証明
地図を広げ、その上に定規やら分度器やら方位磁石やらを並べ、ペレスはじっと考えこんでいた。その傍らにミゲルはなんとなく息を詰めて、ペレスがなにか言葉を繰り出し始めるのを待った。彼のこの判断で商会としても大きなチャレンジを実行することがついに決定となる、と心得てのことだ。
やがて思惟を解いたペレスは地図の右端の一点を指でとんと示した。
「ミゲル君、ここだ。このあたりの地理が把握できれば……この地域に一番近い提督は」
地図のその部分はまだなにも描かれていない。字義通りの空白地帯だった。やや離れて、最近書き足されたばかりのインク跡も鮮やかな島々が描かれているが、その島々の連なりも地図の端までは達していない。
ミゲルは報告書や手紙の束を素早く繰り、ペレスへの回答を探した。
「一番近く、近くにいるのは……ハチジョーに、アブトゥ提督が停泊してますね」
ペレスは片眉を上げた。
「ハチジョーか」
ペレスは人差し指でハチジョーと小さく描かれた場所を抑えた。先ほど示した空白地帯のほど近くの新しく記載された島々の一つだった。そのハチジョーを抑えた指を、そこからずっと右へ、つまり東へ、まっすぐ滑らせる。指は地図の描かれた紙の端を越えた。
「ジパングよりももっと東、ですね」
ミゲルはつばを飲みこんだ。
「そうだ。もっと東。あるいは西とも言えるかもしれない」
ペレスは左手で同じ緯度に相当する反対側の端に触れる。地図上の西の限界。そちらにはすでに紙の端すれすれのところまで陸や島、海を示す波の模様が描きこまれている。
「ゴメス提督がこの海域をくまなく調べ上げてくれている。報告書を確認したがかなり詳細だ。もしハチジョーを出て東に向かったアブトゥがこの海域にたどり着けばすぐ目印になるものを見いだせると思う」
ペレスの提唱する理論をわかっていても、ミゲルはぐっと心臓が縮み上がる気がした。地図上の紙の端っこ、すなわち世界の果ては巨大な滝になっているというのが、昔から教わってきた世界の姿だった。
「アブトゥ提督に、空白海域を探査してもらいますか」
ミゲルの言葉にペレスはうなずいた。
「世界の果て、も」
おそるおそるに続けて問うミゲルにペレスは深々とうなずく。
「彼ならしっかりした報告が期待できる」
「ですが、アブトゥ提督は、そのう……ペレス教授とは意見の対立がありますよね」
ペレスはちらっと口の端に笑みを見せた。
「もちろん我々の信条は常に対立しているがね。しかし世界の姿に関しては、アブトゥは球体とも平面とも決めつけていなかった。彼は、世界は信ずる者の数だけ存在するといっていたか……その意見はともかく、私は彼を信頼が置ける人間だと思っているよ。頭がいいし、冷静だし、なにより誠実と公正をわかっている。自分の利のためにつまらない嘘をつくようなことは絶対にしない。彼は世界の果てで見たものをそのまま報告してくれるだろう。たとえそれが私の説を証明することになるとしてもそうでないにしても、見た通りそのままにね」
ペレスは地図に目を落とした。
「彼がちょうどハチジョーにいるのなら願ってもない。適任だと思うよ」
「ペレス教授、本当なら教授ご自身で世界の姿を確かめられたいのでは」
「そうしたいのは山々だが、今、私の艦隊がここからよその港に移るのは危険だ。疫病を運びこんでしまうだろう」
リスボンも含め地中海の諸都市はここ一年ほどおそろしいまでに拡散力のある疫病に席巻されていた。たまたまリスボンに戻ってきたペレスの艦隊はもう二か月ほど、防疫のために足止めを食っていた。
「誰でもいい。世界の真の姿について信頼のおける報告をしてくれる人間なら。だが、なんといっても我らの商会に属する提督たちが最も信頼がおける。その一人が今、世界の果ての間近にいるんだ。今こそチャンスだと思う」
ペレスの声は平静だったがいつもより少しだけ早口で、そこには彼の学究が新しい段階に達しようとしていることへの高ぶりが潜んでいるとミゲルは感じた。ペレスの熱が移ったようにミゲルの心臓も緊張と期待で大きく鼓動した。
「では、アブトゥ提督に急いで指令を送りますね」
頼んだ、と呟くペレスの目線はじっと空白地帯に注がれていた。
商会からの指示を受け取ったアブトゥは、その晩、提督専用の船室に一人座し、とつおいつ考えこんでいた。
地図の外へ。指示にある方角と距離は世界の果てを越えることを求めていた。常と異なり、その指令状にはペレスの直筆のメモがついていた。世界の果てを確認し、その目で見た通りにぜひ報告をよこしてくれと、ただそれだけ。それ以外には、これといった指示も示唆も、注意事項もない。
世界の果てについてはすでに地中海ではさんざん噂と議論が飛び交い、老若男女貴賤を問わずヨーロッパ中の人びとの興味関心が向けられている。その発端はペレスだった。大学だか学会だか、アブトゥにはよくわからないものではあったが、とにかくペレスはまず学問の世界にその問いを投げた。しかしそれだけにとどめず世間の人々の耳目に触れるところまで、世界が球体であるという彼の自説を公表し、議論を呼び起こした。彼は自分の推論を世に問い、世の人々すべてを巻きこんで世界の姿を定めようとしている。
ペレスの呼びかけで商会の提督たちでもそれぞれの見解を語り合ったことがある。さまざまに意見が出たが、商会にとって世界の果てを確認することがもはや大きな目標となっている認識は全員に共通していた。大衆の好奇心が沸騰している今、まだ誰も確かめていない世界の真の姿を見届ければ商会の名声はいっそう高まるだろう。
こうして否応なく世界の真の姿を求める機運を世論に撒いたペレスの強かさや計算をアブトゥは意外に思ってはいた。人と盛んに交わることを求めず、だいたいいつも本にうずもれて書き物をしているか実験をしているかという物静かな男がこうまで世間に自説を喧伝するというのは。だがアブトゥは、ペレスは必要なことであれば果断に為す人間でもあるとも思っていた。名声や称賛を求めているわけではないだろう。彼はごく単純に世界の姿を知りたいのだと思えた。情報と知識と論理でもって、曖昧模糊としたこの世界と固定観念に縛られた人々の意識とを切り払い、真実をつかみたいと思っているのだろう。そのためには彼一人ではなく、世間全体が彼と同じ疑問にとらわれることが必要だと思ったのだろう。そう思えば彼らしい行動ではあった。
アブトゥ自身は世界の果てについてこれといった定見は持っていない。時が至れば、その場所に行って見さえすれば、世界の果てがどのようになっているかはわかること。なにをどう恐れ、期待しようとも、すでにそこに世界の姿は定まっている。だからアブトゥは自分がそれを確かめる運命にあるかどうか星に尋ねたことすらなかった。もし商会から指示があれば指示にかなうように探査し、報告するだけ。他の海域で行なってきたのと同じことをするだけだった。
それでも今、アブトゥは自分でもつかみきれない惑いを感じていた。
商会からの指令に一枚小さく折りこまれた書き付けを、アブトゥは再びじっと目で追った。ペレスがこれを書きつける素早い筆の動きが見えるような気がした。ペレスは自分で、その目で確かめたかっただろう。しかしながら彼はこの一行そこそこしかない書き付け一枚だけでその役目をアブトゥに託してきたのだった。
アブトゥは小さくため息をついた。なにより、この東の果てに辿りついてこの海域をしばらく探査していたアブトゥの船に乗り組んでいる者たちこそが、世界の果てへの好奇心と恐れとのはざまに置かれている。世界の淵はあとほんの少し先にあり、もしかしたら自分たちがそこに乗り出すかもしれないことを船の誰もが予期していた。今、この指令でもって、その当然ともいえる予期が実現したことになる。そしてアブトゥの船の乗組員とて好奇心はあれど、今までにない未踏の旅に関しては好奇心よりもはるかに大きな恐れを抱いているはずだった。だが船員たちの希望いかんに関わらず、商会から指示を受けた提督としてアブトゥは彼らを世界の果てまで進ませるしかない。
厄介な仕事だ。正直、そう思った。しかし。書き付けにまた目を滑らせる。
「世界の果てを、君の眼で見たままに」
私でいいのかとはアブトゥは問わない。信頼を置かれていることは理解した。必ずしもアブトゥである必要もなかっただろう、他の提督でも良かったのだ。そこにいたのがだれであれ、商会は指令を送ったろうし、ペレスもこの書き付けを添えただろう。それでもこの時期に世界の果ての一番近くにいたのがアブトゥであったということが、なにかの運命なのかと言えばそうなのかもしれない。運命であるならばアブトゥは従うのみだ。
しかしアブトゥは自分の心のうちに、商会からの指示に対する義務感や運命の流れへの従順とは無関係に、自分自身が世界の果てを確かめたい気持ちがあることに気づいていた。
ペレスのためなのかもしれない。本来ならこの場にいたかったはずの彼の思いを汲んで。しかしそれだけでもなく、アブトゥ自身が、世界の果てをこの目で確かめることになにか意味を見出そうとしていた。ペレスの熱意にいつのまにか感化されてでもいるのだろうか。世界がどんな姿であれ、アブトゥの日々も信条も変わりはしないはずなのに、自分がこの目で世界の真実を確かめるということに心が重みを見出してしまっている。そのことに、アブトゥは戸惑っていた。
世界の果てを知りたい。船員たちと似たような恐れも期待も抱いていると言うのにそれでも、ただ世界の果てに到達し確かめることを、私自身が無性に求めている。その不思議さが心を離れず、アブトゥは夜更けてまで考えこんでいる。
アブトゥは記憶を探った。この気持ちがきざした源泉がどこかにあるように思えた。
リスボンで、ペレスを中心に提督たちがそれぞれの意見を出し合ったあのとき。アブトゥはそのときは、喧々諤々のやりとりの少し外側にいた。球体であるか平面であるか、どちらでもアブトゥは構わなかった。変化があったとすればそのあとだ。意見が出尽くし、なんであれ商会としては世界の果てを目指すことを目標に据えるのだということに全員が同意して散会となった、そのあと。
アブトゥが商会の館を出て、いったん自分の船に戻ろうと港に向けて歩いていたところに後ろから声をかけられた。
「アブトゥ!」
快活な声はマリアだった。
「一緒にごはん食べに行こう」
マリアは誰に対しても親しげだが、アブトゥには他の提督に比べてもずいぶん気を許しているようだった。不思議に思ってわけをきくと、あっけらかんと笑って言った。
「だって、年も他の提督よりは近いほうでしょ、それに私と同じで、女の人なのに提督やってるでしょ、なんかお話しやすいなって思って」
アブトゥは一族の外で仕事をするにあたってはずっと男のなりをしてきて、世間でも男として通っていると認識していたのでいささか驚いたが、そのことを訊くとマリアは、えっ、だって女の人でしょう、ときょとんとしていて、どうやら初対面の時から当たり前に女だと思っていたらしい。もしかしたら世間の人びとも結構な割合でアブトゥが女だとわかって接しているのかとも考えたが、なぜかマリアだけが直感的に気づいたということのようだった。マリア以外の人間にとってはアブトゥは今も男性で通っている。
それにしても、年齢が近くて性別が同じというだけでそうまで気を許せるものなのかというのは、あまり人づきあいをしない性質のアブトゥにはわからない。ただ、他人に対して壁を作らず、まっすぐ飛びこんでくるマリアの度量はたいしたものだとは思っていた。
そのマリアは先ほどの会議の興奮がまだ冷めやらぬようで、頬を紅潮させて呟いている。
「私たちが世界の果てまで行って世界の姿を確かめるって、すごい目標じゃない?」
大きな瞳をきらきらさせながらアブトゥに笑いかけるが、アブトゥはあまり彼女の興奮に乗った反応はできなかった。
「私は世界の姿に興味はないが、皆がその答えを求めている今、答えを持ち帰れば、商会も世界の果てを確認した提督も名が上がるだろうな」
「そう、そう! すごいよね。自分がそんな大きなことに関わるなんて」
大衆の好奇心という熱に当てられているだけだとアブトゥは思ったが黙っていた。代わりにマリアに聞いた。
「ペレスの言うとおり世界は球の形をしていると、マリアはそう考えるのか」
うーん、とマリアは首をかしげる。
「それはやっぱり、トーレスから教わったみたいに、世界の果ては大きな滝だっていうのが頭に沁みついてるからなあ。でもペレス先生があれだけ言うんだから、球体なんじゃないかなっていう気もしてくるんだよね」
ペレスの科学への信望を妄信だと考えるアブトゥとしては彼の言うことを丸呑みする意見には素直には賛同できないが、マリアの言いたいことはわかった。ペレスはその知識と理論立てでもって人々に一定の信頼を勝ち得ている。それだけの内容のある言動をしてきたのだ。彼が言うならなにかしらの理屈があり真実がありそうだと人々に思わせるだけの。とはいえ、ペレスの組み上げる科学的知見とやらはあまりに複雑で前提となる知識が多すぎる。丁寧に説明されたところで皆が彼と同じ理解に達するとも思えない。
「あの男の言うことをマリアは理解できているのか」
マリアはあははと笑う。
「正直ほとんどわかってない」
でも、とマリアは続ける。
「ペレス先生、なにを聞いてもなんでもちゃんと説明してくれるし、よっく聞いて考えたら確かにその通りだなってこと、いっぱいあるから」
話しながら歩いているうちに目指していた食堂の前に辿りついていた。間口の狭い店の入り口は屈強な水夫や荷運びが入れ代わり立ち代わりしてたいした喧噪だったが、マリアはそれを圧す大声で店の奥に向かって叫んだ。
「おじさーん! お昼、二人前!」
店は間口と同様に奥行きも乏しい。席の半分は外にはみ出していた。席といっても、がたついた腰掛けが路上にでんと置かれたいくつかのボロい木箱を囲んでいる程度のもの。ひとまずマリアとアブトゥは比較的ましな腰掛を確保し、庇の陰に並んで座った。そこからは、正午よりやや早いうららかな日射しを浴びる通りをのんびり眺められる。
「ちょっと前に、ペレス先生のお手伝いで、トリポリの近くで潜水調査したの」
先ほどの話の続きらしい。マリアが身振り手振りを加えながら説明する。
「昔、アレクサンドリアにものすごい高さの灯台があったんだって。あまりに大きいから、アレクサンドリアから何リーグも遠くまでその明かりが届いていたらしいの。ペレス先生は文献をいっぱい調べて、その大灯台の明かりがどこまで届いたか、どんなふうに見えたか、もっと詳しく確認したんですって。特に途中途中で大灯台の明かりがどうやって見えたかを。アレクサンドリアに近いところでは灯台の足元まで見えてるんだけど、それからだんだん遠ざかっていくと、半分から上だけとか、もっと上のほうだけとか……」
灯台の見える位置を示すように、マリアは手のひらを高さに合わせて動かす。
「遠くに行けば行くほど灯台は頭のほうだけが見えるようになるんだけど、それすら見えなくなった地点は明かりの案内がなくなる場所だから航海の難所になっていたはずだ、きっと沈没船があるって。その沈没船を確かめるのに私が呼ばれたの」
マリアはそのときを思い出すように目を遠くにやる。
「潜ってみたら沈没船はちゃんとあった。大灯台が立っていた古い時代の船が。ペレス先生は正しいんだって思い知ったな、あのときは」
そのとき店の奥から野太い声が届いた。
「アルメイダさん! 二人前、取りにきなぁ!」
マリアは跳ね上がるようにぱっと立ちあがると、店の入り口にたむろする水夫たちを器用にかきわけながら奥に入っていき、すぐまた木皿を二つと籠を一つ抱えて戻ってきた。
「はい、アブトゥのぶん」
マリアが渡してきた皿にはチーズやハム、酢漬けの魚や野菜が結構な量で盛られていた。籠のほうにはパンの塊と弱い若ワインの入ったコップが雑に突っこまれている。アブトゥが代金の銅貨数枚を差し出すと、マリアは小銭を取った代わりに籠から小ぶりの林檎を一つ取り出してアブトゥの手のひらにころんと乗せた。
「親父さんがおまけしてくれたの」
にこにこしながらマリアは、自分の分の林檎を服の袖できゅっと拭いている。
二人は籠から取ったパンを割り、思い思いに総菜を挟んでかじりついた。パンに挟めなかったものは手でつまんでどんどん流しこんでいく。味は良かったが、アブトゥにはちょっと量が多かった。普段食べつけないハムをマリアに進呈すると、マリアは喜んでアブトゥの皿からハムを一切れつまみ上げた。ぺろんと口に放りこみ、もぐもぐと顎と頬を動かしながらマリアは言った。
「えっと、なに話してたっけ。そう、そう。大灯台の話……あのね、私がほんとにびっくりしたのは沈没船があったことじゃないんだ」
話しながらも見る見るうちにアブトゥの皿のハムの数切れが姿を消していく。ワインを一口、口を湿らせ、マリアは話しを続けた。
「水平線を見張ってて向こうから船が見え始めるときって、マストのてっぺんから見えはじめるの。近づいてくると帆や甲板や船倉って、順番に見えてくる。私もよく知ってること、だって毎日見てるんだもの、そんな光景。でもその意味を考えたことなんてなかった」
先ほどのおまけの林檎を手に取ると、人差し指を船のマストに見立て、マリアは林檎を傾けたりまわしたりしながら船の見え方を示そうとした。
「ペレス先生はそういうふうに見えるのは大地が丸いからだって言うの。もし大地が平らなら、海の向こうから港に来る船は水平線の遠くに小さく船の全体が見えて、近づいてきたらそれがだんだん大きくはっきりなっていくはず。でも実際にはそういうふうには見えてない。大地がたわんで丸い形をしてると考えたら、マストから見えはじめるのは納得なんだよね」
それから漠然と東の方に頭を振り向ける。想像にしかない大灯台を思い描くように、マリアは遠い目線をしている。
「大灯台から遠くに行くほど灯台の足元が見えなくなっていって、灯台のてっぺんの明かりもだんだん水平線に近づいた位置で見えるようになるのは同じ理屈だって、先生が教えてくれたの。私は言われるまでそんなこと全然気づかなかった」
マリアは利発な娘で、十分な教養を持ち、航海技術として必要な測量や数学の素養もある。それでも彼女はペレスに説明されるまで当たり前のことに違和を感じなかった。そのことを彼女自身は重大なことだと受け止めているらしい。
「私の頭だけじゃ全然そんなこと思いつかない。でも先生の説明を聞いてたら、あれ、私は船で、思ってたよりも全然新しいところに行くんだって、そんな気分になることがあるの。そうしたら今よりもっと遠くまで行けそうな気になる。遠くまで行ってたくさんの海を経験して、そうしたら私はお父様みたいな立派な船乗りになって、うちの商会をまた取り戻せるんじゃないかなって気が……」
照れたようにマリアは笑った。
「私、単純だねえ」
アブトゥも微笑んだ。
「それでいい。まっすぐに一つのものごとを考えることは強い力になる」
そうだよね、とマリアはふんと鼻息を一つ。
「ペレス先生もすごいけど私だって海に潜ることなら誰にも負けないから。うちの商会の提督、みんないろいろなことできるし、みんなで力を合わせてがんばったらきっと世界の果てを確かめることができるよね。そうしたら私も実現したいことに近づく気がするの」
「……そうだな」
いささか論理が飛躍しているように思えたが、マリアのまっすぐさに引きこまれてアブトゥはうなずいていた。なにかを目指し、そこへ到達しようとするこの意志力こそが船乗りを目的地にたどり着かせるのにもっとも不可欠な要素だと、アブトゥも自身の乏しい航海の経験から痛感していた。その点ではマリアはすでに立派に船乗りだったし、飽くまで真理を追究するペレスもまた、船乗りの資質を持っているように思えた。
あのとき、世界の果てを確かめる役回りが自分に当たるとは思っていなかった。船乗りの矜持もなく、到達と達成への強い意志もさほど持たない自分が。ペレスやマリアのように、船に乗ることで成し遂げたいなにごとかを持っていない自分が、商会の大事業の重要な役割を担うことになるとは。
アブトゥを動かすのは義務感だった。一族のもとでアブトゥはずっとそうして生きてきたので、与えられた役割をしっかり果たすことはアブトゥにとって生活そのものだった。提督という立場になってもそれは同じだった。商会と乗組員への義務を果たすことを自分に課し、求められる役割をつとめることがアブトゥにとっての日々の暮らしだった。それはそう間違ってもいなかった。アブトゥは提督として求められることをきちんとこなし、船に乗りこむ多数の人びとを率いる役割を果たし続けている。しかし、いつもの義務感だけで、死地かもしれぬ場所へ船員たちを率いていくことはできないとアブトゥは感じていた。
港の倉庫に置いてある虹色に輝く不思議な金属でできた巨大な碇のことを思った。今日も日暮れ前に水夫長に尋ねられたのだ。
「あの碇は積んでいきますか」
水夫長はおそらくもう碇を積みこむ準備をすっかり整えてある。明日の朝にでも通達すれば、すぐに碇を船に据えつけて出港できるだろう。あの魔力のこもった碇ならば、もしも世界の果てが巨大な滝であったとしてもその世界最大の激流にも耐える。世界の果てに向かうなら碇をいつでも船に積んでおくほうがいいと、アブトゥもこのところずっと考えていた。すでに何度か、世界の果てに近い海域を探査するにあたり、碇を積んで航海もしている。お碇は心理的なおまもりとして効力を発揮していた。碇という安全策のおかげで、船員たちは怯えず、慌てず、安定して船を動かすことができた。
船員たちの生命に責任を持つものとしてアブトゥはなにごとにも万全に備えなければならない。それはアブトゥの義務だった。目を閉じ、心を内に向けて、アブトゥはじっと考える。
義務。意志。責任と勇気と無謀。
大灯台の灯。林檎。船員たち。碇。
一方で、アブトゥが感じる結果を待つようなこの不思議な気持ちはいまだにその正体をつかみきれない。
見通せない霧の向こう。見たことのない水平線。誰もたどりついていない場所。
そこへたどり着くにはなにが必要なのか。
深く息を吐き、吸い、アブトゥは瞼を上げた。なにが足りていようといまいと、選ぶのは今しかなく、一人でなさねばならない。アブトゥは星に運命を尋ねはしなかった。選ぶこと、決めること、たった一人の意志で。それこそが提督の、船乗りの義務だと感じていた。
霧に覆われた海域に入って数時間ほどが過ぎた。
正午に近い時間で、暗くはないが、濃い霧のおかげで船は乳のように真っ白な世界に包まれており、見通しはとても悪い。暗礁を警戒して見張りの担当を三倍に増やしている。誰も地図に描いたことのない海域だから、そこになにがあるのかまったくわからない。しかしこれはいつもの探索の航海でも同じことではあった。
風は吹いていたがそれほど強くはなく、帆は緩やかな風をはらんで弱い曲線を描いている。それでも航海士に測らせてみると、海流に押されているらしく船は三、四ノットの速さで東へ向かっていた。
船団が霧に包まれてからこの方、今までにない緊張感が甲板に立ちこめるように満ちているのを、アブトゥは感じている。船員たちは自身の恐怖心と葛藤していた。五感を研ぎ澄ませて、なんらかのきざしを彼らは待っている。
不意に突風が吹きつけ、帆と索具を騒がせた。風と共に立った大きな波しぶきが船腹を強く叩き、甲板もわずかに傾いだ。耐え切れず、一人の水夫が悲鳴を上げた。
「滝だ、滝の音が聞こえた!」
緊張感の均衡が崩れた。叫んだ水夫とは別の場所から、いくつもの狼狽した声がアブトゥに向かって飛ぶ。
「戻りましょう、今すぐ!」
「今はあの碇を持ってきていないんだ、滝に飲まれてしまう!」
恐怖はあっというまに伝染する。緊張感のすべてが怯えとなり、甲板に恐慌が満ちる。しかしアブトゥは意に介さず、つかつかと舳先の方向に歩んだ。船首甲板に立ち、自分の船と船員たちを見渡して静かに告げた。
「落ち着け。さあ、よく聞くがいい。ここには風の音、波の音しかない。いつもの海の音だ」
恐怖などかけらも感じさせないアブトゥの態度に、船員たちは気を抜かれたように恐慌を和らげていく。落ち着いてみれば、突風が過ぎたあとは、今まで通りの緩い風と波の音しかなかった。船員たちの心に聴かれた轟音の幻はあっというまに消えていった。それにあわせるかのように、霧のはるか上空に高く上った日輪の形がぼんやりと見えはじめた。みるみるうちに霧が晴れていく。
霧がすっかり晴れてみると、暗礁も何もない、ただ大海原が水平線まで広がっていた。
ゆるゆると吹く風の音。たぷたぷと船腹を叩く波の音。船はしずしずと穏やかな海を進んでいく。どこまでも海しかない。
アブトゥは東の方をじっと見つめ、その水平線を目に焼きつけた。誰にも聞こえない小さな声でそっと呟く。
「そうか……世界は、丸かったのだな」
まるで船そのものが吐息をついたように、誰がついたともない息が甲板中からどっと吐かれた。突然に訪れた空白に船員たちは虚を突かれて立ち尽くしている。アブトゥは一瞬、目をつぶって小さく息を吐くと、顔を上げ、船員たちに指示を出していった。
「航海士は現在の船速を計測。太陽が見えているから緯度の計測もしてくれ。船はこのまま進路を真東に取って進むこととする。できるなら船速を上げたい。帆を調整してくれ。見張りの配置は通常に戻すが、よくよく注意するように。時間を経ずに島が見えるかもしれない」
アブトゥが再び東の水平線に目をやると、船員たちも皆、同じ方向に目をやった。
「当初の進路どおりに予定の船速で進んできているならば、我々はすでに商会にとっては既知の、新大陸西側沖にいるはずだ。ゴメス提督の報告資料によれば無数の島があると……」
言葉にならないどよめきのような音が船員たちのあいだを伝わっていく。アブトゥはさっと腕を振りあげた。広がる大海原と海を照らす太陽、これら見えるかぎりの風景を示すように。
「見よ」
そう言いながら水平線を端まで見渡す。
「我々はたどりついた。ここが世界の果てだ」
目を甲板に戻して、今度は居並ぶ船員たち全体を見まわし、アブトゥは微笑んだ。
「正確に言おう。世界に果てはなかった。我々は東の辺境からさらに東へ向かい、この西の辺境へたどり着いた。地図の西と東はつながっていて、断崖で断ち切られてなどいない。世界は丸いのだ。我々は世界の姿を確認する任務を成し遂げた。この目で確かめた真実とともに、いざ、故郷に帰ろうではないか」
アブトゥの言葉の最後は、甲板中から上がる鬨の声のような歓声にかき消された。
安堵、達成感、緊張からの解放。すべての感情の緒を切ったのは、アブトゥの提督としての宣言だった。船員たちは一人残らず、このうえもなく高揚していた。泣き、笑い、喜びと解放の感情がはじけて、甲板中を満たしていた。気がつけばアブトゥは渦のように巻く歓喜の中心にいた。いつもはいくらか距離を置いている水夫たちが、口々にアブトゥに声をかけ、強い腕でアブトゥを叩くのだが、それは喜びのあまりのことで、彼らはひたすらアブトゥを讃えているのだった。しかし、もみくちゃにされながらもアブトゥ自身は、静かな、小さな感慨にひたひたと足をつけているような気持ちだった。
到達した。この地点に。ペレスが望んでいた場所に。
マリアが指先でくるくると回した林檎が脳裏に鮮やかに浮かんだ。船のマスト。灯台の灯。ペレスには、もうずっと前からこのなにもない水平線が思い描けていたはずだ。
そうか。私は、お前にすでに見えていたものを自分の目で見たかったんだな。
小さく微笑みが浮かんだ。そんなちっぽけなことだったのか、あの望みは。船乗りが持つべき勇気と無謀の種としては、ずいぶんささやかなもののような気がした。そんなちっぽけなもののために自分と船員たちの生命を無謀にさらしたのかと、話せば人には責められるかもしれない。とはいえアブトゥには運命の導きを尋ねなかったにも関わらず強い確信があった。マリアが語ったように、ペレスの視野に見えているように、大地が丸いのであれば世界の果てに特別の危険はない。ただ西から東へ、描かれていない空白領域に地図を描いていく、いつもの探査航海の作業があるだけだ。魔力のこめられた碇の助けなどを必要としない当たり前の水平線がそこにあることをアブトゥは信じた。
不思議なほど恐怖心がなかったのはシャーマンとして培ってきた平生の冷静さのおかげなのか。それともペレスの理論を受け入れたせいなのか。このことはペレスには話すまい、とアブトゥは思った。なんだか癪だ。
大地が丸いことについての理屈は受け入れたが、世界の驚異をすべて科学などというつまらない視野に押しこめようとするペレスの態度を許したわけではない。彼の頑迷な頭脳は世界の真の姿を受け取るには柔軟さがまだあまりにも足りない。これから彼は科学では説明のできない数多の不思議がこの世界に満ちていることをとっくり思い知らねばならないはずだ。
しかしまずは海が穏やかなうちに、ペレスに送る報告をまとめる仕事にとりかからなければならないと思った。新大陸の港に着いたらできるだけの速さで概報を送らなくては。
喜びに沸いた甲板もだいぶ落ち着いてきた。東へ、報告を待つリスボンへ、船と自分たちを連れ戻すためにはアブトゥも含めた皆がまたせっせと働かねばならない。すでに大まかな指示は出したが、改めてもう一度、各々の部署の船員たちに声をかけながらアブトゥは自分たちが日常に戻っていることをかみしめた。
アブトゥの船がリスボンに着く頃には、先に送ってあった概報によって、世界の果てに関するニュースはすでにヨーロッパ中を駆け巡っていた。リスボンには疫病が去るというもう一つの喜ばしい出来事もあり、アブトゥの船が港に入ったときには大いに祝賀モードになっていた。アブトゥは港に着いた途端に派手な歓迎の儀式に次から次に見舞われ、しまいには王宮にまで呼び出される始末で、あまりの煩わしさにすべてを商会の主とミゲルに押しつけて遁走した。しかし、この港町でアブトゥが所縁のある場所はそう多くない。当初はマリアに会いにアルメイダ家に行こうかと思ったが、マリアは新大陸に船出したばかりだった。アブトゥは商会の片隅で息をひそめ、騒ぎから解放されるのを待つしかなかった。こうして商会で待機していたアブトゥのもとにペレスが訪ねてきたのはアブトゥが港について五日後のことだった。
「君が王宮での祝賀行事に招かれていると聞いて私もそちらに出席したんだが」
開口一番、ペレスはそんなことを言う。
「主役がいない、と陛下はいたくお嘆きだったぞ」
どうだっていい、とアブトゥは思う。ポルトガルの国王とてアブトゥにとっては商会に出資するただのパトロンの一人だ。そもそもアブトゥはただの雇われの船長なのだ。
「私は主役ではない。この大騒ぎに関してはお前こそその主役だろう」
アブトゥの言葉をペレスは否定しなかったが、得意げというふうでもなく淡々と言う。
「そうかもしれないが、議論をそっちのけでなにやらめでたいと喜ぶだけというのも私には理解できないのでね」
ペレスも連日行なわれている祝賀の行事のほとんどに招かれていたが多忙を理由に参加していなかった。しかしさすがに王宮の招待は断れず、アブトゥも姿を現すだろうと考えて顔を出してみたら、現地ではミゲルが一人、世界の果てを見た提督の話を聞きたいと騒ぐ人びとに取り巻かれ、泣きそうな顔で「アブトゥ提督は体調が優れないとのことで商会にて体を休めています、なにせ長旅のあとですから」という言い訳を繰り返していた。それで祝賀の行事の必要最低限につきあったあとで席を辞し、商会に様子を見に来たのだという。
ペレスはアブトゥの頭のてっぺんからつま先までを一瞥した。
「見たところ元気なようだ。なにより」
「心配したのか」
「いや、君のことだから、騒がしいところを避けただけだろうとは思ったんだが」
ペレスはちらっと笑みを浮かべたが、それは存外柔らかかった。
「それでも、世界の果てはやはり遠い。元気で、無事に戻ってきてくれてよかった」
「義務を果たさねばならないからな、提督の地位を任されている以上。報告書は読んだか」
「ああ、もちろん。素晴らしい報告だ。概報だけでも十二分に意義のある内容だったが、やはり私自身の論をしっかりまとめ上げるには、詳細な情報が必要だったんだ」
ペレスは今までになく生き生きと快活な表情だった。さもありなん、彼の宿願が果たされ、彼の説を認めた人々がほうぼうから詳しい説明を求めて押し寄せている。学者冥利に尽きるというところだろう。
ふと、アブトゥはあのとき見た水平線を思い出した。あのなんでもない場所。学者としてのペレスがどうしても確かめたかったあの瞬間。
「お前自身があの場所に立ちたかったのではないか」
アブトゥの呟きにペレスは片眉を上げる。
「そりゃもちろん。自分自身で報告をまとめられたら論文までそのまま持っていけたろうし。ただ、私は探検家ではないからね。初踏査の名誉なんてものにこだわりはない。もしも気になることがあるなら自分自身で同じ場所に行って追加で調査をすればいい。もっとも、そう安んじていられるのも信頼できる報告があったからの話で」
破顔して、ペレスは手を差し出した。
「ありがとう、アブトゥ。本当に感謝している」
アブトゥには握手の習慣がない。いまいちぎこちなくペレスの手を握りかえすと、ペレスは両手でアブトゥの手をにぎり、かたく握りしめた。
「君はなんでもないように義務を果たしたというが、難事だったはずだ。よくやってくれた」
握られた手の感触とペレスの真面目な顔つきで、お互いまだ慣れきったとは言えない提督業をなんとかこなしているのだとアブトゥはふいに悟った。ペレスもアブトゥと同じような苦労と悩みを一人で担って船に乗っている。
アブトゥはふっと笑った。この男に共感することがあるとは。世界の果てから帰ってみたらこんな境地にいることに気づくとは。素直に言葉が滑り落ちた。
「役に立てたならよかった」
とはいえ、とアブトゥは続ける。
「これからどうするんだ。お前の提唱する通り世界の姿は球体と定まったが。お前は……」
「ああ、しばらくは説明やら議論やらいろいろ対応しなければならないから陸で忙しくしているだろう。しかし一度論文をまとめてしまえばあとはそれを参照しろと言えば済む。もうあとほんの少しだ。その次は」
ペレスは腕を組み、顎に手をやってぶつぶつと自分の世界に入りはじめた。
「まだ地図には未確定の領域がたくさんある。地図の東西がつながったことで商会の貿易ルートや探査計画を見直す必要もある。そのための調査や考察が要るし、そういえばいくつか興味深い報告もあがっているから、いや、これは世界の姿ほど大きなテーマと言えるかはわからないが私自身が調査に赴かなければと思うものもいろいろとある、あと……」
アブトゥは思わず声を上げて笑った。
「先の予定もだいぶ忙しいようだな」
ペレスはあっけにとられたようにアブトゥを見つめている。アブトゥはにやりと笑った。
「そうだ、お前は世界をもっと知らねばならない。お前の視野は狭い。お前には見えていないことを、お前は世界中を駆けて知りにいかねばならない。星がそう示しているのだから」
むっと眉根を寄せ、ペレスはきっぱりと答えた。
「君のその妄言に与する気は一切ないが、君のような頑迷な幻想主義者を改心させるために世界のすべてを駆けまわる必要があるというなら私もそのつとめには邁進しなければならないな。君らが神秘と崇める事物をことごとく科学の啓蒙の灯で照らすのが、目下の私の大目標ということになるだろう。つまり私も、君が行って帰ってきた道のりよりさらに遠くにだって航海を続ける覚悟は持っている」
「結構な心意気だ」
アブトゥの笑みが深くなるのと比例してペレスの眉間にはしわが寄ったが、そうでありながらもペレスはどうやらかすかに笑っているのだった。