酔いどれと歌

 満月を二日ほど越えた月が、もはや天に高く上っていた。
 月明かりに青白く光る石畳を踏んで、リスボンの街路を二人連れが行く。
 一人は静かに風のように歩く。いま一人はややふわふわとした足取り。
 足取りの確かな方は全身を覆う異国風のローブを着て、頭にはターバンをきっちり巻きつけている。わずかに外気にさらされている顔と手は黒い肌をしていた。すらっと細身で刃を思わせる、整った顔立ちの若い黒人。多国の人間が行きかうこのリスボンの港においても、人の目をとりわけ引く特異な風采といえた。
 一方は、この地域ではやや珍しい金髪以外には目立つところのない、いかにもこの街の住人という風情の、普段着のチュニックを身に着けた若い白人。とはいえ、酔っていくらか浮ついているにも関わらず身なりも所作も落ち着いていて、富裕な層の市民であることはひと目にわかる。
 対照的な取り合わせの二人であったが、彼らは先程まで、同じ酒場で大いに盛り上がってきたところ。同じ商家に雇われたことのある、元提督同士であり、船乗り仲間だった。

 楽しい宴だった。同じ商会に属しながら、いつもは世界中のほうぼうへ散らばる提督たちが、たまたま同時期にリスボンに集まっていた。頭数が揃うのは奇跡だ、これは早速飲むしかないと、誰が言い出したのか。ともかくまだ日も落ちないうちから三々五々、提督たちは馴染みの酒場に集まってきた。
 酒場は港近くの一角にある。ロハスという男が経営する店で、ロハス自身、同じ商会で提督をしていた船乗り仲間だ。本人は提督が本業だと言い張るが、提督としての名よりも、世界中の酒と珍味を出してくる酒場の酒好きの店主としてのほうがよっぽど高名。そういう男が営む気のおけない酒場で、それぞれの提督が、世界の海のあちらこちらに船出して見聞きした驚異的な航海譚を持ち寄って、そればかりを肴にぐいぐい飲む。夕日が消え、残照も薄れ、星々が輝き、遅めの月が登って、それでもまだまだ宵の口だとうそぶきながら。
 ワインやエールはもちろん、爽やかに甘いシードル、喉に焼け付くヘレス、北欧の蜜酒や新大陸から運ばれてきたラム酒、東洋産のショウチュウまで、次から次に杯に注がれる。夜通し飲み明かすコースに突入しているのは間違いなかった。陸に上がった船乗りの定石だ。しかしながらこの祝祭に、とことん付き合いたくともそうはいかない用事を抱えた者もいる。
 帰途を行く二人連れは、別の学術調査の準備があってリスボンで落ち合ったところで偶然、この宴の機会に巡り合ったのだった。しかしながら二人は、一週間後には北へ向かう調査隊の主要メンバーだった。今日も準備に忙しかったところを時間を割いて船乗り仲間と旧交を温めたわけだが、明日の午前に調査隊全員を集めた重要な打ち合わせを控えていた。朝まで飲んで酔いつぶれるわけにはいかず、船乗りたちにはさんざん引き止められながらもなんとかかんとか酒場を辞してきたところだった。
 とはいえ金髪のほう、フランシスコ・ペレスは、すでに結構な酔いどれだった。熟練の船乗りたちの全力ペースの飲みに数時間つきあわされていたのだから当然で、本人が思っているよりもやや深く酒を過ごしていた。
 傍らを歩く黒い肌のアブトゥは、ペレスと同じくらい飲んでいるのだが、少しも酔った様子がない。確かな足取りで歩を進めている。とはいえ速度はいつもよりやや緩やかで、それは連れの頼りない歩速にあわせたテンポだったのだが、肝心の連れのほうはそれに気づいていない。
 ペレスは歩きながら、酔いどれ特有の脈絡のなさでふと月を見上げて、きれいだ、とぼんやり思った。彼としては珍しい思考だった。この新進気鋭の若い学者は、目にするものをあまねく分析と考察の対象にする癖があった。見上げたところに月なぞあれば、即座に天体の運行の計算式をひねり始めるのが普段の行動だ。しかしこのときは、膨大な知識と思考がぎゅうぎゅうつまった彼の頭脳も、たっぷり浴びてきた酒精の霞にふわふわと包まれ、ぼんやりとした曖昧の塊になり果てていた。月の光をそのまま受け入れるほどの柔らかさの。
 ペレス自身には自覚はなかったが、アブトゥと連れだって歩いていることで、脳みその柔らかさがまただいぶ増していたのかもしれない。
 アブトゥ。そう呼ばれているこの人物は、素性のほとんどが不明だ。その整った容姿に立ち居振る舞い、まなざしのひとくれにすら謎と神秘を漂わせて人の目を否応なくひきつけるのに、その内側をのぞかせることはない。ペレスも、提督仲間たちも、彼らを雇っていた商会の主でさえも、本名すら未だに知らない。アブトゥという呼び名をつけたのはペレス自身だ。それは古いエジプトの言葉で深淵を意味した。この美しい青年……と当時は思い込んでいたのだが……に似合う名をつけたものだ、とは未だに思うものの。
 なにもかも秘密のベールに包まれている人物だが、ペレスたち提督仲間と商会の主とその執事に、一つだけ、明かされた事実がある。青年ではなく、若い女性であると。
 別に隠していたわけではない、その必要もないからわざわざ男だとも女だとも言わなかっただけだ。それで仕事になんらかの支障が出たわけでもあるまい。それが「彼女」の堂々たる弁だった。事情を知るのはわずか数名だけだ。彼女は未だに青年としか見えないなりで闊歩していて、世間にも男性と思われている。
 実際、性別がどうあれ、ペレスは彼女のことを友と考えている。自分と正反対の思想を持ち、ペレスの信条たる科学の啓蒙をまやかしと断言するくせに、深いところでペレスの思考をゆさぶり、不思議な筋道で助けをもたらすのが彼女だった。彼女の、世界を広く大きく見る視点の持ち方や、物事を透徹する洞察力は、ペレスとはまるでやりかたは違うのにどこか共感があり、敬意を抱いてもいる。男と思われようが女と思われようが、私の本質のなにが変わるわけでもない、という彼女の力強い言葉にも首肯して、それまでとかわらないつきあいをしている。
 それでもペレスの心は、彼女を女性だと認識したときから、その言動、所作いちいちにどこか動揺させられている。彼女が女性だということが明かされたときにあまりに驚いたので、いまだに動揺してしまうのだと、ペレスは自分に言い聞かせている。今までのように接していれば、きっと、もとの感覚に落ち着く。変な動揺も消える。そのうち、きっと、おそらくは。

 見上げた明るい月の表面の模様のせいで、これまた突拍子もなく、ペレスは、先ほど提督仲間の一人であるバルボサが話していた、陽気な白黒グマが歌う滑稽な歌のことを思い出した。それだけで思い出し笑いが吹き出そうになるほどの珍妙な話だった。
 バルボサは、本人曰く、たまたま手に入れた伝説の指輪の力で生き物の言葉がわかるという。その指輪はペレスも検分させてもらった。古い意匠の金無垢の指輪で、歴史的遺物としても宝飾品としても価値が高いだろうことは明白だったが、もちろん、嵌めてみても動物の言葉が理解できるようになったりはしなかった。
 調子の良さだけで人生が出来上がってるようなバルボサの言葉だから、普段から彼のする話は半分どころか十分の一くらいに見ているが、それにしても動物の言葉がわかるなどという幼児じみた夢想については、信じろというほうが無理がある。それでもバルボサはたびたび、動物たちから聞いたというさまざまな話を開陳する。ペレスとしては、その細部に渡るすばらしい描写力や、独創性のある展開、壮大な空想の構成に感じ入っている。普段の言動からはそれほどの文学的才能があるとは見えない人物なのだが、世の人はそれぞれに意外な能を隠し持っているものだ。
 そういえばバルボサは、前に小鳥の歌だとかいうのを教えてくれたな。
 酒で霞んでいた記憶力にもかかわらず、印象的なその調べはひょっこり顔を出した。ごく短い、わらべ歌のようなたあいもない歌詞の小片の歌だが、耳に馴染みのよい旋律だった。あのバルボサの口からそんな素朴な歌が飛び出てくるのも可笑しかった。
 気がつくと、その歌を口ずさみながら歩を移していた。シンプルで軽快な二拍子の節の、短い繰り返し。歩調がついそこに寄る。
 三周くらい歌ったところで、隣を歩くアブトゥが口の端に笑みを浮かべているのに気づいて、ペレスはふいに、自分が歌っていることを認識した。酒でほのかに上っていた血色に追加して、かっと頭に熱がまわった。歌っていた口は当然、ぴたっと閉じる。ペレスが歌いやめたためか、アブトゥが呟いた。
「歌うのだな、お前も」
 いつもの静かな低めの声だ。落ち着き払ったその声音ゆえに、むしろからかわれているような気がする。いや、これはこう、たぶん、面白がられている。
「わ、悪いか、私が歌ったって、なにが」
 動揺したペレスはしどろもどろに文句を言った。アブトゥは口の端の笑みを深くしながら呟く。
「意外と上手い」
 完全に、面白がられている。
 精緻迅速な働きを誇る鍛え抜かれた学者の頭脳も、酒で曇っているので今はまともに働かない。言い返す言葉が出ず、ペレスは魚のようににぱくぱく喘ぐしかなかったが、二、三拍置いてようやっと言葉を絞り出した。
「人のことばかり言って、なんだ。君も歌ってみたらどうか」
 少し、脳の調子が上がる。そうだ、こちらが歌ってるのを聞いたんなら、アブトゥも歌ってみせてくれるべきだ。それが公正というものだ。だいたい、歌を歌うアブトゥというのが想像できない。彼女にも歌うなんてことがあるだろうか。これは興味深い問いかもしれない。霞みがかった記憶庫から、参照情報が浮かび上がる。
「砂漠の民は昔から歌の達者が多いと聞く。砂漠から出た詩人や歌い手の名は、スルターンお抱えの歴史家の巻物に綿々と列をなして書かれているのだと。人をからかうなら、君もその砂漠の民の評判にふさわしい実力を示すべきだ」
 ちょっと頭が回ったと思ったのも錯覚で、変な絡みになってしまった。そんなつもりもなかったのに。案の定、呆れたという言葉が聞こえてきそうなほど雄弁な溜息、続いてじろりと冷たく横目をくれて、
「酔っぱらいめ」
怜悧な一言がとどめを刺す。
「酔っぱらってない」
 弱々しい抗弁は鉄のような無視の壁の前にしなびた。
 沈黙のまま、ほとほとと歩く道のりは登り坂で、建物と建物の間を抜けると、見晴らしの良い高台に出た。海が見えた。暗い夜の海に月が映ってちらちらと砕けていた。
 突然、アブトゥが足を止めた。
 眼下に広がるのは、港町に明るくちらつく家々の灯火。そのうちのどれか一軒で、まだ仲間たちが賑やかに酒を飲み交わしているはずだ。そちらのほうに目を下ろしながら、アブトゥは、すっと息を深く吸った。
 アブトゥの口から声が流れ出した。
 馴染みのない発声、それほど大きくもないのにペレスの肌に音の震えが伝わるような、芯のある強い音、まるで地の唸りのような。
 ぽかん、と、ペレスは口を開けていた。アブトゥが歌ってる。
 聞いた試しのない独特の抑揚に掴みきれない複雑なリズムと、その歌は奇妙であるのに関わらず、懐かしく、慕わしく感じられた。
 今や眼差しをどこともしれない虚空に向けながら、アブトゥは歌い上げていた。言葉ははるか砂漠の国のものと思われた。おそらくアブトゥたちの一族の言葉だろう、一言も意味がわからなかった。ただひたひたと、言葉自体の音調と旋律とが相合し、ひとつの音楽として打ち寄せてくる。ペレスは立ち尽し、ただ聞き入った。
 歌は突然に終わった。すうと息を軽く吸って、アブトゥは目を伏せた。じろり、とそこからまた、睨まれる。
「満足したか」
 ペレスはなんと答えてよいかわからず、口を開きかけたまま黙っていた。ふん、とアブトゥが鼻を鳴らす。
「砂漠の歌は気に入らなかったようだな」
 たっぷり皮肉めいた笑みが、いつのまにかアブトゥの口の端にのぼっていた。そういうわけでは、というペレスの言葉は、もつれにもつれて聞き取れないほどもごもごとしていたが、即座にこぼれ落ちた。
「いや、その」
 頭を抱えたくなる。酒場で歌っても即座に投げ銭が雨あられと降りそそぎそうな、こうも見事にさらりと歌いこなす歌い手に、なんて絡み方をしたのか。だいたい、あんなわらべ歌みたいな鼻歌を聞かれたのが、そもそも恥ずかしかったのだし。
「いや、えっと……」
 とはいえ、ペレスには公正と真実への義務感があった。絞り出すように、小声で言った。
「あまり見事、なので、驚いて」
 学生の時分に、華やかに文章を飾るレトリックや美辞麗句の数々を習ったはずなのだが、今は一言一句も出てこない。だいたい文学的修辞など、公明正大な科学的記述に比べて非効率的としか思えず、興味もなければ必要性もよくわからずにきた。まさに、こういうときのためにあるのだろうな、と、ペレスは身につまされる思いで考えた。異国に渡る風の音、砂の匂い、遠い国の昔の人々が残した嘆きと喜びの数々が歌に響き渡っているのを確かに感じ取ったのに、震えるような感動を覚えたのに、そういった情動の一欠片ですらまるでうまく表現できそうにはないのだった。
「こんな美しい歌が聞けて、その、びっくりした」
まるで日向で干からびたミミズだな、と、冷静な脳の片隅がつぶやく。沈み込む心臓の重みで、そのまま地面に深く潜り込んでしまいたい気分だった。それでも、絞り出すようになんとか、たどたどしく、これだけは吐き出す。
「数多の本に讃えられる、砂漠の民の歌が、これだったんだな。良く、わかった」
本当はアブトゥの歌声そのものもほめちぎりたかった。ペレスの心の内奥をより深く揺るがしているのは、アブトゥの声音の響きそのものだったのに。しかしながらそのことに言及するのはあまりにも面映く、ペレスはそれ以上の言葉を続けることができなかった。
 アブトゥは先程の皮肉の笑みを消し、じっとペレスを見つめたと思ったら、またすたすた歩き出しながら言った。
「私もお前の」
 ペレスもよろよろ、後をついて歩き出す。
「歌うのを聞けて良かった」
 続く言葉に打ちのめされて、ペレスには返す言葉を考えようという気力も起きなかった。
 どんな皮肉だ。あれだけの歌を聞かされて、そんな相手に哀れまれるように、聞けて良かった、などととりなされている。まして。
「さっきの、小鳥の歌。私にも教えてくれ」
 そんなとどめを刺された日には。
「じょっ、冗談じゃない、そんなん、できるか!」
 わめいた勢いで足元が乱れ、つま先が石畳のすきまにのめってたたらを踏む。傾ぐ体を素早くしっかり捕まえて支えてくれたのは、当然にアブトゥだ。いたたまれなさがオーバーフローして急にぽんと反転した。逆ギレというやつだ。
「もとはバルボサが歌ってたものだ、あいつから教わったらいいだろ! 動物から聞いたとか、なんとか。でたらめだかなんだかしらないが。なんにしたって本人から聞いてくれ。私の歌うのなんかよりはずっとちゃんとしてる」
 とりとめなくまくし立てた。
 ふむ、とアブトゥは呟いて、一瞬考えるように視線を虚空に向けたが、ふいにペレスの方に面を向けた。深淵のような、夜の空のような双眸が、月の光を返して一瞬光った。
「お前の声で聞きたいのに」
 いつもの静かな、低く通る声。端正な、感情を伺わせない面立ちが、まっすぐペレスを向いていた。
 なんなんだ、なにを考えてるんだ。彼女の言葉はいつも理解できない。突飛がすぎる。どんな文脈でそんな発言になるのか。顔と声がいいからって、そんな、なんでも、言えばいいと思うなよ。どういうつもりだ、なんなんだ。
 酒の酔いに加え、謎の動揺。ぐるぐる、過多な情報が脳内で無限循環に陥り、ペレスは完全に沈黙した。
 支えるアブトゥの手からさりげなく身をほどいて、頼りなく歩き出すしかない。
 二人とも、そのあとは無言で歩いた。
 正確には、アブトゥはなにか口の中で、こもらせるようにしながら繰り返し、なにかを口ずさんでいるようだった。
 歌うのか、この人が。
 改めて、しみじみ、驚く。普段の静謐な立ち居振る舞いからすると意外としか言いようがない。しかしながら実際に目にしてみると、歌っている姿は、そちらのほうがむしろ当たり前のようにしっくりきていた。砂漠の民の習慣に従って、生活の中に歌が自然に溶け込んでいるのだろうと推察された。
 砂漠の民の歌。さっきの歌が、アブトゥの声が、脳裏で再現された。心臓のあたりが熱を帯びるような気がした。慌てて脳内に響く歌を追いやる。どういうわけか気恥ずかしい。
 気がつくとアブトゥの宿がある通りに出ていた。同じ通りの端にはペレスの実家の邸宅もある。アブトゥを調査隊の助っ人に呼んだのはペレスだったので、行動の利便を考えて、自邸と同じ通りにあって昔からの顔なじみでもある信頼できる旅籠を手配したのだった。
 アブトゥは呟いた。
「おやすみ」
 送るのはここまでで良い、ということなのだろう。通りを渡ってもうほんの少し先、宿の入り口が見えている。振り返ることもなく、アブトゥはすたすた通りを渡っていく。
 ペレスも、力なくおやすみとつぶやき返して自分の家の方向に足を転じたが、そのとき背後から不意に、アブトゥの歌う声が聞こえた。思わず振り返ると、歩きながら口ずさむアブトゥの声が、通りの石敷にかすかにこだましながら流れてくる。
 これは、バルボサの小鳥の歌のメロディじゃないか。
 アブトゥは、小鳥の歌をすっかり彼女の一族の歌の風合いにして歌っていた。歌詞も彼女の母語に変えられていたので意味は取れないが、やはり言葉の響きと音律とが見事に融合したもののようだった。先程から、小鳥の歌に彼女流の手直しを入れて、自分の歌として取り込んでいたのだろう。
 宿の入り口にアブトゥが姿を消して、歌も聞こえなくなった。ペレスは再び、自邸に向かって歩き出す。
 やっぱり私から習う必要なんか全然なかったじゃないか、とツッコミが心に浮かんだが、いっそ愉快な気分になった。
 どうやら彼女も、多少は酔っぱらいだったのだ。そうでないなら、あんなにやすやすと歌を披露しなかったろうし、口ずさみながら歩いたりもしない。酔うと歌い上戸になるらしいと、知っているのはおそらく今のところ、ペレス一人だけだ。彼女が何重にも纏う分厚い秘匿の網を一枚はすり抜けたようで、なんだか笑いたくなる。
 ふわふわと幸せな酔いの気分が戻ってきて、ペレスは脳内で、さっきアブトゥが歌い上げた声を再び蘇らせた。たどたどしく、記憶の中のアブトゥの声をなぞって旋律を口ずさむ。予想通り、アブトゥが歌ったのとは大違いのしなびた音にしかならない。苦笑とともに諦めたが、ああいう歌を歌えるのはいいなと思った。アブトゥはこんな豊穣な世界も隠し持っているのか。
 とくとくと、心臓がいつもより少しは早めに打つような。どうしてだか。酒のせい、だとは思うが。
 諸々の事象を分析し、なんらかの結論を下すには、今の脳の働きは不十分だと、ペレスは自分でもよくわかっていた。めったにしないことだが、ペレスはあっさり思考を投げ捨てた。
 いい晩だ。友と楽しく酒に酔い、月は美しく、歌も美しく。そんなときはふわふわ浮ついた幸福感だけでいっぱいになるのも、仕方ないだろう。そしてそのまま泥の眠りに落ちるのだ。言うことなし、最高の酒。
 その晩は、ポルトガルの誇る若き天才学者も、脳みそからっぽのただの幸せな酔いどれとして、眠りについたのだった。

 翌日、これも酒の席の顛末のお約束というものであるが、ペレスは二日酔いでげっそりしながらも、調査隊の打ち合わせになんとか顔を出した。アブトゥはもちろんけろっとしたもので、わかりきっていたように薬湯らしきものの入った革袋をさりげなくよこしてきた。ペレスのプライドは次の日もくっしゃり紙箱のようにつぶされたのである。