対話
大きく開いた窓から湿気の強い風がゆるやかに流れこむ。窓の外には南国の太陽が照りつけて明るいが、室内は薄暗く、暑さはしのげた。
ペレスは窓辺近く、床に敷かれた豪奢な絨毯の上にあぐらをかいて座りこんでいた。暗めの室内にあってそこだけ外の明るさが柔らかに忍び入るその場所で、膝に小さな板を乗せて紙を広げ、銀筆を手にしていた。紙にちらりと目を落とす。
「では聞いていくが。まず、君が、精霊だか魂だか、とにかくなにかを感じるというときはなにをどんなふうに感じているのだろうか?」
アブトゥは、この男はからかっているのかとじっとその様子をみつめたが、ペレスはごく真剣な様子だった。
アブトゥの船団はここしばらくゴアの港を拠点にインドを越えて南へ向かう探索行を繰り返していた。そういう折にゴアの港にペレスの船団が入港してきた。ペレスは商会の指示でインド方面の各種調査にと派遣され、先にこの地域で活動していたアブトゥの船団から情報を得るべくゴアに立ち寄ったのだ。ペレスの要請に応じて、アブトゥはインドで拾った情報を知るかぎり引き継いだ。ペレスは、そのうちのいくつかについて、非科学的だ、そんなあいまいな噂で、などとぶつくさ呟いたりもしたが、知ったことではなかった。淡々と自分の見聞きしたものをそのまま報告した。報告を聞き終えるとペレスは、そういえば前から聞きたかったのだが、と唐突に切り出した。
「君たち一族の主張については従前のとおり、はなはだ非論理的とは思っている。しかし君たちについて私もまたあまりに端的にしか情報を持っていないように思えたのでね」
一族の信仰や文化、思想について聞き取り調査をしたいというのである。
アブトゥはすっかり聞き取りを行なう態勢になっているペレスを見つめた。
どうしたものか。
提督となって海に出て以降、ペレスとは何度か顔を合わせているが、毎度、平行線の議論を繰り広げてきた。ペレスはアブトゥの語る運命や目に見えない力のことを科学を理解しない無知の民の迷信や妄想だと決めつけて譲らない。一方アブトゥも何度もペレスに説いた。ただお前の視野が狭いがゆえにこの世界のそこここに確かに在る諸力が目に映らぬだけだと。アブトゥにより、つまり一族の力で命を助かっておきながら、ペレスは一族の信仰を非科学的な幻想だと侮辱した。アブトゥはその愚昧さを本人に思い知らせるために砂漠を出て海を越えたのだ。だから今後もその点については改めるよう何度でも説く気でいる。
しかしながら、今目の前にいるペレスはいつものように論をぶつけようという姿勢ではなかった。思考を巡らせているときによく見せる集中した表情で、じっと虚空の一点を見つめながらアブトゥの言葉をただ待っている。
一瞬目を閉じ、心を決めると、アブトゥは目を上げ、測るようにペレスを見つめた。
「お前が知りたいと思うことすべてに答えを返せるとは限らないが」
ペレスは肩をすくめるようなそぶりをした。
「答えられる範囲でかまわない」
そうは言われても、そもそも最初にぶつけられたのがあまりに漠然とした問いだった。精霊や魂の働きを感じるときのその感じ、とは。この男に伝わりそうな表現があるだろうか。少し考えてみた。しかし無理だった。他の言葉ではまるで言い換えのできない、あの感じ。
「どう、と言われても、ただ感じるとしか。そこにそれが確かにある、と」
そう言うとペレスは片眉を上げる。
「熱気や冷気を肌で感じるような?」
「いや」
「ふむ。では例えば、庭に植えた果樹が熟し始めたのをかすかな匂いで感じ取るような」
「いや」
少し考え、アブトゥは口を開いた。
「枝から下がる熟れたいちじくの色の見事さを、目が見えぬ者に伝えることはむずかしい。木に近寄って嗅げば、実を手に取れば、目が見えようと見えまいとどれが熟した実であるか、どれだけ美味かはわかるだろう。しかし、川岸の向こうにいちじくの木が生えていることを認め、その枝に赤く色づいたいちじくが生っていることを認め、その色に美味を期待する気持ちは目が開いたものにしか受け取れぬこと」
銀筆が素早く紙の上を行き来し、なにかを書き留めて止まる。こつこつと指先で銀筆を叩きながらペレスは片眉を上げた。
「なるほど。君が持つというその感覚を私は持たない。同じ知覚の共有が前提とされていないならば共通する言葉を持つこともまたできない、ということだな」
ペレスは一言二言、紙に書き加え、ふたたび目を上げる。
「しかし、君は一族の中でも特異にその、なにかを感じ取る力が強いのだろう。他の者がわからなくても君だけが察知するということがあるはずだ。一族の、君より感受の低い人びとは君が言ったことを同じように感じとれるわけではない、私と同じく。だとしたら君の一族は君の言葉をどのようにして信じているんだろう」
「人は見えないものをまったく感じ取れないわけではない。ぼんやりとでも感じられるものがあれば、よりはっきり見通せる者の言葉を容れるのもむずかしくはない。それに我が一族においてシャーマンは、いつでも人々の気づかぬきざしをいち早く察知し、先々に言い当ててきた。たとえそのときに感じ取れない者たちが大勢でも、のちに結果が成れば最後には皆、シャーマンがなにを見ていたかを理解できる。ゆえにその者の言うことに注意を払い、その言を重んじるようになる。私はそうした累代のシャーマンの末に連なる者だ」
さりさりさりと筆の音が続く。しばらくして、書きながらペレスが呟いた。
「では君の力は一族の伝統によって担保され信頼されている、ということか。君が自分自身にその能力があると自覚したのはいつのことだろう」
「いつという覚えはない。他の者の目には見えないもの、耳には聞こえない音を悟る、そのように力が高く生まれつく者がある。そうした者はごく幼い頃から他の子どもとは異なる言動でそれを示す。私もそうだった。もっとも幼い頃は自分が悟っているものを他の子がまったく感知できぬとは気づかなかった。なぜ他の子や大人たちはあんなにはっきりと感じられるものを無視するのかと思っていた。シャーマンはこうしたきざしを見逃さない。他と異なる子を見出したら弟子に取って修養させ、力をより高めさせる。私の場合は祖母がシャーマンであったから、ごく幼い頃に見いだされ、そのように育てられた」
「そうした力は親子で受け継がれるものなのか?」
「そう考えられている。だが力を持たない両親のところに非常に優れた力を備えた子が生まれることもあればその逆もある。必ずしも血だけが力をつなぐわけではない。しかしながら、私については祖母の力を受け継いでいると皆が考えている。私の親、特に母は力をいくらか持っていたようだがシャーマンとしての教育を受けるほどのものではなかったのだと思う。祖母がシャーマンとして育てたのは私一人だ」
ふむ、とペレスは呟く。
「興味深い。君たちは伝統的な文化習慣のかたちでそうした能力の存在を受け入れる強固な仕組みと社会を構築している、と」
アブトゥは反応を返さなかった。この男の使う言葉は大学とかいう石の城で育まれた言葉であるようだが、ごちゃごちゃしていてわかりにくい。言いたいことがよくわからないので肯定も否定もできない。
ペレスは顎に手を置き、なにかを考えこんでは言葉を書きつけ、また考えこみ、紙の白いところを文字や図で埋めていく。書きこめる余白はもうかなり少なくなっていた。
「修養というのは実際にはどういったことをするんだね?」
「話すことはできない。シャーマンの秘儀については言葉にしてはならない掟だ」
そうか、とペレスは素直にうなずく。一行、さっと書き足し、最後にこつ、とペンで大きく点を打って紙から目を上げた。
「ありがとう。君の言うことは新しい知見ばかりだ。いろいろと考察の余地がある」
アブトゥは黙っていた。好きにすればいい。アブトゥが語ったことも彼の内部では科学とやらの言葉で歪んだ像にされるのだろうが、いずれは真を悟るときがくる。星々は以前からそのように運命を示している。世界は彼が今見ているよりもずっと大きく、深く、様々な顔をヴェールに包んで隠し持っている。航海を続けるならば彼もそれを思い知るだろう。
それにしてもとアブトゥは思う。理解ができないと言いながらこうも詳しく聞き、書き留める、そうすることにどういう意義があるのか。
「私もお前にひとつ聞きたい」
そう口にするとペレスはうなずいた。
「私が聞く一方では不公平だったな。申し訳ない。なんでも聞いてくれ」
「お前は今、私から聞いたことを書きとめていた。お前は、お前たち学者が価値のないたわごと、幻影だと鼻で笑うあれこれのものごとであってもいちいち書きとめている。お前たちにとってたわごとでしかないことをそのように書きとめてどこかに宝物のようにしまいこんでいるようだが、それにどんな意味があるのか」
ペレスは苦笑に見える笑みを浮かべた。
「どんなものであれ情報は情報だ。いつ、どういうことがあったか、どういう人物がどのような情報をもたらしたか。それを書きとめて……君はしまいこむ、と言ったが、死蔵に終わらないように努力はしているつもりだ。書きとめたものを整理し、後で誰が読んでも良いようにまとめ、題名をつけて書庫に納める。そうして蓄積されてきた情報の山を選りわけて我々学者は世界の真実を探っている。拾いあげられた一片の記述が新しい視点や論理のきっかけになることがあるし、研究が進んで初めて、欠けたタイルをはめこむようにささいな記述がぴったりと穴を埋め、全体の意味がはっきりと描き出されることもある。私自身、千年余りも時を経た書物の記述を手掛かりに世界が球体であることを確信したのだ。今日の君から聞き取ったこのメモも、私にとって有用なのはもちろんだが、私以外の者にとってもいつか真実を見出す助けになるかもしれない。そういうわけで、君の伝えてくれた知見は私がまとめた資料の一部として学府に蒐集され、研究者のために用いられることになる」
自分の伝えたことがどのように扱われようが、アブトゥには関心はなかった。ペレスが語った書の山のことも、石の城の人々がそのたわごとの文字の群れを選りわけるありさまも、具体的な光景を想像することはできなかった。世界は常にそこにあり、感じ取れるものであふれている。光があり、闇があり、空気や水や影が、目に耳に肌に触れる。そしてそれを更に越えるものを星々は示す。生きて動いているものからわかることが山ほどあるのに、なぜ死んで乾いた言葉の空蝉がそんなに尊ばれるのか。
とはいえアブトゥは、ペレスにはなにか遠大でありながらはっきりした目的意識があることは理解した。大きなものが目当てとなっていると揺るがないだろうなと思った。アブトゥが星の運びのなかに世界を写し見るように、ペレスの思考は広い地図のなかに広げられていて、どこへ向かうべきか自ずと定まっている。
「学者というのは皆お前のように考えているのか」
「基本的には同じはずだ。とはいえ学者といえどもその質はさまざまだ。知識を蓄えることにのみ汲々とし、学閥の権威を着たに過ぎないのに己を賢者であると錯覚し、まるで砂遊びに耽るように無意味な学問をする者も少なくない」
ペレスは苦々しく呟いた。眉間にしわが寄っている。アブトゥからするとペレスも同じ類の人間に見えていたが、ただし彼はこうしてアブトゥに自分の知らないことを尋ねる柔軟さは持ち合わせている。彼なりの地図を書き広げていくことについてペレスは妥協しない。貪欲に自らの好奇心と情熱を学究にそそぎ、さまざまな手段を試す。おそらくペレスは学者の中でもだいぶ変わった存在なのだろう。アブトゥは少し認識を改めた。この男は思っている以上に頑固で、諦めない人間で、強かですらある。
それにしても、とペレスは続けた。
「やはり、君の言葉は知性に富んでいる。そこらのろくでなしの学生よりよほど学者に向いているのではないだろうか」
なんだかしみじみとそんなことを言う。さすがに虚をつかれたアブトゥは大きく瞬きした。私があの石の街の奥深くの重々しい石の城にこもって、紙の山を相手にすると?
ペレスは銀筆を鞘にぱちりとはめ、小さく声を上げて笑った。どうやらこの男も冗談を言うことがあるらしい。アブトゥの口角が思わず上がった。皮肉と苦笑と、そして本物の笑いの、ごく小さな種。
「ごめんこうむる」
きっぱりと言うとペレスはわずかに首を振った。
「残念だ。君のような議論相手が大学の場にいてくれれば、私もより良い研究ができると思ったのだが」
本当に残念そうに言うので、まるきり冗談というつもりでもなかったのかもしれない。なんとも風変わりな、調子の狂う男だとアブトゥは改めて思った。
アブトゥは運命が示したから海に出たのであって、アブトゥ自身の一族への侮辱に対する怒り以外にはたいした動機を持たず、さだめの流れに従っているだけだ。その怒りだとて一族への義務感に多くを発していて、アブトゥ自身の感情はいつもおおむね凪いでいた。砂漠も海もあまり大差がない。茫漠として風がいつも吹いている場所。どこへいこうがさだめの流れに覆われているのは同じで、それを静かに受け止めるだけだ。
それが今、なんとなく、アブトゥは海に出ていく明日を面白がる気分になっていた。どうなるのやら、この男の地図の果ては。この男に世界の多相をわからせてやらなければならない自分の旅路の果ては。想像していた以上に長いつきあいになる予感がきざし、なぜかふっと、アブトゥは再び口元にかすかな笑みが上るのを感じた。