖なる虫に聖なる蛇。エジプトの神、王、呪物。
 一体なんでこんなものを調べているのか自分でもわからない。大昔のおとぎ話めいた伝説など、普段ならばペレスの興味の外にある。
 少し前のこと、ペレスは砂漠にそびえるスフィンクスが語りかけてくる奇妙な夢を見た。なんの気もなくミゲルにその話をしてからしばらく経って、商会からペレスに、アヌビスの天秤やそのほかパピルス書という書物に記された事物について調査してほしいという依頼があった。ミゲルははっきり言おうとしないが、どうもアブトゥが関わっているようだった。きっとペレスの夢の話を伝え聞いて、お告げだか星の知らせだか、またそんな胡乱なことを言い出したにちがいない。
 ふん、と鼻から小さく息が漏れる。まったく、いつまで彼は非科学的な妄想に浸かり続けるつもりなのか。あれだけ対話を重ね、説明の言葉を尽くしても、アブトゥは科学的な真理の追究に理解を示さない。次に会ったときには彼の頑固に切り込んでいけるような情報を見つけたいのだった。アヌビスの天秤だとかそんなもののことを凍えるまでして調べているのはそのためだった。
 とはいえその機会がいつになるかはわからなかった。春先かもしれない。今は商会の指示で、アブトゥは遠く北の果ての海域で航路を開拓しているはずだった。厳しく凍てついた北の海の航海では補給や整備のために中継港をたくさん確保する必要がある。アブトゥは冬の海を港づたいに少しづつ少しづつ進み、航路をつなげているところなのだった。
 ここよりもずっと凍てついた北の国で、慣れない寒さに彼はどう立ち向かっているのだろう。雪はもちろん降っていることだろう。凍りつく海と暗い長い夜の連なりが、彼の航路の先には延々と続いている……。
 心配する必要はない、と、静かに呟くゆるがない表情がふと心に思い浮かんだ。
 心配? 心配はしていない。どこでもうまくやるだろう、冷静さと大胆さの両方を備え、動じることのない彼は。きっと春くらいには戻ってくる。そのときまでにはペレスは新たな議論の材料を取り揃えておかなくてはならない。
 ペレスはもう一度、カップから甘いワインを啜った。さきほどよりは柔らかくなった温かさが胃に落ちていって、体内にじわりと広がる。
 ロハスが副提督として船に乗りこんでいたとき言っていたな。アブトゥと飲みながら話してみたらどうかと。アブトゥと酒を酌み交わしたことはないのだが、飲んで話をしたらいつもは聞かれない話も聞けるだろうか。というよりも、今は単純に、この熱い甘い酒を冬の船上にあるアブトゥにもわけてやれたらと思ったのだった。
 そんなことをアブトゥに言ったら彼はどんな顔をするんだろう。先ほどと違い、そこはどうもあまり想像がつかなかった。
 空きっ腹に急に入った強い酒のせいか自分の思考がいつもと違うような気がする。おかしくなって、ペレスは小さく口元に笑みを乗せたまま、カップを大きく傾け、残りを干した。

〈年越しの鐘〉

 人の声が途切れない。
 湿った、こもった空気。暖炉と壁の灯。食器の触れ合う硬い音、椅子を引いて動かすどすんという音。
 歌だ、歌だと誰かががなる。応えて、どこか一隅からリュートの爪弾きの音が鳴り始める。
 バルボサは喧噪の真ん中で、すでにいい気分でへろんとテーブルに頭を預けていた。
 賑やかで暖かい。そして酒とつまみがある。いつでも、酒場はすてきな場所だ。
 片目を上げて天井を見上げると、ちょっといびつな梁がどんとしているのが目に入る。この梁も含め、なんだか全体にあちこち傾いでボロに見える店だが、気取らない感じが妙に安らぎを与える。店はいつも繁盛していた。
 年の暮れ、世間の大半の人間は家族のところで過ごすのだろうが、行き所のない人間たちが溜まる場所も必要だった。船乗りにはそんな人間も多い。ここはそうした船乗りたちにとって理想の骨休め場所だった。寒くもひもじくもない。孤独になりようもない。
「ほい、じゃがバタいため」
 バルボサの前に、ほかほか湯気の立つ皿がどっすりと置かれた。
 持ってきたロハスは、自身もそのままバルボサの隣に座り込んだ。片手に二つ、カップを持っていて、一つをバルボサの前に置く。もう一つはもちろん自分の前だ。
「っひょー!美味しそうですねェ!」
 バルボサはがばっと起き上がると、まずは口湿らせと意気揚々カップに手を伸ばし、勢いよく傾けた。で、ぶふっと軽くせき込む。
「なんですか、これ!」
「水だよ、冷たい美味しいお水」
「ええ~?」
「これ以上飲んだら寝ちゃうだろう。せっかく年越しなんだ、がんばって起きてなよ」
「だからって、酒場で水を出すってありますかぁ!」
「うちの店に飲みに来てる客に、新年の鐘が鳴ったときの乾杯をみすみす逃させるわけにいかないんだよ」
 そう言うロハスも赤い面でにこにこしている。ロハスのほうのカップにはちゃんと酒の味のする液体が入っているようだった。いんちきだ、とバルボサはぶつくさ言ったが、ロハスは構わず、バルボサのカップに自分のカップを打ちつけて、かんぱーい、などと言っている。
「どうだい、航海は」
「聞きますか? 聞きたいです? じゃあお話ししちゃいましょー! なんと、なんとですね、私のすんばらしい活躍で、かわいそうな優しいクジラちゃんが救われた、すてきなお話があるんですよ!」
「その話、今まで三回くらい聞いたな!」
「えっ、そうですかあ? いやいや気のせいでしょ! それに何度聞いても面白いお話だと思うんですよねェ~。さあさ、周りの皆さんも、聞きたいでしょう、ご一緒にぜひ!」
 呼びかけるバルボサに対して、口々に、聞いた聞いた、とっくに聞いたぞその話、別の話はねえのかと、からかうような笑い声のような声があがる。
 しょうがないですねえ、さてさてなんの話があったかしらん。
 こないだ、大事に温めてた卵からロック鳥が孵った話……あら、これも聞いたことがある?
 それじゃあ、これはとっときの、私がとんでもない大冒険の末に、底なし洞窟から巨大なダイアモンドを見つけたお話を……
「よう。だいぶ良い加減みてえだな、バルボサさんよ」
 後ろから低く太い声をかけられて、バルボサはひゅっと息を吸った。
 振り返ったら、そう、もちろん声の主、ケサダがそこにいる。
「さてさて、大晦日だ。商売人ってのは一年単位で会計ってやつを締めなきゃなんないんだがね」
 鋭い眼つきがバルボサを射抜く。
「会計士が、お前さんからの支払いがまだ済んでねえって言うもんでな。ちょっと確認させてもらいたいわけだ」
 蛇ににらまれた蛙みたいに冷や汗をたらたらたらして固まっているバルボサの隣で、ロハスが福々しく笑う。
「おっ、ちょうど良かったな。商会からの年俸、たっぷり入るんだろう。ミゲルも嬉しそうにそんな話してたじゃないか」
「わわわああ、余計なことを!」
「ほほう。借金の日延べにこれ以上年を越させるわけにはいかないが、どうやら今のあんたの財布はいい目方がありそうじゃないか。これでお互い、すっきりした年越しができそうだな?」
「い、いや、その、えっとー」
 寒い時期に船に乗るのが嫌で、春まで陸でのんべんだらりと豪遊するつもりだったのに。それくらいは賄えるくらいの年俸をせしめて、ほくほくしてるっていうのに……
 あわあわと唇を震わせているバルボサに向かって、ケサダはにやりと笑う。
「大方、寒い時期は海風が骨身に沁みる、しばらく陸で遊んどこうとか考えてたんだろう。なに、南に向かってって赤道の一つも越えりゃ、あっちは春風が吹いてるって話じゃないか。あったかいところでひと稼ぎってのも悪くねえんじゃねえのかい」
「ふえー、今年一年、粉骨砕身がんばってきた私に、新年すぐにあくせく働けっていうんですか!」
「ほーう。どうしてもってんなら無理押しはしねえが、いーい話がひとつ、あるんだがなあ。世にも珍しい巨大なピンクのダイヤモンドが見つかる洞窟がな、南の大陸のどこかにあるって噂が……」
「なんですって! ダイヤモンド! きらきらお宝ちゃん!」
 酔いがすっ飛んで、バルボサはぐいと身を乗り出した。心得たとばかり、ケサダの笑みが深くなる。
 ロハスは腹を揺らしておかしそうに笑いながら、バルボサの肩をたたいた。
「これで、新年の鐘までしゃんと目を覚ましてられそうだなあ」
 えっへへへ、とバルボサは笑って、それから景気づけの気分でアルコールの入ってないただの水をぐいと飲み干すと、ケサダのほうにさらに身を乗り出したのだった。

〈朝〉

 ここは祖国からどれくらい離れているんだろう。
 船でまっすぐ来たとして、それでも何百日もかかるだろう。
 それでも浜の砂の色はそれほど変わらない。緯度も、おそらく故郷とそれほどは違わない。
 今、この土地は冬のさなか。新しい年を迎えたばかりの朝だった。波は穏やかで、水平線から上ったばかりの白々と明るい朝日が海を眩しく輝かせている。その明るすぎる光は目に痛いほどで、軽く手をかざして眼のあたりに日よけをつくりながら砂浜を歩く。そのかざした手に、また顔に、海風が波のおもてをすくい上げては飛ばしてくる細かいしぶきがときおり打ち付ける。その冷たさも故郷を思い出させた。
 しかし、故郷を思い出させるのはそれだけだ。
 ここにはなにもなかった。新年の御馳走も、酒も、温かい暖炉も、音楽も、寄り集まる家族たちも、どれもない。几帳面に手元の木材に記し続けている日付の記録で、今が年明けの朝だということだけはわかっていたが、それ以外のことはなにもわからない。
 たった一人だ。
 おそらく人が住む場所までそれほど離れてはいないのだが、船は補修しようもないほど傷んでおり、この小さな浜辺と洞窟を持つ孤島から離れることができずにいた。
 幸いにして、積荷には燃料や食料になるものがたくさん残っていた。島には湧き水があり、やや入り組んだ浅瀬と磯があって、魚も豊富に獲れる。島には海鳥もよく立ち寄った。人馴れしていない彼らは、捕食者としての人間を恐れることをまだ覚えていない。
 仮の住まいと倉庫として使っている洞窟には人の出入りの痕跡もあった。おそらく季節に応じてこの島を利用する漁民か交易民がいると思われた。いずれ時がめぐれば、彼らと出会い、手助けしてもらうこともできるだろう。
 彼らがどんな人々で、どんな年越しをするのか、そもそも新しい年などという概念を持っている人びとであるかすら、いまだ知らないにせよ。敵対的な人間でないことを、もはや祈るしかなかった。
 しかしながら、気分はなぜだか圧倒的に楽観に傾いていた。
 まるで故郷の浜辺を散歩した昔のように、のんびりと、砂浜に足跡を残しながらそぞろ歩く。
 十年あまり、聖牛の噂を追い、海を駆けてきた。西へ、また東へ。
 やがて東へ東へたどっていくと手がかりとなりそうな情報が集まってきた。それにひかれて、さらに東へ、東へ。気が付いたら、何千何万の波濤を越えてここまでやってきてしまった。
 この浜辺がその長い旅の終着点で、ここで朽ちるかもしれない。そうなのかもしれなかった。
 なのに今、こうして新年の朝の陽ざしを浴びて歩いていて、なんの恐怖も感じていない。
 この島に漂着する前に流したガラスびんは、どこかに届いただろうか。届いているような気がした。商会に、朋友に、伝わってくれればいい。聖なる牛につながる情報が、せめてそれだけでも届いていれば、後はどうにでもなるだろう。
 あまりに不運な友に、その不運を越える強い命運があれば。商会もきっと今までよりもさらに栄えるはずだ。友のあの力強い采配が、不運に邪魔されず振るわれれば、きっと。商会にも、ひいては自分たちにもそれが必要だとずっと考えてきた。友を波間に失わないための、強い命運、強い力。
 まあ、そういう自分が、今しも波間に朽ちかけているわけなんだが。
 そう思って、独りだというのに声を上げて笑った。
 怒られるだろうなあ。もしも会えたら。会えないかもしれないんだが。
 怒ってくれるならまだましというものだ。無事に帰ったとて、顔を合わせてくれるものやら。
 まだ手足も細い少年だった頃から、三人で浜辺を駆け回り、港中を引っ掻き回した。そしてずっと親友でいると思っていたのに、どうもうまく自分の思いを説明できずに、袂を分かってしまった。もう昔のようにわだかまりなく語り合うようなことはないのかもしれない。
 それでも、そんな屈託に対してすら、気分はなぜか楽観的だった。
 命が助かったのだから、どうにでもなる。
 この浜辺に辿りついて、びしょぬれで寒くてどうしようもない中で、それでも命を拾いあげたと感じたとき、あの不運な友のことを思ったのだ。何度もこうした修羅場を潜り抜けた友はこういう経験をしていたのか、と思った。危ない目にあっては間一髪、切り抜けて帰ってくるたびに彼は、笑って言うのだった。
 不運を楽しんでるんだよ、俺は。
 そう言って、太陽のように、命そのもののように、力強く笑うのだった。
 彼のそのたくましさを、自分が命の瀬戸際に立たされてなんとなく理解できた気がした。
 そうとも、お前が切り抜けたことなら、私だってどうにかやってみせるさ。
 諦めないならば、そうしたら、いつかは新しい日を迎える。
 面と向かうことも、詫びることもできるその日に、信じさえすればたどり着ける、きっと。
 朝の光と風に目を細めながら、ソリスは友を真似て、波に向かって不敵な笑みを浮かべた。

〈春を指して〉

 風もなく、静まりかえった夜ふけだった。夜の底と言っていい時分であるのに、開けた窓の外はほんのり明るかった。畑に丘に、木々の枝の一つ一つまで、ふんわりと白く雪が積もっていて、月や星々の、そして空に広がる不思議な光のカーテンの明るさを照り返していた。
 星を見るために毎晩夜空を見上げるのだが、あの不思議な光のおかげで、いつものように星を読み取ることができない。しかしそのことに悩む気持ちはなかった。ぼんやりと光を眺めて、手の届かない不思議のことを考えていた。
 世界は神秘と驚異に満ちている。自分が見知っていた世界では考えられないような物事が、よその土地では当たり前の風景として広がっている。
 アブトゥ自身が、星がすべてを伝えてくれると思っていた砂漠の世界からかけはなれたこの遠く、なにもかも違うこの場所で、これまでの知識も理解もおよばない高く遠い光を眺めている、今まさにこの瞬間もそういう驚異の一つだった。
 光の存在は、今じわじわと身に沁みてくる寒さのように戦慄と新しさを同時に感じさせた。新しいもの、今までにないもの。小さく丸まっていた心を開かせ、羽ばたかせていくもの。誰にも触れられていない白い雪のなめらかさ。
 それはどこか、喜びに近い気持ちのように思われた。好奇心というものが自分にもあったのだなと、こういう瞬間には未だに不思議な気持ちになる。
 必要なことは星が告げる。それに従い、よどみなく確かな星の運行の、その静謐で精緻な機構のなかに、自分自身がきちんと組みこまれていればそれでいいと思っているはずなのに。それでも新しさに心を動かされることがある。
 同僚の学者のことを思い浮かべた。頑固で頭が堅いくせに、それでも彼は、自分が知らない新しい事物に触れることを厭いはしない。
 ペレス、お前はこういう気持ちに駆り立てられているんだな。
 この天の光のことを、彼ならなんと説明しようとするだろう。
 戻ったら、天の光のことを話してやろう。星のように高く遠く、そして私にもつかめない、美しくまぶしいものがあると。世界は広い。私にも思ってもみないものがたくさんある。お前にもきっとそうだろう。だが、実際に目にしてみないと、彼は納得もなにもしないだろう。そう思うと笑みが浮かんだ。
 彼は今どうしているんだろう。商会から航海の仕事は与えられていなかったから、リスボンにいるのだろうか。陸の人びとと同じく、彼は家族と一緒に、寒さや飢えとは無縁のにぎやかな新年の祝いを迎えているのかもしれない。
 ふと我に返ると、天の光は少し弱まっていた。外気に向かい合っていた身体も冷え切っていた。アブトゥは窓を閉じ、部屋にそなえつけられた小さな暖炉にかがみこんだ。暗がりで柔らかに熾火が燃えている。手指を近づけて温めながら、炉に小鍋をかけた。
 この港に到着してすぐ、甘くして温めた蜜酒を振る舞われた。薬草を入れたりもするというので、さっそく材料はとりそろえてあった。小鍋に薬草と蜜酒を入れ、沸き返る直前まで火を通す。
 鍋から杯にそそぐとき、立ち上った強い酒の匂いは鼻に通り、喉を過ぎて肺まで燃やすようだった。一口すすると、寒さに強張った身体も、心も、酒にほぐされていく。
 一人でいることには慣れていて、むしろそのほうが好ましいはずなのだが、体が暖かくなってみると妙に人恋しいような気持が心のどこかにあることに気づいた。声を聞きたい。長々しく理論を述べ立てるあの声を。酒が入ったらよけいにくだくだしくなりそうだとも思うが、一度は飲んで話してみたい気はする。時間をたっぷりかけて。
 杯の酒をもう一口傾けて、この気持ちの底にあるもののことを一瞬だけ考えた。
 気づいている。わかっている。
 酒とともに体の奥に広がっていく熱が、気持ちの底にあるものにも燃え広がっていく気がしたが、ほっと息をついて熱を逃した。
 新しい時のめぐりが始まっている。一日中ほとんどが闇に沈んでいるこの極北の地の真冬でさえも、太陽が顔を出す時間は着々と長くなっていき、次の季節に向かい始めている。時間の移ろいとともに運命もいくらか動きはじめるだろう。アブトゥ自身の運命も。
 いずれにせよ、春になる前には戻ることにしよう。商会の主やミゲルに、そして彼にも、すべき土産話がすでにたくさんある。
 彼らに会って話をする日のことをどこか楽しみにしている自分に気づいて、その波立つ感情に向かって人ごとのように、これも世界にあまたある驚異の一つだなと思いながら、アブトゥはもう一口、酒を喉に流しこんだ。

(終わり)