払暁

 港もこうまで夜が更けるとしんと静かで、岸壁や船べりを軽く叩く波の音しかしない。
 ペレスが船室の小さな卓に、かじりつくように向かい合ってから何時間も経っていた。ごく短いレポートを相手に、ぐずぐずと筆が止まっている。記憶を元に単語を書き並べ、単語から文章を作り、いつもの作り方で進めていたにもかかわらず、まったくはかどらない。
 記憶は脳内にすぐに呼び起こせる。暗がり。松明の不気味な赤さ。理解できない言語で上げられる女たちの怒号、喧噪。飢えと疲労。
 つい昨日のことだ。よみがえる記憶から、単語をメモ用の紙に、思いつくまま走り書きする。
 洞窟、深部、地底。
 アマゾネス、興奮、怒号。
 広場。祭壇。儀式。生贄。
 ペレス自身の感情はレポートに盛りこむ必要はない。あのとき、恐怖よりも疲労が先に立っていたことは思い出せる。殺されるのか、いったいどのような儀式で、と好奇心と観察の視点すら湧いた気がする。極限の状態で思考が麻痺していただけだとは、今になってみるとわかるが。
 祭壇とおぼしき平らな岩の台に縛りつられ、身動きもできなかった。わずかに首を巡らせ、目を動かして届く狭い範囲は多くが暗がりで、せめてもの明かりである松明も、その陰気な赤い炎が陰影をむやみと躍らせるばかりで、進行する事態はほとんどつかめなかった。だいたいペレスはくたびれ果てていて、すりきれた思考でぼんやりと見えるものを見つめるくらいしかできなかった。
 多数の女たちが祭壇の前の広場にたむろしていたが、その人垣がわずかに左右に退き、祭壇に一人の人影が近づいた。目の端でちらりとその影をとらえただけだったが、女ということはわかった。もちろんここには女しかいないのだから、ペレス以外は。
 彼女は他の者たちのように声を上げてはいなかった。高まる熱気と声音とともに、身振り手振りも大きくせわしなく動き回る他の者に比べて、夜風のように静かにさりげなく、人影は祭壇のそばまで来た。
 人影がペレスに目を落としたとき、ペレスはそれが誰かを悟った。
 黒曜石のように硬く冷たく、読み取れない、深淵のまなざし。地底湖の水面のように静かで揺らがない表情。思わず名前を呼んだら、その人はうなずいた。肩よりも長めの黒髪が揺れた。いつもきっちり巻きつけてあったターバンをすべてほどき、上着も脱いだその人の、あらわになった腕、体つきはそうと認識していたよりもずっとしなやかでほっそりしていた。
 単語をためらいがちにつづる。
 思いもかけぬ救助。仲間。アブトゥ。
 女性、と書きかけ、線でかき消す。
 清書用の文章を頭に作り、それをまたメモとして走り書きする。単語はポルトガル語で書いていたが、清書前の下書きはもうラテン語で記していく。
『あまぞねすタチハ、供犠ノ儀礼ノ贄トシテ我ヲ捉エタルモノト覚ユ。将ニ儀式ノ開始ニ至ラントスルニ、商会ノ同朋タルあぶとぅ提督ノ助ケヲ得タリ』
 性別は記さない。記す必然もない。それでもあのときの気分がふいに蘇って、しばし紙を見つめる。

「女だったのか」
 アブトゥは表情を変えもしなかった。いつもの冷静そのものという佇まいで、いつもの声でつぶやいた。
「男だと言ったことはない」
 考えてみればそうだ。男だとは一言も聞いた試しはない。声が、男としてはやや高めだったかもしれないとは今さら認識した。彼……彼女……の佇まいの静けさのおかげでそんなことはいつもまるで意識に上らなかった。
「お前が思いこんでいたにすぎぬ」
 顔立ちの整った青年だと、ずっと。男としては線が細いと認識したことすら、果たしてあったろうか。少し考えてみれば、観察の目を確かに働かせていれば、思い当たることはいくつもあったろうに。
 しかしその瞬間は、ペレスはあまりの驚きと混乱で、そんなことがあるはずがない、と呟き続けたのだ。論理がおかしい、間違っている、今、なぜ、その姿で目の前にいるのか。あまりにも非現実。非合理。そんなはずは。そんなことがありえるはずは。
「落ち着け」
 落ち着き払った、しかし鋭い一言がペレスの混沌を切り裂き、切りわけた。
「見たまま、あるがまま……それが真実なのだ」
 そう。自らの目で確かめたことこそ真実のはずなのだ。ペレスはそうやって今まで、科学によって世界を腑分けしてきた。そうしてきた、ずっと。
 目の前のアブトゥはいつもと変わらなかった。声も、まなざしも、その言うことも、揺らがぬ表情も。なにひとつ変わってはいなかった。
「ペレスよ、思いこみを捨てろ。あるがままを受け入れるのだ」
 思いこみ。思いこみだって?
 ペレスにとって今目の前にいるのは初めて出会った女だった。黒い髪、暗い色の肌、しなやかな腕、美しい顔立ち。その面立ちも仕草も声もなにもかもペレスが認識していたアブトゥのそのままであるのに、未知の人だった。
 混乱で思考停止しているペレスをよくわかっているように、女は目を細め、早口に囁いた。
「今はそんなことより、早くここから逃げ出さねば」
 逃げ出す。
 言葉は、ペレスの脳をそのままよぎり、なんの思考の形も取らないまま消えていった。女はまっすぐペレスを見つめた。強い輝きが瞳に宿っていた。聞こえるかどうかのささやき声なのに、ぼんやりと麻痺しているペレスの脳髄に叩きつけるかのように強い語調で、女は告げた。
「お前は、私が信じるもの、私の存在を信じるまで、死んではならぬ」
 それが運命だ、と女は言った。
 運命。そんなものをペレスは信じてこなかった。抗うようにそう呟くと、女はふっと空気を緩めた。
「お前は、いつか信じるだろう。……私の信じるものを。私自身を」
 なにかがその揺らがない顔にほんの一瞬よぎった。なにか、呟きとともに。

 それからどうしたろう。
 そうだ。アマゾネスの頭立った者がなにかを宣言するように合図をし、怒号が高まった。女はペレスから離れるそぶりをしながら、アマゾネスたちの方を向き、なにかを叫んだ。松明の煙に燻されて淀んだ空気が突然に大きく動き、突風が洞を駆け抜けた。すべての明かりが一瞬大きく燃え上がり、次の瞬間にはかき消え、場は真っ暗闇に覆われた。アマゾネスたちの声は悲鳴に変わった。大混乱のなかで、ペレスにかけられていた縄が素早く切り払われた。次の瞬間には手首が誰かの手に掴まれる。
「逃げるぞ」
 アブトゥの声がすぐそばで囁いた。

 暗闇のなか、ペレスの腕をつかんで導く手のひらと、疲労によろめくペレスの肩を支えるもう一つの肩だけがたよりだった。その案内に全面的にすがりながらペレスは歩いた。つまづき、支えられ、よろめき、励まされ、たたらを踏み。そんな調子でのろのろと進んでいるにも関わらず、洞窟の底から響くアマゾネスたちの喧騒はいつのまにか遠くなっていた。代わりに暗闇の向こうから押し寄せてきたのは原初の恐れだった。
 ただ暗闇というだけの、たったそれだけの恐怖。そのまま大地に埋もれ、飲みこまれるかもしれないという、本能的な恐怖。死と、死と、死。重く淀む静寂と停滞の空気が、今や周り中を取り囲んでいた。暗闇のなかには時間が存在しないように思えた。無限のあいだ二人で歩き続けなければいけないような気がした。すべてが死んでいて虚しいこの暗闇の中を恐怖に追い立てられながら。
 ペレスは、ただ一つの道しるべにすがった。
 手首に伝わる、手のひらの熱。
 ただそれだけが死をおしのける生命の炎だった。その炎だけは揺らぐことなく、ペレスに熱を分け与えながら着実に暗闇の中を進んでいく。

 どれだけ歩いたのか、ペレスには時間の感覚がまったくなかった。実際には一時間も経ってはいなかったのかもしれない。しかし何日も歩き続けたような、永遠に暗闇をさまよっていくような気がしていたところに唐突に暗闇が和らいだ。目の前にぱっくり切り取られた空、明るみのさした群青色の空があった。
「出口だ」
 女はペレスの手首を離し、洞窟の開口部に立って外の様子を見渡して振り返った。
 曙の色が差しはじめた空を背景にして、ペレスの側からはほとんど影のようにしか見えなかったが、薄明のもとに立つその影はすらりと美しかった。静かに声が、朝の側からペレスの名を呼んだ。
「ここから少し下れば私の船の者たちが待機している。あと少しだ」
 さあ、と女は手を差し出した。ペレスが手を取ると女が手を引いて、二人はともに数歩、洞窟の暗がりから歩み出た。
 ガレ場の続く斜面が眼下に広がっていた。二人は崖のような険しい丘陵の中腹、朝日が上る前の仄明るんだ空の下に立っているのだった。冷涼な風が緩く吹き、肩を寄せ合って立つ二人の髪と衣をそよがせた。どこか遠くで小鳥たちがさえずりを上げるのが聞こえた。死の淀んだ暗がりは背後に取り残されて、もはやはるかに遠ざかっていた。

 昨日の記憶がついさっきのことのようにペレスの脳に立ちのぼり、奔流となって体をあの時間に押しこめた。しばらく凝然と虚空を見つめて、ペレスは自分の内面に翻弄された。記憶と感情とが身体に満ちて沸き返る。あのとき呆然としていてただ流すだけだった心の動きに今さら脳が支配されている。筆の先がなにかを書き留めようとしてふらふらと揺れたが、なにも記さなかった。
 しばらくしてやっと再び筆を動かす。
『冥府ノ如キ暗所ナレドモあぶとぅ提督ハ道ヲ見出シ、我ラハ安全ニ地上ニ逃レ得タリ。
 払暁ノ頃ナリ。程ナクあぶとぅ提督ノ本隊ト合流ヲ果タセリ。我、疲労困憊ニシテ軽微ノ飢餓アルモ、負傷ナク帰還セリ』

 洞窟を出て丘陵を下りながら、女は上着をまとい、ターバンを巻き、髪を覆った。そうするとそこにいるのはいつものアブトゥだった。
 ペレスは、頭の周りに器用に布を巻きつけ、織りこんでいくアブトゥの手元のきびきびとした動きをなんとなしに見つめ、先程までペレスの手を引いていたのとは反対の手のひらが擦り傷と乾いた血で荒れていることに気づいた。
「血が」
ペレスの言葉に、アブトゥは自分の手のひらに一瞬目を向け、呟いた。
「ああ。岩を掴んだときにでも擦ったのだ」
 大事はない、と言い、ターバンの端を頭の後ろのほうのどこかにきゅっと挿しこんで、アブトゥは身支度を終え、歩き出した。会話はそこで途絶えた。

 ペレスはため息をついて顔を上げた。つらつらとメモに記した文字を目で追う。ごく数行程度のメモは起きたことを簡潔に述べている。過不足なし。これを清書し、調査状況及び経過についての短い一章として、アマゾネスに関する調査及び考察に付け加えれば、それで報告は完成である。あんなにいろいろなことが起きたのだが、それを事細かに書き記す必然はどこにもない。だから報告にはなにも記されない。アブトゥの隠されていた姿も、ペレスの驚愕と動揺も。暗闇でただひとつの確かさだった熱のことも。その熱の反対側で、地上へ向かうために岩を掴んで切り裂かれた皮膚も。誰がその情報を必要とするというのか。語られる必要のないことだった。
 しかしペレスは自分自身のために記憶の渦を言葉にしたかった。混沌としたデータは言語化され、整理され、構造化されなければならない。そうでなければなにが起こったのか全体像を把握することはできない。ペレスにはまだこの記憶がかみ砕けていない。
 それでここ数時間、ずっと筆をうろうろさせていたのにも関わらず、ペレス自身の見たもの、感じたことは言葉としてなんのかたちも取ろうとしなかった。ただ体験の記憶の断片が混沌のまま、ペレスの思考のそこかしこに居座り続けていた。

 アブトゥの手のひらの傷を見たとき、ペレスは自身の手のひらにその痛みがひりつくような気がした。自分を連れて闇を行くなかで、働き、傷ついた手のひらの痛み。しかしペレスはあのときアブトゥになにも言葉をかけられなかった。すまないともありがとうとも。それを思い出すと、彼女の手を切りつけた鋭い岩の硬さが今はペレスの心のどこかに刺さったままになっているような心地がした。
 思わず小さくうめいてペレスは頭を抱えた。まとまらない。なんの合理的解釈にも繋げられない。体のあちこちで、脈絡のない記憶と感情の雑然とした羅列がとりとめなくざわめくばかりだ。
 意味なんか考えるな。
 頭の中で女が再び呟く。
 あるがままなんだ、ペレス。今ここにあるとおり。今見て、感じていることがそのまま。
 そんなわけにいくか。
 抗うようにそう思った脳内の言葉ですら弱弱しい。
 アブトゥの声がたたみかけるように響く。
 運命だ。それが、私とお前の。
 頭痛がしそうなほど混乱した脳みそをかきまわしてペレスは考える。
 運命だと? 決められている、だと。
 いっそ怒りのような気持ちが湧いてきた。命の危険さえあるのにあんな地の底まで。手のひらの傷、負う必要なんてなかった怪我、流れて乾いた血。私はそんなものは認めない。ペレスは虚空に呟き返した。
 ふと手首に熱の感触がよみがえる。しっかりと捕まえ、地上にひっぱっていく灯。
 なんだか心臓が締めつけられるような気持になり、ペレスはかぶりを振った。非合理的だ。理屈が通らない。認められない。こんなに混迷の霧に包まれた思考は。
 ペレスは記述を続けられないでいる余白をどうしたものかと見つめ続けた。けれど、繰り返し返し、どこにもたどりつかない思考をなぞっても、その白を埋めるべき言葉は浮かんでこず、感情に満ちた空白だけがぽっかりと文字の波間に寄せて返すのだった。