一つ小枝に

「酔いどれと歌」附けたり

 宿の部屋に落ち着いて、寝支度を整えたところで女は、自分がさきほどいくらか手を加えた小鳥の歌を、心中に改めて幾度か繰り返してみて、これで良し、と満足した。
 元の歌はとても可愛らしい旋律だ。この西国の港湾都市に似合う、朗らかな響きを持つ。砂漠から来た女からすると異国的に感じる調べだ。
 バルボサが小鳥から習った歌だと言っていた、と、これは彼の言。彼は信じてはいないようだが、女はバルボサの持つ指輪の魔力を感じ取っている。面白い古いまじないだ。魔術をよくしたと伝わる古代の王の遺産にまこと違いない。しかし、小鳥の歌を聞き得たとしても、それを人間の喉で歌うとなると、歌う人の喉に馴染んだ旋律が節回しに反映されるのかもしれない。この港の喧噪のような、バルボサの人柄のような、軽妙で明るい歌になったのはその影響があるような気がした。
 女はこの明るい旋律を自分の喉に馴染んだ節にするために、いくらか装飾を加えていた。編曲に合わせて歌詞も、元の歌とは異なる新たなものをつけてみた。

  小鳥は愛を囁き交わす
  我らも互いに歌い合う
  一つ小枝に寄り添って

 詞の出来の良し悪しはともかく、自分の今の気分には沿うと思った。

(歌い交わしてみたかったのだが。しかし断固拒否されたしな。)

 女の故郷では歌のかけあいを良くする。子供の遊びから始まり、恋歌も、悲歌も、かけあいで複数人で歌うことが多い。挨拶のようにごく気軽なやりとりで一族の者たちは歌い交わす。しかし、この石造りの街にはそんな慣習はない。だから彼の拒否の反応も当然のこと。ただ、彼が歌うのをもう少しゆっくり聞いてみたかった。歌っているところは初めて聞いた。学問のことしか頭にない朴念仁、と捉えていたので歌う姿は少し意外だったが、なかなかいい声だった。この男にも歌うことがあるのか、と嬉しかった。歌が好きなので。

(だいぶ酔っぱらっていたようだが、無事に屋敷まではたどり着いているだろう。今頃はもう寝床に潜り込んでいるかもしれない。しかしあの様子では二日酔いは必至、調査の打ち合わせとかいうものは彼が主導しなければならないはずだが、どうするのだか。酔い覚ましの薬湯でも用意してやれれば良いが、この街では全部の材料は手に入らないだろうな。)
 とりあえず明日の朝は早めに起きようと、女は思った。揃えられるかぎりの材料で、なにかしら飲み物を用意しておかねば。酔っぱらってこそいないが、女もいつもよりは多めに飲んだ自覚がある。明日の朝は、自分もまた、少しは喉がすっきりするようなものを飲みたくなっていることだろう。

 女のために用意された宿の部屋は、こじんまりとはしていたが一人部屋で、壁も厚くてしっかりしていた。これなら音が漏れはしないだろうと、もう一度、ほんの小さく、小鳥の歌を口ずさんだ。彼の歌った旋律を思い浮かべながら、自分の音を重ねて飾り付けて。
 うん、やっぱり悪くない。なかなか良い。なにかのときにはまた歌おう。
 もし、また彼と歌い交わせるときがあるなら、そのときになど。

 ひとり、苦笑とともに、その考えをうち払った。
 私としたことが、願う、など。

 なにもかもときが来れば自ずと定まるのだから、さだめの行く末など、待ち、そして受け入れるしかないものだ。世の人々の人生は、否応なく流され、寄せられるべき岸辺にあるべきように積もる砂粒のひとつにすぎない。それなのに人びとはいつでも、あるかないかもわからない先のことをたやすく願い期待する。一族の教えは、そうした世の人のはかない願望を、解脱すべき愚行だと諭す。
 故郷は厳しい砂漠の国だ。無慈悲な自然の前には祈りも願いもほとんど役に立たない。干ばつと嵐と、飢えと病とが入れ替わり立ち変わりやってきて老若男女の命を見境なく奪っていった。女の父母もそうして失われた。女は幼いうちから、臓腑をえぐるような悲嘆と動揺を飲み下すすべを教わってきた。祖母が、そうした一族の矜持と砂漠の生活の為し方のすべてを伝えて育ててくれた。その偉大なる賢女も時の流れの自然として老いて死んだ。女は祖母の務めを継いで巫覡となり、厳しい暮らしに耐える人々を癒し導く日々を背負った。
 砂嵐に遭っても揺らがぬ岩のごとく、重く、硬く、毀たれず。祖母はまさにそのように生きて死んだ。女も、己が祖母のように生きて死ぬことに疑問はなかった。そういうさだめにあるのだから。
 が、今このときは、先ほどのちっぽけな願いが、心の片隅のどこかに残り香のように漂って去らない。そのごくささいな感情の揺れが、自分の芯までもかすかに揺らがしている。
 願いや恐れを、いまだに自分の中から完全には消し去れない。修養が足りないと自省もするが、どこかで、逆剥けのようにちくちく痛む疑問も持っている。人が人たるべき核は、本当はこの、期待や恐怖の感情の中にこそあるのではないか。無力な願いとわかっていてもその祈りに心を費やすことが、人のあるべき真の自然、なのでは。
 女は本当は、市井の人と同じく、願い、恐れることのうちに身を置かなくてはならないのではないか。地面に根を張った大岩ではなく、暴風雨に身を縮める小鳥のように、揺らぎ、怯える者として生きなくてはならないのではないか。しかし、その勇気が今はまだない。だから今はまだ、ゆりかごのような一族の教えに身を委ねて安らいでいる。
 しかし、変化のときはそう遠くないと、その感覚がちりちりと体のどこかで小さく鳴っていた。
 はじめて海を渡り、この街に来たときには、それと予感はなかった。しかし、自分でもそれと知らぬまま、変化に辿りつくべく飛び出したのではないか。一族が根を張る大地から、世界の果てまでも超える航海へ。絶え間ない潮騒と波濤に満ち、人々が無数に交差する世界へ。船を下りた今も旅はなおそのまま続いている最中だと、女はそう捉えていた。すなわち、変化はまだ、この先にあると。
 行く末がどうなるのか、星はなにも読み取らせてくれないが、導きはすでに示され、古代の精霊たちも女が新たな運命に組み込まれたと語った。女は今のところ、それに従うしかない。
 深く息を吸い、吐くと、心が静まり、定まった。予感はかすかなものだがはっきりとしている。変化はいずれ起こるべくして起こる。変化のそののちは今まで通りにはならないのだとしても、そのときまでは、今まで通りに。
 女は、ふと、ため息を落とすかのようにろうそくを吹き消した。
 暗闇に意識が溶けていく。
 一つだけ。変化に向かうだろう旅の同行に彼がいてくれることは、ありがたかった。彼はもちろんそんな予見は感知していないだろう。しかし変化のときには彼が立ち会い、見届けることになると、女は直感していた。
 彼は揺るがないものをどこか備えている。その点だけでも信頼できる友であるが、それ以上に、彼という存在は、女の運命そのものだった。そして、今となってはもうそれすらを超えて、女の心にただ一人の座に置かれたひと。
 今しばらく、それがどれほどの時間かはわからないが、二人の道は同じところを交差しながら進むことになるだろう。その予期は女の心に小さな火を灯した。
「一つ小枝に。私の黄金」
 暗闇に呟き落とした言葉には、祈りのような響きが忍び込んでいた。