針に糸、鋏と、そして

 マリアはばあやに鏡を見るように促され、頭を右、左と軽く振った。
 長く垂らした栗色の後ろ髪は頭の動きにつれて穏やかに揺れ、つやつやと光を撒く一方で、頭の高い位置にまとめた一部分の結い髪はゆるみなくぴたっと頭のかたちに添って、良家の娘らしく慎み深く見えることを確かめる。
 毎朝の馴染みの作業。ドレスもぴったりと体に合っている。馴染みのドレス。すこし古びているがほつれの一筋もない。
 鏡越しに母が、マリアの背後でアルコーブに腰を下ろし、窓から射す陽光をたよりに縫い針を動かしているのが見えた。
 すいすいと針が何度か陽光を弾いてひらめいたかと思うと、ぱちんと音がして鋏が糸を切る。
 母が針を走らせているのは彼女が娘時代に着けていたドレスをマリアに合わせて仕立て直したものだったが、丁寧に繕っているおかげでまったく古びては見えなかった。
 ため息が出た。
 繕って、とりまとめて、きちんときちんと、毎日毎日、ちゃんとして見えるように……船もないのに。ただの一隻の船も、もう持っていないのにね。
 ついたため息に母もばあやも気づいたかもしれない。心もち背を伸ばす。
 母もばあやも悪くない。誰も悪くない。
 父が行方不明になってからのこの十年余り、引っ込み思案の深窓の令嬢だった母は彼女なりにこの家を必死に支えてきた。乏しい資産をやりくりし、商売を細々と続け、実家からの援助にもすがれるときはすがり、そうやって古い靴をあちこちはぎ合わせながら履くようにしてこの家を保ってきた。それでも先は見えている。このままでは端切れにもならないほどなにもかもばらばらになって、取り繕うこともできなくなる。
 マリアは勢いよく立ち上がった。母がこちらにちらっと目をやるのが鏡の向こうに見えた。ばあやもなにごとかというような目をマリアに向けているが、受け流すように尋ねる。
「トーレス、どこにいるかしら」
「商会廻りに出ておりますよ」
 ばあやの答えにマリアは小さく唇を噛んだ。
 じいやのトーレスはこのところ昔馴染みの船乗りや他の商会を駆けまわって、どんなはした仕事でも良いからアルメイダ家を船運と交易に関わらせてくれと頭を下げて歩いている。とはいえ彼が現役で海に出ていたのはだいぶ昔の話で、働きかけの成果ははかばかしくない。マリアに船のことを教えているときには威厳と自信に満ち、なにもかも淀みなくきびきび動くトーレスが、陸では痩せた体を小さく丸めてあちこちの屋敷の玄関に立ち、けんもほろろに、あるいは慇懃に丁重に、追い返されている。やるせなさにトーレスの後を追っかけていって、啖呵を切って彼を連れ戻したこともあるが、みじめな気持ちが増しただけだった。
 こんな停滞にあって、じっとしてやりすごそうという気持ちをマリアは持てなかった。実際、やりすごせはしないこともわかっていた。新しい手を打たなくてはいけない、その役割は自分が担うべきだと思った。若くて、短慮も許される自分こそが。取り繕うのはそもそも得意じゃない。縫いものだっていつも、母やばあやのようにきっちりと丁寧にはできなくて、ばらついた縫い目をいつも怒られる。でも自分には、母やばあややトーレスにはない力もある、きっと。多分。
 毎日繰り返してきたこの変わらない朝にいきなり決意が固まった。でも本当は堰にはとっくに水が溜まって、もう限界だったのだ。
「ばあや、鋏、持ってきてちょうだい」
「お縫いものですかねえ、でしたら糸切り鋏に、裁ち鋏と……それともお庭のお手入れですか、お嬢さま」
「どれも違うの」
 不審げなばあやが持ってきた鋏を手にとると、マリアは自分の髪をぐいと束で掴み、ざっくり音を立てて大きく切り落とした。ばあやが悲鳴を上げ、鏡に映る母が口を小さく開けてアルコーブから腰を浮かすのが見えた。すっと深く息を吸って、マリアは鏡に向かって呟いた。
「あのね、海に出るには、長い髪の毛は邪魔だと思うの」
 海に出て帰ってこない父をいまだに待ち続けている母が、鏡の向こうからマリアを見つめてくる。胸の奥がつんと痛む。
 ごめんなさい、お母さま。でも、私、トーレスから船で働く技をたくさん学んできたし、いつかお父さまのように船に乗るんだって、そしてお父さまをお迎えに行くんだって、ずっと思ってきた。
「お母さまとトーレスにまかせっきりじゃ悪いもの」
 振り返ると、母はなにか言いかけるように小さく唇を開けたが、結局なにも言わなかった。

 男の子のような短髪になった頭は軽くて、潮風がすうすうと吹き抜けてくすぐったかった。それでも思っていたよりもずっとしっくりきているとマリアは満足していた。船に乗って一か月ほどが経っても忙しなく慣れないことつづきだが、このすうすうする頭と同様、以前よりもなにもかもずっとしっくりきている。
 次の出港に向け準備中の船の甲板では、下ろした帆の一枚を広げ、水夫が二、三名取りついて、ほつれたところを補修していた。マリアも当たり前に作業に参加する。帆布の片隅が腕一本分の長さに裂け破れているのを大きな針でぐいぐいしっかり縫い合わせていく。縫い目は整っていないが、とにかく頑丈に縫い合わせた。
「やあ、提督、縫いものがお上手じゃないですか。さすがお嬢さま育ちだ」
 からかってきた水夫の手元の縫い目は実際マリアよりもずっと大雑把だった。ふん、とマリアは鼻を鳴らした。
「そうよ、お母さまとばあやにたっぷり仕込まれたんだから。あなたも陸に上がって習ってらっしゃい。こんな縫い目じゃまた裂けちゃうわよ」
「かなわねえなあ」
 水夫たちがどっと笑う。マリアもにっと笑みを浮かべながら、糸をぐっと引っ張って止めを結び、ぴんと張ったところをナイフでぱつんと断ち切った。