西へ、海のかなたへ
泣くような声が聞こえる。お母さんの声だ。それも扉の向こうから。しばらくお母さんに会ってない。風邪をひいてしんどいから看病してほしいのに。風邪をひいたときにはいつもよりいっそう優しくしてもらえるのに。
熱があって、喉も痛くて、身体のあちこちも痛くてかゆくて、しんどい。咳も鼻水も止まらない。とてもつらい。つらすぎて頭がぼんやりする。呼吸をするのもせいいっぱい。腫れてじんじんする喉を、冬の隙間風のようにひゅうひゅう音を立てながら、吐いた息と吸った息が行きかう。その音が体の内側に響くのを聞いているのがやっとだ。
お母さんの声に低い声が重なって聞こえた。おじさんだ。エジプトに行って、帰ってきたんだ。おじさんが帰ってきたら僕がいちばんに話を聞かせてもらうはずなのに身体が動かない。あたまもうごかない。呼吸ですらよくわからない。なにもかもわからなくなっていく。
がやがや、ざわざわ。
気がついたらたくさん人がいる場所に立っていた。
見たことのない不思議な服の人たちだ。チュニックがとても長くてくるぶしまである。変てこだ。それに頭にぐるぐる布を巻いて。そもそも、肌が黒くて、髪も黒くて、そして髭もたっぷりはやしている。もしかしてモーロ人? 港で見たことがある。でも、ちょっとちがう感じもする。どこなんだろう、ここ。
きょろきょろ見回そうとしたら、にゅっと顔が突き出てきて、
「うわっ⁉」
思わず声を上げた。見たことのない不思議な生き物の顔が目の前にあった。ヤギっぽいけどもっとずっと大きくて間延びした顔で、まつ毛がとても長く、首は長い。藁色の毛はぼさぼさのモップみたい。背中がとても盛り上がっていてなんだか重そうだ。そのせいなのか膝を折って座りこんでいる。でも、隣の立ってるやつを見たら、まっすぐ立つこともできるみたいだ。それにしてもひょろ長い脚、でも膝の関節は馬よりももっとしっかりしてる。馬みたいにつながれているけど、馬には全然似ていない。とても変てこだ。
「ぶるるるっるるる!」
ぶえっ。きったない!
唾を吐きかけられた。とんでもなく臭い。
もう、なんなの、この生き物。ねえ、おじさん?
振り返って聞こうとしたら、ここに連れてきてくれたはずのおじさんの姿が見えない。さっきまでそばにいたと思ったんだけど。そう、ついさっき、すぐ向こうで声がしてたじゃないか。お母さんの声と……あれ? お母さんはおうちにいるはずなのに。
まあ、いいか。せっかくエジプトまで連れてきてもらったんだもん。いっぱい、いろんなもの見ておかなくちゃ。
ここはきっと市場の近くだ。こんなにたくさん人がいて、あっちでもこっちでも商品が並べられている。皆、買い物にきてるんだ。市の立つ日に連れてきてもらえるなんて、とっても運がいい。いつもだったら僕みたいな子供が一人でよその町の市でこんなに勝手に歩けないけど、なんでだか、今日はおじさんとはぐれて一人の僕にも誰も声をかけてこない。僕ひとりでも大人抜きで好きなところに好きなだけもぐりこめるみたい。
わくわくする。胸いっぱいに空気を吸いこんだ。ああ、なんだろう、嗅いだことのない、遠い国の匂い。砂の匂い、なにかの獣の匂い。それに、果物なのか、お香なのか、なんだかとってもいい匂いも。これが全部、エジプトの匂いなんだ。
思わずにこにこしていたら、ふいに目が合った。通りの向こう、人ごみのあいだから、真っ黒の大きな目がこっちを見つめている。黒い肌。エジプトの子。僕より小さな子だ。2つ下の妹と同じくらいかな。いや、もう少し小さいかもしれない。じっとこっちを見つめている。なんだろう、よその国の人が珍しいのかな。でも、この街はこんなに賑やかで、ヨーロッパ人もきっといっぱい出入りしているはず。リスボンの港だって、北方人もモーロ人もジェノヴァやヴェネツィアの人も、いろんなところの人がいる。リスボンよりももっと賑やかで人の多いこの街ではきっともっといろんな人がいるはずで、僕が特別目立っている気もしない。だってさっきから、この子以外には誰も僕のことなんか気に留めてないのに。
「やっぱり、そうか」
え、と思ったら、もうその子は目の前にいた。僕に話しかけている。いつのまに?
モーロ人の大人の女の人みたいに髪を隠すように被り物を着けていて、服もいろいろ飾りものがついているから、多分、女の子。やっぱり妹よりも年下だと思う。それなのに大人みたいな口ぶりだ。
「……お前はここにいちゃいけない」
いきなりそんなことを言われて、ちょっとむっとなる。こんな小さな子に、なんでいきなりそんな意地悪を言われなきゃいけないんだ。
「なんでなの。僕、やっとおじさんに連れてきてもらったんだ。君にダメだって言われても」
女の子は黙ったままじっと僕を見つめる。なんだかやりづらい。それにしても、大きな、真っ黒な目……こういう石をおじさんに見せてもらったことがある。オニキスっていうんだっけ。
「……わかっていない、んだな」
女の子は目をそらして呟いた。さっきからこんな調子。こんな小さな子に、遭ったばかりなのになんでこんなに馬鹿にされなくちゃいけないんだ。これはちょっと本当に示しってやつを見せないといけない。妹や弟たちを怒るときの顔をする。
「あのね、僕は君に命令される筋合いも馬鹿にされる筋合いもない。君がどういうつもりかわからないけど、僕の方がずっと年上で、お兄さんなんだからね」
女の子は肩で大きく息をついた。ため息のような、深呼吸のような。
「馬鹿にしてない。ちがう。お前は……」
女の子はなにか言いかけて、途中で口を閉じて眉をしかめた。
「危険だ。このままここにいるのは良くない」
また目があった。じっと見つめてくるけど、なんだか困ったような顔をしている。なにがなんだかさっぱりわからない。
「危険って……なんで」
明るい昼間で、こんなに賑やかな場所で、裏路地みたいなあやしいところじゃない。ちゃんとした大人もそばにいっぱいいる。はぐれちゃったけど、おじさんだってきっと近くにいる。
「あんまりにも遠いところまで来てしまった。このままでは死んでしまう」
とてもしっかりして見えるけど、やっぱり小さい子だから、言っていることがめちゃくちゃだった。困った。だいたいこの子も親が近くにいる感じじゃない。もしかして迷子なのかもしれない。少しひざを曲げて目を同じ高さにする。
「ねえ、大丈夫? 君はもしかして迷子なんじゃない?」
覗きこむと女の子は少し後ろに下がった。なんだか警戒されてしまったみたい。小さい子の相手はむずかしいな。
「そうだ、君さ、この街に住んでるなら、ピラミッドがどこにあるか知ってる? 僕、ピラミッドとスフィンクスを見たいんだ」
話を変えてみた。女の子はまたじっと僕を見上げて、しばらくなにも言わないから、やっぱりなんだか変な子でやりづらいなあと思ったら、やっと喋りだした。
「私はここの住人じゃない。それにここからピラミッドは遠い、だいぶ歩く。船に乗っても一昼夜かかる」
「見たことあるの!」
思わず叫んだら女の子は小さくうなずいた。
「おばあさまに連れていってもらった」
おばあさんが一緒なのか。迷子じゃないとしたらそのおばあさんが近くにいるのかな。
「おばあさんと一緒なの?」
女の子はうなずいた。少し離れた場所にある立派な邸宅に大きな瞳をちらっと向ける。
「今はお仕事の話をされている。もう少しかかる」
あのお屋敷にいるのか。迷子ではないんだ、良かった。この子、ここでおばあさんを待っていたのか。退屈じゃないのかな。
「おばあさんの用事が終わるまで、君、ずっとここで一人で待ってなきゃいけないの?」
女の子はこっくりうなずく。うちの弟や妹たちと大違いで大人の言うことをよく聞く子みたい。ちょっと変わってるけどおとなしい子なんだな、きっと。だけどこんな小さい子なのにピラミッドまで旅をしてるんだ。すっごく気になる。
「もし暇だったら、良かったらピラミッドのこと教えてくれない?」
ピラミッドまでちょっと遠いみたいだし、おじさんが僕を連れてってくれるかわからない。どうせなら話だけでもいっぱい聞きたい。おじさんは別だけど、大人は僕がなにか聞いてもすぐ面白がるだけでたいしたことを教えてくれないか、からかうか、ひどいときはとんでもないでたらめを吹きこんでくる。僕は本をたくさん読んでいるからでたらめはすぐにでたらめだって気づくのに。でも、この子はきっとそんなことしない、気がする。
女の子はまたなんにも言わないでじっとこっちを見つめてくる。なんだか落ち着かない。ほんとに変わった子だなあ。それともエジプトの子はみんなこんなふうなのかな。
「ピラミッドは」
突然、口を開く。ちらっと目を向けたほうがピラミッドのある方角なんだろう。太陽のある側だから、南か。
「大きい石がたくさん積んである。おばあさまの背丈くらい大きい白い石が数えきれないほどたくさん、きれいにぴったり積んである。まっすぐの大きな三角の山になるように。それが三つある」
「三つも!」
「三つともとても大きい。二つはとても大きくて、一つは少し小さい。でも、どれもこの街のどの建物よりずっと大きい。砂丘よりも大きい。近くまで行くと朝方の太陽ならすっかり隠れてしまう」
目線がすっと上げられる。今の太陽の高さにちょっと低いくらいの高さまで。その目線の上げ方から想像するとずいぶんな高さになる。
ちょっと想像してみた。この子のおばあさんの背丈、大人の女の人の背丈くらいの石が、この子の上げた目線の高さまで積んであって……リスボンの大聖堂の高さよりも高いとこまで。だけど、それが三角形になるように積まれてるってことは底辺近くはたぶんかなり広くなっていて……ちょっと想像がつかない。
「やっぱり自分の目で見たいなあ」
思わずそう呟くと女の子は僕をちらっと見た。
「いつかまた来ればいい。ピラミッドを見に。今は早くお前のふるさとに帰れ」
またそっけなく、帰れとか言う。まあ、今回はピラミッドまで行くのは難しいかもしれないけど。でも、この港町だって見るものがいっぱいある。
「なんでそんなに帰れ帰れって言うの」
女の子はうつむいてだまっている。なんだかもう、難しい子だ。話をしてたらけっこう面白い子なのに。
そう思った途端、女の子はぱっと顔を上げて一方を向いた。
「こっちだ」
歩き出して、それからまた僕の方を振り返る。
「ついてこい」
思わず後をついていく。
祖母を待って市場を眺めていた少女の注意は、唐突に一点に引っ張られた。市場の片隅に異質な気配がある。少女の目にはそれははっきりと人の姿としてとらえられていた。十歳ほどの金髪白皙の少年だが、その足元には影がない。他の人間には彼の姿は見えてもいない。
少女ははじめ、冥界にたどり着けずにこの地上をさ迷っている死霊かとおもった。そうしたさまよえる死者の魂を少女は日常的に見ている。彼らは生きているときの姿で、生きているときの日常をなぞろうとするかのようにぼんやりと一定の場所を漂っていることが多い。そのほとんどは時間が経つとともにうすれ、曖昧になって消えていく。しかしこの気配は死者のものとはずいぶん違っていた。生きている人間のようにくっきりしていてあいまいさがない。しばらく観察すると生きている人間の魂そのものだとわかった。意図と意思が感じられたからだ。
生きている人間の魂魄がこうしてはっきり昼日中に現れているのは始めて出会う。長く生きて知恵と知識がいっぱいあるおばあさまならこんなとき、どうしたらいいかすぐわかるんだろうと少女は思ったが、その祖母は、さる富豪とその一家に関する星見を詳しく告げるためにこの広場に面する大邸宅に招かれていて、夕方までその邸宅を離れられない。
少年の魂は田舎から街を見物に来たおのぼりさんよろしく、きょろきょろとあたりをうかがっている。気持ちはわかる。この街はとんでもなく大きくて、人がいっぱいいて、なんでもある。首を回して見えるところをなんでも見てやりたくなる。もっとも少女は日ごろからの厳格な祖母の教えが沁みこんでいるので、気持ちのままにきょろきょろするなんてことを実行したことはなかったが。
少年の霊がふいに少女のほうにまなざしを向けた。目が合う。
良くないことをした、と少女はとっさに思った。他者の魂と軽率に交流してはならないと祖母からは強く戒められている。
目をそらそうとした瞬間、ふいに近くに魂の存在を感じた。目の前に、本当に生身で立っているかのように、くっきりとした少年の姿をとらえる。
こうして間近に感じ取ってみるとなんとなくわかった。この魂はずいぶん遠くに身体を置いて、ここまでさまよい出してしまったのだ。肉体につながる感じがほとんどない。死霊ではないとはいえ、死にかぎりなく近い位置に、この魂はさまよい出しているのだった。きっと重い怪我か病気で肉体が弱りきってしまって魂の根が体を離れてしまったのだ。少女は祖母の仕事を手伝うなかで魂が遠く離れてしまった身体のほうはよく目にしていた。そうした身体のほとんどは魂が戻ることはなかった。
「やっぱり、そうか」
思わずつぶやくと少年は怪訝そうに首をかしげた。本当にごく普通の少年だった。おそらくは遠い海の向こう、ヨーロッパのどこかから魂だけでやって来た少年だけれども、ただの男の子でしかなかった。自分が死に瀕しているなどとはまるで気づいていないだけで。
少女は刺すような悲しさを感じた。きっと今、彼の肉体そのものは遠く異国の寝床に横たわって、家の者たちが心配してつきそっていて……なのにこの子はひとりで死んでいく。西にある死の国へ、入り日とともにたったひとりで沈もうとしている。
「お前はここにいちゃいけない」
はやくおうちに帰って。待っている人もいるんでしょう。すぐ飛んで帰って。
そう思いながら呟いたが、まったく伝わっている様子がなかった。魂は、自分が魂であることにも気づいていない。こんなになにもわからないまま、刻々と死に向かっているのか。
思わず少年から目をそらした。私にはなにもできることがない。父のとき、母のときのように、見ているだけだ。
祖母からは日々言われていた。少女はとても未熟だから、自然の精霊にも死者や生者の魂にもたやすく振り回されると。心を静め盤石となせ、冷静に見つめる者となれと、毎日、毎日、言われているのだ。心を寄せてはいけない。どうせできることがないのだから。
それでも少年の魂に目を向けるとどうしても彼が死者の群れに連なっていいという気がしない。
少年はむっと怒った顔をして少女に向かって抗議の文句を述べ立てている。本当にただの普通の少年で、手を伸ばしたら体に触れられそうな気がした。死者の魂に比べてずっと生命力はあるのだ。魂魄が離れるほど肉体は死にかけているのだとしても。
生命力。そう、生きたまま体を離れてしまった魂を見るのは初めてだった。これだけ生に向かう陽ざしのような力がまだ魂に保たれているなら、もしかしたら。
腹を決めた。祖母の教えには背くことになるが、この少年の魂をどうにかして彼の肉体のあるところに送ることを試してみよう。
そう覚悟を決めると、この魂と積極的に対話しようという意識が冴えていった。彼の言葉をまずは聞こう、と少女は考えた。なにか手がかりが得られるかもしれない、なにか、彼の魂に、本来在るべき場所を意識させるような言葉……
不意に、少年の魂が、覗きこむように少女に近々と寄ってきた。
「もしかして迷子なんじゃない?」
ふいに目が遭ったのと、かけられた言葉に面食らって、おもわず後じさりする。死者の霊魂と目を合わせては、言葉を交わしては……いや、死者じゃない。彼はまだ死者じゃない。迷子になっているのは彼の方なのにそれに気づいていないだけだ。気づきさえすればきっと魂は根を取り戻す。どうすれば。
「この街に住んでるなら、ピラミッドがどこにあるか知ってる? 僕、ピラミッドとスフィンクスを見たいんだ」
ちょっとあっけにとられた。あんまりにも呑気で。
もしかして、ピラミッドを見たい気持ちのあまりに、根が切れてしまったのを幸い、ここまで魂だけ飛んできたのだろうか。だとすれば、行きたいと思う場所にとっさに向かってしまうこの魂の持ち主の精神力はたいしたものだ。魂は自分の知っている場所からそれほど遠くへ飛びたたないものだ、普通は。
たまに遠くへ焦がれる魂があると、祖母は言っていた。旅人の気質を備えた魂というものがあると。彼もその類なのかもしれない。しかし、その、遠くへ向かう気質が、彼を窮地に陥らせてもいる。
「……私はここの住人じゃない。それに、ここからピラミッドは遠い」
会話を続ければ彼のふるさとへ意識を向けられるかもしれない。そもそもどこからやってきたのか。それが彼自身の口から出るなら……そういう少女の思案にはまったく気づかないようで、少年はぱっと目を輝かせた。
「見たことあるの!」
うなずく。つい最近、祖母の伴をしてピラミッドのすぐそばまで行ったばかりだった。確かにたいした見ものだった。話そうと思えばたくさん言葉がこぼれ出てきた。少年はうんうんと食いつくように熱心に話を聞く。思わずあれこれと話してしまったが、場所の名前は口に出さないようにする……知ったら、たちまちそこに飛んでいってしまいかねない。
「……やっぱり自分の目で見たいなあ」
少年の呟きで、失敗した、と思った。結局、魂を彼の身体が本来ある場所に向かせられていない。
「いつかまた来ればいい。ピラミッドを見に。今は早くお前のふるさとに帰れ」
思わずそう言ったが、魂に響いてはいない。それもそうだろう、見たいものがあって飛んできた魂だ。その欲求を満たしもできないまま、意識の向かわない場所を示されても、魂はそれに従いはしない。とはいえ、彼が見たいもののところへ向かわせるわけにはいかない。どうにかこの街に彼の興味を引き留め、同時に、彼にふるさとを思い起こさせるものを考えなくてはならない。
難しい。おばあさまならきっとすぐわかるのに。でも、おばあさまだったらそもそも死にかけている生霊を相手になんかしない。どっちにしろ私はおばあさまじゃない。ここで、自分で、できるだけのことをするしかない。
知恵、知恵を。どこか遠くへ行きたい、そういう魂に響くもの。ふるさとのことも思い出させてくれるもの。そのどっちも満たすもの。
「こっちだ」
思いついた。
白い翼で翔けていくように海をなめらかに滑ってずっと海を越えていく、あの帆船たち。
異国の船の、大きな大きな入道雲のような白い帆。きっと少年の街にも出入りする、ヨーロッパの船。
少年の魂は少女の呼びかけに素直に従ってついてくる。港への道なんてあまりはっきりは覚えていない。でも、なんとなく、どちらの方角かはわかる。潮の匂いがする、ように思う方向に行けばいい。入り組んだ路地を、ときどき道を選びながら進んでいく。
そうしながらどこか心の奥底で、少女は少年の魂に魂の声で呼びかけ続けている。慣れないことをずっと続けていると頭がどんより重くなっていくが、ふんばって意識を澄ませるようにした。
水底の砂をぽこぽこ揺らめかせながら湧き続けるオアシスの泉の、なんの濁りもない湧きたての水のような、透明で流れるように自在な気持ち。
たくさんの人間が行きかい、意識も情念も魂もたっぷり満ちているこの巨大な都市でそうした感覚を保ち続けるのは、まだ幼い少女には本当に難しかったが、やりおおせた。そうしてしばらく進むうちに、潮の匂いがだんだん強くなってきた。
合っている。きっとこっち。
そう思って気が緩んだのか。もうすぐ港に出そうな、運河に交差する橋のたもとで、気がつくと少年の魂の気配を見失っていた。
意識にすっと冷たいものが走った。思わず周りを見回す。見回しても少年の姿はない。そもそもほんとは、目に見えるもの、ではないのに。
呼吸を意識した。少し乱れて浅くなっている。慌てたからだ。橋脚の影、石積みに背中を預けて、そのひんやりした硬い感触に意識を集中しながらじっとする。
息を整えろ。心を落ち着かせろ。
静かに、透明に、高く、遠くへ。広く、すみずみまで。
石畳に染みる水みたいに。
ふいに、少年の魂をすぐ近くに感じた。
同じ橋の向こう岸の橋脚に、少女のように軽くもたれかかって、なんだかぼんやりしている。
近く、しかしながら、対岸。
一瞬、もはや彼の生命の炎が尽きかけているのではないかとぞっとする気持ちに覆われるのを、食いしばるような気持で抑えこむ。
慌てるな。怯えるな。揺らいだら全部こぼれる。
「こっちだ」
落ち着いてはっきり呼びかける。少年は目を上げた。少女を認めたらしい。
「どこ行ってたんだい。ついて来いっていうくせに、僕を置いていっちゃったのかと思った」
対岸から声が聞こえてくる。彼もまた少女を見失ったのだ。少女の心が緩んだ隙に。
「置いていってない。こっちだ。そっちじゃない」
運河の先、河口のほうを示す。向こうに港があるはずだ。
うん、と少年の魂は生返事を返してきた。
「ねえ、あっちはなんだろう」
少年の目線の先には静かな暗がりがあった。運河の土塁が少し崩れたところが半地下のようにもう少し掘り下げられて、煉瓦の崩れかけたアーチがかけられて、木のかけらが留められている。
墓地のしるしだ。港近くで行き倒れた身元も知れない人々を葬った、運河のたもとにひっそり作られた墓地だ。少年があと十数歩も歩けば、飛びこめそうな位置にある。
「あっちに行きたいんだ」
少年がぼんやり呟く。
少女は息を飲み、首を振った。
少年の立っているのは西側の岸。夕日の沈む岸辺。地下に向かう道。
西にあるのは死者の国。
ついてこい、という女の子の後をすぐ近くで追っかけていた。はずだけど、ふと、なんだか目に留まって足を止めた。
「あれ、なんだろ」
運河の岸辺がちょっと掘り下げられて煉瓦のアーチがかかっている。秘密の入り口みたいだった。なにがあるんだろう。なんだか見にいってみたい。なんとなく。よくわかんないけどなんだか面白い秘密がありそう。なんとなく、あっち、という気がしてしょうがない。
あっち、寄っていってもいいかな?
そう声をかけようとしたけど、気がついたら女の子がいなくなっていた。ちょっと立ち止まっただけだと思ったのに。先に行っちゃったのかな。
通りはしんと静まり返っている。さっきまでたくさん人がいたけど、ここは誰も通りかからないみたいだ。とても静かだ。さっきまで人の声がたくさんあって、いろんな音や匂いもしてにぎやかだったのに。ここはとても静かだ。不思議な気持ちがする。なんだろう、どこか別の世界に迷いこんだような気分。まあ、見慣れない街で、こんなところに一人で放っておかれたら、そういう不思議な気持ちにもなるか。
そうだ、考えたら、おじさんは市場の近くにいるはずなのに、女の子に言われるとおりについてきてしまって、ずいぶん市場から離れてきちゃった。どうしよう。おじさんに怒られちゃうな。というより、もしかしてこれは僕自身が迷子になっている、のか。
なんでだろう、あんまり怖くはない。でもちょっと腹は立ってる。あの変わった子、僕を振り回すだけ振り回して勝手にどっかに行っちゃうんだから。いたずらだったのかな。いい子だと思ったのにな。少し仲良しになったと思ったのに。
なんとなくしょんぼりした。ピラミッドの話とか、もっといろいろ話、聞きたかったのに。
まわりを見渡す。やっぱりだれもいない。あの女の子も、気配もしない。
ちぇっ。やっぱりからかわれてたんだ。もういいよ。
あの入り口。
真昼近くで、日射しが強くてちょっと暑いけど、あっちは陰になっていて涼しそうだ。とりあえず入っていってみよう。探検してみたい。もう僕一人だから、行きたい場所に勝手に行ったって誰も文句は言わないんだ。わくわくしながらそっちにつま先を向けた途端。
「こっちだ」
急に声が聞こえた。女の子が運河の向こう側に立っている。いつのまにそこに立ってたんだろう。全然気づかなかった。僕を置いて行き過ぎたのに気付いて戻ってきてくれたのかな。そっか、いたずらじゃなかったんだ。あの子も僕のこと探してたのかもしれない。
でも、僕はまだちょっと腹が立った気持ちがなおってなかった。
「僕を置いていっちゃったのかと思った」
なんだかむくれた言い方をしてしまった。言ったあとで、ちょっと大人げなかった、と恥ずかしくなる。
女の子は、むっとしたのか、声を少し大きくして答えてきた。
「置いていってない。こっちだ。そっちじゃない」
指さすのは運河の水が下っていくほうだ。なんだろ。さっきからどこに行こうとしてるんだろう。言ってくれたらいいのに。
それより、あっちの、あの不思議な入り口だ。今はあっちのほうが行ってみたい。この子、あの入り口がなにか知ってるかな。
「ねえ、あっちはなんだろう」
女の子はまた黙りこくっている。肝心なところでいつもこんなだ。悪い子じゃないんだろうけど、困っちゃうな。
「あっちに行きたいんだ」
僕が言うと女の子は叫ぶように言った。
「あっちはだめ」
急にすごく声が大きくなったからびっくりした。こんな大きな声出るんだ、この子。
「あの入り口、なんなの」
これには返事がない。ただ、さっきまでとは全然ちがう、ひどくこわばった顔で僕を見つめている。運河の向こうから女の子がこっちに手を伸ばす。
「そっちじゃない。こっちだ、こっちの岸だ」
声が上ずっている。慌てている。なんでだろう。
ふっと、手をつかまれたような気がした。
え? あれ?
気がついたら女の子は僕の手を握りしめていた。いつのまに渡ってきたんだろう。
ちがう、僕が女の子のいた側の岸にいる。いつのまに?
思わず首だけ回して後ろを振りかえる。あの入り口は向こう岸だ。あっちに行きたい。あそこをくぐって向こう側になにがあるのか知りたいんだ。だけど女の子はぎゅっと痛いくらい僕の両手を握りしめていて離してくれない。わけがわからない、いつもこんなだ、この子。
「あっち、あっちに行きたいんだ。離してくれよ」
「だめだ。あっちはだめ」
女の子は僕の胴体にしがみつく。
「あっちはだめ、ぜったいにだめ」
眉を寄せてぎゅっと目をつぶっている。必死だ。どうしてそこまでと思うけど、なんだか理由があるんだろう。とてもあっちに行きたい、どうにかして、と思う気持ちで焦っているんだけど、この子を放っていくわけにはいかない。小さい子だもの、僕の方が年上だもの。
「ねえ、どうしてそんな顔するの。僕はこのまま行かせてくれたらいいだけなんだけど、そうしたら君はなにか困ることがあるの」
また目の高さを合わせてみると、女の子はまた、あの黒い大きな目で僕を見つめてきた。あれ、もしかして、泣いている? 黒い目が、さっきよりなんだか濡れたように見えるけど、自信はない。
「……あっちはだめだ。あっちは……あっちは帰ってこられない。なのにみんなあそこに行ってしまう。でもお前はだめだ」
声が震えていた。ぽろっと涙が一粒だけ女の子のほっぺたを転がり落ちていった。ああ、やっぱり、泣いている。
僕のせいなのかなあ。弱った。泣かせるつもりはないのに。この子にとってあっちのほうはなにかとても良くない場所らしい。自分が行くわけでもないのにこんなに怖がっている。僕がこの子を振り切っていったら、そうしたら、この子は一人取り残されてどれだけ泣くんだろう。こんなにおとなしい子が。
なんだか急にとても申し訳ない気持ちになった。この子はピラミッドの話をしてくれて、僕にこの街を案内してくれた。そうだ、道案内の言うことはしっかり聞くものだと、おじさんも言っていたじゃないか。信用のおける案内人を見つけられることができたら、どんなに奇妙なことでも案内人の言うことを聞かなくちゃいけないって。旅人の鉄則なんだって。僕も大人になったらきっとおじさんみたいに遠くまで旅するんだから、今からちゃんとした旅人のやり方を身につけなくちゃ。
「君がそう言うからにはあんまり良くない場所なんだね? じゃあ、あっちに行くのはやめておく。だから、ね、もう泣かないで。ほら?」
女の子の顔を覗きこむと、まだ少し悲しそうな顔をしているけど、ほっとしたみたいで、もう泣いてはいなかった。
ろうそくの炎が風にゆらめいてともすると消えてしまいそうなほど、少年の魂は不安定で脆くなっていた。墓地に呼ばれている、と少女は思った。どういうわけかわからないが、墓地が、この大地が、少年の魂を求めて呼びかけているような気がした。地に沈めと、その声は少年の魂にひそかに呼びかけている。あの暗い場所に。
そんなこと、させるもんか。
大地の、自然の呼び声に抗うなど、やったこともなかったが、必死だった。呼びかけというよりももはや自分の魂で少年の魂をからめとるように、こっちに来いと念ずる。そんなことをするのは初めてで、魂を体の外に投げ出すような、なんとも言えない恐ろしさがあった。大地に口を開けているあの陰鬱なアーチの向こうに引っ張られていきそうな気がした。
気がつくと陽光は明るくくっきりとしすぎていて、世界の音も匂いも消えていた。平板で重みがない。それは少年が見ている世界だった。それが少女にも感じられた。それはすでにこの世ではなかった。
だが少年の魂は今は少女のそばにいた。運河のこちら側。
「あっちに行きたいんだ、離してくれよ」
どこかゆらいだ焦点の合わない目で少年はまだあの墓地に目を向けている。
絶対に離せない。
もう心を落ち着かせてなどいられなかった。少女がなにもできないうちに父や母はずっと遠くに行ってしまった。あの温かい手のひらも声も薄れて消えてしまった。去っていった彼らと同じ表情で少年の目は遠い場所を見ていて、現世のあれこれに心を留めるのをやめようとしていた。
だめだ。絶対にだめだ。行ってしまったらそれきりになってしまう。死者の国は生きているこの世のすぐ横にあるけれど、死者の声を聞くことだってできるけれど、それでもあの入り日の門をくぐっていった人びととは生きているときのように触れ合うことはできない。
「お前はだめだ」
お前はまだそのときじゃない。
どうしてだか、その確信だけは湧いた。この少年はこんなところで命を落とすべきじゃない。
死出の道に出かかっている者の目を見るな、という祖母の声、何度も繰り返されたその声が耳によみがえった。が、死者になりかけている者の魂、少年の目を少女は思いきり覗きこんだ。
ちがう、この子は死んでいく子じゃない。まなざしを向けて、そうして、それでくくりつけるように……
少年の焦点がややあっていないような目線はゆっくり少女に向けられていった。ふいにぱちくりと、少年が、少女を見つめて瞬きする。白昼夢から覚めたように、少年は少女の目線を真正面に受け止めていた。一瞬だけ、少年はあの入り口に目をむけたが、少年の魂へ呼びかける地の声は遠ざかっていた。
「君がそう言うからにはあんまり良くない場所なんだね? じゃあ、あっちに行くのはやめておく。だから、ね、もう泣かないで。ほら?」
泣いてなんかいない。泣いてなんか。泣くほど心が揺らいだらいけないんだ、シャーマンは。頬を転がり落ちていく冷えた水滴のことなんか気にしたらいけない。今は、とにかくも繋ぎ止めた魂を、本来あるべき場所まで導かねばならない。きっと港に行けば。船を見せることができたら。心を落ち着かせて、少年の先に立って歩きはじめる。
「こっちだ。もう少しだ」
泣き止んだ女の子に案内されて、運河の下流に進んでみた。
女の子は、さっきのがウソみたいに落ち着いて、何度もこっちを振り返りながら先を行く。
いくつか運河をまたぐ橋を過ぎて、何回か曲がり角を曲がって。
気がついたら、人の声が増えて、匂いとかもしてきた。
なんだか懐かしい匂いがする。
そうだ、潮の匂いだ。港の匂い。そう思って角を曲がったらいきなり空が広くなった。
海。港。船。
たくさん、世界中の船、大きいのも小さいのも、いろんな船がたくさんある。すごい。帆船もガレー船もある。リスボンで見かける船もあるけど、見たことのない変わった帆や船体の船がたくさんある。リスボンはすごい大きな港街だと思ってたけど、ここは、もっとずっと、それ以上だ。
船を見渡しながら歩いて、気がつくと小さな桟橋に立っていた。小さな帆をつけた、平たくて細長い小舟が何艘も並んでいる。
女の子が呟いた。
「ピラミッドまではこんな船でナイル川をさかのぼって行った」
「ナイル川! おじさんから聞いたよ、世界一大きい川だって」
「ここもナイル川の一部だと思う。海もすぐそばだけど、ここからこの船に乗って、そのままどこにも下りないでさかのぼっていけた。私はここも川だと思っていた」
女の子が首をかしげる。
「海はよくわからない。この街に来るときに海を渡った。でも、おばあさまは、ナイル川はその海とは別の海、地中海という海にそそぐのだとおっしゃっていた。だからここから見えるのが海なら、地中海と言うんだと思う。おばあさまのお話では、地中海は私の渡った海よりもずっと広くて、ずっと西に行ったら川のように狭い海を過ぎて、そうするとそこから先はもう地中海じゃなく、世界の外側の海だということだった」
「地中海……」
そうか、だからこんなにたくさん、いろんな国の船がここにあるんだ。リスボンは西の果てにあって、地中海を出て北に向かう船がたくさん泊まるけど、この街は地中海の中にあって、南にも北にも、東にも西にも、あっちこっちに向かう船の行き来がいっぱいある。だからおじさんも商売のお仕事で地中海のこんな奥に来たりする。
そういえば僕たちの乗ってきた船、地中海を横断してきたはずなんだ。どれだろう。このなかに見えるかな。中くらいのナオだったと思う……あれ、大きめのキャラックだったかな。なんだかあんまり覚えてない。リスボンから、どんな船でどれくらいかけてここまで来たんだっけ。
なんにしてもナイル川なんて地中海の一番奥のほうだ。リスボンはその反対側、地中海の西の端を越えたところだ。とても遠い。
それにしても、この子、小さいのにいろんなことを知ってる。おばあさんから聞いてる、というけど。
「君のおばあさん、ものしりなんだね」
女の子はうなずいた。
「おばあさまはなんでもよくご存じだ。海のことも、街のことも、病の治し方も……目に見えないいろいろなもののことも」
ちらっと僕のほうを見る。なんだかよくわからない。やっぱり不思議な子だ。でも親切だ。いろんなことを話してくれて、僕の案内人をしてくれたんだから。この子がもしいつかリスボンに遊びに来てくれたら、今度は僕がリスボンを案内してあげなくちゃ。
「僕の住んでるとこ、君の言う狭い海峡を越えた外の海……大西洋に面してるんだよ。リスボンっていう街なんだ。北の国に向かう船がたくさん泊まる大きな港町だけど、この街ほどいっぱいの船は見たことないや」
女の子は僕をじっと見て何度もつぶやいた。
「リスボン、リスボン……」
「君がもし僕の街に来たら、僕、案内するよ。こんなにたくさんの船は初めて見たけど、リスボンだって大きい街なんだから。宮殿があって、王様がいて、大聖堂もあって、この街に負けてないんだからね」
僕は胸を張った。
「それに北に行く船だけじゃないんだよ。王子様の命令で、南の海、アフリカに向かう探検船が出ることもあるんだ。どんどん南へ、誰も行ったことのない場所まで行く探検船だよ」
女の子はちらっと僕の方を見上げる。
「お前は探検が好きなのか」
「もちろん! 僕もいつか、船に乗って世界中見て回るんだ。そしてまだ誰も行ったことのないところを探検して、本を書くんだ。そしたら僕の本、大学の図書館に大事にしまわれるんだよ、きっと」
「だいがく。としょかん」
女の子は不思議そうな顔をする。小さいからさすがに知らないか。
「大学は世の中のいろんなことを調べている賢い学者と、そのお弟子さんがいっぱいいるんだ。図書館には調べものができるように本がいっぱい置いてある。僕、もう本をたくさん読んでるから、大人になったら大学に行ってお弟子さんになって、それからきっとすぐ学者になるって、みんなが言ってる。僕は学者じゃなくて探検家でもいいんだけど、でも、学者になってたくさん本を読むのもいいな」
大学の図書館ほどじゃないとはいうけど、おじさんの知り合いの貴族のおうちにたくさん本が置いてある図書の部屋がある。ちょっと前から、僕はそこで本を読んで勉強してもいいって、特別に許しをもらった。おじさんが手紙を書いてくれたんだって、お母さんが教えてくれた。だからいっぱい勉強しなさいって言われたけど、言いつけられるまでもない。あんなにたくさん本を読んでいいんだから、それが勉強なんだっていうなら、いっぱい本を読む気でいる。
そうだ、本、読みたいな。ピラミッドのこととかナイル川のこととか、いっぱい調べたいことがある。きっとまた、ここに来るときのために。
気がついたら、女の子がじっと僕を見つめていた。
「お前のふるさとはリスボンというんだな」
大きな、黒い目。
「お前はリスボンに戻らなければならない。もう、戻るときだ」
あんまり見つめてくるからか、なにも言い返せない。リスボンに、と、その言葉だけやけに強く聞こえた。
「思い出せ。リスボン、お前の街、お前の家、もどるべきところ」
そりゃあ、戻るけど、そうするけど。おじさんと一緒に……おじさん? 船に乗ってきたんだ、一緒に……
ちがう。
おじさんは扉の向こうにいた。お母さんが泣く声がしていて、そこにおじさんの声がして。僕はおじさんからエジプトの話を聞くつもりだった。なのに、あんまり風邪がひどくて、体も起こせなかった。いや、風邪じゃない、誰かが、はしかだ、と言っていたのがこっそり聞こえていた。みんな僕に聞かせないようにしていたみたいだけど。僕はわかっていた。これはとても重い病気で、僕は死ぬのかもしれないと。苦しくて、ひとりで、とても怖かった。
でもはしかで死にかけていたはずの僕は、今、乗ったこともない船で地中海を渡り、行ったこともないエジプトの街にいる。そして女の子に街を案内してもらって……その子が、僕を強い光のこもった目でみつめて、一言一言、ゆっくりと囁いている。
「考えるんだ、お前が本当に居る場所のことを。思い出したならすぐに戻れる。船よりももっと速く、お前の魂は飛んでいける」
ふっと女の子が空を見上げた。かもめがなめらかに空を飛んで、西へ向かっていく。
「あの鳥よりももっと速く、魂は飛んでいける。風よりもっと速く、お前の魂なら、きっと。飛んでいけ、リスボンへ、一刻も早く」
女の子が空に両手を上げた。つかんだ鳩を放つような、そんな仕草。
「西へ、ずっと西へ、入り日の向こう側、死者の国すら飛び越えた西のさい果て、海のかなた、お前のリスボンに」
僕は白い大きな鳥になったような気がした。いや、なっていた。
風がすごい音で周り中を渦巻いている。伸ばした翼の下にその風が飛びこんできて、僕は風に乗って空を飛んでいる。すごい速さで。
岸壁が、船が、港が、街が、あっというまに小さくなる。みるみるうちに僕は海岸線からも遠ざかり、青い海のそのはるか上空をまっすぐに進んでいく。
あの小さな女の子の姿なんてとうに見えない。でも、声だけが耳に残っている。
「リスボンに」
リスボン。僕のふるさと。僕の家。
目を開けて、明るい方に目を向けたら、おじさんが椅子にかけているのが見えた。窓を少し開けて椅子に掛けたまま外を眺めている。朝、かな。白っぽく明るい光が窓から差しこんできている。
「おじさん?」
びっくりしたように急に、おじさんは振り返った。ばっと窓を大きく開けたかと思うと、駆けるようにベッドのそばに来る。おじさんが窓を開け放ったから、部屋は朝の光でいっぱいになった。
「キコ? 目が覚めたのか。具合はどうだ、私のことがわかるのか」
おじさんの手が額に置かれる。
「熱はだいぶ下がっているみたいだが、どうだ、大丈夫か、耳は聞こえるか、目は、言葉はしゃべれるか」
立て続けにいろいろ言われても、なにから答えたらいいのかわからない。ちょっと困ったけど、とりあえずおじさんに会ったら言いたかったことを思い出した。
「おじさん、帰ってきたらエジプトの話、一番先に僕にしてくれる約束だったよね?」
エジプトのことが真っ先に口に出た。だって、楽しみにしてたんだ。僕は調べなきゃいけないんだ、きっとまた行くから。
また?
ほわんと変な気持ちがした。行ったことないのに、また、って思ったの、なんでだろう。
おじさんは椅子に座りこんで声を立てて笑い出した。
「大丈夫みたいだな、だいぶ良くなったみたいだ」
笑いながら、おじさんは僕の頭を撫でてくれた。
「いつもの知りたがりのキコだな」
小さい子にするみたいなこと、照れくさくてやめてほしかったけど、なんだかとてもくたびれて体がだるいから、文句を言う気にならなかった。とんでもなくおなかがすいている。そうか、僕ははしかにかかったんだった。
「僕、はしかなんでしょう」
「もう治ったんだよ。熱もすっかり下がっているし、発疹もひいている。でも、一時は危なかった。昨晩から熱が下がったけど、それでももうお前は目を覚まさないんじゃないかと、姉さんはずっと泣きどおしだったよ。義兄さんも何度もお医者に相談しにいったけど、こればっかりは運しかないって言われてね」
なんだかとても大変な騒ぎになっていたみたいだ。僕は、ただ熱がしんどくて、息をするのがつらくて、そのことだけ考えていただけだったけど。お母さん、泣いていたんだ。そうだ、泣いている声を聞いた気がする。
「姉さんや、お前の弟や妹はまだはしかを済ませてないからね、移さないように、会うのはもう二、三日待たないといけない」
とてもしんどかったとき、お母さんにそばにいてほしいと思ったのにいてくれなかったのは、僕が伝染する病気にかかっていたからだ。今もお母さんにとても会いたいけど、僕はもうそんな小さな子じゃないんだから、我慢できる。
「義兄さんを呼んでこよう。お前が治ったと聞いたらみんな安心するよ」
おじさんは部屋を出て行こうとした。
「うん……あのね、おじさん、ついでになにか食べるの、持ってきてほしいな」
おじさんはまた明るく声を立てて笑った。
「よし、よし。腹が減ったよな、何日もまともに食事できてないからな。お粥かポタージュだけど、できるだけ美味しく作ってくれるように、台所に頼んできてやる」
なんでもいい、とにかくなにか食べたいし、飲みたい。
おじさんが部屋を出て行って、きっとすぐお父さんやばあやなんかを連れてくると思うけど、今は一人で静かになった。いっぱい寝すぎたから眠たくはないけど、疲れているから目を開けているのがおっくうで、また目をつぶる。
なんだかやけに長い夢を見たような気がするけど、ほとんどなにも覚えていない。熱でいろんな変な夢を見すぎたんだと思う。思い出そうとしてもごちゃごちゃして、なにもはっきり思い出せない。
風が吹く音だけ、なんだか覚えている。すごい強い風の中にいたような。
あと、誰かの声。なんか呟いて……どんな声かも思い出せない。なんて呟いていたかも……だめだ、考えると逆にどんどん消えていくみたい。
ほーっと息を吐いて目を開けた。
見慣れた僕の部屋。いつもならきょうだいが一緒だけど、今は僕だけがここに寝かされているんだろう。
だけど、ちょうどいい。一人で静かにしていられるならきっと読みものがはかどる。ああ、なんでもいいからとりあえずなにか読みたい。ごはんを食べて体が起こせるようになったら、なにか読むものももらおう。
なんだか調べなきゃいけないことが、知りたいことが、いつもよりもさらにいっぱいあるような気がした。
おばあさまが枕元に座って、私を見下ろしている。
いつも通りの静かで揺らがない顔。怒っているかどうかもわからない。でも、私のしたことを許しはしていないのは確実だった。
「わかっていようが、お前の不調はしばらく続く。お前の能力の分を越えて力を無理に使った、その当然の結果と、しかと心得よ」
「はい、おばあさま」
「お前は自分の魂を差し出して生霊を救おうとした。それがうまくいったかはわからない」
「はい」
「お前が死ななかったのならば、お前が魂を無理につなぎとめたその生霊もまた命長らえたやもしれぬ。そうであるにしてもまったくの幸運にすぎない。十中八九、お前の救おうとした魂どころかお前自身の魂も諸共に冥界に落ちていただろうことを、よくよく考えるのだ」
「はい」
「お前は死んではならない。シャーマンは魂を冥界近くにまでも飛ばすことができるが、決して自らはその淵に落ちることのないよう、厳しく心を保たなければならない。お前はまだそれを少しも学べていない。学ばぬうちは軽率におのれの魂を放り出してはならない」
「はい」
全部、はいと答える以外にない。おばあさまが全部正しいからだ。
どちらにしても熱と頭痛で頭があまり働かない。考えなくては、よく考えなくては、と思うけど、うまくいかない。でも、おばあさまが言うように、本当はもっと厳しく心を保って自分の魂を守らなければいけなかったのだ。
おばあさまは寝床を離れていった。一人で、働かない頭で、ぼんやり、のろのろと考える。
少年の魂を捕まえようとして無理に自分の魂を出したことで魂がとても弱ってしまった。休まなければならないが、おばあさまには迷惑をかけてしまう。私は良くないことをした。
少年の魂が本当に無事にリスボンというところに戻っていったのかは私には見えなかった。見えていたら少しは安心できたかもしれない。でも今は自分が助かったことをありがたく思うしかない。数日まともに意識が働かず寝こんでいたのと、熱とひどい頭痛くらいで済んでいるのだ。少年も私も二人とも、死に引きこまれて、入り日の国に沈んでしまうほうがよっぽどありえたのに。
ただ、心は安らいでいた。なんとなく大丈夫だったんじゃないかと思う。きっとあの魂はリスボンに戻って、体に戻って、目を覚ましたんじゃないかという気がする、なんとなく。 これは予知なんかではなく、ただそうだったらいいと思っているだけだった。いつか本当はどういう結果だったかを知ることがあるだろうか。そんなことは起こらないような気がした。私にわかるただ一つのことは、自分がしたことはシャーマンの見習いとしてはまちがいだったということだけだ。
まちがい。まちがいだったんだろうか。
考えても、とてもたくさん考えてもわからない。
あの子の魂を離さなかったことはやってはならないことだったんだろうか。
たくさん考えても、やっぱりわからない。
おばあさまには言えないけれど。
うとうとして、気がつくとおばあさまがまた枕元にいた。だまって手を私の額に当てている。おばあさまの長い細い指がひんやりして気持ちがいい。とんとん、とその指が額を軽くたたいた。おまじないだ、魔を抜くおまじない。おばあさまは小さい頃から何度もこのおまじないをやってくれた。今もなんだかすっと楽になった気がした。
「おばあさま。ごめんなさい」
やっと「はい」以外の言葉が出てきた。なんだか言いづらかった。まちがいとわかっていてまちがったことをしたら、あとで詫びても意味がないといつもおばあさまに言われているから。それに、ごめんなさいといまさら言ったところで、おばあさまに心配をかけたのはなかったことにはならない。
おばあさまはとんとんとおまじないを終わると、汗で張りついた髪をかき上げながら、私の額に手のひらをあてた。ひんやりした手。
なんだか泣きたくなったけど、シャーマンは泣いてはいけない。心を揺らがしてはいけないから。
目をしっかりつむって心を静かにしようとした。もう泣いたりしない。それに、調子の悪い体と魂を元に戻すにはたくさん眠らなくてはいけない。静かに、心をくつろげて。
おばあさまが額に手を置いてくれている。だからなんだか安心して、そうして、またゆっくり、ふわりと眠りに落ちていった。